335. 狂を宿す
遡ること半年と少々。高校一年生にして空手部のエースと目された有海流護は、初めての県大会に意気揚々と出場した。
一回戦、二回戦、準決勝。
師である片山十河が太鼓判を押した、持ち前の体捌き。天性の読み。十年以上にも及ぶ経験。これらを最大限に発揮し、流護は苦戦らしい苦戦をすることもなく順当に勝ち上がっていった。
たどり着いた決勝。
そこに、人の形をした恐るべき『何か』がいた。
『噂は聞いている、有海流護。俺の技が当たるのかどうか。正直、震えているよ』
対峙した巌のごとき無骨な男は、流護を前に薄く笑った。
そこから先の、記憶がない。
顔面打ちは禁止されている。過度に緊張していた訳でもない。それでも――
胸にもらった強烈な突きからの、怒涛のラッシュ。秒殺での敗北という苦い現実が。流護から、自負や自信といったものを根こそぎ奪っていった。
上には上がいる。自分が一番、などと自惚れていた訳ではない。それでも、同じ県内――こんな狭い田舎町の範囲ですら、自分は埋もれてしまう程度だったのだと。
桐畑良造というこの男には、勝てないのだと。
そう、突きつけられた。
「……何で……、こんなとこに、いんだよ……。駅二つ分も離れてるだろ、あんたの地元は……」
引きつった笑みが浮かんでいるのを自覚しながら、流護はやっとの思いで口を開く。
「この夏……武月流の道場を訪問させてもらった」
対する良造の返しは答えにこそなっていなかったが、流護が息をのむに充分だった。
なぜこの男が、自分の通っていたあの道場に――?
「どうにも世情には疎い性質でな。片山氏と話して初めて、お前が行方知れずとなっていたことを知った」
「は……そりゃまた、なんつーか……」
少し何かあればインターネットに情報が載るこのご時世、無関心にもほどがあるというものだ。
「有海流護。お前と拳を交えた、あの春の一戦……。俺は、どうにも釈然としないものを感じていてな」
わずか十数秒、圧倒的に勝負を決めていながら、何が気にかかるというのか。
「運が良かったんじゃないのか。俺は偶然、猛獣の牙に掛からず済んだだけなんじゃないのか。お前という男は――実は、『俺と同類』なんじゃないのか、とな」
厳めしい造形をした良造の顔に、初めて笑みと呼ばれる表情が浮かぶ。しかしそれは、朗らかな『楽』とは程遠い。牙を剥く獣じみた、獰猛と表現すべき凶相だった。
「いつか、有海流護は戻ってくる――片山氏の言葉通りだったようだ」
「はっ……そんなこと言ってたのか、あの妖怪ジジイ……」
「真に受けた訳でもないが……気付けば、お前がロードワークに利用していたというこの場所まで足を延ばすようになっていた。その内、不意に遭遇することもあるかもしれん――などという期待を抱いてな」
そしてその予感は今、現実のものとなった。
「数日前、こっちの商店街で喧嘩騒ぎがあったらしいな。あれはお前だろう」
そこまで分かっているのなら、漠然と抱いていたのかもしれない。想定していたのかもしれない。
今、この瞬間の訪れを。
「半年前のあの一戦……俺の勝利で終わったとは思っていない」
良造がその心情を吐露すると同時。辺りの空気が、重みを増したように感じられた。
「取り込み中のところ、邪魔を承知で言おう」
流護を捉えていた鋭い眼光がベルグレッテに矛先を移したのも、ほんの一瞬のこと。
「――有海流護。今ここで、お前との立会いを所望する」
耳が痛くなるほどの静寂。
「……タチアイをショモウて……、いつの時代の人間だよ……」
茶化しながらも、流護はひりつくような緊張を感じていた。眼前の桐畑良造に圧倒されていた、と言い換えてもいい。
――どうかしてるぞ、こいつ。
目の前に立つトレーナー姿のごつい男に対し。ただそんな思いが、流護の胸の裡を塗り潰していた。
(こいつ、は……)
決定的に、何かが違っている。
狂っている、とすらいえるかもしれない。
流護が行方不明となっていた経緯や、こうして舞い戻ってきた現状、そして隣にいるベルグレッテには、まるで関心を示していない。
いつ有海流護と遭遇しようとも、その場で闘えるよう備えていた。ただ、それだけ。
思えば、県大会の決勝でこの男を前にした瞬間、肌で感じたのだ。
まるで別の生物だ、と。
例えば、空手をやっている理由からして違う。
気持ちのいい汗を流すためだとか、高校生活を彩る青春の一ページとしてだとか、健全な精神や肉体を築くためだとか、ケンカが強くなりたいだとか――ではない。かつての流護のような、誰かのために自己を高めたいのですらない。
言うなれば、己の生き死にを分かつ要素の一つ。
拳を振るうことによって、生きるか死ぬか。殺すか殺されるか。そんな場所を求めている。そんな気概をこの男は秘めている、と感じたのだ。
そして、約半年ぶりに対峙した今。
(変わってねぇ……、いや、それどころか――)
グリムクロウズという異世界で流護が経験した、命を賭した闘い。殺意も露わに襲い来る敵。現代日本のいち高校生にすぎないはずの良造は、そんな向こう側の住人たちと比較しても何ら遜色ない気配を纏っているように思えた。
「……意外だよ、桐畑。あんたは……瞬殺した俺のことなんて、とっくに忘れちまってるもんだと思ってた……」
「あの試合以降、常にお前のことを考えていた。ノールールで再戦したなら、果たしてどうなるだろうと」
「…………」
離れた位置にそびえ立つ野外時計を確認する。現在時刻、八時四十八分。
「……ベル子」
流護は、眼前の異質な求道者を見据えたまま、隣の少女騎士へと呼びかける。
「時間がない。こいつに構ってる暇はない。行こう」
きっと、そう言わなければならなかった。
しかし、実際に吐き出された言葉は違っていた。
「先に行っててくれ」
「……っ!?」
ベルグレッテが息をのむ気配が、はっきりと伝わった。
「こんなことしてる場合じゃねえよな。けど……こいつなんだ。こないだ話した、俺が負けた相手って」
これほど異常な奴が相手じゃ、勝てなくても仕方ない。
そんな風に、自分を慰めた。
何も将来この道で食っていこうとしてる訳でもなし、本気で入れ込んでるような奴に敵うか。俺だってもっと真面目にやれば、それぐらいできるんだ。やらないだけで。
そうやって必死に、言い訳を探して。
けれど絶対に超えられそうもないことを心のどこかで認めていて、その証拠に荒んだ生活を送って。
「こいつと闘れるのは、もう……今、この時しかない……」
グリムクロウズでの生活を経験し、再びあの地に舞い戻ることを決意した今、かつて考えていた言い訳は通用しなくなった。
この拳は、己や他者の命をも左右した。その働きによって、異世界での日々の糧を得ていた。いつしか、この道で『食っていた』のだ。本気で打ち込んでいたのだ。
そして。これからあの異世界へ舞い戻り、またこの拳でやっていくつもりでいる。
――もう、終わったことだと思っていた。
桐畑良造という天才空手家に敗れ、道を見失っていたのは過去の話。
今の有海流護は、異世界のレインディールに所属する遊撃兵。
振るった拳が評価され、感謝され、自らの存在価値を得るに至った。これからもあの世界で戦い続けて、ベルグレッテや周りの仲間たちを支えていく。
だから、無様に負けた過去なんてどうでもいい。もう、関係がない。
そう、思っていた。
「…………ッ」
思っていた、だけだった。
過去のこと? どうでもいい?
そんなはず、ねえだろ。
負け犬のまま終われって? 冗談じゃねえ。
そんな風に、負けたことをあっさり割り切れる格闘家がいるかよ。
ふつふつと、胸の奥底からそんな思いが湧いてくる。
これから舞い戻った異世界で、この男のような強敵に出会ったら?
生死を分かつ闘いにおいて、「勝てません」では済まないのだ。
グリムクロウズに戻って、皆との平穏な暮らしを望むなら。
これからの有海流護は、きっと最強でなくてはならない。
「……ち、てえ」
自然、歯を食いしばっていた。欲求が噴出してくる。
彩花のことと同じ。考えないようにしていただけだ。この世界へ戻ってきてからも。
良造を前にしただけで、格闘者としての自我が堰を切ったように溢れ出す。
「……勝ちてえ」
夢に見た。何度も。何度も何度も何度も、悪夢を見た。
遊撃兵として強くなったはずの自分が、結局はこの男に敵わない夢を。
目を覚ますたび、どうでもいいと自分に言い聞かせた。今の自分なら勝てるはずだと心を慰めた。
しかし。
今、実際に目の前にいる。
そんな呪いのような過去が。
「俺は、勝ちてえ……!」
本当に今の自分が、この男を超えているのか。
実際に、確認することができる。
否。
今、このときを逃せば――――次など、ない。
この世界へ舞い戻ってから、逃げてばかりだった。目を背けてばかりだった。
彩花のこと。そしてきっとほぼ無意識に、この男からも。
「……ベル子。ガラにもねーこと言うけどさ。もし俺に……この世界に戻ってきた理由ってのがあるなら……。コイツに勝って、先に進むためなんじゃないか――ってすら思えてきたっつーかさ」
流護は返答を待たず、背負っていた荷物を放り出した。
「頼むベル子。五分で追い付く」
「! で、でもっ」
「ベル子が、プレディレッケを倒して成長したみたいに……俺は、この男に勝って先に進みたい」
「そっ、そんな……こと、言われたら……、っ」
渋々頷いた少女が、観念したように一歩前へ進み出る。押し問答をしている時間すらないのだ。
「……あの場所で待ってるわ。間に合わなかったら、承知しないからねっ」
「大丈夫だ。絶対間に合わせる」
最後に小さく頷き、少女騎士は小走りで駆けていく。遊歩道の中央で石像のように立つ良造の横を通り抜け、振り返らず闇路の向こうへ消えていく。
「異国の女性か」
かすかに背後を意識する素振りを見せながら、良造がそう呟いた。
「イ、イコクのニョショウ、て……まじいつの時代の人間だよ、お前は」
「フッ」
誰もが目を奪われるだろう、何者なのかと思ってしまうだろう神秘的な美少女に対する良造の反応は、それだけ。この男は徹頭徹尾、有海流護『のみ』しか見据えていない。一緒にいた彼女がどういったかかわりのある人物なのか、といった点にはまるで興味を示さない。
「自分でも思うことがある。俺は、生まれてくる時代を間違えたんじゃないか――とな」
そしてゆるりと、良造の両腕が掲げられた。
「感謝するぞ、有海流護――」
現代という世界において異質すぎるその武人が、臨戦体勢を整える。
アップライトにどっしりと構えたその姿は、まるで重戦車。放たれる拳足が大砲のごとき一撃必殺であることは知っている。受けもまた、装甲めいた鉄壁ぶりを誇ることは想像に難くない。
「…………んじゃ、始めますかね」
対する流護はノーガード気味に構え、その場で軽快なステップを踏み始めた。
今更ながら、こうして『動く』となるとやはり実感する。
懐かしくすらあった。
あの異世界とはまるで違う。一瞬で間合いを詰めることも、馬と変わらない速度で走ることも、自分より遥かに大きな相手を一撃で殴り倒すこともできはしない。
これが現代世界。これが異世界のリューゴ・アリウミではない、本来の有海流護。
それでも、かつてとは違う。
異世界で培ってきた経験は、確実に糧となっているはずなのだから。
それを――証明する。
「南崎会館、二段。桐畑良造……参る」
軋む岩脈のごとき、重厚な名乗りだった。
「武月流空手、二段。有海流護……受けて立つ……!」
自然、答えていた。
互いに睨み合うこと数秒。静かに立ち込める冷え冷えとした夜気。
裂くように地を擦る足の音。
先手、有海流護。
「シッ!」
左足で踏み込むと同時、直線の左ジャブを疾らせる。
上段に構えられた良造の太い両腕、その合間を縫って顔面へ。グローブを装着した競技ではない。素手は、ピーカブー気味なその隙間を『通る』。つまり、きちんと防がなければならない。反応した良造はかすかに右腕を振ることで、この牽制を打ち払う――
「ぬ!」
ことはできなかった。
バチン、と夜の遊歩道に乾いた音が響く。
流護の左は、一撃で良造のガードを突き崩していた。
「……ッ!」
大きく弾かれる右腕、しかめられる厳つい目元。岩のような男が、あの桐畑良造が、驚愕の表情を露にする。
手応えは充分。距離計測も想定通り。
追撃の右を腰溜めに備えながら、流護は確証を得た。
(俺は、もう)
違うのだ。
この春とは、肉体の質が。日常の大半を鍛練に費やし、厚みを増した筋量。八十キロに満たなかった体重が九十近くまで増大するという、当人にすら不可解なウェイトアップ。
そして同じく、違うのだ。
胸の裡に抱いた、闘う理由が。
今やその拳には、己や護るべき人の命運がかかるようになっている。たかが一度躓き、ふて腐れていた頃の有海流護はもういない。
幾度も命がけの実戦を繰り返したことによって磨き上げられた、胆力と対応力。いかに良造が異質な気概を備えていようとも、そこは現代という平和な時代に生きる日本人。
もう、違う。
何度も繰り返し見た悪夢ではない。今この瞬間は、現実。
この男を乗り越え、先へ進む。
勝って、有海流護は次のステージへと進む。
(――獲る)
にわかに傾いだ良造へ対し、流護は即座に右拳を打ち放つ。異世界の様々な強者を――異形の怪物すらをも仕留めてきた拳撃が、良造の頬を射抜く――
ことはなかった。
「――!?」
右の正拳は、何もない空間を突き抜けて。
身を屈め、ぐるりと頭を回すことで一撃をいなした良造が、下から鋭い眼光で睨み上げる。
(ダッキング……!)
その重厚な体躯からは想像もできないほど、流麗で瞬発的な挙動。
瞠目した刹那、
「――、」
硬い衝撃、ぶれる景色。
強烈な振動が流護の顎を、ひいては脳を揺さぶった。
「……、……か……は!」
震える膝。迫る地面。何度も見た悪夢と同じように、身体が傾く。
揺れる視界の隅に、流護は見た。
ショートフックの軌道で回し打たれていた、良造の太い左腕を。
たまらず身体をくの字に折った流護の真上から、失望の篭もった重い声が降る。
「――――鈍ったな、有海流護」




