334. 再会
一歩一歩、踏み締めるように夜の街を歩いていた。
住宅地をぼんやりと照らす薄汚れた街灯。家々の窓から漏れる明かり。通り過ぎていく車のエンジン音。すれ違う人々。頬に冷たい夜風。
これまで幾度も経験してきた、日本の……故郷の冬。
特筆すべきことなど何もない、ごくありふれた日常の一幕。
それら全てが――有海流護にとっては、見納めないし聞き納めとなる。
これが最後。
現代日本のあらゆるもの全てを記憶へと焼きつけるように、流護は辺りに目を巡らせながら歩く。
「…………、」
いきなり訳も分からず転移していた、半年前のあの夜とは違う。
今度は、自分の意志でこの場所を……世界を去ろうとしている。きっともう戻れないと知りながら、再びグリムクロウズへ行こうとしている。
家族や、世話になった人たちを置き去りにして。
「……リューゴ、その……」
おずおずと口を開くのは、隣を行くベルグレッテ。
カジュアルな服装の少女騎士は、流護の表情から察するものがあったのだろう。
「……あの……その、やっぱり、あなたは……」
「何だよベル子さん。まーだ『やっぱりあなたは残ったほうがいい』とか言おうとしてんじゃねーだろな」
「……う」
「あんだけ盛大なお別れイベント起こしといて戻れるほど、ツラの皮厚くねーぞ俺は。つーかさ」
少し曇って月なき夜となった空を見上げながら。少年は下手に強がることなく、素直に独白する。
「そりゃあさ、未練はあるよ。あるに決まってる。くっそ田舎で遊ぶ場所もなくて、店には欲しい商品もロクに揃ってなくて、ぶっちゃけマジで何もなくて。こんな地元そのうち出てってやる、って思ったことも多かったけど」
いざこうして、本当に離れるときが訪れて。
「俺……自分の生まれ育ったこの場所が好きだったんだな、って思う」
そう、客観視することができた。
「リューゴ……」
「でも……未練はあっても、もう迷いはねえ。自分の意志で選んだ。決めたんだ」
あの異世界へ舞い戻ると。あのグリムクロウズで戦い、生きていくと。
「俺は、向こうでやってくって決めた。俺自身がさ、そうしたいって思ったから行くんだよ」
熱い漫画の主人公のような、気のきいたセリフも出てこない。それでも不器用ながら偽りない本心を告げると、
「……ん、分かった。もう言わない」
ベルグレッテも、どこか吹っ切れたように微笑む。
「レインディールとしては、あなたがいてくれればこの上なく心強い。所属する騎士の一人として、その決断に感謝するわ。……そ、それに」
躊躇するような間が一拍。
「…………私個人としても、その……嬉しい、から」
本当に小さく、聞こえるか否かといった呟き。
「お、おう……」
前後のそのギャップに、少年は思わず憤死しそうになってしまった。
「そっか。そ、その……ありがとな、ベル子。えーと、これからもよろしく、ってことで……」
「うっ、うん……こ、こちらこそ?」
遠くから聞こえてくる犬の遠吠えや車の音を聞きながら、どちらからともなく少しだけ手を繋ぐ二人だった。
「よし、着いたぞ」
「ええ……」
そうして流護とベルグレッテは、笹鶴公園脇の遊歩道にたどり着いた。十日前、前触れなく戻ってきて以来となるその場所。
ボウと光る野外時計に目をやれば、時刻は八時四十五分。例の人物のメッセージが確かなら、十五分後の九時になれば何かが起きるはずだ。
「リューゴ、その……いいの? ユズさんは」
「……ああ。いいんだ」
ここへやってくる少し前のこと。流護は最後に、部活のマネージャーである宮原柚へメールを送った。また旅立つことになった、と。ベルグレッテ共々世話になったことを含め、流護にしては珍しい長文をしたためて送信した。
直後、すぐに携帯電話の電源を落とした。メールの返信や折り返しの電話を受けないようにするためだ。
(すんません、宮原先輩……)
どんな返事であれ、今は……泣いてしまいそうだったから。
遊歩道を進み、公園へ近づいていく。近辺に人の姿はない。
「さて、公園のどの辺で待ってればいいんだろな……。結構デカイぞ、ここ」
一口に笹鶴公園、といってもかなりの面積がある。細かな場所の指定はなかった。
「最初に私たちが迷い出た場所……のあたり、とか?」
「そうだな……行ってみるか」
異世界の城の地下からこの現代日本へ舞い戻ったときに放り出された、公共トイレ裏側の植え込み周辺。特別な何かがあるような場所とも思えないが、最初にやってきた地点へ行ってみる、というのはあながち的外れでもないだろう。他に心当たりもない。
目的地を定めつつも周囲に気を配り、歩き始めた――直後だった。
「……、誰か、来るぞ」
植え込みの向こう。遊歩道をこちらに向かって走ってくる、一つの人影。
メッセージを送ってきた例の人物か、と一瞬身構える。
が、どうも違う。
流護たちに向かってくるのではない。規則正しいフォームで、黙々とジョギングをこなしている印象だった。流護も以前、夜にこの遊歩道をコースにしていたことがある。とはいえ、当時は自分の他にここを走る者はいなかったのだが――
疎らな街灯に照らされ、おぼろげだったその相手の姿が明らかとなる。
「――――――――」
そして有海流護は、完全に言葉を失った。
心臓が跳ね上がる。思考が空白に染まり、こちらへと走ってくるその相手を――男を、自分と同じ年頃の少年を、ただ呆然と見つめ続けた。
それで、向こうも気付いたのだろう。
「――ほう」
低く、野太い声。
トレーナー姿のその男は、二人の――否、流護の前で足を止めた。
「……、お前…………」
やっとのことで絞り出された流護の声は、ひび割れたようにかすれていた。
知っている男だった。
去年まで中学生だったとは思えない、凄まじく分厚い躯。トレーナー姿であっても、全身に重厚な筋肉を搭載していることが見て取れる。刈り上げた短髪、削り出した岩じみた無骨な顔、それを支えるあまりに太い頚。眼光は猛獣にも似た迫力を帯びており、只者でないことは一目瞭然だった。
ただ呆然と、流護はその相手の名を呟く。
「桐畑……良造――……!」
 




