355. 前向きに
「やべえ……文章力がなさすぎる……」
自室で机に向かいながら、有海流護は己の非才さに頭を抱えそうになっていた。
何をしているのかというと。
隣国レフェ巫術神国に住まう『神域の巫女』こと雪崎桜枝里から近況を知らせる手紙が届いたので、返事を書こうとしていたのである。
しかし、携帯電話のメールすらあまり活用していなかった少年としては、なかなか筆が進まない。
(よくよく考えたら俺、手紙なんてまともに書いたことねーし……)
例の天轟闘宴の後、ミョールから届いた手紙に対してベルグレッテと一緒に返したことはあったが、書いたのはほとんど彼女である。著・ベルグレッテ、監修(名ばかりの)・流護といった感じだ。
現代日本でグリムクロウズへ戻ることを決意した後、父親に手紙を残していこうと考えたが、それも結局は本人が戻ってきたため実際に筆を取ることはなかった。
この世界では、流護にしてみれば日本語としか思えない言語が使用されているが、実は文字については異なる部分が多い。
見たことのない字や記号が用いられることが少なくなく、兵として知識をつけるための読書も思った以上に進まないのだ。
その点、相手が桜枝里であれば気を使う必要はない。同じ日本人同士なのだから、普通に日本語で書けばいいだけだ。
が、
(いざ手紙を書こうとすると、照れくさかったり文面が変になったりするのはなぜなのか……)
「お元気ですか」と書いて俺そんなキャラじゃねーだろ、と消したり、いやでも手紙のあいさつなんだからこれでいいのか、とまた直してみたり。
(ええとそうだあれだ、こういう時の決まり文句みたいのあるじゃん。本日はお日柄もよく塩素から格別のかき玉汁を賜り厚くオンレイを申し上げ……みたいな……つかあのテの挨拶って、書いてる奴自分で意味分かってんのか?)
まあ、そんなことはどうでもいい。
桜枝里に対する手紙となるとひとつ、悩むべき大きな問題があった。
(……日本に行ってきたこと……やっぱ、この機会に知らせるべきなのか?)
予期せぬ故郷への帰還を果たし、しかしまたこの異世界へと戻ってきたこと。その際の転移に、自分の幼なじみが巻き込まれたこと。
これらの事実を記したなら、桜枝里はどう反応するだろうか。
日本からの帰還を果たして以降、ダイゴスやラデイルを通じての通信で幾度か会話はしている。しかしこの件については、未だ言えないままだった。
報告すれば、驚くことは間違いない。羨むかもしれない。
戻れる可能性があるかもしれないと受け取って、ホームシックに駆られたりはしないだろうか。
レフェで重要な存在になってみせると覚悟を決めた桜枝里だが、それはやはりかつての流護と同じく、『もう日本には戻れない』という前提あってのものだ。言うなれば、帰還を諦めたからこそ定まった思い。
現代日本とグリムクロウズを天秤にかけて後者を選んだ流護だが、桜枝里が同じ選択をするとは限らない。
まして、確実に帰還できる方法が見つかった訳ではないのだ。話すことで、中途半端な期待を抱かせるだけになってしまうかもしれない。
そしてもうひとつ、気がかりな点がある。
(桜枝里のことが……何も出てこなかったんだよな)
自宅のパソコンで調べた際、彼女に関する情報がヒットしなかった。これについては今のところ、誰にも話していない。ベルグレッテにも、ロック博士にもだ。
博士に話してみれば、何か意見がもらえる可能性もあるだろう。が、どうにも踏ん切りがつかないままでいた。
『桜枝里にかかわる情報が見つからなかった』という事実に対して何かが判明したところで、それが明るい真相に繋がるとは思えなかったからだ。
それに、流護の調べ方が甘かっただけの可能性も否定できない。だとするなら、余計な不安を煽るだけだ。
こうして異世界に舞い戻ってきた今、再びパソコンやらネットやらで確認することもできなくなった。
(逃げ、なのかもしれねーけど……)
ともかく、知らせること自体はいつでもできる。ここは慎重に動いて様子を見よう……と判断した流護は、余計なことは書かないと決めて筆を進めるのだった。
字は汚い、内容も拙い。出来としては下の下みたいな手紙を引っさげ、流護は放課後の校舎内を歩く。
人も少なく静かな図書室に入ると、奥まった席にその男は座っていた。
「うーっす、ダイゴス先生」
「お主か」
重厚な本から顔を上げた巨漢が、「ニィ……」といつもの笑みで応える。やはり医学関連の書を漁っていたらしい。
「ダイゴスも、明日にはレフェに帰るんだったよな?」
「そのつもりじゃ」
「じゃ、これ頼む。一応書けた」
「承知した」
桜枝里に宛てた手紙を渡せば、巨漢は受け取って懐へと仕舞い込んだ。
流護の心の裡に、どうにも後悔や未練といった類のものが鎌首をもたげてくる。
「うっ……やっぱ、どうしようかな」
「どうした」
「いや……書くには書いたんだけどさ……。どうにも内容がイマイチっつーか。手紙なんてまともに書いたことねーから、上手く書けなくて」
「フ、気持ちが伝わればよかろう。お主からの返事がもらえたというだけで、あ奴は喜ぶはずじゃ」
「かー、っだよダイゴス先生、桜枝里のことは何でも分かってるってか? 見せ付けてくれるじゃねーかよ~」
「愛する女のことなのでな」
「お、おう……」
強い。強すぎる。何で愛する女とか平然と言えんだこの人。
思春期真っ盛りのボーイはただそう戦慄せざるを得ない。とてもではないが太刀打ちできそうになかった。
「つか、たまにダイゴスとラデイルさん通して通信で喋ってるんだし、手紙とかいらない気もすんだけど……」
「文でのやり取りには、また違う趣があるもんじゃぞ」
「そんなもんすかね……」
ポリポリと頭を掻いた流護は、ハッとして言い添える。
「あとさ、悪いんだけどダイゴス……例の話は、まだ桜枝里には……」
「分かっとる」
流護たちが日本へ行ってきた件について、ひいては彩花のことについてだ。これはやはり、今のところ伏せておきたかった。
「にしても、もうすぐ今年も終わりなのか。俺にしてみりゃ初めての経験だけど……今回の休みは、夏より長いんだっけ……、ん?」
すぐ脇にある窓から何気なく外を眺めた流護は、そこで見知った人物を発見する。
「どうした」
「いや……寒い中でもしっかりやってんな、と思ってさ」
遥か眼下の芝生を規則正しいフォームで走っていく、運動着のエドヴィンの姿があった。
「ふむ。頑張っとるようじゃの」
同じく窓から下を眺めたダイゴスが頷く。
エドヴィンは寒空の下、黙々と走り込みを続けていた。
これは、昨日今日の話ではない。
流護が黒牢石製のダンベルを作れば、足しげく借りにやってきて。皆が浮かれた気分になっていたディアレー降誕祭の翌朝も、当たり前のようにランニングをこなしていた。およそ半年以上、しっかりと自分なりの訓練を続けている。
「……こんなこと言うのもあれだけどさ」
ぽつりと。罪を告白するみたいに、流護は申し訳なさそうな口ぶりで呟く。
「エドヴィン、俺がこの世界に来てからずっとああやって鍛錬続けてるんだよな。正直なこと言うと……続かないと思ってた。エドヴィンって、もっと半端なヤツかと思ってたんだ」
意を決したようにそう独白すれば、
「ワシもじゃ」
にべもなく親友のダイゴスまでもが言ってのけた。
「ちょ、ええ? 身も蓋もねぇなダイゴス先生……」
「事実じゃ。妙な柵も不自由もない家庭に生まれ育ち、学院に入れるだけの才覚も最初から持っておった。苦労のくの字も知らぬ、世間知らずの小僧じゃ」
「い、いや言い過ぎじゃね?」
しかし一理あるのだ。
ベルグレッテやクレアリアは厳格な騎士の家に生まれ、幼少の頃からロイヤルガードとなるために日々研鑽している。ダイゴスは暗殺者の一族として、過酷な業を背負っている。ミアは貧しい農家に生まれるも実の父親に売られ、家族と暮らせなくなってしまった。レノーレはよく分からないが、少なくとも今は病気の母を抱えながらも、国境を跨いでこの遠方の学院へと通っている。
エドヴィンは王都生まれの王都育ち。家庭に問題はないと聞く。気ままに学院生活を謳歌し、受けたくない講義はすっぽかし、休みになれば王都やディアレーの街を遊び歩く。それが悪いというのではない。不良っぽくはあるが、彼はごく一般的な平民の生徒なのだ。
「馴れ初めからしてそうなんじゃ。あ奴は、いきなりワシに決闘を仕掛けてきおった。上を知らぬ……身の程知らずゆえの所業よ」
「はは、俺の時とあんま変わんねーな……」
「じゃが」
巨漢の笑みが深くなる。
「おかげで、ワシの交友関係は広がった。奴が声を掛けて来なんだら、ワシの今の学院生活はなかったじゃろう。そして」
遥か眼下の親友を細い眼で見つめながら、ダイゴスは確証を持った口調で言い連ねる。
「半端者と思われたあ奴の中で一つだけ、決して曲がることのない……確かなものがあった」
それは? と言葉には出さず、流護は巨漢の目を見ることで問う。何となく察せられる、その答えを。
「――強さへの憧れ。渇望、と言ってもいいやもしれんの」
「……だな」
少年は強く同意した。
ディアレー降誕祭の翌朝、まだ薄暗い庭で洗濯に励みながら交わした、彼との会話を思い起こす。
『エドヴィンは……何で強くなりたいんだ?』
そう問いかけた流護に対し、
『ただ、強くなりてぇ。それだけじゃダメか?』
実に簡潔な、『らしい』答えだった。
そんな思いの下、黙々とああして自分なりの訓練を続けている。
「ああして励むのは結構じゃが……どうじゃ、アリウミ。お主から見て」
「え?」
「エドヴィンは、お主のようになれると思うか」
ダイゴス自身、分かっている。答えを分かっていながら、問いかけている。
「いや……肉体的な意味で、ってんなら……そりゃ無理だと思う」
ロック博士風に表現するならば、流護とエドヴィンでは『別の生物』なのだ。骨格や筋肉のつき方からして違う。エドヴィンがいくら鍛えたところで、流護のような筋力や身体能力は手に入らない。流護が決して神詠術を扱えないように。
「でももちろん、格闘術をきっちり訓練すれば……多少使えるようにはなるだろうけど。ただ……」
現実問題として、それらを披露する場面がない。
詠術士の戦闘とは、原則として術の撃ち合いに終始する。近接戦闘の割合も少なくはないが、それもまた神詠術の加護があって初めて成立するものだ。ベルグレッテやダイゴスのように属性の武器を作り出したり、ディノのように異常な領域の身体強化で補ったり。あのドゥエンですら、截拳道に似た体捌きを見せてはいたが、それは飽くまで雷術を敵に叩き込むための手段だ。
エンロカクのような例外も存在したとはいえ、エドヴィンにそういった特異性はない。
そもそも、流護のように完全な無術や素手で闘う意味も必要もないのだ。彼ら詠術士という存在は。
地球の人類が道具を作り、鈍器や刀剣などの武器を経て、やがて火器やミサイルなどの近代兵器を所持するに至ったように。
グリムクロウズの人々は、神詠術を携える戦法に行き着いた。
この世界において無手の武『のみ』の修練に励むことなど、ナンセンスとすらいえる。
「それを抜きとしても、エドヴィンは決して弱くはないがの。模擬戦における成績も優れとる。じゃが……」
言い淀んだダイゴスの思いは明白。
エドヴィンは強い。
学生の範疇としては。ケンカレベルの話でなら。そういった但し書きがつくことが前提。
「だからこその『憧れ』、やもしれんな」
遥か下方、校庭の隅で拳を繰り出すエドヴィン。そんな親友の姿を見守るダイゴスの瞳は優しい。
「憧れ、か」
術に頼らず、ガイセリウスや流護のようになりたいという思い。純粋すぎるまでの、強さへの憧憬。
切っ掛けなんて、きっとそれで充分。……けれど。
「うーん」
自分なりの鍛練に励むエドヴィンを見下ろしながら、流護は眉を八の字に寄せる。
「どうした」
「いやさ。エドヴィン、頑張ってるのはいいんだけど……何か、あんまり楽しそうじゃねえな、って思って」
真剣な表情で黙々と訓練に打ち込む『狂犬』。ミアを始めとした女子たちに「講義もそれぐらい真面目に受ければいいのに」と呆れられるほど、そこには甘えや妥協がない。
しかし同時に、余裕やゆとりもない。
これは、流護としても少し前から感じていたことだった。
例えば、ディアレー降誕祭の翌朝。
皆が祭りの余韻に浸る中、エドヴィンは早朝から黙々と走り込んでいた。それはいい。その後、ベルグレッテやミアもやってきてしばらく四人で会話に興じたが、彼は素っ気ない素振りを見せ、早々に退散してしまっている。どこか切羽詰まっているような、余裕のなさを感じた。
もちろん、そういったストイックさは重要だ。が、常にそう気を張っていたのでは息切れを起こしてしまうものだ。
「……」
というよりエドヴィン自身、きっと気付いている。
鍛錬を続けても、流護のようになれないことなど。だから楽しくなさそうに、急かされるように打ち込んでいる。その事実から目を背けるように。ある種矛盾したその行動を続けている。
「なんつーかさ、やっぱ……こういうのも、楽しくなきゃ続かない部分があると思うんだよ」
でなければ流護自身、子供の頃から十年も空手を続けていない。
そんな格闘少年の言に、王宮抱えの暗殺者は頷く。
「ふむ、一理あるか。確かに童子の頃は、一つ一つ新たな技を習得していくことそのものが楽しくあった。また、そうした成長を大老や兄者に褒めてもらうのが嬉しくての」
「あー、そうそう、そうなんだよ。分かる分かる」
そう。父や師匠に褒められることが嬉しかったものだ。それらは、間違いなく大きなモチベーションへと繋がった。
一方、流護の影響で鍛練を始めたとされるエドヴィンだが、その内容は完全な我流。成長を喜んでくれる師もいない。彼にとっての流護やダイゴスは、いつか倒すべき目標。「頑張ってるな」「強くなったな」などと上から言葉をかけても、あの『狂犬』が喜ぶはずもない。
鉄の精神で黙々と、ひたすらに研鑽を続けていくことは容易ではない。
(あいつみたいな……桐畑みたいな、根本から違うバケモンでもねぇ限りは。少なくとも、俺には無理だった……)
現代日本の武人、桐畑良三。生まれる時代を間違えたのではないかと思うほどの、強さを求める強靭な精神。そんな男に敗れ、自暴自棄になりかけていた過去の自分を思い返す。
それでも――流護は今もこうして、拳を振るい続けている。闘い続けられる理由があるからだ。
最初は、彩花を守るため。そして今は、彼女を含めた周りの皆を――今の生活を守るため。
流護の護の字に表れるように、今は『護る』ことが有海流護の強さへと繋がっている。
(エドヴィンも、多分……)
彼もまた、特別な存在などではない。流護としては、精神的な面で自分と同類だと考えている。考え方や在りようは、この世界の誰よりも似通っているかもしれない。
『狂犬』と渾名される彼に、強さを研鑽するための後押しとなる要素が見つかれば。
(俺みたいに、素手だけでやっていくってのは無理だ。でも……詠術士としては、化けるかもしれないな)
過去の自分を俯瞰するように、流護は眼下の青年を眺め続けていた。……ちょっと上から目線かな、などと思いながら。
 




