353. 悪徳者たち・後編
吐いた息が白く立ち上る。
寒空の下、街の巡回を終えた法の守護者たる男は、気だるげに歩いて兵舎へと向かっていた。
雑にばらけた髪、丸まった背中。細い面立ちの顔からは、およそやる気というものが感じられない。両手は下衣の衣嚢に突っ込まれており、黒銀の鎧を着ていなければ騎士とは分からないだろう。
そんな無気力な男と評される『銀黎部隊』のダーミー・チャーゾールベルトは、
「…………」
現れた男女に行く手を遮られる形で、足を止めた。
「ごきげんよう、ダーミーさん」
「ぐわっははは! 相変わらずやる気のなさそうな男だのう!」
対照的な二人だった。
一人は、茶色いローブのフードを目深に被った女。顔の大半が覆い隠されており、口元しか露わになっていない。いかにも詠術士然とした装い。
そしてもう一人は、外套を羽織った冒険者風の大男。たてがみに似た灰色の髪と、額から鼻っ柱、頬にかけて走る一本の長い傷跡が目立つ。交差させる形で二本の長剣を背負う、見るからに豪快そうな荒くれ。二足歩行を会得した猛獣みたいな男だった。
ともに、ダーミーの知る顔である。
「……お話があります」
ぽつりと言った女が顎をしゃくり、脇の路地を示す。二人に続き、ダーミーもその狭く暗い隙間へ入った。
人目のない暗黒の小道で、女が被っていたフードを背中側へと押しのける。
深緑の髪を結い上げた、生真面目そうな若い女。見るからに冗談の通じなそうな堅物。黒縁メガネの奥から覗く鋭い目元が、キッとダーミーを睨みつけている。
「…………どうしたんです、リンドアーネ書記官。珍しく直接おいでになったと思ったら、そんな怖い顔をして」
女詠術士――オルケスターの一員であるリンドアーネが、つかつかとダーミーの鼻先まで歩み寄った。
「この秋の話ですが。定期連絡にて、私がお話ししたこと……覚えていますか?」
「……話? 何でしたかねぇ~」
ダーミーは目を合わせない。
ぎり、と歯を食いしばる音が響く。
「あなたが情報を秘匿することで、オルケスターに被害が及んだ場合……責任を取って頂く、という話です」
「ああ……そんな話もしましたっけね」
「原初の溟渤への遠征を黙っていたことは、まあいいでしょう。ですが……その任務にあなたも同行していたと聞いたときは、さすがに耳を疑いました。さらにあなたは妨害するでもなく、当たり前のように騎士として働いていたそうですね。結果、アルディアは目的を達成してしまった」
「私も……やるものでしょう? 無事、原初の溟渤を生き延びましたよ~。詠術士として箔がつきました。嬉しいですねぇ」
ローブから伸びた腕が、ダーミーの胸ぐらを掴み上げる。
路地に低く木霊するのは、呪うような女の声。
「――あなた。私を、馬鹿にしているのですか?」
「おーっと……怖いですね~~」
襟を握られたダーミーに、焦りの色はない。むしろ食ってかかるリンドアーネのほうが、分かりやすく表情を歪めていた。
「説明の必要がない、とは言わせません……! なぜ、この一連の件を黙秘していたのか。話して頂きます。それも拒否するようでしたら――」
「……そのためのヴァルツマンさん、ですか」
ダーミーは胸元を掴まれたまま、成り行きを見守っているたてがみの大男にチラリと視線を投げる。
「ぐわっははは! 貴様のことだ、何か考えがあるんだろう。常人には理解できぬ、と但し書きが付くがな。釈明の一つもしてやれい、このままだとリンドアーネも胃を悪くするぞい」
豪胆なヴァルツマンに促され、ダーミーは溜息ついでに喋り出す。女の細腕に掴まれたままの襟元を気にも留めず。
「…………ヴァルツマンさん、随分とご機嫌ですよねぇ。何かいいことでもありましたか?」
「ぬ? そりゃあ、クィンドールがアルディアと戦う方針を本格的に定めたからな。あの破天荒な王とやり合えるのだ。武人の端くれとして、心躍らんはずがない」
「……貴方がそんな様子ということは……殲滅部隊の面々がどうであるか……などは、考えるまでもないのでしょうね~~」
その言葉と同時、ダーミーの胸元が緩む。力を失ったように、リンドアーネの手が離されていた。
「あなた、まさか……」
眩暈を起こしたみたいに、よろめきながら後退する。そんな彼女の背を、ヴァルツマンが大きな手で「おっと」と支えた。そして、その彼がニタリと笑みながら頷く。
「成程な。そういう腹積もりか」
「最初から、それが目的で……? オルケスターとアルディア王を、戦わせるつもりで……!」
一方のリンドアーネは、かすかに唇を震わせていた。
特殊な優位性をもって、大陸の闇社会の頂点に君臨しているオルケスター。
今回、アルディア王が魂心力の結晶――組織内で魂心力琥珀と呼ばれているその存在に気付き、これを利用することで、同じ技術水準に立とうとしている。
これを放置すれば、オルケスターは飲み込まれる。金が得られなくなる。資金に窮すれば、組織の――クィンドールの目的達成が遠のく。
そんな事態を防ぐためには、戦わなければならない。
そんな状況を、故意に引き起こしたと。
「あ……、あなた! あなたはッ! ダーミー・チャーゾールベルト――ッ!」
身構えた彼女の周囲に、荒ぶる風が渦巻く。
「待てい」
有無を言わさず詠唱を始めたリンドアーネを、ヴァルツマンが羽交い絞めにする形で抑えつけた。
「離して! 離しなさい、ヴァルツマン! やはりこの『蝙蝠』を、野放しにするべきではなかった……ッ!」
「少し頭を冷やせい、リンドアーネ。俺でも気付いたぞ。才女のお主ならば容易に分かるはずだ。……遅かれ早かれ、アルディアとの戦いは避けられなかった。そうだな? ダーミーよ」
「……そんなところ……ですねぇ」
「どういう、意味ですか……!」
抑えつけられたままもがく彼女に、ダーミーはやはりいつもと変わらない口調で説明する。
「……無理、なんですよ。アルディアという男が結晶の存在に気付いた時点で、オルケスターは戦わなければならなくなりました……。そう遠くない未来に、です。リンドアーネさん……貴女は、私が報告の義務を怠ったと仰いますが……では、仮に私がきちんと原初の溟渤の件について説明していたなら、どうしましたか?」
「知れたことを! 当然、阻止させたに決まっているでしょう!」
「どうやって?」
「刺客を送り込むか……もちろん、あなたにも任務に同行するふりをして妨害工作――」
そこで、ハッとしたようにリンドアーネが言葉を切る。
「お気付きになりましたか? そう……無理、なんです。手遅れなんですよ、最初から」
原初の溟渤への進行――奥地にある魂心力の結晶の回収は、アルディア王の悲願。この計画には、惜しみない労力が注ぎ込まれていた。
例えばこれに妨害を仕掛け、成功したとする。
否、レインディールはオルケスターの存在を知らない。やれば、確実に成功するだろう。
だが、そうなったなら――
アルディア王は、血眼になって下手人を探す。
どれだけ巧妙に自然を装って邪魔立てをしたところで、かの王はそれが意図的なものであると見抜く。
結果、オルケスターの存在が暴かれる。いかに優れた地下組織であれ、本気となった獅子王の目を欺くことはできないだろう。そうなれば、結局は争うことになる。
「どちらにせよ戦うならば、我らの存在が知られていない現状のほうが幾分かマシ……ということになるんだろうよ。こちらの好きな時に先制できるからな」
高名な傭兵としても活動するヴァルツマンが、それらしい観点から冷静に分析する。
愕然とした表情のリンドアーネへ、ダーミーは今一度告げた。
「……アルディア王が魂心力琥珀の存在に気付いた時点で、戦いは避けられなくなっていたんです」
そして、と冬空を仰ぎながら続ける。
「アルディア王は……レインディールは強いですよ。それはもう、圧倒的に。しかし……ここで勝てないようでは、クィンドールさんの夢を叶えることなど……『皆を闇から救う』ことなど到底不可能でしょう」
寒々しい冬の風が舞う。
「……だから、といって……こんな……」
「おかしな人ですよねぇ」
ここで初めて。
ダーミーが長い痩躯を屈め、下からリンドアーネの顔を覗き込んだ。初めて両者の視線が合う。
「貴女、負けると思ってるんですか~~? オルケスターが」
「……ッ、そうは思いません! ですが、時期尚早ではと……!」
「むしろ頃合い、ですよ。いいですかぁ。オルケスターは昨今、所属する者のとても多い巨大な組織になりました。しかし人が多ければ、それだけ行動が明るみに出やすくなります。秘匿することが難しくなります。忘れましたか? ディノ・ゲイルローエンに我々の存在が知れたのは、どこぞの山奥でつまらない遊びをしていた末端がいたことが原因でしたよね~? ナインテイルにしても同様です。彼女を抑え切れず、ディノの下へ向かわせてしまっている。下手をすれば、第三者に我々の存在が知られていたかもしれない案件です」
「……!」
「陛下を舐めてはいけません~。このまま息を潜めていたところで、あの人は絶対に気付きます。『銀黎部隊』の私が言うんですから、間違いありません~~。こんな小さな件でも積み重なれば、いずれ必ず……ね。それなら……」
「奴等が我々の存在を知らんうちに、こちらから仕掛ける……となる訳だな」
ヴァルツマンの言葉を聞いて、ダーミーはいつも通りの姿勢に戻った。
「…………もう、いいですかね~~」
問うていながら返事を待たず歩き始めた男の背に、太い豪傑傭兵の声がかかる。
「ダーミーよ」
「何でしょうか」
「お主を好きになりそうだぞ。ぐわっはっはははは! 遖、実に遖よ!」
「やめてください~。そっちの趣味はないんです」
振り返らずそう返し、狭く薄暗い路地を後にする。
明るい大通りへと戻り、当初の予定通り宿舎へと向かう。
特に気にもしなかったが、リンドアーネが追いかけてくることはなかった。
(…………見られる……)
ダーミーの説明した事情に、嘘偽りはない。
しかし。
――そんなことは、どうでもよかった。
ああ、彼らを思うといつも甦る。
脳裏に、あの夏の光景が。
青々と茂った林道。入り組んだ枝葉によって構成される世界、その上で覇権を争う強者たち――――
(……見られる…………貴方たちが、争う様を……)
歯列も剥き出しに吊り上がったダーミーの口元を……歪んだ笑みを目にした者は、誰もいない。
「ぐわっははは! 機嫌が悪そうだのう、リンドアーネよ!」
「……そう言うあなたは、すこぶる上機嫌ですね」
国境沿いで馬車を待つ対照的な外見の二人の男女は、やはり対照的な声音でやり取りを交わした。
「やはり私は……納得がいきません」
目深に被ったフードの端を引っ張りながら、リンドアーネは呻くように漏らす。
「今回のレインディールの遠征で、原初の溟渤の最奥にあるものの正体が認知されました。加えて、前人未到の地に至る者が現れたという事実……これは、攻略するために必要な戦力が判明したという意味をも含んでいます。もっとも今回の溟渤は好条件が揃っており、かつ攻略のために人員を割ける国など限られてはいますが……それでも二匹目の泥鰌を狙う輩が現れてもおかしくはない状況となりました」
「だとしても、この地にレインディールと同等以上の力を持つ国など存在せんだろう。テオドシウスの故郷なぞは例外なんだろうが……ま、言うほど簡単に二匹目のドジョウは捕まらんよ」
ヴァルツマンが自らのざらついた顎を撫でながら口にするも、女は憮然と言い返す。
「不要な火種が撒かれたことは確かです。レインディールはよりにもよって、犠牲をほとんど出さずに溟渤を攻略してしまった……」
全滅やそれに準ずる被害を出して撤退が当たり前のところ、部隊の七分の一程度の死者数で済んだと聞く。
この結果を知って勘違いした輩が原初の溟渤に興味を持つだけでも、リンドアーネとしては避けたいところなのだ。
「だが、ダーミーの言にも一理ある。特に殲滅部隊の連中なぞ……いつまでも大人しくはしてられんだろうしな。……長く待てる身の上でもない」
「そうかもしれませんが、しかし……」
「案ずるな」
大男がその太い腕を組んで笑うと、背負われた双剣も同調するように揺れた。
「機は熟した。これ以上待てば腐りかねん」
ぐっと握り締めるヴァルツマンの拳に、力が篭もる。
「あの『闇』を払拭できるのは、我らしかおらんのだ。この世界に生きる皆を救おうとしとるのだぞ、ここでたかが一国なぞに後れを取りはせんわ。二匹目のドジョウなぞが現れる前に……否、レインディールが動く前に、全てが終わるわい」
「……なんと楽観的な……」
はあ、とリンドアーネは深い息を吐き出した。これだから武人、それも強者は困る。満足できる戦を求めるあまり、自ら窮地に飛び込もうとする。その危機を楽しもうとする。一緒に引きずり込まれるほうはたまったものではない。
「……ただでさえ、あの男の存在のせいで気が休まらないというのに」
「ぬう? あの男、とは?」
「……言うまでもないでしょう。キンゾル・グランシュアですよ」
「ふぅむ、あのジイさんか」
顎をさすったヴァルツマンの口元が、ニカリと豪快な喜を象る。
「俺としては、護衛の兄さんの方が気になるんだがね。相当な使い手だぞい、あれは。『しすてま』なる流派なぞ、見たことも聞いたこともない。武人の端くれとして、心踊るばかりよ」
「……ったく、いつも躍っていますね。あなたの心は」
どこから聞きつけたのか、オルケスターに接触を図ってきた謎の老人。
今は『融合』なる未知の力によって団に利を齎している彼ではあるが、正式な構成員となった訳ではない。
時折ふらりと屋敷を訪れては、クィンドールやデビアスと面会しているようだ。
直近では一昨日。
あの怪老人との会談を経た直後、団長はレインディールと争う方針を定めたと聞く。
(西の一件については私が考える必要はない。やはり現状、私が気にすべきは…………)
「……」
心配性、神経質だと言われようと、やはり無視はできない。少しでも不穏な要素があるのなら、排除するのはやはり自分の務めだ。リンドアーネ・カルフェストという女は、いつだってそうしてきた。
「……ヴァルツマン。あなたは、これから西へ向かうのでしたね」
これから行われる一件……オルケスターとしても初となる大規模な仕事に参加する予定だったはず。
「おうよ、ぼちぼちとな。……おっと、そうだ忘れとった。思い出した。書記官殿に報告しとかねばな、ダーミーのようにどやされちゃたまらん。ぐわっはははは! いや、秋にレフェの北で小遣い稼ぎをしたんだがな、そこで面白い奴に会うた」
「?」
「以前、お主が作成した天轟闘宴の出場者名簿……あれに載っとった奴よ」
「! 誰です?」
「それは会うてのお楽しみよ。はてさて、来てくれるもんかなぁ」
「……? 来てくれる……? どういうことです? 確保するなりはしなかったんですか」
「ああ、だから声は掛けておいた。興味があるなら来てくれ、とな」
「………………」
「安心せい、組織の名は出しとらん。俺がヴァルツマンだってことにも気付いてはいねぇさ。ぐわっはははははは!」
……これだから武人は。
やはり自分がしっかりしなければ。オルケスターのため……団を率いるクィンドールのために。
指示を下されずとも動くのが有能な秘書というものだ。彼の潜在的な欲求を叶えてこそ、隣に立つ資格がある。
(まずは……)
とりあえず現状、レインディールを放置することは危険極まりない。ゆえに、クィンドールもかの強国を敵と認識した。その状況に、怜悧冷徹な彼ですらも戦意を刺激されているようだが――
(幸い、レインディールの当面の目的は分かっている……)
原初の溟渤から持ち帰った結晶を用い、新たな何かを作り出す。
つまり裏を返せば、
(溟渤から持ち帰った魂心力琥珀が失われてしまえば、レインディールの計画は頓挫する……)
何も真正面からケンカを吹っかける必要などないのだ。キンゾルやダーミーはクィンドールを……ひいてはオルケスターを焚きつけたいようだが、思い通りになどさせはしない。
あの結晶は簡単に再入手できる代物ではない。そこを絶てば終わる。
(けれど、どうやってレインディールの中枢に接触すれば……?)
相手は無力な小国でもなければ、貧困に喘ぐ途上国でもない。強壮なる国は、外の助けなぞ必要としない。ましてレインディールは結束が固いことで知られる。あのダーミーとて、ようやっと根づかせることができたのだ。そしてこの計画、信用ならないあの男は使えない。
リンドアーネは表の世界ではライズマリー公国の宮廷詠術士を務めているが、レインディールとのかかわりは極めて希薄。葡萄酒の輸出をしているぐらいか。政治的に見れば、もはや接点など皆無に等しい。
(……何か、弱みがあれば)
例えば今、レインディールに何か困りごとはないか。
財政状況。政治闘争。治安維持。生活環境の問題……。オルケスターはそういった隙を突いて入り込む。
これからヴァルツマンが向かおうとしている例の国などは、もはやチーズのように穴だらけでむしろ付け入る隙だらけだった。触れれば崩せるような脆さだったが、こと相手があのレインディールとなると話はまるで変わってくる。
他に、どの国であっても慢性的に抱えていて然るべき問題といえば――
(……病、とか)
原因は何でもいい。老衰でも、病気でも、ケガでも。
一人ぐらい、何らかの事情で回復を望まれる誰かがいたりはしないか。今のレフェにおけるカイエルやドゥエンのように。
そう……例えば、『寝たきり状態の重要な人物』がいたりはしないか。
(――調べてみましょうか。仮にそういった人物がいれば、我々にはそこを突ける最適な人員が存在する……)
黒メガネの縁を押し上げ、リンドアーネはフードをより深く被る。
必ずあるはずだ。
大きい国だからこそ、単純に分母が多くそういった事情が発生する率もまた高い。
強国の綻びを探すべく、女はメガネの奥の瞳を光らせた。




