339. 幽玄の翁
夜の山間から望む街の明かりは、散りばめられて輝く無数の宝石のようでもあった。
手垢のついた月並みな表現ではあるが、当時は実際にそうとしか思えなかったのである。
間近へ寄れば建物の照明や薄汚れた街灯でしかないそれらが、遠方から眺めたならばかくも美しく感じられるものなのか、と。
不思議かつ魅力的だった。そんな感慨を思い起こす。
薄明かりが差し込む闇の中。懐かしい思い出にとらわれながら、老人は柵の向こう側に広がる絶景を見下ろしていた。
「コォ――」
息を吐く。限界まで、己の裡にある全てを吐き出していく。吐きながら、腹を膨らませていく。
ピタリと止めた後、一転して空気を吸い込む。体内に夜気を取り込み、満遍なく巡らせていく。
「ふ~……やっぱり、山ん中だと空気が旨いの~」
夜景を肴に新鮮な空気を堪能した片山十河は、老体を伸ばしながら満足げに独りごちた。
踵を返し、静謐な夜の道を行く。
山中とはいえ、草木は乱れなく整えられており、一定の間隔で外灯が立てられていた。
それも当然、ここは人の分け入らぬ自然の土地ではない。深い山奥は緑の森に抱かれた旅館、その裏手にある散歩道だった。
春は桜、秋は紅葉が望める評判の観光地。今の季節は目玉となるようなものがないため、年間を通して最も客足が遠のく時期。だからこそ、静かに過ごすにはうってつけでもあった。
片山はこうして、気まぐれに遠出することがある。貼り紙を残してまで突発的に出てきたのは、これが初めてだったが。
冷えた冬の夜、辺りに木霊するのは石畳を歩む片山の草履の音のみ。
――だったのだが、やがて別の響きが交ざる。
それは、正面からやってくる人物の足音だった。
外灯の薄明かりにより浮かび上がった特徴として、まず日本人ではなかった。短い金の髪、灰色をした両の瞳。歳は二十代半ばほどか。鍛えた以上に天与のものと思われる広い肩幅、がっちりとした体格。東洋人では授かれないものを持っている。
茶色い厚手のダウンジャケット、下はジーンズ。そんな季節柄の厚着姿であってなお、下に隠された分厚い肉体が想像できた。身長は軽く百八十センチを超えていると見える。
向かいからやってきた外国人の若者は、片山の行く手を遮る形で足を止めた。その大きな体躯は、狭い山道を塞ぐ巨岩のようだった。
「こんばんは。片山十河さん、ですね」
「おっほ。いかにもそうじゃが」
「恐れ入ります。ようやくお会いできました。数日前に貴方の道場を訪問したのですが、留守だったもので」
「おおう、それは失礼したの。遠路遥々お越しいただいて。どちらの国の方かね?」
「アメリカです」
「オーウ! アイキャン……キャン……うむ。しっかし、日本語がお上手じゃね」
その容貌から語られるには不自然に感じるほど、青年の発音は流暢かつ丁寧だった。
「ありがとうございます。こう見えて、日本へやってきて長いもので。今は福岡に住んでいるんですよ。……ところで」
そんな異国の若者が言う。
「――『そちらこそ日本語がお上手ですね』――と言っては、失礼に当たるのでしょうね」
静寂が舞い降りた。
「今から――……年前の東南アジア某国。とある内戦、と言えば分かりますか」
問うていながら、片山の返答を待つでもなく続ける。
「僕の祖父は、大層な腕自慢だったそうでしてね。最終的には徴兵で辞めることになりましたが、ヘヴィ級のボクサーとしてリングに立っていた時期もありました。酒に酔うと、決まって『銃にだって勝ってやる』などと言っていたのだとか」
馬鹿みたいでしょ、と金髪の青年は歯を見せて笑う。
「けれど実際、強かった。ストリートでは無敗だったとか。腕っ節で身を立てようと真剣に考えていたみたいですが、時代が時代でしたから。今ほど多様な格闘技の舞台など、用意されてはいなかった。より強い相手、より危険な闘いの場を求めた結果……最終的に祖父が行き着いたのは、本物の戦場でした。徴兵ではあったのですが、望むところとばかりに戦地へ旅立っていったそうですよ。何と言いますか、クレイジーですよ。まともではなかったのでしょうね。家族も半ば諦めの境地でいたそうです」
その家族の一人であろう彼は、客観的に淡々と語る。
「そして実際、祖父は戦場で散ることになりました。さすがの彼であっても、やはり火器に敵うはずはなかったと。そう思われたのですが、いざ戻ってきた祖父の遺体を見て、親族は不審がったそうです」
指先で、自らの左のこめかみをトントンと叩きながら。
「左側頭骨が、極めて強い衝撃によって砕かれていたのです。銃創はただの一つもなかった。……彼は、近接戦闘で敗北したのです」
ジャケットのボタンを外し、異国の男は熱の篭もった白い息を吐く。
「戦争ですから。いかな強者であっても、あっさりと死ぬことに何の不思議もないでしょう。しかし……」
妙に気になったのだと、彼は言う。
「自分で格闘技を嗜むようになって、軍に入隊し……ある日、アーリントンにある祖父の墓を訪れた折に興味が湧き、色々と調べました。驚くほど資料が少なくて、苦労しましたがね」
祖父が実際に強者であったこと。その祖父を殺めた相手のこと。
そして行き着いたのは――
「『ファントム』。戦場を駆け巡り、そんな異名で恐れられた人物がいたのだとか」
神出鬼没。触れるだけで大の男が宙を舞う。そんな空想のような武術を操る、人が想像する『達人』のような白髪の小男。
あまりに荒唐無稽な話のため、まともに取り合う人間はいなかった。
戦場におけるストレスが見せた幻覚だの、敵が意図的に流した偽情報だの、それこそ幻影のように不確かで、真実を知る者は少なかった。
「片山さん。あなたのその髪の白色は、老いて色褪せたのではない。生まれ持ってのものだ」
ジャケットを脱ぎ捨て、張り詰めたTシャツに包まれる分厚い胸板をさらけ出しながら、青年は語り続ける。まるで、探偵が真犯人の正体を暴くかのように。
「調べ上げて知ったその者の本当の名は、聞いたこともない……何とも奇妙な響きでした。少なくとも当時は、ソゴウ・カタヤマなどという名前ではなかった。確か――、」
「お祖父さんは強かったよ」
ここで初めて、片山が割って入った。
「君のお祖父さんに使った技はね、轡發と云う。当時、これを披露した相手は一人だけだったからね、きっと間違いない」
「フフ、成程。僕にもお見せいただけるのでしょうか」
「ほほ、君次第かのう」
砂利を踏み締め、どっしりと構えた異国の戦士。
その肉体は老いた片山より遥かに厚く、身長にして三十センチ以上の開きがある。加えて年齢差はまさに孫と子。闘争など成立すべくもない。
しかし問答無用、オーソドックスのボクシングスタイルに構える若き挑戦者の立ち姿を見やり、
「ふむ。そういやぁ君は今さっき、軍に入った……とか言っとったかね?」
「貴方も同類でしょう? 少なくとも、空手家ではない」
「ほっ。さて、どうかのう」
『今は』片山十河と名乗るこの老人が、軍隊やそれに類する組織に属していたという情報はない。そもそも、本当の出自すら不明だ。『こちら側』の人間であるはずだが、最先端の近接格闘術を習得できる環境はなかったはず。
(時代背景を考えるならば、現代の軍用格闘術の基となったフェアバーン・システムに端を発す何か……それを独自に磨き上げた――と、いったところか)
無音の間は、時間にして四秒弱。
動いたのは青年。
右足による砂利の蹴り上げ。散弾じみた飛礫が飛ぶ先に、しかしすでに片山の姿はない。
地を這うような低さで側面へと回り込んでいた白い影が、片足立ちとなっていた青年の左脚へと迫る。
(速い……! 本当に老人か!? 『ファントム』とは、よく言ったものだ――)
霞む残像すら纏うその姿は、まさしく人を凌駕した怪異。
青年はすぐさま右足を地につけ、迎撃の左を打ち放つ。年寄りだろうと手加減はしない。できる相手ではない。老人と背丈を合わせるように低く構え、軌道は下から上。形は掌底。そして、大砲ではなくジャブ。相手の顎を手のひらで打ち、指を眼窩へ突き入れるための技。
しかし片山は、さらに身を屈めることでこの顎ジャブを躱していた。
異名を体現したかのごとき実体のなさで、青年の腰へと取りつく。
(クッ!)
いかに得体の知れない使い手でも、この体格差でテイクダウンなどさせはしない。老境の人間とは思えぬ腕力に抗い、倒されぬよう踏ん張る。
密着の間合い。
「シュッ!」
足場を確かなものにした青年は、己より遥か小柄な老人の背中目がけ、左肘を叩き落とした。
「!」
が、着弾の手応えはなし。
さらに低く。信じられないほど低く屈んだ片山が、左大腿部を捕ったまま青年の背後へと回り込むように動いたのだ。まるでアスレチックにぶら下がる子供。その挙動は人の域から外れた、知らぬ間にするりと流れ込む静かな霧のよう。
「うむ、今日は調子がええわ。『白線』がよぉ~く見えよるよ――」
「!?」
背後からの言葉と異変は、同時だった。
両膝裏にトンと感じた衝撃。
浮いた。
それだけで、浮かされた。
巨躯と評していい青年、その両足が、信じられないほど呆気なく大地から離れていた。
(馬鹿な!?)
組み倒された? 足を払われた? 投げられた?
いずれも否。不可解。これはまるで――
「ワシの流派はね、」
ほんの刹那。両足を跳ね上げられ、空中で無防備な体勢となった若者の耳へ、届く。
「――――、とでも云うべきかのう」
風の音。それに混じり聞こえたのは、およそ格闘術の流派とは思えぬ、この場にそぐわぬ名前だった。
直後、
「ほれ。受け身、取りなされよ」
衝撃が、青年の全身を叩きのめした。
「がっ、は……!」
揺れる世界。
顔面を掴まれ、石畳へと打ちつけられていた。
もっとも、わざわざもたらされた直前の助言通り。後頭部と地面の間に手を挟み込む『受け』が間に合ったため、致命傷には至らなかったが――
(負け、……か)
小さな星が煌めく寒空を見上げ、青年はただその結末を悟った。
なるほど、しかし道理かもしれない。それほどに不可解だった。
先の瞬間。
『ワシの流派はね、』
『――神託――、とでも云うべきかのう』
聞き間違えかと疑った。
しかし確かにその瞬間、白き翁は言ったのだ。
神託、と。
旅館までの散歩道を行く老人。その口元は、三日月のような笑みを象っていた。
(んん、ええね。『本物』は、やっぱりええもんよ)
上等な料理を味わったように、片山は舌で唇を湿す。
洗練された格闘術。そこに乗った戦意や殺意。それらは、極上の肉とスパイスだ。
かつて積み重ねた『業』が、時としてこのような馳走を運んでくることがある。これだからたまらない。
そして、今。
片山は、至上の料理を仕込んでいる最中でもあった。
星の瞬く夜空を見上げ、白き老人はその名を呟く。
「……流護よ」
焦がれるように。
「まだ。まだ、弱い」
まだだ。今の少年では、花を咲かせられない。壱、せいぜい弐。
(お前は優しいからのう。『八荒』は使えんよな)
禁忌の参にして終。少年がそれを扱うには、乗り越えなければならないものがある。
例えば、今しがたの若い軍人のように。
有海流護には、まだ花は描けない。
(そろそろ……良造くんと遊べるぐらいにはなったかの? しかしお前は、そこで終わる器ではない)
見たいのだ。
『宙に咲き誇る、白き花』を。ずっと思い描いている、その情景を。
彼ならば、きっといつか見せてくれる――
とそこで、
「だっ、誰が」
老人の肉体がビクンと跳ねた。痙攣か発作のように。
「誰が――」
皺の刻まれたその顔には、
「流護よ。お前は、誰が」
『翁』の能面を思わせる、張りつけたような笑みが。
「誰が死ねば、お前は目覚めるかのう――――」
その老人の横顔は。
完全なる狂を、宿していた。




