354. 氷雨の心
今にも雪が降りそうなほど、すっかり冷え込みを増した今日この頃。
満を持して投入したる、ジェイロム商会最新型の温術器。その性能は、高い前評判に違わぬものだった。学生棟の狭い個室程度であれば、あっという間に暖かな空間へと早変わりする。火と風の神詠術の極致、と表現してはいささか大げさか。ともあれ温風の出力やらよく分からない何やらが、従来品とは桁違いに優れているのだ。
そんなこんなでとても快適な自室にて、ミアはテーブルに顎を載せて満足げにふんふんと鼻を鳴らしていた。そのだらけっぷりは、潰れたマシュマロのようだと流護に評されている。
「レノーレも買ったらいいのに~」
喋るマシュマロは向かい側の席、一緒に課題に取り組んでいるメガネの少女へと侵食を試みる。
別にジェイロム商会の回し者でも何でもないが、この性能はつい皆に勧めたくなってしまうほどだった。
のだが、
「……私、寒いのはあまり気にならない」
いつも通りの無表情、無感情な声。物静かな親友は眠たげな瞳でそう答えるに留まる。
「うーん、そっかー」
確かに北方の雪国出身である彼女は、そもそも寒そうにしているのを見たことがない。全く顔に出ない性格もあって。
一方で寒がりなベルグレッテにもお勧めしたものの、「今使ってるのが壊れたら考えるわね……(何枚も重ね着をしながら)」とのことだった。レインディールでも有数の富豪、その令嬢である彼女だが、並の庶民よりしっかりした倹約家でもある。
結局ミアが勧誘した中で購入したのは、そもそも最初から温術器を持っていない流護だけだった。
「……あまり暖かくしすぎると、勉強の集中力も失われる」
そう言われ、少しだけ休憩するつもりで長いことのびのびしていたミアはハッと上体を起こす。
「あ、明日までだもんね。しっかりやらなきゃ……! こ、こないだは似顔絵とか描いちゃって大変なことになっちゃったし……! うう、あたしってばすぐこうなっちゃう……!」
今回の課題もまだまだ残っている。愛しのベルグレッテも城に帰ってしまったため頼ることはできない。ちらりとレノーレのノートを見れば、ミアより随分と進んでいるようだった。
「……写す?」
と、メガネ少女が小首を傾げながら尋ねてくる。
ベルグレッテなら決して言ってくれない、何とも甘い誘惑。受け入れれば楽なのはもちろん、優秀なレノーレの答えを丸写しするのだから正当率も自分でやるより断然高い。
少し前なら迷わず好意に甘えていただろう、とミアは思う。
しかし。
「ううん、自分でやる……!」
意気込んで、少女は手にした硬筆を握りしめた。
春になれば三年生だ。学院生活も後半に突入し、卒業後の進路も真剣に考えねばならない時期となってくる。
入学当初のミアは、ただ漠然と「貧乏な家を何とかしたい」と考えていた。しかしこの夏、事情が大きく変わった。帰る家や苗字は失われ、身分としては流護の所有する奴隷となった。
今は、大枚をはたいて自分を救ってくれた流護とベルグレッテに恩返しがしたい、という目標がある。
並ならぬ活躍から今や生きた伝説となりつつある流護と、王女に侍るロイヤルガードを目指すベルグレッテ。この二人に報いるとなると、生半可なことでは達せられない。
二人とも、その気持ちだけで充分だと言ってくれる。
だが、その言葉に甘えてしまう訳にはいかないとミアは考えている。
とても強くて、充分な地位や財産も持っている、大好きな二人。
そんな彼らに並び、何らかの形で手助けがしたい。
となると目指すは、
「やっぱり大変だよね、あたしなんかが宮廷詠術士になるのって……」
ぽつりとそんな思いが零れる。
最近になって抱き始めた、将来の夢。
「……宮廷詠術士にも色々あるから、一概には言えない。……でもミアなら、きっと大丈夫」
「うう、そう言ってくれるのは嬉しいけど……あんまり甘やかしちゃだめだよう」
「……これから死ぬ気で勉強して、血反吐を吐く想いで修業して、気が触れる寸前ぐらいまで頑張ればきっとなれる……かも」
「ウワー、ちっとも甘やかしちゃいなかったァ~ッ」
けれどレノーレの言う通り、間違いなく大変な道のりだ。
一口に宮廷詠術士と呼んでも、その役割は様々。前線に出て怨魔や賊の討伐を受け持つ実戦派もいれば、一日を机上での資料作成に費やす識者もいる。
ただ共通するのは、才気溢れる選り抜きの術者でなければ務まらない、国家中枢の精鋭集団であるということ。ミディール学院を出たからといって、簡単になれるようなものではない。
が、目標はすでに定まっていた。運動や体力面でからっきしなミアは、研究や補佐の分野へ進もうと考えている。戦場に立つことが多い流護たちを、少しでも後ろから支えられるように。
茨の道であることは確実だ。今のミアは平民ですらない、流護所有の奴隷。正式な手続きを踏んで『成人』となったとしても、その過去はついて回る。必要なのだ。有無を言わせない実力というものが。
「ぜったいになってやるんだから……!」
熱意を硬筆に乗せて、問題を解いていく。
忙しなく手と頭を働かせ始めたミアに反し、今度はレノーレが動きを止めていた。メガネ越しに、じっとミアの瞳を見つめている。
「ん? どったの、レノーレさんや」
「……ミア、変わったなって」
「え? そ、そう?」
少し考え込むような仕草を見せた後、
「……ううん、ミアだけじゃない。この春から今までの間に、みんなすごく変わった。ベルはあらゆる面で強くなったし、クレアもトゲが取れて大らかなった。ダイゴスも近寄りがたさが消えたし、エドヴィンもずっと強くなるために特訓をしてる」
この物静かな少女にしては、珍しいほどの熱っぽさで。
「レノーレ……?」
「……おっと、柄にもなく語ってしまいもうした。……今は、こやつらを片付けてしまいましょう」
「う、うん」
不意に見せてしまった弱みを、慌てて取り繕うような。
「ねえ、レノーレ」
「……ん」
だから。彼女の一番の親友を自認するミアは、迷うことなく言ってのけるのだ。
「なにか困ってることとかあったら、なんでも言ってね。あたしじゃ頼りないかもしれないけど、少しでも力になるから!」
勢い込んで硬筆を握り締めると、レノーレはふっと観念したように表情を緩めて。
「……ではまず、貸しっぱなしになってる属性管理のノートを返していただくところから」
「ウワー! ごめん忘れてた! ど、どこにしまったっけ……」
そんなこんなで、二人の夜は更けていくのであった。
レノーレがミアの部屋を出る頃、すでに日付は翌日へと変わっていた。
目をしょぼしょぼさせている部屋主に一緒に寝るかどうか尋ねたが、一人で大丈夫とのこと。
レドラックファミリーとの一件で心に傷を負い、一人で夜眠ることができなくなっていた彼女だったが、最近は徐々に克服しつつある。あの忌まわしい記憶を乗り越え、強くなろうと努力している。
そんな成長を頼もしく感じる同時、少し寂しくも思うレノーレだった。
(ふふっ、変なの。ミアのお母さんか、私は)
くすりと口の端が綻ぶ。
本当に、ミアや仲間たちは変わった。
「……」
変わっていないのは、自分だけ。過去の亡霊に、いつまでも足首を掴まれているかのように。
あと二年。見違えるように成長した皆は、それぞれ得たものを胸に、各々の道へと進んでいくのだろう。
それに引き換え――
(私は……来ただけ。一時的に、逃げてきただけ)
暗い廊下と冷え込んだ夜気が、己の未来を暗示しているようだった。
ミディール学院は校舎三階、書庫。
図書室と違い、古くなった本や使われなくなった教材、生徒向けでない重厚な文献などが保管される部屋である。
軋む引き戸をガラガラと開け放てば、所狭しと屹立する本棚たちが有海流護を迎えた。
基本的に、人がいるような場所ではない。ここに存在するのは、幾千にも及ぶ物言わぬ書物のみ――
「……あっ」
のはずだったが、珍しく先客がいた。
棚の群れに囲まれる形で配置された、木製の長机と六つの椅子。そのうちの一つに座って、当たり前のように本を広げているメガネの女子生徒が一人。
肩まで伸ばしたさらさらの金髪と、白雪のような肌。その対比は息を飲んでしまうほど繊細で美しく、神秘的にすら感じられる。冬の精霊とでもいわれたなら、素直に納得してしまいそうな侵しがたい雰囲気があった。
やかましい引き戸の悲鳴で、来訪者には気付いていたのだろう。紙面に落とされていた彼女の瞳が、すっと上向いて流護へ向けられる。
「お、おう、レノーレさんか。本読んでたのか」
見れば分かることを口走る流護に対し、
「……そう。……こんにちは」
少女の反応は淡白というかマイペースというか、相変わらずだった。
レノーレ・シュネ・グロースヴィッツ。
物静かで本が好き。ベルグレッテやミアの級友にして親友。
今秋、ディアレー降誕祭の少し前あたりから、故郷の国に帰っていた。その後しばらく向こうに滞在し、流護やベルグレッテが遠征に出ていた間――現代日本に迷い込んでいた間――に戻ってきたらしい。
秋のある安息日の朝、偶然彼女と顔を合わせることになった流護は、レノーレの帰国の理由を「母が急病にかかったから」と聞いている。
詳しい話は知らないし、彼女自身が非常に寡黙なこともあって尋ねづらい。
流護にとっては、未だ謎の多い少女といえた。
(……うーむ)
……ついでにいえば、少し接しづらい。その理由は――
「えーと……なんかロック博士に、取ってきてほしい本があるとか言われてさ……」
「……そう」
「……」
「……」
舞い降りる沈黙、訪れる静寂。
「…………」
「…………」
そして謎の見つめ合い。
(き、きびしい)
これなのだ。
口下手で気のきいたことも言えない流護としては、相手が乗ってくれないと会話が続かない。他力本願気味ではあるが、これは性格なのでなかなか難しい。特に、相手が女子の場合は。
(そ、そういや、会ったばっかの頃のダイゴスともこんな感じだったっけか……)
もっとも今は、あの巨漢とも随分気兼ねない間柄になっているのだが。
ともあれ、何とも居心地のよろしくない無言の間が続く。
(う、うーん)
例えばこれで、レノーレが何事もなかったかのように読書を再開してくれればそれはそれでいいのだが、彼女はじっと見つめてくる。道端で遭遇したネコみたいに。となれば流護も何か喋らなければいけない気がしてしまって、どうにか話題を捻り出す。
「えーと……何でここで本読んでんだ? 本だったら、図書室にも山ほどあるんだし……」
「……気分転換」
「あ、そうなのか……」
「……そう」
「……」
「……」
「うーんと、寒くないか? 温術器とかもないし、この部屋……」
こうして喋るだけで、言葉と一緒に白い息がこんもりと溢れるほどには冷え込んでいる。
「……別に、気にならない」
「そいやレノーレって、氷属性だよな。その影響で、寒さにも強かったりとかするのか?」
「……それは関係ない。……ただ私自身、雪国で生まれ育ったから、寒さに慣れてるのは確かだと思う」
「へえ、雪国かー。レノーレの出身て確か、えーと……うん、バダルノイス神帝国だったよな……!」
いい感じで会話のキャッチボールになってきたぞ、と口下手な少年は意気込んだ。
「明後日から『白兎の静寂』になるし、また夏の時みたいにレノーレも地元に帰るんだよな? そいやさ、バダルノイスってどんなとこなんだ?」
学院はそろそろ、流護の知識でいうところの『冬休み』に入る。ここから話を広げていけばどうにかなりそうだ。そんな確信を得たつもりの流護だったが、
「……別に。……話すようなことは何もない」
(あれー!?)
レノーレの声音は明らかに低くなっていた。
馴れ馴れしすぎた? 地雷踏んだ?
寒々とした中でも嫌な汗が吹き出しそうになる流護に対し、
「……雪以外、何もない」
自身こそ白雪のような少女は、ただ静かに言い添えた。
「そ、そうか」
「……そう」
(ううむ……)
故郷の話をしたくないのか。それとも言葉通り、雪以外に何もなく喋るようなことがないのか。
(分からんわ。降参っす……)
『拳撃』と呼ばれようが天轟闘宴で優勝しようが、中身は十六歳になったばかりの元・男子高校生。女子との接し方については、未だお察しのままである。
「じゃ、じゃあ俺、本探すから……」
彼女は無言でコクリと頷き、机上の本に視線を戻した。
気持ちを切り替えて、目的の本を探していく流護だったが――
(げ……もしかしてここの本、並び順適当なのか……?)
『レインディール建国記』、『ウルバッハ・ヴィーテ病の起源』、『ピアガの生態』、『二面世界』、『幻の黒水晶』……図書室と違い、置かれている本の表題や著者名が明らかにバラバラだった。
(……こん中から目的の本探すとかキッツイぞ、これ)
自分で探してくれ岩波輝、と言いに戻りたい衝動に駆られてくる。
(向こう側も見てみるか……)
溜息をつきながら回れ右した流護は、
「ぅどわあっ!?」
すぐ目と鼻の先。間近でこちらを見つめながら直立不動で佇んでいるレノーレに驚いて、それはもう盛大にのけ反った。
「あぁん! び、びびったあぁ! いつの間に、つか何で真後ろでぼっ立ちしてんの!? 何、どしたんすかレノーレさん……!」
「……意外と怖がり?」
「ん、んなことないっすよ」
封じられた書庫に住まう亡霊か何かかと思った。
そんな心の声を抑えながら、必死で取り繕う。
「……何の本を探してるの」
「え、お? ああ、えーと、三冊あるんだけど――」
博士から預かってきたメモを見せると、メガネの少女は「……それならこっち」と迷いなく歩き出した。
「え、まじで分かんの?」
戸惑いながらも後をついていけば、
「……ここ」
「おー」
まず一冊。
「……ここ」
「おおっ」
次の一冊。
「……これでおしまい」
「エ、エクセレント……」
そして最後の一冊。あっという間に目的の本が全て集まった。
「すっげえ、助かったよレノーレ……! ありがとな!」
「……どういたしまして」
本の精霊か何かに導かれた気分である。
「……」
「……」
そして訪れる沈黙。
本棚に挟まれた通路のど真ん中で、見つめ合うこと数秒ほど。
「……あなたは、記憶が戻ったと聞いた」
呟くように小さく。しかしはっきりとした口調で、レノーレがそう切り出した。
「え?」
「……あなたは記憶を失っていたけど、最近になって取り戻したと聞いた」
聞こえなかったと思ったか、意図が伝わらなかったと思ったか。言い回しこそ若干異なるものの、内容としては変わらないセリフを口にする。
「えーと……まあ、そう……かな」
一方の流護は、頬を掻きながら曖昧に返した。
何しろ嘘である。その問いに迷いなく頷けるほど、少年の神経は図太くなかった。レノーレからそんな質問をされるとは思わず、少し動揺したのもあるのだが。
「……何が切っ掛けで記憶を取り戻したの?」
「え、いや……自分でもよく分からんけど、いつの間にかっつーか……」
「記憶が戻る前後で、心身に何か変化はあった?」
「ん? え、いや……」
「記憶を失う前と後、両方のことを覚えてるの?」
「いや、ちょ」
「記憶がなかった期間はどのくらい? お医者様には診てもらった?」
信じられない饒舌さ。今まで見たこともない、矢継ぎ早の勢いだった。レノーレってこんな風に喋れたのか、と思うほど。いつも通りの無表情ではあるのだが、どこか必死に感情を押し殺しているようにも見える。
「ちょ、まあ、なんか知らんけど落ち着いてくれってほら……!」
ずいずいと詰め寄ってくるレノーレを慌てて押し止めると、
「……、ごめんなさい」
わずかにハッとした彼女は、うつむきがちに一歩後ろへ下がった。
「いや、その……むしろ、謝るのはこっちの方っつーか……」
「……?」
思わず口走れば、メガネの少女はかすかに首を傾げる。
レノーレという少女について、流護はほとんど何も知らない。
物静かな読書家で。『凍雪嵐』という二つ名を授かった詠術士で。ベルグレッテやミアの親友で。たまに突飛なことをやらかすシュールさを持ち合わせていたりして。
そして、今も自分が欺き続けている大勢の中の一人である、ということぐらいしか。
「いや、俺……実はさ――」
自然と、流護の口が動く。
「俺……記憶喪失なんかじゃ、ないんだ」
嘘による罪悪感。たった今しがたの、彼女の剣幕が気にかかったから。
理由を探せば、他にもあったのかもしれない。
ともあれ、見えない何かに誘われるみたいに、流護は本当のことを独白していた。そうせずにはいられなかった。
「……? ……どういうこと」
当然の疑問を抱くレノーレに対し、説明する。
ベルグレッテ、ミア、クレアリア、ダイゴス、ミョール、そしてアルディア王。
彼らにそうしてきたように、有海流護という人間が抱えている特殊な事情について語っていく。
自分は、地球と呼ばれる別世界から迷い込む形でやってきたこと。その世界には、魂心力や神詠術が存在していないこと。
そして今現在は研究棟で眠っている蓮城彩花も、自分と同じ場所からやってきたこと。
このグリムクロウズに住まう人々からすれば、荒唐無稽にすら思えるだろう与太話。
それでも最近は『ニホン』の国名がおおっぴらとなったことにより、以前ほど突飛な話ではなくなったはずだ。
「……つまりあなたは、教義や価値観がまるで異なる遠い国からやってきた、と」
「そうそう、簡単に言うとそういうことなんだよ……!」
グリムクロウズ風に的を射た表現に、流護は何度も頷く。
しばし考え込むような間を置いて、レノーレがぽつりと問う。
「……つまりあなたは、記憶に異常はなかった、と」
「ああ……!」
少年は晴れやかな気分で肯定する。
これまでもそうだった。苦肉の策で自分から始めたこととはいえ、やはり偽り続けていることには引け目を感じる。こうして明らかにできるなら、それに越したことはない。
しかしようやく、レノーレにも話すことができた。これで今後、ダイゴスと同じように距離が縮まるかも――と思う流護だったが。
それは、自分本位な甘い考えだったのかもしれない。
「っ!?」
そこで初めて、流護は気付いた。
メガネの奥に秘められた、レノーレの瞳が。氷というその属性を体現するかのごとく、冷ややかな光を放っていることに。
「……そう。……記憶を失ってなんて、いなかったのね」
どこか。口調や声音すら変わった、失望したような一言。
まるで敵を見つめるような、冷たい眼差し――。
「え、いや……」
流護は、咄嗟に二の句を継ぐことができなかった。
が、瞬間的に理解した。
人を偽り続けて。いざ真相を告白して。やっと言えたと安堵して。
そんなものは、自分の事情でしかない。相手のことを何も考えていない。ベルグレッテたちみたいに、皆が皆、快く理解を示してくれるとは限らない。
嘘をつかれていたと――騙されていたと知って、怒りが込み上げてくる者だっているかもしれない。むしろ、それが当然なほどではないだろうか――?
「わ、悪い。えっと、悪気はなくて……その……」
しどろもどろになりながら視線を落とす。言い訳らしい言い訳も思いつかないまま顔を上向けると、
「……っ!?」
レノーレは、普段と変わらない無表情に戻っていた。先の冷たさは勘違いだったのかと思うほどの、いつも通り。険などどこにもない、どこかぽけーっとした、少し眠たげな、大人しげな顔。
「……ちょっと言ってみただけ。……気にしないで」
しゅた、と右手を掲げながらそんなことを言ってくる。口調も、普段と全く同じ。
「えー……と、怒って……ないんすか?」
「……怒ってない。……私が怒るようなことじゃない」
「ほんとに?」
「……ほんとに」
「マジで?」
「……マジで。……まじで?」
おうむ返ししながら不思議そうに小首を傾げる様子からも、怒の感情は微塵ほども感じられない。
「……あなたは普段からどこか異質な感じがしてたけど、むしろ納得がいった」
「そ、そう……ですか」
「……そうです」
それこそ嘘や偽りはなさそうだった。やらかしてしまったかと不安だった少年は、ようやく心から安堵の溜息をつく。
「……こっちこそ驚かしてごめんなさい。……では、私は部屋に戻るので」
レノーレは会話を終わらせ、くるりと流護に背を向けた。
「あっ、あのさ!」
「……?」
流護が呼びかければ、レノーレは首だけをかすかに振り向かせる。肩まで伸びた金色の髪が、さらりときめ細かに揺れた。
それはともかく。
(つか、何やってんだ、俺……?)
なぜ引き止めるような声を出したのか、流護も自分でよく分からなかった。
ただ。何か、喪失感。手のひらから大切なものが零れ落ちようとしているような、奇妙な感覚に襲われて。
「えっと……明後日から休みだよな。明日、学院が終わったら実家に帰る感じか?」
「……そのつもり」
「そっか。えーと……そういやさ、母ちゃんの具合はどうだ?」
一瞬。
部屋が凍りついたような錯覚に、とらわれた。
「……っ!?」
流護は思わずキョロキョロと周囲を見渡す。隙間風でも入り込んできたのか。そんな、身を芯から震わせる寒気。
「……問題ない」
その声にハッとするように、眼前のレノーレへと視線を戻す。
「……母様なら、何も問題はない」
「そ、そうか。それならよかった」
『母様』って呼んでるのか。やっぱどこかのお嬢様だったりすんのかな、なんてことを考える。
「……では、また翌年。……あなたに、氷神キュアレネーの加護があらんことを」
「お、ああ。じゃあな」
しずしずと去っていくその背中を、流護はただ見送った。
他に言っておくことはなかったかな、と妙な焦燥感に駆られながら。
何か、取り返しのつかないことを仕出かしてしまったような気持ちにとらわれながら。




