333. 惑い駆ける少女たち
「はぁー……」
芹沢七菜は一人、とぼとぼと夜の国道沿いを歩く。
携帯電話をチェックすると、もうすぐ夜の八時半。今日は部活がなかったので、友人たちと色んな店をハシゴした。服などを見て回ったが、相変わらずいまいちとしか表現しようのない品揃え。だが、次の日曜には彩花たちと御山津へ行く予定となっている。この田舎丸出しの地元とは比べものにならないほど大きな街なので、今から楽しみだった。
「はぁー……」
しかし七菜は現在、どうにも盛り上がりきらない気分でいた。
(……やっぱ、モヤモヤするなぁー……)
昼休みの、姉との電話。
『流護』という、少なくとも同じ田舎町に二人といないだろう名前の人物への誕生日ケーキ。
(彩花は……何も知らなそうだったし)
七菜としては、有海流護のことそのものについてはどうでもいい。単に、気になったことは知らないと落ち着かないタイプなのだ。テレビ番組でも、「真相は現在究明中である!」などと締め括られるとガッカリしてしまう性格なのだ。
(帰ったら、お姉にもうちょっと詳しく訊いてみよ……)
そんな風に考えごとをしながら歩いていたためだろう。
曲がり角でいきなり何かにぶつかった七菜は、跳ね飛ばされたように大きくよろめき、思いきり尻餅をついてしまった。
「痛っ……たたた、っ!?」
つい最近同じようなことあったぞ、と座り込んだまま顔を上げて、思わず絶句する。
相手は、魔法でも使ってみせそうなイケメン外国人――ではなかった。がっちりした体格の厳つい男が、自分を見下ろしていた。
上下紺色のトレーナー姿。ランニング中の出会い頭にぶつかってしまったのだろう。かなり若く見えるが、冗談の通じなさそうな無骨な顔。さっぱりと刈り上げた短髪。その下に続く首は同じ人間とは思えないほど太く、ジッパーを上げきっていない胸元から覗く白いシャツは、弾けそうなほど膨らんでいる。
「あ、あの……ごっ、ごめんなさ――」
どう見ても怖い人だ。その迫力と威圧感に耐え兼ねた七菜が言うより早く、
「すまない。大丈夫か」
男のほうが、すっと右手を差し延べてきた。
見た目に似合った低い声と、
(……っ、な、何、この……手……!?)
腫れ上がった、凄まじく分厚い手のひら。不自然なほどに隆起したタコ、太く膨脹した指。そして、大小様々な傷痕が目立つ甲。一体、何をどうしたらこんな形になるのか。岩だ。岩人間。
「あっ、ありがとうございます……」
まじまじと見つめて相手の機嫌を損ねるのもよろしくない。素直に手を取れば、予想通りごつごつとした手触りを感じると同時、その腕一本で軽々と引き起こされた。
「気付くのが遅れた。すまなかった」
「あっ、いえ……」
「では失礼する」
通り過ぎていくその男の横顔を見て、初めて気付く。耳が……捻れている、と表現すればいいのだろうか。自分や周りの人々とは違う、耳が膨れ上がったような潰れたような、とにかく奇妙な形をしていた。まるでカリフラワーのようだ。
(すっご……何したらあんなんなるんだろ)
軽快に走り去っていく後ろ姿を眺めながら、七菜は胸中で呆然と呟く。と同時、
「あー、もう……!」
うんざりと溜息を吐き出した。
有海流護のことでボサッとしていたせいだ。
(何であたしが、こんな考え込まなきゃいけないんだか……。帰って、お姉に詳しく訊いてみよっと)
今更だが彩花も、あんな男のどこがいいのか分からない。もっとも、それが『幼なじみ』というものなのかもしれないが。
彩花は一時期、部活の先輩から告白されたとのことで、お似合いの二人だと周囲からはやし立てられたことがあった。その上級生は容姿端麗で性格もよく、七菜としても正直同意だった。そのままくっついていればよかったのに、と今でも思っている。
しかし一体何が不満なのか、彩花は断ってしまった。
結局のところ、彼女は『幼なじみ』しか見ていなかった。きっと、本人ですら自覚のないままに。
七菜から見た有海流護の人物像は、「掴みどころがない」の一言に尽きる。顔は普通。女性寄りだが地味めで、まあよくも悪くもない。角度によってはかっこよく見えなくもない。性格も目立たず、友人はさほど多くない印象。
子供の頃から空手をやっていて引き締まった身体つきをしていることもあり、いわゆる不良グループも彼を特別視していたようだった。それはよくある漫画設定のような『一目置いている』といったものではなく、『いない者として扱う』という印象。気軽に悪ぶって強いふりをしたい彼らにしてみれば、本当に強い有海流護は邪魔なのだ。力づくで排除できないなら、無視するしかない。結果として双方我関せずで、トラブルが起きたという話も聞かないのでそれでいいのだろう。
流行りものには疎い印象で、同級生と一緒になってはしゃいだりすることは少なく、変に冷めているというか大人びているというか――
(見た目とかは全然違うんだけど、さっきの人にちょっと似てる感じかな……)
そうして何気なく振り返った七菜は、
「――――――――――え?」
愕然として、その場に立ち尽くした。
肩にかけていた鞄がドサリとアスファルトへ滑り落ちたが、それを気にする余裕もなかった。
七菜が見つめる先は、大通りを隔てた向こう側にあるコンビニ。
そこから、ひょっこり出てきたのだ。
私服姿の有海流護が。
まさにたった今思い浮かべていた、半年前に突然行方不明となってそれきりだった、あの同級生の男子が。
「……、――――え? えっ?」
いなくなったはずの少年は、白いビニール袋を片手に、すぐ脇の小道へと入っていく。
「え? は? え、うそ…………でしょ?」
慌てて追い、そして見た。
車が行き交う道路の向こう。
何やらごてごてしい荷物を担いだ有海流護と、ギャル風な服に身を包んだ絶世の美少女を。二人は親しげに何事か話しながら、そのまま並んで歩いていく。闇の中へと消えていく。
「――――――」
ここで七菜の脳内に浮かんだ思考はたった一つだった。
即ち、
何してんだ、お前。
(あ……彩花が、どんな気持ちで……あんたを待ってると、なんで、どうして、この――)
どうしようもない、震えがくるほどの、純粋なまでの怒り。なりふり構わず大声で叫ばなかった自分を褒めたいほどの。
「~~~~~~っ」
後を追って捕まえて問答無用で頬を張り飛ばしてやろうかと思ったが、そこでハッと我に返った。
目の前の国道は、こんな時に限ってかなりの数の車が行き交っている。
(えーい、くそ! 向こうの信号まで行かなきゃ……!)
落とした鞄を拾いに戻り、駆け抜けざまにコンビニ脇の小道へ目を向けるが、もう二人の姿はない。焦れる思いで信号が青に変わるのを待ち、横断歩道を全力で走って渡る。
「はっ、はぁっ……!」
二人を目撃した地点にようやくたどり着くが、当然すでにいなくなっている。暗い小道に入り、少し進んでみるが――
(だめだ、完全に見失った……)
さらに枝分かれしている住宅街の細道をいくつか覗いてみても、彼らの後ろ姿は見当たらなかった。そもそもこの一帯は、流護や彩花の家からは少し離れている。コンビニなら、もっと近場に一軒あったはずだ。品揃えは変わらないし、わざわざ徒歩でこの店舗を利用しにくる理由がないように思える。
ついでにいえば、一緒にいた外国人と思しき美少女は何者なのか。流護……に限らず、一介の高校生にあんな人物と知り合う切っ掛けがあるものなのか。
つまり、
(人違い……だった……?)
見覚えのある私服だった。顔もはっきり見た。
それでも、そんな不安が湧き上がってくる。
「!」
そこで、七菜は自分のほうへ歩いてくる人物に気がついた。
高みの街灯に照らされ、次第にその容貌が明らかとなる。スーツ姿の若いサラリーマンだった。もしかしたら、この人が二人を見ているかもしれない。
「あ、あの、すいません!」
七菜は、ほとんど反射的に声をかけていた。
「ん……?」
一方でサラリーマンは足を止め、不審げに眉根を寄せる。こんな時間にこんな暗い場所を一人でうろつく制服姿の女子高生が相手となれば、その反応も仕方なしかもしれない。
そんなことを気にする余裕もない七菜は、急かされたようにまくし立てた。
「人を見ませんでしたか!? えっと……」
そこで捜し人の外見を思い浮かべて、言葉に詰まった。
先ほど考えていた通り。流護の見た目は、際立った特徴のないどこにでもいる少年なのだ。
「うーんと、あたしと同じくらいの歳の男子……なんですけど……」
「え? うーん……」
「地味な感じで、あと隣に女の子がいて……」
「んー……カップルか何か? でも、それだけだとねぇ……」
そこで七菜はようやく閃いた。
「隣に、すごくきれいな外国人っぽい女の子がいて。髪の長い、ギャルっぽい服装の。あと、やたらといっぱい荷物持ってて!」
「あ、あー……うん、それっぽいのだったら見たな。向こうの方に歩いてったよ。今頃、あっちの大通りに出てるんじゃないか」
「ありがとうございます!」
言い終わらないうちに駆け出す。
流護がパッとしない外見で説明しづらいなら、一緒にいた超絶美少女を目印にすればいい。サラリーマンの指した道を抜けると、またも大通りに面した一角に出る。そして、
「……ぜっ、はぁっ、……い、いた!」
見つけた。
反対側の歩道。地味な日本人の少年と、その隣を歩く外国人の美しい少女。かなり遠いが、
(やっぱり間違いない……、有海だ……!)
服装や外見、そして歩き方。人違いでないことを確信する。
「おいっ、有海ぃっ――!」
今度はほとんど反射的に叫んでいた。
しかし車の行き交う大通りを挟んではやはり届かないのか、まるで気付く様子はない。こちら側の歩道を行く学生数人の注目を集めるだけになってしまい、苛立たしくも恥ずかしい思いをするだけだった。
後を追おうと膝に力を込める七菜だったが、
「また、信号……っ」
二人がいるのは、またしても大きな車道を挟んだ向こう側。運悪く歩行者信号も赤に変わったばかりらしく、せき止められていた車の流れが一斉に動き出している。
ついでに、インドア派な七菜の体力はもう限界だ。自慢ではないが、短距離走・長距離走ともに後ろから数えたほうが早く、体育の成績なんてものは昔から2で安定している。
信号が変わるのを待って追いかけても、また同じことの繰り返しになりそうだ。
そうこうしているうちに、二人は建物の角へと差しかかっていく。やってきた長いトラックが、ゆっくりと五秒ほども目の前を遮る。立ち込めた排気ガスが霧散する頃には、彼らの姿は影も形もなくなっていた。
「はー……、はぁ……っ、げほ、げほっ」
排気ガスを存分に吸わされて、肩で息つく七菜の内面を占めたのは――
「……、もう、いい……」
諦めと、
「ふざけんなっての……!」
限界に達した静かな怒りだった。
有海流護。あんた、何してんの。
ワケ分かんない女連れて、当たり前に街中歩いて。
その前にまず、やることがあるでしょ。
あの子が……あんたの幼なじみが、どんな気持ちでこの半年近くを過ごしてきたと思ってんだ。
あんたの帰りを待ち続けて。あんたが生きてることを信じ続けて。いなくなったあんたって存在に、どんだけ縛りつけられてたと思ってんだ……!
そんな耐えがたい感情に突き動かされた七菜は、迷わず携帯電話を取り出した。
本人を捕まえて引っ叩いて、言い訳を聞いてから、なんて考えは吹き飛んでいた。
これからかける相手は、よく話す親友。電話帳を探すまでもなく、すぐにリダイヤルで発信できる。
通話アイコンをタッチし、呼び出し音が鳴ること数度。すぐに応答があった。
「もしー、あなたの七菜ちゃんだけど……!」
なに言ってんの、息切らしてどうかしたの、と。
向こう側から聞こえてくる、いつも通りの声。『いつも通り』になってしまった、少し元気のない声。けれど少しでも、その声が……態度が、昔みたいに戻ってくれるのなら。
「あのさ。ちょっといい? あたしがこれから話すこと……落ち着いて、驚かないで、聞いてくれる?」
言いながら、自分も冷静になるために深呼吸して。相手が聞き間違えることのないよう、七菜は慎重にはっきりと言い放った。
「――あのね。有海流護を見かけたの、彩花」
友人との通話を終えた蓮城彩花は、震えてうまく動かない自分の指をもどかしく思いながらも、リダイヤルからその連絡先を呼び出した。
「流護っ……!」
十年来の幼なじみ。半年前に忽然と消えてしまった、その少年の電話番号を。迷わず通話を押し、コールを待つ。が、聞こえてきたのはこれまでと同じ、「電源が入っていないか電波の届かないところに云々」といった内容の機械音声。最近は留守録を待って他愛ないメッセージを入れたりもしていたが、もちろん今は即座に切り、次の相手へとかける。何度かの呼び出し音の後、応答があった。
『もしもし……』
「おじさん、私です。彩花です」
『お、おう……彩花ちゃん。どうかしたか』
流護の父、有海源壱。
豪快で大雑把、堂々と構えていながら、子供っぽい愛嬌も持ち合わせた人物。幼少の頃から世話になっている彩花にとっては、もう一人の父親と呼んで差し支えない存在だった。
「おじさん……今、家に帰ってきてるんですか」
『ん、ああ……、今回、ちょっと早めに終わってな。ほんの昨日、帰ってきたばっかりでなぁ』
だから、すぐ分かる。
長い付き合いだからこそ。
様子がおかしい、何かを隠している、だなんてことは。
「流護、帰ってきたんですか」
刺すような問いだったかもしれない。
息をのみ、黙り込む気配が伝わってくる。そして――
『……あいつのことは忘れちまいな、なーんて言ったら……怒るよなぁ』
「当たり前です……!」
『………………笹鶴公園だ。まだ、間に合うかもしれねぇ』
絞り出すような、観念したような声だった。源壱自身、とてつもない懊悩に苛まれているかのような呻き。
訊きたいことは山ほどあった。一体、何がどうなっているのか。まだ間に合うかもしれない、とはどういう意味なのか。
だが、
「ありがとうございますっ」
電話を切り、着替えを探す。さすがに風呂上がりの寝間着姿では出ていけない。
「……めんどいっ」
私服を漁る時間すら惜しく感じ、ハンガーへかけていた学校の制服に着替える。
気持ちが逸る。
「間に合うかもしれない」などと言われたせいだろうか。
ただ、突き動かされるような予感だけがあった。
急がなければ。一刻も早くたどり着かなければ、取り返しのつかないことが起きる、と。
携帯電話だけを握りしめ、部屋を飛び出した。
階段を駆け下り、リビングのドアを開けて、「ちょっと出てくる!」とだけ言い残して玄関へ走る。
「ちょっと、こんな時間に!? どこ行くの彩花!」
母の声が響いてくるが、答えている余裕はない。流護が見つかった、などと言っても混乱を招くだけだ。そもそも彩花自身、まともに事態を把握できていない。
外に飛び出すと、冷え込んだ夜の空気が少女を出迎えた。
「っ……」
ちらりと庭に視線を向ける。そこにあるのは自分の自転車。急ぐなら必須だが、間の悪いことに故障中。週末に修理に出す予定だったのだ。さっさと直しておけばよかった、などと思っても後の祭り。
(走るしかない……、十五分はかかっちゃうけど……!)
腹を括った彩花は、全力で駆け出した。
(流護……っ)
言いたいことが山ほどある。
二、三回……いやもっとぶん殴らなければ気が済まない。
別にあんたのことなんて、何とも思ってない。でもいきなりいなくなったりされればびっくりするし、心配だってするに決まってる。家族みたいなものなんだから。
何より、
「帰ってきたなら……、なんで、連絡のひとつもよこさないの……っ!」
むかつく。ほんとむかつく。あんたって、昔っからそう。なに考えてるのか分かんない……!
けれど。
何も言わないときは大抵、彩花を案じてのことで。
だからといって今回ばかりは、大人しくしていることなんてできるはずがない。
目頭に浮かんだ涙を拭いながら、蓮城彩花は夜の団地を全力で走っていく。




