368. 咎人は氷奏とともに
遠く連なる真白に染まった山々、どこまでも続くかと思える雪原。
人の往来によって刻まれた轍をたどり、彼らの乗る馬車は関所へと近づいていた。
「スヴォールン様。じき、バダルノイス領に入ります」
「……フン、そうか」
小窓の外を窺った配下の報告に対し、『雪嵐白騎士隊』の長たる青年は不機嫌な顔を隠しもしない。
「長い旅だった……」
「しかし歯痒い。成果らしい成果はありませんでしたな……」
さすがの騎士たちも疲れを滲ませている。
「……ち……ミガシンティーアの奴めがおれば……もう少し……」
そんな中、ゲビは爪を噛んで低く呻いていた。
馬車を乗り継ぐこと四度。スヴォールンら五名の騎士は、六日に及ぶ旅路の果て、ようやくバダルノイス本国への帰還を果たしていた。この時節にしては珍しく、天候に恵まれ吹雪くこともなかったため、予定より早い到着となった。――が。
「…………」
晴れ間の覗く空とは裏腹に、スヴォールンの胸中は穏やかでない。
現在、一行が乗っているのは五名の武装騎士が悠々と入れる中型の車両だが、内部にはやや張り詰めた空気が漂っていた。長たる自分が苛立っているためだと理解しているスヴォールンだが、その雰囲気を和らげようなどという気もなかった。
怒りの理由は大まかにふたつ。
ひとつは、レインディールくんだりまで行っておきながら何の成果も得られなかったこと。
そしてもうひとつは、
「……ッ」
左腕にかすかな痛みを感じて、思わず顔をしかめる。
「スヴォールン様?」
「一々喧しいぞ、ゲビ。何事もありはせん」
「こ、これは失礼致しました……」
舌打ちしつつ、自らの左腕を睨む。
目につくのは、防寒の役目も兼ね備えた堅牢な白銀の小手。この北方にのみ繁殖するエドラアイビーと呼ばれる植物の柄を模様に刻み込んだ、美術品としても名高い逸品である。バダルノイスでも上位騎士にのみ着用が許された、由緒正しき装備。
(あの小僧……確か、リューゴ・アリウミと言ったか)
素手で殴りかかってくるなどという蛮行にも驚いたが、
「……ッ」
この強靭な小手で防いでなお、その衝撃が浸透した。未だ残る鈍痛。軽い打ち身程度にはなっているに違いない。
(舐めた真似を……)
身体強化によるものか。拳や蹴りを振り回し、攻撃術を使う気配をまるで見せなかった。
あの年齢ながら、かなりの手練であることは間違いない。しかし何のつもりなのか、こちらを侮辱するにもほどがある。八つ裂きにしてやりたい思いだったが、生憎二度と会うこともないだろう。
『そんな! なにかの間違いだよ!』
『レノーレが罪人だなんて! そんなの嘘だよ!』
腹立ちついでに、そんな平民娘の言葉が甦る。
(……お前なぞに、何が分かる)
何かの間違い。嘘。誰よりもそう思っていたのは――
ガクンと馬車が揺れ、窓の外を流れていた雪景色が緩やかに停止した。同時、銀色の鎧を着た男たちが窓辺に近づいてくるのが見える。
バダルノイス領に入ったため、国境付近を見張る番兵らが馬車を止めさせたのだ。特に今はレノーレが罪人として手配されていることで、出入りする馬車は厳しく調べられる手筈となっている。
ゲビが窓を開けると、見張りたちは一礼して乗車室内を仰ぎ見た。
「これはこれは、スヴォールン卿に皆様。無事のご帰還、お喜び申し上げます。キュアレネーのお導きに感謝を」
「ご苦労」
「これより、オームゾルフ祀神長の下へご報告に向かわれるのですね?」
「ああ」
スヴォールンは短く答えながら、「ところで」と目だけを向けて番兵に問いかける。
「こちらの様子はどうだ。あの罪人について、何か進展はあったか」
何しろ、一行はレインディール遠征のために丸十四日も国を離れていたのだ。何か動きがあってもおかしくはない。
「……、は、未だレノーレ・シュネ・グロースヴィッツらの動向は掴めておりません。地方からの目撃証言もいくつか寄せられたようですが、どうやら信憑性に欠けるものばかりで……。東の国境周辺部からも、対象が発見されたとの報告は届いておりません。やはり、国内に潜伏しているものと思われます」
「そうか」
当然といえば当然か、と青年は得心する。大きな進展があれば、道中の中立地帯ハルシュヴァルトで何かしらの報告を受けていたはずだ。
「ご苦労。通らせてもらうぞ」
「承知しました」
兵は後ろを振り向いて、他の見張りたちに呼びかけた。
「スヴォールン・シィア・グロースヴィッツ卿がお戻りになったぞ! お通し――……っ!?」
その声が中断される。
窓から手を伸ばしたスヴォールンが、この若い兵の頭を鷲掴みにしていた。
そして。
「――――――呼ぶな」
低く。冥府の底から漏れ出たような声が、スヴォールンの喉奥から発せられる。
「は、ひっ……?」
兵はおろか、馬車に同乗しているゲビたちも目を剥き、身を硬直させていた。それらをまるで気に留めず、白き騎士隊の長は呪いを紡ぐがごとく告げる。
「グロースヴィッツの名を呼ぶな」
咎人として堕ちた少女と同じ、その家名を。貶められた、その名を。
「少なくとも、私があの不出来な『愚妹』の始末を付けるまではな」
頭を捕まれた兵は、ひたすらに何度も頷くのみだった。
「くそっ、ついてねぇな……!」
銀鎧の下に毛皮の上衣を着込んだ四年目の若い兵は、いきなりの状況に悪態をついていた。
白く煙る景色。
唐突に吹きつけてきた雪が、視界を完全に閉ざしていた。
寒暖差によって、雪の質にも違いが生じる。比較的暖かい環境下では水分を含み、重くベタついた氷菓状となる。冷え込みが厳しくなれば水気は消え、さらさらした軽い粉状となる。
バダルノイス東部に位置するこのスラウヒルクの街周辺は、国内でも北部と並んで寒い地域。よって、雪質は後者。風が吹くと積雪が軽々と巻き上げられ、瞬く間に目の前を白一色へと染め上げるのだ。
「くそっ」
天候が吹雪に変わった訳ではない。少し待てば収まる――はずなのだが、凍えるような微風がいつまでも雪を舞わせている。
低い風の唸りは、冥府の底から響く死者の嘆きのよう。それらが幾重にも折り重なって、不気味な歌声を響かせている。
つい心細くなり、辺りを見渡した。
前後に延びる石畳は白々と霞み、四マイレほど先すら見えない状況。昼間の街中だというのに、自分がどこを歩いているのか分からなくなりそうになる。
「勘弁してくだせえよ、キュアレネー様~ってな……」
時間帯としては昼下がり。臆病な童子でもあるまいし、常であればこの程度で不安に駆られたりなどしない。
しかし今は、事情が異なる。
それはつい先刻のこと。
件の罪人――レノーレの目撃報告が寄せられたのだ。一瞬たりとて気を抜くことなどできはしない。
(バダルノイス史上、最年少で宮廷詠術士として召し抱えられた才女……か)
詳しいことは知らない。母は高名な元・宮廷詠術士、そしてあのスヴォールンの血縁。何か事情があって宮廷を離れただとか、異国の学院に通っていただとか。
(で、あのメルティナ・スノウの……)
手配書を見る限りは大人しげな美しい少女で、とても反逆を起こすようには――
「!?」
一瞬で、思考を中断させられた。
未だ荒ぶ粉雪の中。風が不気味な歌声を奏でる中――煙る石畳の途上に、ボウと浮かび上がる影。それが少しずつくっきりと浮かび上がる。
吹雪に晒されているのではなく、むしろ風雪を従えているような。そんな印象すら受けるその人物。
やがて雪の密度がにわかに薄れ、相手の姿が露になった。
静かな足取りでやってくるそれは、己より遥かに小さな少女。
旅人と思しき装い。首元には青いマフラーを幾重にも巻き、背中には大きな黒革のマントを羽織っている。それらが風になぶられ激しくはためいているが、彼女はまるで意に介した様子もない。綿毛の帽子を被って、小さな顔には大きめと思えるメガネをかけている。
それよりも何よりも、ゾッとするような無表情。短めな金の髪を揺らめかせながら。メガネの奥の青い瞳には、何の感情も宿っていないように見える。
初めて会うにもかかわらず、知っているその顔。
「……ッ、おい、だ、誰か応答を!」
慌てて通信の術を展開させるも、
「……無駄。……残りはあなた一人」
無慈悲なほど冷たい声で、現れた少女――レノーレ・シュネ・グロースヴィッツは告げる。
「ク、クソ、動くんじゃ――」
そんな警告よりも遥かに速く。
言い終える間もなく吹いた一陣の風が、眼前の全てを白く包み込んだ。
「く……そっ」
がちがちと鳴る歯、寒さに震える身体を押さえながら立ち上がった兵士は、建物に寄りかかりながら意識を集中する。
全身にまみれた雪を払う余裕もない中、力を振り絞って、通信の術式を紡ぐ。
「……誰、でも、いい……。誰か、応答、してくれ……」
兵舎の方角に向けて、どうにか術を発動させる。
ややあって、誰かが応答する気配があった。向こう側から、『こちらスラウヒルク兵舎』と篭もった声が響いてくる。
「……目、標を……発見した……、ヤツは、北へ走って……」
『? 誰だ? よく聞こえない。もう一度頼む』
細かに説明する余力もない。意識を失ってしまう前に、力の限り叫ぶ。
「……オルケスターのレノーレを発見した! 目標は北へ逃走、至急応援を頼むッ……!」




