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終天の異世界と拳撃の騎士  作者: ふるろうた
10. 風雪のオーヴェルテュール
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360. 好奇心

 書斎も兼ねた薄暗い私室にて、机に向かったリンドアーネ・カルフェストは頭を悩ませていた。

 メガネを押し上げて目頭を揉みながら、オルケスターの女詠術士(メイジ)は腹の底から陰鬱な溜息を吐き出し尽くす。体内の悪しき澱を、残らず排出するがごとく。

 しかしながら、そんなことで負の要素が消え去れば苦労はしない。


(全く……)


 オルケスターの本拠たるこの屋敷に、今までにない空気が充満している。

 言わずもがな、団長クィンドールがレインディールと戦う意思を表明してからだ。

 誰も彼もが、どこか浮き足立っている。

 その気持ちは分からないでもない。しかし、


(何も、正面から刃を交える必要はない……)


 ようは、かの国の所有する魂心力琥珀アンディラタが失われてしまえばそれでいい。封術道具の開発ができなくなってしまえば、彼らは驚異たりえなくなるのだ。

 そんな独自方針の下、オルケスターの頭脳を自認するリンドアーネは、レインディールに近づくための方策をあれこれと練っていたのだが――


(一応、行商人から興味深い話は聞けている。曰く、『眠り姫』……)


 詳細は不明だが、現在のレインディールには長らく眠ったまま目を覚まさない要人がいるらしい。


(まさしくドクトルにうってつけの案件――と言いたいところだけど、もう少し調べを進めてからのほうがよさそうね……)


 ただ『眠っている』だけでは少々弱い。ケガなのか病気なのか、なぜそのような状態に陥っているのか、ある日いきなり目覚めたりすることはないのか。

 下手にいて、万が一にもオルケスターの存在を露見させる訳にはいかない。ここは慎重を期すべきだろう。

 ……との意見を主張すれば、心配性だの考え過ぎだのと皆に笑われるのだ。それが転じて、堅物扱いされる。


(何事も、用心するに越したことはないでしょうに……)


 ともかく、さてここからどうするか。

 この『眠り姫』を取っ掛かりとするためには、やはり――

 そこでおもむろに扉打ノックの音が響く。


「はい――、少々お待ちを」


 席を立って戸を開けると、待っていたのは屋敷の黒服だった。


「これを。書記官殿宛てに届きました」


 端的な報告とともに差し出されたのは、一枚の薄い封筒。


「あら、ありがとう」


 受け取って席に戻りつつ、まず差出人を確認する。さて表と裏、どちらの案件か。

 ライズマリー公国の宮廷詠術士(メイジ)にして書記官の肩書きを持つリンドアーネだが、現在は技術提携の名目によりジェイロム商会へ派遣されている身。

 国の役人としてもオルケスターの秘書としても、どちらの仕事もこのクィンドールの屋敷でこなす日々を送っている。

 ゆえにこのような届け物も、どちらの用件かは確認してみるまで分からないところだった。


「! ドクトル……」


 封筒を裏返せば、記されていた差出人名は『裏』の同志のもの。

 それも、まさに今回の件で当てにしようとしていた人物。封を切って中身を改めると、出てきたのは一枚の手紙。

 その文面に目を走らせた女は、


「……な……」


 ただただ言葉を失った。


「…………」


 要約すれば、ドクトルがこちらへやってくるとの内容。

 結論から述べるなら、問題はない。むしろ彼を呼びつけようとしていた身からすれば、好都合ともいえる。

 だが――気に入らないのは、その決定に際し介入した人物。記されていたその名前だ。


「キンゾル・グランシュア……」


 先のクィンドールの方針決定のみならず、こんなところにまで口を出しているのか。


(幹部にでもなったつもり? あの老いぼれめ……。…………もう!)


 部屋で一人、あれこれ考えていても苛立ちが募るばかり。

 そう判断したリンドアーネは、気分を変えるため下で珈琲でも淹れることにした。






 ――ああ。我が主、風神ウェインリプスよ。


 屋敷の一階、大広間へと降り立ったリンドアーネは、思わず天を仰がんばかりの心地に陥った。

 何しろ腹立ちを紛らわす目的でやってきたというのに、その元凶と遭遇してしまったからである。


「ひっひっ、これはこれはリンドアーネ殿。お邪魔しておりますぞ」


 白衣姿の、小柄な老人。顔中に刻まれた皺の数が、その高齢ぶりをそのまま物語っている。茶色のベレー帽を被り、首元に同色のマフラーを巻いた、どこにでもいる老夫。

 しかしその正体は、レインディールにおいて超高額の賞金首に指定されている第一級の罪人、キンゾル・グランシュア。それゆえか、一応はベレー帽やマフラーなどで変装をしている――『つもり』、らしい。その雑な対策は、自らがお尋ね者となっていることを気にも留めていない心の表れか。

 もっとも手配書の似顔絵がさほど似ていないうえ、ここはレインディールではない。これでも、さしたる問題はないのだろう。


「ご無沙汰しております、キンゾル殿。このところはよくお越しのようで」


 リンドアーネとしては「暇人め」との皮肉を込めたつもりの挨拶だったが、


「ひっひっ。暇を持て余した老骨の身ですからな」


 それを見透かしたような返答。やはりどうにも、いけ好かなかった。


「では、例の件に関する準備もすでに?」


 暇だと言うのだ。「まだ」などと答えようもなら張っ倒してやろうか、と目を細めるリンドアーネだったが、


「ええ、完了しておりますぞ。あとは出発するだけですな」


 当然といえば当然の返事。


「……そういえばキンゾル殿。今日は、あの護衛の方は一緒ではないのですか?」


 開けた豪奢な広間。その出入り口付近で佇む老人のそばに、あの筋骨隆々な守護者の姿はない。

 場には他に人影も見えず。追われる身として、いささか不用心ではなかろうか。


(……私がここで牙を剥いたら、どうするつもりなのやら)


 いかにこの怪老が『ペンタ』といえど、そこは至近で向かい合った人と人。手を伸ばせば届く距離。短刀のひとつでもあれば、容易に間違いは起こり得る。

 でなくともリンドアーネ自身、ライズマリー公国屈指の宮廷詠術士(メイジ)。その気になれば、いくらでもやりようはある――。

 少し溜飲の下がる思いのリンドアーネに対し、


「ひっひっ。メルコーシアのことですかな? でしたら、きちんとおりますぞ」

「あら、そうなのですか。お姿が見えないようですが、今はどちらに?」

「ひっひっ。――貴女の、すぐ後ろに」

「っ!?」


 思わず反射的に振り返れば、一体いつからそこにいたのか。巌じみた太い男が間近に立っていた。

 静かな群青の瞳、短く刈った髪、武骨な顔立ちと白い肌。はち切れんばかりに隆起する首から肩、腕の筋肉。風変りな斑模様の下衣。

 上背の高さはさほどでもない。しかしその筋量ゆえか、圧倒的なまでの重厚感、威圧感。

 老人の護衛たるメルコーシア・アイトマートフが、巨岩の塊さながらに佇んでいた。


(……ッ、この私が……、こんなに接近されて、気付けないだなんて)


 老人がいかにも愉快げにくつくつと嗤う。


「これ、メルコーシアよ。あまり婦人を脅かすものではないぞ。ひっひっ」

「失敬」


 言葉とは裏腹、申し訳なさなど微塵も浮かんでいない無表情で、メルコーシアはキンゾルの横へ位置取る。そうして怪老人とその守護者は、いつもの見慣れた構図に収まった。


(…………ッ)


 気に食わない。実に気に食わない。


「失礼ッ」


 ――とそんな捨て台詞を吐いて、逃げるように退散するリンドアーネ――ではなかった。

 曲がりなりにもオルケスターの頭脳、クィンドールの秘書を自負する身である。


「……キンゾル殿。これからお時間はございますか?」

「ひっひっ。今程申した通り、暇を持て余しておりますぞ」

「では、珈琲などいかがでしょう? 私も、一服しようと降りてきたところでして」

「ふぅむ、左様でしたか。では、お言葉に甘えるとしようかのう?」

「ええ、どうぞ遠慮なさらず」


 喫茶店の店員のように、リンドアーネは二人を奥の席へと促した。


(…………舐めてもらっては困るわ)


 ここで大人しく引っ込むのは凡骨。カチンときたからこそ潜り込む。

 伊達に表と裏の世界を股にかけて生きていない。

 リンドアーネ・カルフェストは――嫌悪の対象だからこそ、より理解を深める。

さすれば相手の弱みを把握することにも繋がり、果ては効率のよい排除にも通じ得る。


「では、しばしお待ちを」


 脇の給湯室で勤しむこと十数分ほど。三人分の珈琲を淹れ終えたリンドアーネは、それらを盆に載せて広間へと戻った。


「どうぞ」


 モスグレーのクロスが敷かれたガラステーブルに盆を置き、各々の眼前へと配る。


「お砂糖や白乳が必要でしたら、そちらからどうぞ」


 テーブルの端に備えてあるそれらを手で示す。


「ひっひっ、お気遣いどうも。では、いただきますかな」


 真っ先に珈琲を口にしたのはキンゾル。


「……、」


 リンドアーネは、かすかな驚きを隠しつつ、自らもカップを口へと運んだ。


「うむ、美味しゅうございますぞ。メルコーシアも戴きなさい。……ひっひっ、意外でしたかな? リンドアーネ殿」

「! ……何がでしょう?」

「ワシがメルコーシアに毒味をさせなかったことが」

「っ」


 その通りだった。

 キンゾルは護衛に確認させることもなく、真っ先に飲み物を口に含んだ。『もしも』があればどうするつもりだったのか。

 リンドアーネはそんな驚きを感じつつも押し殺し、しかしキンゾルは目ざとく察した。


「ひっひっ。若い頃に医師をやっておった折、戯れで毒についてもそれなりに学びましての。口にすればすぐに分かりますじゃ。何より『この身体』になってからは、さして毒なぞ効きもしませんしな」


 右と左で長さがちぐはぐな腕や、部分部分で質感の異なる肌。その『内側』も、常人とは一線を画すようだ。


「……デビアスさんから少し聞き及んでいます。興味がありますね。遥か遠くの地で医業に従事していたあなたが、なぜ今のような生き方を選び、そのような肉体を得るに至ったのか。そもそも、生まれはどちらなのです?」

「ラ・エバリア・ク・エーレ」

「は?」

「ワシの生まれ育った国の名ですじゃ。ラ・エバリア・ク・エーレ」


 まるで耳にしたことがない。

 表と裏、どちらの世界にも通じているリンドアーネですら。


「……どれほど離れた場所にあるのです?」

「そうですな……ここからであれば、ざっと十五年弱の距離となりますかの」

「……、十、五年……?」


 刹那、聞き間違いかと疑った。


「ひっひっ。実際には寄り道を繰り返しましたからな、直線距離ならば十年と少々、といったところですかのう?」


 どちらにせよ、及びもつかない。

 リンドアーネが年端もいかぬ少女だった頃に出立して、今頃ようやくたどり着ける異郷……。

 果たしてこの大地は、世界は、どこまで続いているのだろうか。


「……メルコーシア殿は、ずっとその旅路をともに……?」


 この武骨な護衛人は、自分とそう変わらない年齢に見える。となれば、幼少の頃から付き従っていたのか。横目で彼を窺うが、答えたのは主だった。


「いいや、メルコーシアと出会ったのは『こちら側』に来てからですな。形骸山脈……でしたかな、ワーガータブの東にある。その北部の村でちょいと縁がありましての。まだ数年の付き合いですじゃ」

「……そうだったのですか」

「して、ワシの故郷は大きな国でしてな。多くの人間で栄えておったが、ゆえに『あぶれる』者も多かった。中心地は活気と華やかさに満ちておっても、少し僻地に入ればガラリと様相は一変する」


 語りながら、キンゾルはテーブルに備えてあった白乳の陶器を手に取った。注ぎ口を傾け、ゆっくりと珈琲へ垂らしていく。黒に満ちていたカップの水面を、にわかな白が覆い尽くした。


「まさに……この珈琲のように。表向きは白く清廉に見えておっても、すぐ下には深淵の黒が広がっている。そんな国でしたな」


 そんな状況を壊すかのように、キンゾルはカップの中にスプーンを差し込みかき混ぜた。


 曖昧な笑みを覗かせ、遠き異邦の老人は語る。

 ラ・エバリア・ク・エーレ。その王都こそ巨大で活気に満ちていたが、それ以外の地域はひどい有様で、その日の暮らしもままならない貧民たちがひしめく世界。当たり前のように、死者や負傷者が続出する状況だったという。


「街道には、常に誰かしらの死体が転がっておった。腐臭が立ち込め、それが獣や怨魔を引き寄せ、通り掛かった者を餌食にする。その繰り返しですな」

「……国は、何か対応などなさらなかったのですか」

「先ほど申したように、人が多過ぎたんですな。とても対応し切れんほどに。それでいて、身分格差も大きかった。お上からすれば、僻地の貧民など野良犬同然の存在でしたからの。対応なぞ、する気もなかったでしょう」


 そこは法も意味を為さぬ、純粋なまでに弱肉強食の世界。どれほど遠方だろうと、やはりそういった地域は珍しくもないらしい。そんな一地方の貧困家庭に生まれたキンゾルは、少しばかり特異な力を授かっていた。


 全てを穿つ死の右手、全てを接ぐ生の左手。


「我が国では、『ディエティ』と呼ばれましたな」

「? 何がです?」

「こちら側で『ペンタ』と呼ばれる、強き力を宿す者の呼称ですじゃよ。ワシの故郷では、そのように呼ばれておりました」

「……『ディエティ』、ですか」


 初めて聞く呼び方だ。

 嘘か真かと訝ってみるリンドアーネだったが、そもそも『ペンタ』の名称を偽ることに意味もあるまい。


「ワシの能力なぞ、当時は地味なものと認識されておったし……自分でもそう思っておりましたからな。この力を買われてお上に取り立てられるようなことはありませんでしたが」


 切っ掛けは、幼少時に抱いた好奇心からなるほんの思いつき。その力を活用して、己の傷口を縫合してみたことが始まりだった。

 試行錯誤を繰り返し、より効率的に傷を治すことに没頭した。少年時代は家族や友人のケガを治療する傍ら、独学で医療について知識を深めた。

 己の診療所を構えることになったのが二十歳の頃。貧しい者を安値で診ることから、近隣の村民の評判も上々だったという。


「ひっひっ。自分で言うのも些か気恥ずかしいですがな」


 そうした処置を生業としながら静かに暮らすこと幾年月。

 地道に働き続けたことでそれなりの財を成し、不自由のない生活を送れるようになった。いつしか伴侶を得て、子を授かり、孫にも恵まれた。

 髪に白色が交じり始めた頃、その堅実な活躍を認められて、国から賞を授与された。

 ここで、『創製者グレイドテオル』との呼称を授かった。堅実に生を創出し続けたことに由来する二つ名だった。


「へえ。素晴らしいことですね。実に堅調、順風満帆の人生ではありませんか」


 そんなリンドアーネの賛辞に対し、


「ふむ……素晴らしい、と。そう思われますか」


 キンゾルは意味深に口の端を上げる。


「何か問題でも?」

「ワシがそのように恵まれた暮らしを送れたということはつまり、それだけ商売が繁盛していたということ。即ち、医師を必要とする者が後を絶たなかった、ということ」

「……なるほど、それは確かに。キンゾル殿が老齢に差し掛かる頃になっても未だ、貧民たちの状況は変わっていなかったと」


 老人はコクリと頷いた。


「ところでワシには、十五ほども歳の離れた弟がおったのですがな」

「……、ええ」


 いきなり話が変わり、リンドアーネは戸惑いがちに曖昧な首肯を返す。一応、デビアスから聞いたことがある。キンゾルには弟がいたと。


「これがまた、ワシとは似ても似つかぬハネッ返りじゃった。無頼、暴れん坊……ですかのう。ただ、その腕っ節の強さは本物でしてな。あ奴がおってこそ、ワシはあの無法に等しい世界で一角の成功を収めることができたとも言える。昔から生傷の絶えんかったこの愚弟を治療することで、ワシは腕を磨いたんですな」


 名を、フェイディ・グランシュア。

 宿した属性は風。

 兄と違い『ペンタ』ではなく、それどころか神詠術オラクルの力にさほど恵まれた訳でもなかったが、その扱いが巧みだった。


「あれよあれよという間に、栄光への道を駆け上って行きましてな」


 腕白なガキ大将に始まり、やがて知る人ぞ知るケンカ自慢へ。名を上げようと挑んできた者は、全て返り討ち。毎日のように繰り返される闘争によって、フェイディの強さは着実に磨かれていった。

 いつしかついた渾名は、『魔都の拳聖』。

 風属性の使い手にもかかわらず遠距離攻撃の扱いを苦手とした彼は、その身に大気の奔流を纏わせての近接戦闘を特化させた。


「うむ……ほんに、あ奴は強かった。全盛期には、およそ並び立つ者など見当たらんかった。今のメルコーシアでも、まだまだあの域には及ばんのう」

「は。精進致します」


 その護衛が謹直に返し、珈琲をすする。


「はあ。それほどの手練だったのですか」


 一方、リンドアーネとしてはさほど興味がない。もちろん、世を渡り歩いていくためにある程度の自衛力は必要だろうが、最も大切なのは知識や立ち回りだと考えているからだ。組織内には脳みその中まで筋肉で埋まっていそうな輩が多いため、余計にそう思う。


「ひっひっ。そうですな……オルケスターの二強たる彼らでも……果たして、かつてのあ奴に触れられるかどうか」

「……申し訳ありませんが、本人たちの前でそのご発言はお控えくださいね。色々と面倒ですから」

「ひっひっ、これは失礼。心に留め置きましょうぞ」


 組織内で最強との呼び声高い、テオドシウスとナインテイル。

 特に後者がこのキンゾルの言葉を耳にしたなら、と考えるだけで眉をしかめたくなる。


「あ奴は大人しく地味な仕事をこなすような柄でもありませんでしたからな、若いうちしばらくは定職にも就かずワシの護衛をやっとった。そんなある時、その勇猛ぶりがお上の耳に入ったんですな。兵として取り立てられることになり、あっという間に成り上がった」


 凶悪な罪人を捕らえ、強大な怨魔を打ち倒し、政敵を片っ端から排除して。いつしかフェイディは、民から絶大な支持を得る英雄となった。


「話が前後しますがの。ワシが初めてお上から表彰された頃、国中で弟の名を知らぬ者などおらなかったことでしょう」

「…………」


 なるほど、とリンドアーネは心中で深い相槌を打つ。

 ようやく見えてきた。この老人の中に根差すものが。負の根源とでも呼ぶべきものが。


「お上がワシを表彰したのも、『英雄フェイディの兄だから』との話題性を得るためだったのやもしれませんな。ひっひっ」


 いかにも、ありそうな話だ。聞いた限り、かの国の支配階級は貧困層を露ほどとも思わず長年放置し続けている。にもかかわらず、後になってそんな貧民たちを支えるキンゾルをおもむろに称えた。


「元々、釈然とせぬ疑問は感じておった」


 絶えることのない傷病者。運ばれてきた時点で手遅れ、といった状況も珍しくなかった。手を尽くしても救えぬことなど日常だった。そのたびに、遺族からは糾弾された。なぜ助けられなかったのか、と。

 加えて、患者の大半が生活に困窮した者たち。どうにか回復させたと思えば、その者が悪事を働くこともあった。


 そんな風に兄が迷いを抱えつつも人間を助けようと苦心した一方、弟は人間を叩き伏せただけで稀代の英傑となった。


「生かすことは難く、殺すことは易い。その易きを称える大衆の愚かしさよ」


(……出ましたね、本音が)


 リンドアーネは目を閉じて珈琲をすすった。

 明らかになってみれば単純な話だ。

 必死に人助けをした自分より、人を叩き伏せ続けた弟のほうが評価されることへの不満。

 すでにデビアスから顛末だけは聞いている。キンゾルは最終的に、その弟と決別しているはずだ。


「……そんな矢先でしたな。あの出来事が起こったのは――」


 国からの依頼で、キンゾルとフェイディは、とある山の向こうに位置する町村の往診へ赴くこととなった。


「問題はその山でして。地元では、霊峰とも魔の山とも恐れられる場所じゃった」


 常に深い霧が立ち込め、不気味な雰囲気漂う黒い森林。

 とはいえ、道さえ違えなければ問題はない。


「……しかし数日前まで雨が降っておったせいか、地盤が緩んでおったんでしょう」


 些細なことから、キンゾルが足を滑らせた。いち早く反応したフェイディが辛うじて兄を助けるも、片腕だけを頼りに崖際からぶら下がる形となった。


「ワシはフェイを助けようと咄嗟に手を伸ばし、あ奴の腕を掴みましたが――」


 老人はどこか諦観したように、ゆっくりと首を横へ振った。


「……今でも瞼の裏に浮かびますわい。奈落の闇へと消えていくあ奴の姿が。あの出来事を切っ掛けに、ワシはよう分からなくなってしまいましてな」


 人を生かし続けることの難しさ。人を死なせることの容易さ。数多の人間を倒し続けて英雄となった弟もしかし、信じられないほどあっさりと死ぬ側へ回り。


「……その葛藤はお察しします。弟君とはお若い頃に決別された、と聞いていましたが……そのような事情がおありだったとは」

「決別ですじゃよ。あれを切っ掛けに生まれたんですからの。今のキンゾルが」


 くく、と老夫は喉の奥で嗤った。弟との……過去の己との決別、ということか。

 キンゾルは話を締め括るように、空となったカップを机上へ戻した。


「……さて。そろそろおいとまするかの、メルコーシアや。珈琲、おいしゅうございましたぞ」

「いえ、お粗末様でした」


 リンドアーネも席を立ち、老人とその護衛人を玄関口まで見送る。

 気のせいだろうか。これまで得体が知れなかった怪老の背中は、少しばかり小さくなったようにも見えた。


(分かってみれば何のことはない、ということかしら)


 真人間が些細な切っ掛けを元に変貌、狂ってしまう。よくあることだ。

 そうして老年に差しかかった頃に生かす側から殺す側へと回ったキンゾルは、その『融合』の能力を用いて邪なる振る舞いを続けてきたのだろう。次第に言うことを聞かなくなっていく己の肉体にすら処置を施し、長らえさせながら。


 外はすでに暗くなっていた。リンドアーネはただ静かに、夜の街に消え行く二人の背中を眺めていた。


(その複雑な境遇、胸中には同情するわ。しかし、キンゾル・グランシュア――)


 メガネの奥の瞳を、冷たく光らせながら。


(やはりあなたは、オルケスターに――我らが同志に、相応しくない)


 自分たちが抗おうとしているのは、とてつもなく強大な『闇』。

 その程度で容易に変質してしまう精神では、とても『あの真実』には耐えられまい。


「…………」


 玄関の扉を閉じる直前、リンドアーネはその瞳を夜空へと向けた。

 そこには当然のように座す、丸く輝く巨大な円。雲に包まれたその姿は、暗幕に覆われた天空から地上を照らしている。

 昼の神インベレヌスと双璧を成す、夜の女神イシュ・マーニ。伝承では昼神の妹であり、創造神の娘とされているが――


「……益体もない、ただの石の塊め」


 リンドアーネの喉から発せられた声は、信じた人に裏切られたような響きを伴っていた。






『ふいー、危ねえ危ねえ』


 常から、飄々とした男だった。

 早、兄となって三十余年か。キンゾル・グランシュアは、この弟がうろたえる場面を見たことがない。例外を挙げるなら、複数の女に手を出し、それが露見して責められたときぐらいだろう。


 フェイディ・グランシュアは、片手で岩場から宙吊り状態となりながらも、達観したような表情でいた。それどころか、


『おお。こうして見る山の景色も悪かない――』


 眼下に広がる脈々とした麓、さらには下方にて待ち構える途方もない奈落を前に、そんな感想を漏らす。石にかかっている指が外れたなら、一瞬でそこに吸い込まれてしまうにもかかわらず。民がこの場面を目の当たりにしたなら、間違いなく悲鳴が巻き起こる状況だ。


『馬鹿なことを言っとらんで、上がって来い』


 キンゾルは屈み込み、弟へと手を差し延べた。


『おっと、すまんね兄貴』


 名残惜しさすら思わせる口調で、弟は兄の手を取った。


 ――魔が差す、との言葉がある。


 フェイディは規模の大きな術こそ扱えないが、不可思議な力を有していた。

 それはきっと、『先見』に近い何か。とにかく、直撃を受けることがないのだ。風というその属性を体現したかのごとく、何者も触れることすらままならぬその体捌き。

 過酷極まる世界で常に勝ち続けてきたその姿。

 負ける光景など――敗死など想像すらできぬ、その佇まい――


 思ったときには、手を離していた。


 興味本位、と表現してはあまりに無責任か。

 ただ、それは子供の頃に抱いた好奇心と同じものだ。思いつきで傷を塞いだあのときと同じ。

 ここでこの手を離したら、この強き弟は――ただの一度も負けたことのないこの男は、果たしてどうなるのかと。


 実行した、その瞬間。少し間の抜けたようにすら見える、フェイディの顔。

 ほんの刹那で、その姿は下方の闇へと飲まれ消えていく。兄に落とされたという現実を、すぐには飲み込めなかったのかもしれない。悲鳴はなかった。その代わりに、岩場に何かがぶつかるような音が断続した。多少の風の力では、どうにもならない高さ。


『……おお……フェイよ……』


『先見』のごとき力を持つ彼でも、この未来は読めなかったのか。最強と思われた負け知らずの彼でも、こうも容易く死んでしまうものなのか。

 多くの死を生んできた弟が。英雄と名高いフェイディが。


 こんなにも簡単に生み出せる『死』で、人々は熱狂するのか。


 確かに、嫉妬はあった。瞬く間に成り上がり、自分を超えていった弟に。しかし彼の存在あってこそ、今の自分がいることは事実。恨みなどなかった。


 ――ああ、なんとくだらないことか。

 殺意などなくとも、敵意など抱かずとも、こうも容易い。簡単に、最強を殺せてしまう。こんな、手先ひとつの動きだけで。死の創出とは、これほど楽なものなのか。


 奈落へ向けて腕を伸ばし、屈んだままのキンゾルの身体に、冷たい雫が注ぎ始める。

 止んだと思った雨が、再び大地を濡らし始めた。






 それはある安息日。茜さす緋色が鮮やかな夕刻のことだった。


『父さん!? 馬鹿な、どうしたっていうんだ!?』


 自宅の床に転がった息子は、愕然とした面持ちで父親に――キンゾルに怒号をぶつける。

 キンゾル・グランシュアの右手によって腱を削られた彼は、もう両の足で地を踏むことができない状態だった。


『お、お義父さん……や、やめて! やめてください! どうしてしまったんですか……、ひいっ』


 キンゾルに拘束され、恐怖に怯えた息子の嫁が、無抵抗にその身を震わせる。右手を頬に這わせると、動物のような情けない悲鳴を零した。


『くそっ! 父さん、あんたはおかしくなっちまった! フェイディ叔父さんを喪ってから、壊れて……!』

『狂ってなどおらんぞ、わが息子よ。そもそも、フェイを殺したのは私だからの』

『な……!?』

『尤も、あれが切っ掛けとなったのは確かか。分かるか? あのフェイですら、信じられんほどあっさりと死んでしもうた。何だろうの、人を無理に生かし続けることが馬鹿らしくなった……とでも言おうか。いい機会と思ってな、逆のことに挑戦してみとうなったのよ』

『逆の……こと、だって……?』

『どれほど効率的に、人を壊せるか』


 父が答えると、息子は信じられないものを見るような眼差しを向けた。


『別段、おかしなことでもあるまいよ。これまで、治すことしかしてこんかったからな。極まり飽いて、正反対の道を追求してみようと思うのも自然な話――』


 いかに効率よく治せるか没頭した、かつてのように。

 いかに効率よく破壊できるか、試行錯誤を始めた。それだけの話。


創製者グレイドテオル』は、生でなく死を扱うようになった。それだけの話。


 幸い、練習台には困らなかった。

 多くの人命が日々失われている環境。自分の手によるものが混ざったところで誰も気付きはしない。


 あれから、日々訓練を重ねてきた。

 そして今日。ひとつの区切りとして、最も身近な者たちを今の自分ができる最良の形へと仕上げる予定だった。愛する家族。たった一度の施術なのだ。手抜きをするつもりはない。


 息子の嫁の喉元に宛がっていた右手を閃かせる。傷口を切り開くために使われていたその力は、まるで袋の口でも開けるかのごとくあっさりと首を裂いた。皮がめくれ、首の骨が露見する。ごぼりと濡れた音が迸り、爆発したように血が飛沫く。細い女体がびくんと跳ねると同時、床に這う息子が、妻の名を狂ったように繰り返し叫んだ。

 生憎、一家の屋敷は郊外の離れた丘に建っている。元来、景色を楽しむために少し離れた場所へ建てた邸宅だ。少しばかり騒ごうと誰も気付きはしない。

 全身に生臭い返り血を浴びながら、キンゾルはふむと感慨深い息を吐く。


『薄々思ってはいたが……フェイの奴こそ狂っておったよ。こんな「死」と隣り合わせの日々を送りながら、何でもないことのように飄々としておったんだからな』


 口元にかかった生温かい赤を舌で拭うと、玄関口のほうから声がした。


『ただいまー』


 声変わりもしていないその高い声は、孫のルシエのものだ。ほんの先日、九歳になったばかり。


『ッ!? だっ、だめだルシエッ! こっちに来るんじゃない――!』

『ひっひっ。ひどいな息子よ。今この場には家族しかおらんというに。何をそのように喚く』

『ルシエ! 来るな、逃げるんだっ……!』

『……おとうさん?』

『そんなに声を荒げれば逆効果だろうの。……ふぅむ、そうだ』


 何を思いついたのか、と言いたげに息子が目を見開く。


『全てを切り裂く右手……これを振るえば、「斬れる」のは当然』


 言いながら、キンゾルは左手を掲げた。


『では、全てを融合する左手を用いたなら? これまで何者も成したことのない壊し方ができようのう……』


 斬り、傷つければ死ぬのは当たり前。

 では、様々なものを……本来共存するはずがないもの同士をくっつけていったなら、何が生まれるだろう。

 湯水のごとく、好奇心が溢れてくる。


『おい……』


 低い声は、床に伏した息子からだ。


『父さん……まさか……まさか、ルシエで、それを……試そうって……?』

『ひっひっ。そういえばルシエには、まだ生誕日の祝いをあげとらんかった。どうれルシエや、こっちへおいで! じいちゃんが贈り物をしてあげようぞ!』

『や、め……ろ……! やめおおぉ! この外道があああぁッ――!』

『ひっひっ、心の篭もった怒号じゃないか。お前は私の息子の割に凡庸極まると思っていたが、なかなかどうして』


 これもまた興味深い、好奇心から生まれた産物。我が子に危機が迫れば、己が親をも外道と罵るのだ。


 ――そこから先は、老境に差しかかっていたキンゾルにも忘れられぬ新たなる領域。


『おじいちゃん、やめて』


 怖がることはないぞ。さあ、こっちへ来なさい。これをあげよう。


『オジイチャン』


 ひっひっ。少しばかり喋りにくそうだの。どれ、取りつける位置を変えてやろう。


『オジイチャン ドコニイルノ オジイチャン』


 おお、やはり目の代わりとするには無理があったか。どれ、じいちゃんはここにおるぞ――






「先生?」


 横合いから、低くも労わるような声がかかる。


「……む、どうかしたかの? メルコーシアよ」


 クィンドールの屋敷を出てしばらく。人の往来も少ない夜の街。寒空の下、停留所で馬車を待っていたキンゾルは、護衛の若者へと首を巡らす。


「いえ。失礼ながら、呆としておられるようでしたので」

「ひっひっ。少しばかり、昔を思い出しておっての」


 あの夜の興奮は何物にも代えがたかった。初めての試みだったゆえ、ルシエは言葉で表現しようのない肉塊と化してしまったが、あれほど有意義な体験はなかった。


「さて……ではオルケスターの連中との共同作業、少々大きい仕事じゃ。気張るとするかの」

「ご無理はなさいませんよう」

「ひっひっ。メルコーシアは心配性じゃの。さぁて、お次の仕事先……はて、何といったか」


 先に準備を済ませているオルケスターの構成員と合流し、頼まれた『融合』を処置しなければならない。

 その地の……国の名前が、確か――

 キンゾルが思い出すより早く、メルコーシアが口にした。


「――バダルノイス神帝国、です」


 そうじゃったそうじゃった、とキンゾルは顔に皺を寄せて嗤う。


「ひっひっ。楽しみじゃのう」


 殺すは生かすより易く。その易きが誉れを得て、より人々の熱狂を誘う。


 ――ならば、いくらでも提供してやろう。そんなことでよいのなら。


 数十年の昔、キンゾルの妻が病死した際は、ろくな弔いもできずじまい。貧しい街の平民の一人に相応しい、ごく質素な対応に終わった。

 弟フェイディが奈落の底に消えた折には、身分の別なく多くの人々が……国中がその死を悼んだ。その後、さらに続けて家族を……息子を、その嫁を、そして孫ルシエを喪ったキンゾルを、可哀相にと同情し哀れんだ。その頃となればそれなりの地位を得ていたことから、死や喪失を口実に盛大な儀が催された。……ただ一人無傷で生き残ったキンゾルを、長年に渡り貧民を助け続けて表彰されたキンゾル先生を疑う者はいなかった。


 そこでまた、あの好奇心が首をもたげた。

 自分の周りですらこの騒ぎ。では――、一国の王が無残な終わりを遂げたなら、どれほどの乱れぶりとなろう?


 結論から述べるならば。ラ・エバリア・ク・エーレは、キンゾル・グランシュア一人の手によって事実上壊滅した。

 少しずつ、病魔に蝕まれた肉体が朽ちていくように。誰も知ることのなかったキンゾルの暗躍によって、かの国は何年もの時間をかけてじわじわと衰退していった。そして最後に王が落ちることにより、破滅の時が訪れた。


 あの騒ぎは当然ながらこれまで体験したことがないほどの狂乱ぶりで、人々は存分に沸き立った。悲鳴の渦を巻き起こし、右往左往と踊り狂った。

 そこでまた好奇心がむくりと反応した。勃起した性器のように。


 国ひとつであの騒ぎ。ならば。

 世界が終わりを遂げたなら、どれほどの――――


「愉しみじゃのう。ああ愉しみじゃ」


 齢九十を超えた怪老は、ただ抑えきれぬ好奇心の赴くまま。

 その最後の目標へ向かって、純粋なまでに邁進していく。

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― 新着の感想 ―
[一言] 巨悪ってこんなかんじなんかね
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