369. リオート
寒風荒ぶ外とは別世界の暖かさが、入店した男を迎えた。
巨大な暖炉を利用した料理台と、そこで調理され香ばしい匂いを漂わせる逸品料理。そして、飲めば身体がカッと火照る蒸留酒。
男は自分の生まれ育った地を『年間通して寒いだけの地域』と公言して憚らないが、この酒場の居心地だけは別格だと思っている。天上にすら、これだけの癒しの場は存在しないに違いない。
「おっと、来たね旦那さん。お疲れ」
「やっぱ旦那さんの顔を見んと、この店に来た気がしないな」
そんな声をかけてくる顔なじみたちに手を上げて応えながら、店内を見渡す。
彼らに『旦那』と呼びかけられる男は、長年の常連客だった。店に来ない日があれば、何かあったのではと家に様子を見に来る者がいるほどの。実際のところ、顔を出さないのは体調を崩して寝ているときぐらいだろう。
小さな町である。
この酒場を利用する顔ぶれは店主から店員、客の一人一人に至るまで見知った連中ばかりで、『旦那』にとっては彼ら全員が親子兄弟のようなものだった。
「……んん?」
だからこそ、否が応にも目についた。
奥まった席に一人腰掛けている、その大男が。
明らかに地元の人間ではない。上背はさほどではなさそうだが、横幅が大きい。しかし肥満という印象ではなく、その佇まいはまるで頑強な岩石。
上着は黒く質素な毛皮製だが、その下衣が特徴的だ。緑や灰色が混ぜこぜとなった、奇妙な柄の太い脚衣。
顔つきも、その岩のような容姿と佇まいに似合った無骨さ。それでいて、彫像めいた端正な造形をしている。短く揃えられた銀髪と青く澄んだ瞳が特徴的で、冗談の通じなそうな、やや近づきがたい雰囲気が漂う青年だった。
年齢はせいぜい二十代中盤から三十手前か。大きな体格と分厚い手のひらに見合わぬ小さな杯で、酒をちびちびと飲っている。
「やあ、兄さん。この店は初めてかい」
これまでもそうしてきたように、『旦那』は対面の空いている席へと腰掛けた。
チラリと面を上向けたその青年は、
「……ええ」
外面から想像できる通りの、太く低い声で受け答える。
「兄さん、この辺の人じゃないよな。変わった服装だし……冒険者かい?」
「……そのようなものです」
「そうかそうか、大したもんだねぇ。俺は生まれてからかれこれ、五十年もこの町に住んでるしがない親父さ。皆はダンナ、なんて呼ぶがね」
かっかっと笑いながら、気さくに語りかける。
「どうだい、この店の料理と酒は。かなりのモンだろう?」
自分で作ったかのように自慢げに笑いながら、『旦那』は彼がちびちび飲んでいる酒の瓶を眺める。
「うおっ、兄さんやるねえ~。『ヴォルン』を飲んでるじゃないの」
それはバダルノイスの特産品、ヴォルンクォートと呼ばれる蒸留酒だった。冷えた身体を温めるために飲む者も多いとされるほど、酒の成分が強い。
「すごいじゃないの兄さん、それ飲んで顔色ひとつ変えないなんてさぁ」
「……酒の強さは……父譲りかもしれません」
「そうなのかい。親父さんはどんな酒が好きなんだい」
「父は……ヴォトカを好んで飲んでいたそうです」
「ヴォー……? ヴォルンじゃなくてか。そうかい、酒好きの俺でも聞いたことない名前だねえ。俺もまだまだだぁ」
青年の静かな応答で知れることは、ふたつあった。
ひとつは、酒好きの『旦那』ですら知らない酒の名。つまり彼は、この近隣ではない、どこか遠くの地からやってきたのだろうということ。
そしてひとつは、彼の父はもういないのだろうということ。たった今、『飲んでいた』と口にしたからだ。
この店を訪れる様々な人物と接し続け、そうした事情も察することができるようになっていた。無論、それら予想が実際に当たっているかどうかはまた別の話だ。
「ようし、もっと飲みねえ。ここの支払いは、俺が持つからさ」
その言葉で、青年に初めてかすかな表情の変化があった。
「見ず知らずの方に、そのような……」
「悲しいこと言わんでおくれよ、もう『見ず知らず』じゃない。この店を利用するヤツは、みんな仲間さ。おーい、追加注文だ! 例のヤツ持ってきてくれーい!」
断っても無駄だ、と感じたのだろう。
「……痛み入ります」
彫像めいた大きな青年は、かすかに頭を垂れた。
二人でちびちびと、酒を嗜む。
『旦那』が一方的に喋りかけ、青年が時折相槌を返す程度だったが、そこに重い空気はなかった。
「……おーっと……、これもカラになっちまったぁ」
すっかり赤ら顔になった『旦那』が店員を呼ぼうとしたのを、
「いえ。自分は、これでお暇致します」
青年が手を上げて遮る。太い……太すぎるほどの腕だった。
「そうかぁ。そりゃ残念だい。さっき言った通り、支払いは俺持ちだ。また来ておくれよ」
「……ご厚意、感謝致します」
「おおそうだそうだ、兄さん」
酔いも感じさせず立ち上がる青年に、『旦那』は失念していたとばかりに慌てて呼びかける。
「もしよかったら……名前を教えちゃくれねえかい」
「……」
「無理に、とは言わんがさ。せっかくお近づきになれたんだ」
「……自分は、メルコーシア。メルコーシア・アイトマートフと申します」
「そうかっ」
では、と背を向けたメルコーシアの背に、
「また来てくれよなぁ、メル」
まるで矢に射抜かれでもしたかのように、メルコーシアの動きが止まる。
そのまま、たっぷり一秒ほどの間を置いて。
「……有難うございます。いつかまた……必ず」
最後にちらりと『旦那』を一瞥して、メルコーシアは賑わう夜の酒場を後にした。
外に出ると、まるで別世界のごとき寒風が粉雪を舞わせていた。
せっかく温まった身体がすぐにでも冷えてしまいそうな夜風。
だが、故郷の寒さはこんなものではなかった、と父からは聞いている。
今は亡き父から教わったのは、イリスタニア語とは異なる言語と、『システマ』と呼ばれる近接の格闘術。
そして――
(……メル、か)
かつて両親が呼んでくれた、自らの愛称。
一度だけ酒場を振り返る。
「……」
言葉にできない感傷に浸っていると、メルコーシアの耳元に波紋が揺らめいた。
「こちらメルコーシア」
『ひっひっ、ワシじゃ。今、通信は大丈夫かの?』
「は、問題ありません……キンゾル先生」
『では「彼女」の検診が終了したのでな、迎えに来てくれんか』
「は……直ちに。……して、経過は如何でしたか」
『ひっひっ……過去にないぐらいの順調、成功、と表現すべきか。ワシ自身も驚いたよ。話には聞いとったが、あの女子は逸材じゃの。バダルノイスで屈指の詠術士でもあるそうじゃからな、しかしあれほどとは驚いたわ。これも氷神キュアレネーの思し召し……というものなのかのう?』
「……先生がそこまで仰る程とは」
ついに『融合』の成果を最大限に発揮できる存在が生まれたということか。
「ひとまずこれで大仕事は終了……じゃが、ワシはオルケスターの皆様方に嫌われとるようじゃからのう。ここで気張って、信頼を得ねばならんなぁ……ひっひっ。では、待っとるよ』
「は、失礼致します」
手短な通信を終え、メルコーシアは歩き出す。
そこにはもう、先ほどまでかすかに感じられた優しげな表情はなくなっていた。その顔つきは石膏像さながらに不変。
ただ一人の屈強な戦士が、ただ前へと進み行く。
荒ぶ雪風を、ものともせず。




