337. 絶の際
(脚は……まだ動かんか)
しかしそれは相手も同じこと。焦りはない。
とはいえ、桐畑良造は改めて驚倒する。
畳みかけようと攻め立てている最中、不意に意識が白んだ。途絶しかけた。
放った左にカウンターを挟まれたのだ。
(優位から、一気に相打ちへと持っていかれた)
口の中に広がる血の味を噛み締めながら実感する。
仕留めるつもりの攻勢だった。事実、倒れぬ者などいなかったはずの必勝の流れだった。
しかし有海流護は、未だ平然と立っている。それどころか、逆に斬って落とされそうになった。
(……だが)
これだ。
やはり自分の直感に間違いはなかったのだ、と良造は確信を抱く。
有海流護に対し、かつて感じたもの。
この男は『同類』だ。
生きるに当たり流血を伴うことなど考えられなくなった、現代という完成された時代。直接的な闘争は暴力と忌避され、野蛮な行いと蔑まれる社会。
そんな世に生まれながら、このような凌ぎ合いを至上の喜びとする異端。
赤い筋が伝う口の端。上向いたその形を見れば、一目瞭然であろう。
(そうだ。お前は『こちら側』の人間だと思っていたぞ、有海流護……!)
春の一戦。
望んでいたような闘争は、そこにはなかった。空虚な勝利がするりと手のひらに収まり、それで終わり。
(まるで実感のない、幻影のようなあの勝利……。ここで、価値ある本物に換えさせてもらう……!)
昂った。改めて自覚、確信した。
桐畑良造という男は、今この瞬間のために己を高めてきたのだと。
(さて、どう崩す……)
思案する。
これまでとて、倒すつもりで攻め立てていた。
恐るべき技巧。生半な手管は通じない。受けて流され、堅実な護に弾かれるのみ。流護というその名を体現するかのごとく。
空手家としては鈍ろうと、実戦から遠ざかっていた訳でないという言葉は確かだ。
それを含めても、気にかかるのは――
(何があった、この男……)
その身の丈に似合わぬ、九十に迫るという重量。立ち回りの中で確信したが、その言に偽りはない。
それでいて、速さは損なわれるどころか増している。
単純な筋肉の肥大だけではない。打ち合えば、まるで鉄骨の入ったタイヤを叩いているような感触があった。
(まるで、人ならざる何かのような……)
どんな環境でどんな経験を積めば、そのような状態となるのか。
が、
(瑣末事だ)
どうでもいい。目の前に強い男がいる。それだけでいい。
空手家としては、確かに鈍っているかもしれない。しかし、今対峙している相手は間違いなく極上の戦士。それ以外の何が必要か。
(やはり、使わせてくれるか。これを――)
軽く握った右の拳に、意識を集中する。
このために磨き上げてきたと表現しても過言ではない、その一撃へと。
この桐畑良造という武人に、小手先の技術は通じない。型が崩れ、我流になってしまった空手では尚更だ。
異世界での実戦経験や謎のウェイトアップから、単純な身体能力ならば自分が上かと思っていたが、この相手を前にしてそんなものは大した利点になっていないと思い知らされた。
(マジ強えわ、こいつ……)
流護は心底実感する。
桐畑良造は、高い水準で完成している。
人間らしさすら削ぎ落とし、原始的な闘争行為を突き詰めた恐るべき異端。
(すげえ……。俺は、とてもそんな風にはなれねえよ)
原点からして違う。
幼少の有海流護は、蓮城彩花を助けるために強くなると決意した。その守るべき対象は今後、彼女からグリムクロウズの友人たちへと変わろうとしている。
いずれにせよ、『護る』ことが本領。極端な話、襲い来る脅威というものが存在しなければ、戦う必要すらないはずなのだ。
『運が良かったんじゃないのか。俺は偶然、猛獣の牙に掛からず済んだだけなんじゃないのか。お前という男は――実は、「俺と同類」なんじゃないのか、とな』
立合いの前に良造が発した言葉。
決して、同類などではありえない。流護としてはそう考える。
全てを投げ打って、そこまで突き詰めることなどできはしない。
(……けどよ)
敵がいるなら……倒さねばならない相手がいるなら、それをねじ伏せる。
最強にならねば護れないならば、最強となる。敵が最強なら、さらにその概念すら超えた何かとなる。
今の有海流護が往こうとしているのは、そういう道だ。
負けるつもりなど、更々ありはしない。
何より、有海流護個人として――、一人の闘う人間として、この強敵を倒したい。
とはいえ、
(さて……いつまでも見合ってらんねえ。どうする……どう切り崩す)
眼前の巌が気合や感情論だけでどうにかなる相手でないことも事実。
そんな有海流護に残されたのは――
(……おかしなもんだ。どうしてああ自然に、身体が動くんだろうな……)
遊歩道の片隅、どっしりとアップライトに構える桐畑良造。発達した筋肉を鎧う頑強な威容は、初めて明確な殺意を抱いたあの男を彷彿とさせる。
天轟闘宴という、こちらの世界では考えられないようなバトルロイヤル。数多の強者たちが参戦していたその中で、一際群を抜いていた存在。
――暴風の巨人、エンロカク・スティージェ。
(あん時……俺は……)
あの怪物との衝突の果て、確かに開いた己の中の何か。その中から、あらかじめ封じられていたかのような『それ』を取り出す……。
(……よし)
膝に力が入ることを確認する。回復した。
ということは、向こうも同様だろう。
「しっ」
動いたのは流護。左拳、と見せかけての右ローキック。
しかし良造はこれを何なく上げた膝で防ぐ。
二、三と互いに応酬。響き渡る鈍い音。簡単に太腿を叩かせてはくれない。それでいて自分も悶絶もののローをもらわないよう、一瞬ながら冷や汗の吹き出る攻防。
「――シュッ」
さらに蹴り、と見せて拳へ切り替え、左、右と見せかけての左、さらに左。
左拳の三連打、しかしその全てを上段に構えた豪腕で防ぎ切り、巨岩のごとく揺らがぬ良造。もはや通じない、覚えたとその鋭い双眸が無言に語る。
「憤ッ」
そして武人が打ち終わりに被せてくるは、右フック。唸り上げる豪腕、もらえば首ごと吹き飛ばされそうなそれを、流護はスウェーで回避する。そこで、
「!」
背中にがさりとした感触。遊歩道沿いの茂みに触れたのだ。後ろにもう退路はない。
良造は右拳を空転した勢いのまま身体を旋回させ、右足を一歩前へ。軸足をそちらへシフトし、流れるような左足払いへと繋ぐ。
(後掃腿……!)
まるでアクション映画。良造の技のバリエーションに驚嘆しながらも、流護は動く。
その一撃を左足裏でカットし、
「!」
良造の顔を覆い尽くす、黒い影。
跳んでいた。
薙ぎ払われた武人の左足を踏み台とし、右足を歩道脇の縁石にかけて。
跳躍から滞空した流護は、外灯の照明を背に受けながら良造を見下ろしていた。
逆光を隠れ蓑とし、打ち落とすは右肘。
「シィッ――!」
その一刺。
武月流は禁忌の壱、貌滅。
叩き落した肘にめきりと感じる、確かな鈍い手応え。そして、
「ぐうっ」
間違いなく聞こえた良造の呻き。
かつて風の巨人の鼻を砕き、『暴食』なる巨大鹿の頭蓋を割ったその一撃は、
「……なッ、に!?」
掲げられた良造の強靭な左腕によって阻まれ、防がれていた。
「墳ッ――破ァッ!」
大股な右足の踏み込み。勢いよく逆時計回りに半回転する胴体。その動きに伴い、内側に引き込まれる右肩。そして――その反動を利用して突き出される、右肘。
空中で身動き取れない流護。その腹部に、良造が放った右の外門頂肘が埋まり込んだ。
「……ご、ぶ、ッ、~~ ~~――……!」
みぢり、と体内から異様な音が木霊する。その衝撃が伝播したかのごとく、口から胃液が飛び出す。臓腑が逆流しないだけ幸運と思えるような一撃だった。
(八、極……、……ッッ!)
ほとんど体当たり、密着した状態からの一撃で、九十キロに及ぼうという肉体が吹き飛ばされる。
背後の植え込みをバキバキと突っ切って、流護は土の地面に二転三転しながらも膝をついた。
「が、ご、…………がはっ……、げふっ!」
打点はヘソの脇。瞬間的に腹筋で受けることができ、肋骨や肝臓を持っていかれなかっただけ僥倖か。
緑葉や土にまみれながらも、どうにか立ち上がって顔を上げた流護は、
「――――――――」
その瞬間、確かに見た。
否、正しくは『見えなかった』と表現するべきかもしれない。
「ヂッッ!」
宙を舞う枝葉に彩られたその形相は鬼神のごとし。
流護を追って植え込みを飛び越え、一直線に滑り込んできた良造。その腰溜めに構えられた右拳が――消失した。
それはテレビで目にした、何らかの格闘技の試合だった。詳しくは覚えていない。
鮮烈なほど脳に刻まれたのは、痛快な一発ノックアウトの場面。
仰向けに倒れ込む選手。どっと沸き立つ声援。興奮のまま喋り立てる実況。
幾度も繰り返されるスローモーションのKOシーンを見て、ようやく右の拳が相手の顎を撃ち抜いていたのだと分かるほどの速さ。
その光景を目の当たりにし、当時七歳の桐畑良造は考えたのだ。
ぶん殴る。相手が倒れる。これを世界中の人間全てに対して実行できたなら、その時点で自分が最強になれる。
年齢にそぐわない物騒な考え。年齢に見合った短絡的な結論。
誰かに言われた訳でもない。何かに焦がれた訳でもない。この試合は確かに強烈な印象を残したが、切っ掛けとなった訳ではない。
物心つく頃には、当たり前のように闘いを――強さを求めていた。
それが、桐畑良造という生物だった。
『腹が減れば食う。眠くなれば寝る。それと同じように、生きているなら闘いたい。そして、最強を目指したい。それだけです』
かつて良造のそんな主張を聞いた南崎の館長は、腹を抱えて笑った。それが毛も生えてねえガキの言うことかよ、と涙すら浮かべて転げ回った。
『はー……、いいぜ良造ちゃん、気に入ったよ。見せてもらおうじゃねぇか。そんなストイックなお前さんが、どこまで行けるのかよ』
本格的な訓練に打ち込み始めて、当たり前のことではあったが幼心に実感する。
都合のいい『必殺技』など存在しない。
ひたすら自己を追い込む厳しい鍛練の果て、ようやく形になっていく技術。確約などされようもない勝利を掴むべく、心技体を磨き上げた雄たちがぶつかり合う。
それが闘争。
練磨された技巧や拳足、ある意味その全てが必殺であり、使いようによっては鈍にも化ける。
局面の一つ一つにおいて、有効な手もまた異なる。状況は刻一刻と変化する。闘争は生き物なのだ。
人を倒すための技術を学び、そのままならなさを知った。
だからこそ、だったのかもしれない。
存在しないと思うからこそ、焦がれたのだ。
誰であろうと問答無用で地に這わせるような、珠玉の『必殺技』に。
消失した。
そう錯覚するほどの拳。
着弾地点は、流護の左顎。
「――――……! ……」
ばがん、と鈍い衝撃。
ぐるん、と横向く世界。
それは、見えない拳だった。
(――……あ)
少なくとも、有海流護の視界からは消失するほどの速さを伴った、究極の拳だった。
(――……はは、前にも……あったな)
揺れる脳が、過去の映像を甦らせる。
あれは、そう。己の象徴たる炎を捨て、身体強化と呼ばれる異能を極限まで突き詰めた一人の天才が見せた、拳という武器の終着点――
(……ったく、冗談も程々にしてくれ……)
残影すら視認させず唸り飛んだ良造渾身の右拳によって、流護の顔が大きく後方へ弾けた。
(……――アイツみてーなファンタジー世界の住人でもねーお前が、リアルで到達してんじゃねーよ――)
まさしく、見えない強風に吹かれて揺れる木葉のように。
――貌滅は単一の牙に非ず
「――――――」
ここで獣眼を驚きに見開くは桐畑良造。
打撃の向きに逆らわず、押されるままいなす。スリッピング・アウェーと呼ばれる技術により、己の拳を流されたと理解して。
その隙とも呼べぬ隙に、武月流は入り込んだ。
――さあさ、喰らい付いたぞ餓じき坊や
必殺を期し、全力で振り抜かれた良造の右腕。その下をスルリと潜った流護の左腕が、良造の太い頚を掴む。
「――」
当然、良造の意識はそちらへ向く。
――憐れ惑いし其の子を抱きとめて
同時、右を放つに当たって大きく前方へ踏み出されていた良造の左足甲を、流護の右踵が上から踏みつけた。
「ッ」
良造の目線は次に踏まれた足へ向かおうとして、そこで気付く。
密着している流護の頭によって、視界が塞がれている。今にも下から頭突きが飛んできそうな、その間合い。
「!」
何が来る。頭突きか。そう思わせての、右の拳か。
警戒した良造は、咄嗟に双方の頭の間へ左手を割り込ませて――
――三ツ首の昏き黄泉路へと導いておあげなさい――
「ッ!」
良造が息をのむ気配。気付いたのだ。
頭突きと右拳だけではない。選択肢は、もう一つ。
「……、ッ」
良造の反応はコンマ数秒の領域で遅れた。それは貌滅が刻んだ楔。防御に回そうとした左腕が――貌滅を受けたその腕が、にわかな痛みで動かなかったようだった。
その壱が、弐へと続く。
――武月流禁忌の弐、轡發
跳ね上がった流護の左膝が、良造の右脇腹へ埋まり込んだ。
ばき、ぐしゃり。破壊の手応え。
硬い何かの砕ける音が、公園の夜気を引き裂く。
「――――、……ふ ぶ、ごばァッ……!」
続く野太い苦鳴が、良造の口から零れ出た。
「……、……ごふっ!」
屈強にすぎる武人が――ついに、崩れ落ちる。右の脇腹を押さえ、その場に沈んでいく。
「……っし!」
そして確かな手応えを得た流護が、
「勝っ……、…………」
己の意思とは無関係に足をよろめかせて……同じくくずおれ、膝をついた。