338. 線引き
「ぐ……! ぬうっ…………」
片膝をついた良造、その厳しい顔に浮かび始める大量の脂汗。崩れた無表情。砕かんばかりに食いしばられた歯列が、痛みと損傷の度合いを示している。
「……、!」
一方、流護も立ち上がれない。顎部への衝撃。首をいなしても殺しきれない威力。このまま倒れ込んでしまいたい衝動に駆られる。
脇腹もじんじんと痛む。穴でも開けられたのではないかと思うほどだ。
だが、得た手応えも大きい。肋骨の数本、加えて肝臓を確実に打ったのだ。
双方ともに跪いていること、およそ十数秒ほど。
テンカウントは優に超えてしまった。これが何らかの正当な試合なら、引き分けだったことだろう。
しかしこれは『仕合』だった。
明暗を分けたのはきっと、互いの一手が直撃だったか、それともいなされたか。その違いであろう。
震える膝に鞭打って立ち上がったのは――流護。
相手を見下ろしたのは、有海流護だった。
「う、ぬ、ううぅ…………ッ!」
肋骨を数本まとめて持っていかれた。
冷え込んだ外気などおかまいなし、嫌な汗が次から次へと吹き出てくる。
だが、それだけだ。その程度、だ。
まだ命はある。死んでいない。
桐畑良造はそう判断する。
「、……ふ……!」
見ろ、有海流護は立ったのだ。いつまでもこうしてはいられない。この至高の時間を、この程度で終わらせていいはずがない。
これ以上待たせはしない。
自らを奮い立たせ、膝に力を入れる。
『はー……、いいぜ良造ちゃん、気に入ったよ。見せてもらおうじゃねぇか。そんなストイックなお前さんが、どこまで行けるのかよ』
行ける。どこまでだって行ける。
そう答えた。
まさに今が、それを証明すべき瞬間。
しかし、
「ぐ、ぬ、……う、」
痛覚が、脳髄が警告を発している。肉体が命令の受信を拒んでいる。
鍛え上げ磨き抜いた良造の五体が、正確に予感しているのだ。
続けた先に訪れる結末を。
死を。
(それが……どうした……ッ)
終われない。これは桐畑良造にとって、ただの立ち合いではないのだ。散々に待ちわびた一戦。ここで、終われるはずが――
「ここで終わりにしよーぜ、桐畑」
荒い息を整える有海流護が、俯瞰にそう告げる。
馬鹿を言うな。これからだ。
そう返そうにも、良造の喉からは苦鳴しか出てこない。
「こっから先は……取り返しのつかねえ域だ」
『仕合』が『死合』へと変わる。そう言っている。
「勝ったほうも……得しねーぜ。まあ、」
苦しげに、白い呼気を吐きながら。それでも強い光を瞳に映し、流護は言ってのけた。
「立ち塞がるってなら、そんでも……意地でも乗り越えてくけどな」
強い。強い意志が溢れる、戦士の瞳だった。
見事。
「上、等……ォッ」
吼えてくれる。そうでなくては。
続けたなら、もはや勝敗の別なく最悪の結末が訪れてもおかしくはない。
が、構わない。
歯を砕かんばかりに噛み締めた良造は、
(死ん、で……も……)
そこでヒヤリとした。
死んだらどうなる。意識が途絶え、無へと還る。そこで終わり。
(終わ、り……)
それはつまり。
もう二度と、このような至上の闘いを味わえないということだ。
ゾッ、とした。
これほど楽しい濃密な時間が。
もう二度と、体験できなくなる。
限界間際まで追い込まれ、初めてその『恐怖』を実感した。これまで、考えたこともなかった。桐畑良造は、転落寸前の断崖に立たされている。
勝とうと負けようと、そんな終わりが……虚無が待っている。
死域に突入して続けてしまったら、どの道終わる。
(……フ、女々しい……な)
何としてもこの立ち合いを続けたいという欲望。
死すればもう二度と闘えぬという恐れ。
双方が良造の中でせめぎ合う。
(……考える……までも、ない)
そう。せめぎ合い、葛藤するほどの時間がある。
これがルールに守られた一戦なら、とうにカウントなど尽きている。そして、言葉を吐き出すこともままならない状態。一方、流護はすでに両の足で大地を踏み、次の動向に備えている。
つまり。
(俺は……もう、)
このような状況下に置かれてしまった以上、すでに――
良造は未だ立ち上がれない。立ち上がれるはずがない。轡發のこの上ないクリーンヒット。肋骨の何本かをまとめてへし折った感触が、今も痺れるほど強く流護の右膝に残っている。が、
(いや、こいつは……)
きっと無理にでも、立ち上がってくる。死ぬまで、戦闘を続行できる。
そんな壊れた部分を、当たり前のように持ち合わせている。
そんな男が、どう動くのか。自分はまだ、対応できるのか。
まだ震える膝に力を込め、流護は相手の動向を見守った。
「……フ」
片膝つく良造は苦悶の表情を貼りつけたまま、無理矢理に口の片端を吊り上げた。
その顔には心なしか、穏やかな気配が感じられる。
「――俺の……負けだ」
どこか、晴れ晴れとすらした表情で。桐畑良造は、そう口にした。
武人は、今にも起立しようと膝に込めていた力を抜いたように見えた。心の内側にあった葛藤に、折り合いをつけたように見えた。
「……、」
流護はその宣言を聞いてわずかに瞠目しつつ、
「……押忍っ」
いっそ清々しいまでの強敵だった男へ向かって、腕で十字を切り頭を下げた。
座り込んだ良造が一際大きな息を吐く。
「……有海。最後の、一撃は……」
「一応、武月流の奥義の一つだよ。『轡發』つって、相手をその場に縫い付けて、頭突きか拳か膝蹴りかの三択を仕掛ける……。つかまじ無理に動くなよ、折れた骨がどっかに刺さるぞ。まじ死ぬぞ」
「……そう、か。武月流の……」
「ああ……だから、立ち上がられちゃ困るんだ。俺としても、ギリの一手だったんだから」
「……何とも惜しい。待ちに待った至高の時が、こうも一瞬で終わるとはな……」
「充分だろ。拳もらった瞬間、まじで走馬灯が見えたぞ俺は……」
「ふは、は……、ぐッ」
「救急車呼ぶか?」
「要らんさ。この余韻を壊したくない……」
良造の表情は、先ほどの獰猛なものではない。歳相応といえる、憑き物が落ちたような笑顔だった。
「……そっか。なら悪いけど、俺はもう行く」
ふらつく脚に活を入れて、流護は置いてある荷物を拾いに向かう。
「……桐畑。礼を言っとくよ」
「何?」
「俺はこれから、行かなきゃいけない場所が……やらなきゃいけないことがある。もしそこで負けたりすれば、俺の周りにいる人も犠牲になっちまうかもしれない。そんなやべえ世界なんだけどさ」
無言で耳を傾ける良造に対し、本心からの言葉を伝えた。
「自信ついた。お前みてーなバケモン相手に、ここまでやれたんだ。もう、誰にも負ける気がしねーや」
にっ、と笑うと、
「驕るなよ。足元を掬われるぞ」
言葉とは裏腹、良造も穏やかな薄笑みを浮かべた。
「はは、分かってる。もっと練習して……もっと強くなる。……じゃあな」
ようやく膝の震えがおさまったことを確認し、流護は足を急がせる。
すれ違いざま、
「有海。いつかまた、闘ろう」
背中側から聞こえた、そんな声。
「……、ああ。いつかまた……な」
それが叶わないと、分かっていて。
一抹の寂しさを覚えながら、宿敵へそう返した。
「ベル子」
公園の奥まった一角。トイレ裏の植え込み付近に立つ少女騎士を発見した流護は、辺りを警戒しながら小走りで寄っていく。
気付いた彼女もまた、急ぎ足で寄ってきた。
「リューゴ! 大丈夫なの?」
「ああ、何とかな……、」
「さっきの人は……」
「またな、つって別れてきたよ。つかあの野郎、最後に因縁にケリつけてスッキリ帰ろうと思ったのに、クッソ強ぇでやんの……。つ、いててて」
「だ、大丈夫?」
「おけ、おけ」
ここからでは随分と小さく見える野外時計へ目を向け、ぐっと細める。短針はほぼ九、長針は十と十一の中間を指していた。指定の夜九時まで――あと、五分と少し。
場所は……細かな指示もなかったが、ここは公園内。それも、この世界へ戻ってきたときに放り出されていた地点。
例の人物の指定条件は満たせているはず。あとは、ここで待ってみるだけだ。
(間に合った。……にしても)
今さらになって、身体が震える。
ひりつくような立会いだった。
互い素手だったというのに、剣や銃を持って対峙していたような気すらする。昔の武士やガンマンは、こんな気分だったのだろうか。
正直、勝った気はしていない。
あのまま、先の領域へ……命を賭した闘いへ突入していたら、果たしてどうなっていたか。
「…………、」
今さら考えても詮なきことに違いない。
とにかく、顎が思ったより無事だったのは幸運だった。外門頂肘を喰らった腹に穴が開いていないことに安堵する。放たれた弾丸が偶然肉体を砕かなかったような、偶然死ななかっただけとでもいうべき安心。
「……、」
手のひらに視線を落とす。派手に植え込みに突っ込んだことで、服の端々がほつれている。
自然と意識せず、轡發を使った。まるで、奥底に仕込まれていた爆弾のように。
異世界はレフェ巫術神国で行われたあの天轟闘宴、そこで激突したエンロカク・スティージェという人の形をした怪物。その対峙の中で一時、流護はあの男と良造の姿を重ね合わせた。
エンロカクと闘い、殺意を自覚し、貌滅を放った。
あれが切っ掛けとなって、自分の中にある何かの枷が外れたような感覚……。
(それに、あの……)
おそらく、半分意識が飛んでいたのだ。良造が放った『見えない拳』によって。
そこから轡發を発動するまでの間、頭の中で聞こえていた『わらべ唄』のようなもの……。
(俺、あんなのどこで聞いたんだっけ……? 自然に、身体が動いてた……)
幾千、幾万と繰り返した訓練のように。完全に、肉体に染みついていた。
「頭から血が……。顎も痛めたの? みせて」
ベルグレッテの細い指が、傷口へ優しく宛てがわれる。
「お……で、でもベル子。神詠術は使えないだろ……」
「ん。それでも、気休めぐらいにはなるかな、って」
寄せられる、か細い身体。甘い芳香と、顎に添えられたくすぐったい感触。
「……、」
ドギマギしながらも、少し痛みが和らぐ気のする少年だった。
同時に、心の中にある何かに鍵がかったようだった。
「ふー…………」
遊歩道を囲う縁石の一つに腰掛けた良造は、ゆっくりと深い息を吐いた。呼応するように右脇腹が痛むが、それもまた戒めと受け入れる。
先の交錯、決着の間際の応酬が脳裏に再生される。
打ち抜いた右をいなし、首への組みつきと足甲踏みで対象を捕らえ、頭突きや右拳を意識させてからの――左膝。
自分の右腕の真下を流護の左腕が通っていたため、膝が見えにくく、咄嗟の受けも間に合わなかった。
相手をその場に縫い止め、防御を困難にしたうえで、刹那の三択を迫る妙技。
(……轡發、か。味な真似を、してくれる……)
厳密には、直前の肘を防いだことも悪手だったか。あれらは一連の流れだったのだ。
滲むのは悔しさと、そして高揚。
有海流護。
確かに『空手』と呼ぶべき基礎の型は乱れてしまっていたかもしれないが、闘技者としてはより高みに達していた、ということか。
『戻ってくる。流護は、必ずの』
いつかの老人の言葉は現実のものとなり、また有海流護に惹かれた己の感覚にも間違いはなかった。
総じて、たかが数分程度の交錯。しかし、待った甲斐のある数分。
惜しい。――何とも、惜しい。対応できなかった己の未熟さが、歯がゆい。
良造はただひたすらに、そう思わずにはいられない。
負けだ。
仮にあのまま続けていたとしても、きっと敗北していたことだろう。
「……ふ」
自らの右拳に視線を落とす。鍛錬に次ぐ鍛錬によって膨れ上がり、見るからに常人のそれとはかけ離れた形状となった手。
(まさか……往なされるとはな)
打ち抜いた。勝ちを確信した一撃だった。散々に磨き上げてきた、青臭い夢すら内包した。
しかし、必勝のはずのそれは届かなかった。
間違いない。流護はこれまで、同等の拳を受けたことがあるのだ。それゆえに、即応できた。
(一体、どれほどの相手と対峙してきたのか……興味深いところだ)
現金なものだ、と自嘲する。
命の奪い合いじみた闘争を望んでおきながら……そして敗北しておきながら、この上ない充足感を覚えている。本来ならば、負けた自分は死んでいるはずなのだ。
にもかかわらず、
『有海。いつかまた、闘ろう』
今さらになって、驚く。そんな言葉が自分の口をついて出たことに。
腹部の痛みと満足感、そして名残惜しさと自らの未熟を味わいながら、火照った身体に心地よい夜風へと身を委ねることしばし。
「……む」
薄暗く静かな遊歩道に、ぱたぱたと忙しない音が響き始める。
出所へと目を向ければ、遥か遠方にある公園の出入り口から、誰かが入ってきたところだった。あまり他者に関心を示さない良造だが、今回はしばし注目した。その人物の様子が、どうにもただならぬものだったからだ。
それは、制服姿の女生徒。
一時を惜しむかのような全力疾走。しかしとうに精根尽き果てているのか、足元はふらふらと定まらずおぼつかない。気迫に反し、遅々として進まない。格好や雰囲気からして、ジョギングなどではありえないだろう。
長い黒髪を振り乱し、同世代の者と比較しても端正な顔を苦しそうに歪めながらも辛うじて進む。少しずつ近づいてくる。
そして端の縁石に腰掛ける良造の前を、今にも倒れそうな足取りで通りかかり――
「っ!?」
ここまでやってきて初めて、少女は良造の存在に気付いたようだった。
思わず身体をびくりと竦ませた彼女の足が、完全に止まる。
驚きすぎだ――、と一笑に付しては酷か。
人気のない夜の公園。誰もいないと思っていたところに自分のような厳つい風体の人間が鎮座していれば、大人の男でもたじろぐだろう、と良造は自嘲する。
この少女も、脱兎ように自分の前を通過していくはずだ。生憎、脇腹の痛みに苛まれておりすぐは動けない。怪しい男が公園で座っている、などと通報されないことを願うばかりだが――
「あ、あの、すみません……」
しかし少女は逃げるどころか、息を切らせつつ話しかけてきた。
やや驚いて面を上げれば、悲痛ともいえる顔の彼女と目が合う。
「この公園で……人を、見ませんでしたか? えっと……私と同じぐらいの歳の、男子なんですけど……。大人しそうな地味な顔で、あんまり背が高くなくて……」
人捜しをするには、特徴が漠然としすぎている。そんな見てくれの人間など、掃いて捨てるほどいるに違いない。
が、
「この公園で、と言ったか?」
「は、はい」
そのうえ、この時間。
敷地内をここまでランニングをしてきた限りで、それらしき人物は見かけていない。というより、誰の姿もなかった。
その条件にピタリと合致する有海流護と、一緒にいた異国の少女以外は。
だが、果たして捜し人があの男なのかどうか。奇妙な少女を連れていたこともそうだが、これほど切羽詰まった様子の人間に追われている風ではなかった。そもそも、そんな人間が悠長に決闘に応じたりはすまい。
とはいえ、
「恐らく別人だろうが、その特徴に当て嵌まる男なら見た。公園の奥へ入っていった」
その判断は良造がすべきことではない。ありのままの真実を提示するべく、流護たちの消えていった公園の奥地を指差す。
訂正すべき点があるなら、「その男を見た」ではなく、「その男は自分を倒して先へ進んだ」とでもいったところだが、それは目の前の少女に関係ないことだろう。
「あ、ありがとうございますっ……!」
頭を下げるや否や、女生徒は苦しげに自分の胸を押さえながらも駆け出した。人違いの可能性も否定できないというのに、疲れ果てた身体に鞭を打つように走っていく。
やれやれと視線を下向けた良造は、そこで遊歩道の中央にぽつんと落ちているものを発見した。
脇腹を庇いつつ立ち上がり、それを拾い上げる。
生徒手帳だった。
つい今の今まで、こんなものは落ちていなかった。となれば――
少女が駆けていった先に視線を向けるが、すでにその姿はない。
手帳を裏返してみれば、そこには今の少女の顔写真と、『蓮城彩花』なる名前が記されていた。学校名に覚えがある。有海流護が通っていた高校だ。
であればやはり、彼女は流護を捜していたのだろうか。
ともあれ、
「……く」
この落とし物を渡すべく追おうかとも思ったが、この身体では厳しい。
後日、何らかの形で届けるのが最良か。
そう考えつつも、良造の足は自然と公園の奥地へ向いていた。人捜しでうろついているなら、再びの遭遇もありえるかもしれない。
至上の闘いを味わい、高揚していたのかもしれない。珍しく人の世話を焼こうなどと。
その足はまるで――見えない何かに導かれるかのように、動き始めていた。
 




