336. 拳戟
初めて桐畑良造と向かい合った瞬間のことを、流護は今でも鮮明に覚えている。
『空手家』ではない、と。
削り出した岩のような顔、その両脇に備わった歪な形の耳。よじれて変形したそれは、激しい打撃のみならず寝技の鍛練を繰り返している証だ。異常に太い頚もまた、そういった闘いを想定してのものだろう。
おそらくこの男は、多種多様な格闘技経験を積んでいる。
実際に知ったのは後々のことだったが、その予想は当たっていた。
県大会においては無論、空手以外の技巧が披露されることはなかったが――
流護の住むこの田舎町とは違い、良造の通う『南高』方面はそれなりに大きな都市であり、格闘技の道場やジムもいくつか居を構えている。
レスリング、柔道、そしてボクシング。
「……、ッ」
右の大砲をスカし、カウンターをもらってしまった。
何度も繰り返し見た悪夢を再現するように。身体が、傾ぐ。倒れそうになる。
しかし、
「……ぐ、お!」
倒れない。両足で、大地を踏み締める。
これは夢ではない。現実だ。
悪夢を、過去を振り払うために、有海流護は今――あの桐畑良造と一戦交えている。散々に焦がれたリベンジマッチ。
易々と、倒れられるはずがない……!
辛うじて踏ん張りながら、流護は確信する。
(コイツの基本は……――っ!)
結論を思う間もなく迫る、下方から拾い上げる拳閃。豪快にすぎる良造の右アッパーを、流護はすんでのところで身体ごとひねって躱す。重い風切り音が唸り飛ぶ、空間そのものが裂けたかと思うような一撃だった。
そして大振りながら、驚くほど戻しが速い。身体がまるで開かない。打ち終わるや否や、その太い両腕は隙なく構え直されている。カウンターを差し挟む余地もなかった。流護は躱した勢いでよろめきながらも持ち直し、間合いを保つ。再び双方、中間距離にて向かい合った。
「おー、あっぶねぇ……っ! 何だよ、将来は拳で世界でも狙う気か?」
軽口を叩く流護だったが、一方の良造はオーソドックススタイルに構えたまま冷たい瞳で一瞥するのみ。
「……有海流護。お前は、何を見ている?」
漠然とした問い。
「俺は……この瞬間を見据えてきたぞ」
短く言われ、流護はハッとした。
これからグリムクロウズでやっていく。その前に、かつて超えられなかった壁を越えていく。
そんな風に考えていた。
先のこと、過去の傷。そうしたものばかりにとらわれ、良造を障害としてしか捉えていなかった。かつて対峙したときのように、『純粋に闘えて』いなかった。
強者と対峙するという楽しみが、格闘者として本来持ち合わせていたはずのそれが、失われていた。
こんなにも申し分ない相手が……桐畑良造という極上の男が、目の前にいるというのに。
「……は、はは。へへへ……そうだよな。もったいねえ。『見えてなかった』。こいつは……失礼した」
そう笑えば、ふ、とかすかに良造が息を漏らす。
「……再び舞ったな、蝶が。そう来なくては」
「……?」
その呟きの意味は分からない。
しかしそうして良造がかすかに口元を緩ませたのも、一瞬のこと。
「……だが、心持ちだけで動きは変わらん。あの一戦からこれまでの間……何をしていた?」
その声に込められているのは――明らかな落胆。
「……そうだな。ま、お察しの通り……『空手』は、やってない。やれる環境じゃなかった」
あれは、レインディールの王都テロが発生する少し前のことだったろうか。いつものようにミディール学院の裏庭でトレーニングに励んでいたとき、ふと思ったのだ。
この異世界で暮らすうち、空手の型は崩れていくだろう、と。
師の下を離れ、空手という技術が存在しない世界へ渡ってなお繰り返した修練。しかし未熟な流護が一人で続けても、それはいつしか型の乱れた我流へと変わってしまう。
いや、もう変わっているのだ。
今も空手を続けている良造が、流護の動きを見て鈍りを確信するほどに。
まさに、たった今しがたの左から右。思い返せば、『繋ぎ』が甘くなってしまっていた。期せず、右が大振りになってしまっていたのだ。グリムクロウズでは即応できる者がいなかったためそれでも通じたが、この男を相手取るには充分すぎるほどの隙となってしまった。
そういった、型の崩れ。
それゆえの、落胆。
だが。
「――」
オーソドックスに構えた良造は、獣じみた眼光を微塵も緩めない。どころか、より深まったようにすら思える。
失望すると同時、感じたのだ。
疑問を。
空手使いとしての流護は地に堕ちた。
ならば、自分の防御を一撃で弾き飛ばした左ジャブは何なのか。カウンター気味の左フック、その直撃を顎に受けて沈まない耐久力は何なのか、と。
「確かに、空手はできなかったけど。んでもひたすら……自分なりの鍛練と、命がけの実戦を続けた。もう、今まで何回死にかけたか分かんねーよ」
グリムクロウズでの戦いの日々を一言でそう総括し、『遊撃兵』は苦笑う。
「んで、その影響なのか何なのか分からんけど……今の俺は、九十キロ近い体重がある。変な話だよな、自分でもびっくりしたよ。ま、参考にしてくれ」
ピクリ、と良造の眉が動いた。
どちらも、にわかに信じられるような話ではないはずだ。
しかし。
「把握した。そのつもりで掛からせてもらう」
「はは……信じるのかよ」
「打ち合った感触からすれば、むしろ合点がいった」
「……、」
冷え冷えとした声に、流護の背筋は思わず震えた。立ち込める冬の空気など比較にもならないほどに。
やはり、どうかしている。
「はは……」
この男。『本物』だ。
自分で切った張ったの世界を体験して、初めて理解した。
それで、イーブン。ようやく自分は、この相手と同じ土俵に立ったのだと。春までの自分など――ただの高校生にすぎなかったちっぽけな少年など、到底敵うはずがない存在だったのだと。
「――――……」
改めて、決意する。
この異質な求道者。現代の怪物とでも呼ぶべき男に――勝つ。
すっと息を吸い込み、流護も備えた。
睨み合う両者。訪れる刹那の静寂。
じり、じりと。
間合いを測りながら、少しずつその距離を詰めていく。双方、まるで鏡に映したような同じ動きで。
(もっとだ。もっと速く、グリムクロウズで散々やってきたみてえに。正確に――)
一時の呼吸。一時の脱力。そして一瞬の踏み込みへ。
鏡から抜け出すように、そこから流護が再び左拳を突き出す――
「…………――っ」
より、速かった。
視界を遮る黒い影。
良造の左拳が、流護の鼻先へと肉薄していた。
隆起したタコ。指から甲にかけて走る幾条もの古傷。これまでの闘いの歴史を刻んだ重厚な鈍器が、すでに獲物を仕留めんと迫っていた。
「……ッ!」
がづん、と咄嗟に傾けた頭の左脇を削られる感触。
脚を巧みに駆使した良造が、軽やかに左ジャブを次々と繰り出していく。
ウィービングを織り交ぜて躱し、避けきれないものは防御で凌ぐ流護だが、
(……~~重てぇっ)
その一撃一撃が、芯に響く。人を容易に倒せるジャブ。先の左フックを思えば納得の威力だ。
危険極まりない強打の嵐。先制を許し、流れを掌握された。一旦退いて態勢を整えるのも戦術であろう。が、
(つーか、なめんなコラッ――!)
ここは流護の距離でもある。譲れるはずがない。
結果、意地の応戦。
左の差し合い。互いの顔面のすぐそばを、あるいは頬やこめかみを確かにかすめていく連弾の飛沫。
そして完成する、先と同じ鏡に映したような光景。
しかし今度は、互いに構え睨み合っていた『静』ではない。飛び交う拳と拳、息つく暇もない干戈。激しい『動』による鏡が、そこに出現した。
剣戟ならぬ『拳戟』とでも呼ぶべき、火花散る応酬の中で交わし合う視線。
(……へへ。当ったり前、だよな。お前もだろ、桐畑)
互い、狙っている。窺っている。
いかにして、ここから戦況を己へと傾けるか。
左拳を軸に立ち回るこの状況。
ガードをこじ開けての右か。目を慣れさせてからの変則か。ボクシングや空手の試合ではない。選択肢は多様。
打撃の交換の最中、流護は飛んできた左ジャブの一発を左へ避けて躱した。時計回りに脚を捌く。
左ジャブを左に――相手から見て右に避けたということは即ち、
「シュッ!」
相手の右拳の軌道に入ると同義。
重い呼気。機を逃さず、即座に動く良造。放たれる右ストレート。
(――かかった!)
計算通り。左への回避は、これを引き出すための誘い。
文字通りの大砲、と呼べる右を左腕で受けて逸らした流護が、
「ふ!」
反撃の右ボディ。相手の打ち終わりを狙った、加えてウィービングやダッキングで避けきれない腹打ち。
「!」
必中を期したその一撃はしかし、下から上がってきた良造の強靭な左脚に阻まれる。
(読んでたのはお互い様、ってか……! なら――)
離れ、右へ回ると見せかけ、左足でのステップイン。同時に繰り出す左ジャブ。
より速く、より精密に。今度は一撃でなく、左の三連打。
勢いの乗ったそれは、速射砲とでもいうべき鋭さで良造のガードを軋ませる。しかも、
「ぬ……!」
今回は最初から、ガードの隙間を狙ったのではない。着弾点は、力強く構えられた良造の剛腕そのもの。
一点集中。強固な防御を軋ませ、弾き飛ばす。邪魔な腕を退ける。そこに生まれた綻びを見逃さず、流護はガラ空きとなった良造の顔面へ右の正拳を打ち放った。
今度こそ、繋ぎは完璧。
「――――」
しかし流護が完璧であったなら、然るべくこの男も同様だった。
それは、精妙な手首の挙動。弾き飛ばされた、と思わせての返し。
拳撃を左前腕で受け流した良造は、そのままクルリと手首を翻し、流護の服の袖を掴む。そして自らの胸元へ引き寄せる。その状態で、良造の右手が下からアッパーの軌道で迫ってくる。
「ッ」
掴まれた状態では避けきれない。多少の被弾は覚悟で無理矢理躱そうとした瞬間、伸びてきた求道者の豪腕は流護の襟元を掴んでいた。
(! 打撃じゃ、ねえ――)
そしてほぼ同時とすら思える速度で、彼は掴んだ襟を引き込みつつ、流護の下方へ――懐へと低く深く一歩。
剛の塊にしか見えぬその男は、そこで究極の柔を打ち放った。
それはまるでたおやかな風か、それとも水流か。
その挙動には、強引さの欠片もない。まるで良造に導かれたかのように、流護はガクンと前のめりに体勢を崩す。
そして。
「――――な……!」
気付けば良造の腰、背に乗り上げる形で、流護の両足は地を離れていた。
(背負い……ッ!)
完成された一投。
精緻なほどの弧を描き、九十キロに迫るはずの流護の肉体が易々と宙を舞う。頭が下に、脚が上に。刹那に人体が逆さになるという現象は、まるで奇術か妖術の域。数瞬の後には、残り九十度の角度を描き切り、激しく地面へ叩きつけられるだろう。
(受け、身――、いや、)
取れば間に合う。しかし、その時点で手遅れだ。
下は硬い遊歩道。ダメージは免れない。
さらには横倒しに接地したが最後、上から押さえ込まれたなら絶対的に不利となる。相手は柔道の有段者なのだ。
ならば、
「う……おぉぉッ、らぁ!」
投げられた勢いすら利用し、倒れ込みを断固拒否。
ブリッジに近い姿勢で、流護の両足がダン! と地面を踏み締めた。無理矢理にもほどがあったが間に合った。と、安堵する暇すらない。
「!」
当然、上から組み敷こうと反応する良造の鼻っ柱へ、
「シッ!」
頭突き。
空手、柔道、ボクシング――どの競技であっても文句なしの反則となるその一手に、
「っ!」
ゴヅン、と硬い音が木霊する。
突き出された流護の額を、良造は同じく頭突きで迎撃していた。
「……ッ!」
目の前に星が散りそうな衝撃。
掴まれていた袖や襟元――良造の指がかすかに緩み、流護はここぞとばかりに身を捻って脱出する。
間合いを整え、再度対峙。
両者ともに、額から軽く出血していた。
「参るぜ、桐畑さんよ……当たり前みてーに頭突きにまで対応しやがって。ラウェイでもやってんのか」
「フ、興味はあるな」
両者の吐く息が、白く霞んで夜空へ消えていく。双方の額から、赤いぬめりが滴り落ちる。
「……、」
伝ってきた血が目に入りかけ、流護は咄嗟に左手で拭った。
機。動いたのは良造。
それも霞むような速さの踏み込みから、
「ッ!?」
スウェーで辛うじて躱した流護の鼻先を撫でていったのは、運動靴のつま先。ジャブもかくやといった速度で放たれたそれは、右の上段廻し蹴りだった。
(な……!)
しかも一撃ではない。
「シイィッ――」
不発の勢いすらも身体の回転力に変換し、良造は鉄筋じみた脚で二度三度と流護の顔面を狙う。その姿はさながら凶悪な独楽だった。
(ふざっ……、何だこの速さ!?)
廻し蹴り、廻し蹴り、廻し蹴り。横薙ぎに飛んでくる剛脚、その全てをギリギリの一線で避けながら、流護は戦慄していた。
先ほどの拳よりも速い。より攻撃に特化することで無駄が削ぎ落とされ、結果として速さに繋がっているかのような。
それでいて体幹や型はまるで崩れない。完成された手本のごとく、しかしそう呼ぶにはあまりに殺人的な連舞連撃。カウンターを差し挟む余地もない、爆撃めいた怒濤の攻勢。
(! ダメだ――)
かつて『攻撃が当たらなくなる』とまで評され、組手すら嫌厭されるようになった有海流護が、
(こい、つは……っ)
過酷な異世界での経験を糧に、度胸や膂力を磨き上げたはずのリューゴ・アリウミが、
(避けきれ、ねぇっ……!)
そう結論するまで要した時間は、わずか三秒だった。
「グッ……!」
幾度目かのしなり飛んできた右足甲。
その一撃をやむなく掲げた左腕でブロックすると、およそ九十キロに届こうという流護の肉体が容易に傾いた。
「が、ぁ……!」
夜の公園に木霊する、重い炸裂音じみた響き。防御ごと薙ぎ倒されかけ、脚を捕るどころではない。
(……こ、れが……!)
ボクシング寄りだったこれまでとは一転、完成された蹴撃の嵐。
(これが『お前』か、桐畑ァ……!)
これが本来の桐畑良造。
かつての自分では引き出すことの叶わなかった、この男の本気。
「へっ……!」
自覚する。
『オメーは逆だ。結果より経過。勝敗関係なく、戦闘を楽しむタイプ。イヤ、負けるかもしれねェとなりゃ余計に燃え上がるタイプだ』
かつてあの獄炎の超人に言われたように。
有海流護は今この瞬間、間違いなく笑んでいる己を自覚した。
「ふっ!」
すかさずの追撃。
よろけた流護に対し、鋭い呼気に合わせ、良造が腰溜めの左拳を打ち放つ。
「シッ!」
舐めるな。差し込める。好機。判じた流護が、カウンターとなる左の拳を一閃する。
直後、地震に似た衝撃が世界を揺さぶった。
がづん、と鈍く重苦しい反響が耳朶を叩く。
(あ、れっ)
ぐらつき、跳ね上がる視界。夜空に浮かぶ街灯の光に交じり、チカチカと舞い散る火花。
(……やっ、べ)
もらった。カウンター失敗。直撃を受けてしまった。
「―――― …… 」
空白に染まり、遠のく思考――、
「か、はっ……!?」
足をもつれさせながら、辛うじて踏み留まる。重力に誘われるまま横倒しになろうとしていた身体を、すんでのところで立て直す。
(や、やべぇ……、今っ)
落ちていた。
間違いなく、瞬間的に意識が断絶した。
時間にして数秒か。だが、されど数秒でもある。
良造が畳みかけるには充分な隙を晒してしまったはず。なのになぜ、自分は未だ無事に立っているのか――
「!」
そんな流護の疑問は、相手を見ればすぐに解消した。
口の端から伝う血もそのままに、構え直そうとしている良造の姿。その顔に浮かぶ一瞬の疑問符、すぐに得心のいったような気配。地面に刻まれた、擦って後退した足跡。
(っ、相打ちか……!)
一方的な失敗ではなかった。こちらの一撃も当たっていた。互いの顔面を殴り合っていたのだ。頬にひりつく痛み、左拳に手応えを感じながらも安堵する。
それにしても――浴びた衝撃、途切れる意識。飛び起きたような覚醒から追撃が来なかったことに対する疑問、その解決まで、この一瞬の間にそれらを共有していたのかと思うと、妙な笑いが込み上げてきそうだった。
(ったく、参るなおい……!)
これがあの天轟闘宴だったなら、首のリングが解けて敗北扱いになっていたかもしれない。
「……」
「……」
火の出るような攻防から一転、訪れる静寂。互い、中間距離で睨み合う。
どちらも一時的に足が動かないのだ。この間に回復を図りつつ、次の手を模索しなければならない。両者の奇妙な鏡映は、今なお続いているといえた。