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終天の異世界と拳撃の騎士  作者: ふるろうた
9. 英雄譚の裏側で
327/669

327. 契り

 裏口から自宅へ入ると、ジャージ姿のベルグレッテが流護を出迎えた。

 外から見える範囲では電気をつけないようにしているため、その表情は窺えない。


「おう、ベル子。ただいま」

「お、おかえりなさい……」


 少女騎士は少し戸惑ったようだった。流護の声が、あまりにいつも通りだったからだろう。


「特に何もなかったか? 誰か来たりとか」

「う、うん……なかったけど……」


 例のメールを送ってきた謎の人物は、間違いなくこちらの動きを把握している。何者だかも分からない以上、離れ離れになるのは危ないか――とも考えた流護だったが、向こうは再びグリムクロウズへ戻るための条件を、日時や場所を指定してきた。

 それはつまり。少なくともその日や時間、指定の場所に行くまでの間は、手出ししてこないということではないか。

 そう割り切った流護は、いつも通り行動することにしていた。あれこれと悪い方に考えてばかりでは、ろくに身動きも取れなくなってしまう。今も蓮城家、武月流空手道場、最後にスーパーへ寄って帰ってきたが、誰かに見られたり尾けられたりしているような気配はなかった。

 それならそれで、かの人物はどうやって自分たちのことを把握しているのだろう、との疑問も浮かぶが、考えても仕方がない。三日後、指定場所である笹鶴公園に行ってみれば何か分かるかもしれない。


「よし、ちょっと遅くなったけど夕飯の準備する。すぐできるから待っててくれ」

「うっ、うん」

「どしたベル子。元気ないな」

「……だ、だって……」

「あのさ」


 靴を脱いで床に上がる。至近で向かい合えば、暗がりの中でベルグレッテが泣き出しそうな顏をしているのが分かった。


「俺、グリムクロウズに行くよ」


 率直に、その決意を口にする。


「……え? リューゴ……、あなた、でも……」

「俺なりにさ、色々考えたんだ」


 日本で過ごした十五年。空手に打ち込んで、何だかんだでいつも傍らには彩花がいて。

 そして、グリムクロウズで過ごした半年。時間としては短くても、数々の死線を潜り抜け、たくさんの大切なものができて。


「どっちかを選ばなきゃなんだよな。正直、つれーよ。どっちも取りてーよ」


 それでも、選べるのは片方だけで。


「俺、ベル子のことが好きだ」


 ディアレー降誕祭の夜と同じセリフ。

 しかしそう告げると、彼女は悲しげに目を伏せてしまう。


「でさ、俺は……ミアもクレアも、ダイゴスもエドヴィンとかも……皆のことも、好きなんだ。つか、いつの間にかグリムクロウズが……学院での暮らしとか兵士の仕事とかが、マジで好きになってたんだよな」


 驚いた表情となるベルグレッテに対し、にっと笑ってみせる。


「ようは、ちょっと早いけど俺の就職活動は終わったってだけの話だ。ベル子が屋敷を離れて城に勤めてるのと一緒だよ。俺はここを離れて、向こうで遊撃兵することにしたってだけだ」

「で、でも、そんな……もう二度と、こっちには戻ってこられないかもしれないのに……」

「その辺はミアだって一緒だろ。あいつは、もう家族のところに帰れなくなっちまった。なのに、親代わりとか言ってる俺が『たまたま帰ってこれたからグリムクロウズにはもう行かねー』なんて訳にはいかねえって」

「私が説明するわ。ミアだって分かってくれるわよ。家族に会えない辛さは、あの子自身が誰よりもよく分かってるんだから……」

「そりゃミアなら、説明すりゃ分かってくれるかもだけどさ。でも……俺らがレフェから帰ってきた時のこと、覚えてるだろ?」


 彼女はようやく学院へ戻ってきた流護たちにしがみつき、わんわんと泣き続けた。何かあったのではないかと。見捨てられてしまったのではないかと。人目も憚らず、小さな子供のように声を上げて泣き続けた。


「もうあいつに、あんな思いはさせたくないんだよ。絶対に。あいつには、いつも笑顔でいてほしいっつーかさ」


 夏に招かれたベルグレッテの屋敷でのこと。自分の家族を思い出し、涙したミア。そこで交わした会話を、今もはっきりと覚えている。


『ね、リューゴくん。遊撃兵になっちゃったから、これからお仕事とかも大変だと思うけど……絶対に、帰ってきてね。……あたしのこと置いて、どこかに行ったりしないでね……?』

『ああ、それは約束するぞ。ミアのこと置いてどっか行ったりなんてしない。どんな仕事でどこに行っても、絶対に帰ってくる』


 そして。平和な秋の日の夕方。あれは、縄跳びを自作した日だった。恥ずかしそうに言った彼女の顔を、今も覚えている。


『…………ずっと、一緒にいてね!』


 胸が張り裂けそうな決断だった。


 けれど、破らない。

 もうこの約束だけは、絶対に。


「それにさ……」


 少年は、心の内側に秘めていた思いを吐露していく。


「俺……兵士の仕事やるようになって、色んな場所に行くようになって……人から、『ありがとう』って言ってもらえることが多くなってさ」


『いやはや、ありがとなリューゴ。今回も大助かりだったよ』


 同僚の兵士カルボロの、そんな眩しい笑顔だとか。


『あ、あの……騎士さま、ありがとう! これ、おれい! あげる!』


 そう言って、どんぐりを手渡してくれた小さな少年だとか。


「すげえ気分がいいんだよな、感謝されるのって。やり甲斐がある、って言うんかな……。ガキの頃からバカばっかりやって怒られてたから、尚更そう感じるのかもな。今なら、たくさんの人に感謝されて、『神域の巫女』を続けたい……って言った桜枝里の気持ちがよく分かるんだよ。まあ、そうやって俺なりに色々考えた結果……」


 そして流護は、変わらぬ意志で。


「俺が動くことで、救われる人が……『ありがとう』って言ってくれる人が大勢いるならさ。俺は、またグリムクロウズに行こうって……行きたいって思ったんだ」


 たっぷり十秒ほども間を置いて。


「……リューゴは……本当に、それでいいの……?」


 先日と同じ、彼女の問い。

 今度は、


「ああ」


 何ひとつ迷うことなく、ごまかしでなく、大事なことから逃げるのでもなく、頷くことができた。

 その決意を強固なものにするために、蓮城家、道場へと趣き、自分なりの気持ちの整理をつけてきた。


 本音を言うならば、きれいさっぱり全てを払拭できた訳ではない。

 脳裏に、巌のような姿が――かつて超えられなかった壁が甦る。


(桐畑……)


 今の自分が、あの男と対峙したらどうなるだろう。

 ずっとわだかまっていた負の情を……過去を、繰り返し見る悪夢を振り払えるかもしれない。


 だが、もういい。

 自分の陳腐な自尊心より、遥かに大切なことができた。

 先日、ベルグレッテが言った通り。完璧な人間なんていない。かつて負けたから何だというのか。

 これからは――勝ち続ける。それでいい。


「少なくとも、今はあっちで続けたいことや守りたいものがある。もしこれから先、事情が変わってこっちに帰りたくなることがあったら、ロック博士と一緒に帰る方法でも探すさ。実際、こうやって戻ってこれてる訳だしな。難しいのかもしれんけど、行き来はできるってこった」


 なぜか、心の中で根拠のない確信があった。


 そんな都合のいい話は、ない。


 今回起きたこの『転移』は、奇跡ともいうべき偶然の上に成り立った現象なのではないかと。見当もつかない謎の人物が、慌ててコンタクトを取ってくるぐらいには。その彼(?)も、一度きりだとメールの文面で告げている。

 例えば他の原初の溟渤を探し出し、奥地に緑の気流渦巻く大穴を見つけて飛び込んだとしても、今回のようなことにはならないのではないか。

 そんな内心はおくびにも表へ出さず、流護はからかうように笑いかける。


「何だよー。ベル子は、そんなに俺がグリムクロウズに戻るのが嫌なのかー?」

「そんなわけないじゃない!」


 間を置かず、カウンターばりの否定が即座に返ってきた。


「私にだって分かるわ。こんな世界間の移動なんて、そうそう起きるようなことじゃない」


 ベルグレッテの端正な顏が、悲しげに歪む。


「次はないかもしれない。もう二度と、この世界に……この家には戻ってこられないかもしれない。ユズさんにだって……アヤカさんにだって、会えなくなるかもしれないのにっ……」

「う、うおう。何でベル子の口から、彩花の名前が出てくんだよ……」


 気恥ずかしさに頭を掻きながら、流護は軽くベルグレッテの肩を叩いた。


「まぁ立ち話も何だし、続きはメシ食いながらにしようぜ」






「間柄で言うと……そうだな、ベル子とリリアーヌ姫の関係に近いかもしれん」

「……その……アヤカさんと、リューゴが?」

「ああ。俗に言う幼馴染み、ってやつだな。ガキの頃からの腐れ縁だよ」


 自作の大して旨くもない野菜炒めをつつきながら、流護は懐かしむように笑う。


「幼稚園……っていう近所のガキどもを預かる施設みたいのがあって、そっから今までずーっと学校も同じで。互いの家もしょっちゅう行き来してたし、まあ家族みたいなもんだな」

「そう、なんだ」

「つか妹みたいな感じだな。向こうに言わせりゃ、俺が弟らしいが」


 子供の頃は、いつも一緒だった。近くの川で泥まみれになっては怒られて。小学校の裏山で迷子になっては叱られて。そしていつの間にか、品行方正で成績も優秀な彩花と、空手ぐらいしか取り柄のない悪ガキの流護、という二人になっていた。それでも、互いの関係は変わらなかった。

 昔は結婚の約束をしたりもしたが、それはまさしくお約束というものだろう。さすがに気恥ずかしいので、この場では黙っておく。

 思春期になってそれとなく微妙な距離ができ始めて、彩花に彼氏ができたのが切っ掛けで――


「って、それがウソだってんだぜ? 何を見栄張ってんだって話だよな。ま、アイツに男なんかできるワケが……、えー……ま、まー見た目だけはそこそこだし? そのうちできるかもしんねーけど? まだ高一なんだし早えだろっていうかその辺の馬の骨なんざ認めねっつーか、いや、まあ俺には関係ねぇんだけど……」


 ゴニョゴニョと言い繕っていると、ベルグレッテがふふっと口元を綻ばせた。


「大切な人なのね」

「え!? いや別に……うん、まあ、家族みたいなもんだし……そりゃ……」


 もう、ごまかすのはやめた。蓮城彩花は、大切な人だ。


「それで? どんな人なの? もっと詳しく聞きたいな」

「いや、別にどうでもいいべ。そんなん聞いてどーすんだよ……」

「ふーん。言えないような間柄なのね、やっぱり」

「何でそうなるんだよ……!」

「ふーん」

「何だってんだよ、もう……! あー……そうだな、一言で言や変なヤツだよ。優等生装ってるけど。ネコ被ってるけど。例えばさ、あいつって小さいものが好きなんだけど、その方向性が何かおかしいっつーか」

「どういうこと?」

「いや、ハムスター見て『ヒマワリの種で手なずけて安心して寄ってくるようになったところにデコピンしてあげたい。そのあと全力でごめんねって謝りたい』とか言うし。前に祭りでちっちゃい幼女見たときなんか、『嫌がられてもほっぺたつんつんしまくりたい』とか言うし……」

「ふふ。面白いわね」

「ちょっと歪んでるぞ、あれは」

「本当に、いいの?」

「ん?」



「アヤカさんじゃなくて。その、私を選んじゃって、いいの?」



 場が静まり返った。

 無表情で見つめ合う二人。たっぷり十秒ほどを経て、ベルグレッテがついーっと視線を逸らす。頬はもちろん、その形のいい耳が真っ赤に染まっていく。


「は、は、恥ずかしがるなら言うなよ……! しかもなんかいきなりだし……!」

「う、うるさいっ、もうっ」


 途端にそわそわしてしまった空気を打破すべく、流護は平静を装って続けた。


「いや、まあ……何回も言ってるけど、彩花は家族みたいなもんでさ。そういう感情は……ないんだよ」

「アヤカさんのほうは、意識してるかもしれないわよ?」

「いや……ないな。ここまで十年、一回もそんな雰囲気になったことがない。考えたこともない。アイツも一緒だと思う。二人っきりでいても変な空気にならんっつーか、居心地がいいっつーか……。多分、俺らは同じ気持ちを共有してたんじゃねーかな、って思う」


 確かに、思春期を迎えて互いに触れ合うことに抵抗はできた。けれどきっとそんなものは当たり前の変化で、恋愛感情とは違う。

 一拍置いて、自分を客観視するように。


「ベル子に感じるような気持ちとは別なんだ。同じ、大事……でも」

「……わ、私に、感じる……」

「ああ」


 流護は箸を置き、ガタリと席を立つ。テーブルを迂回し、向かいに座ったベルグレッテの下へと歩み寄る。


「リ、リューゴっ……?」


 戸惑ったように見上げてくるジャージ姿の異世界少女に対し、


「失敬する」


 腕を回し、その細身を抱き竦めた。ベルグレッテを抱きしめた。


「こういう気持ちとは、別なんだ」

「ち、ちょ、ちょっとリ、リューゴ……!」

「俺、ベル子のことが好きだ」

「……~~っ」

「少し前の俺なら、それだけがグリムクロウズに留まる理由になったのかもしれない。でも、今は違う。ベル子だけじゃなくて、あの世界には色んな大事なものがあって……」


 だから、と少年は今一度決意を語る。


「ベル子にフラれたとしても……お断りされたとしても、俺はあの世界にまた行くよ」


 またも静寂が場を包み込んだ。


「……………………ない、から」

「え?」

「……だ、だから。こと、断ったり……しない、から……」


 囁くように。


「……え、えーと……そりゃつまり」

「も、もうっ! リューゴのばかっ……」


 困り果てた、けれど抵抗する意思などまるで感じられない声。『答え』、と受け取った。

 たまらず、自然と腕に力が入る。やわらかな感触と甘い香りが、思春期の少年の理性をじわじわと溶かしていく。


「あ、あの、リューゴ……痛い……」

「おわ、悪い……」


 少しだけ力を緩めて、身体を離す。


「……、」

「…………、」


 まさに目と鼻の先。うるさいほど高鳴っている心臓の音が、彼女に聞こえてしまうのではないかと思えるほどの距離。

 至近で見つめ合うこと数瞬。

 ベルグレッテが、観念したようにそっと目を閉じ――


「だだ、だめだからね!? あの『昼どら』みたいなことはだめだからね!?」


 なかった。

 少女は抱きしめられたまま、精一杯えび反りになって抵抗してくる。


「え、いやでも、断らないって、言った、よな……?」


 片や、思春期少年の理性も土俵際だ。合間に荒い鼻息を挟みつつどうにか絞り出せば、


「そ、それは『気持ち』の話っ……。『行為』のことじゃなくてっ」

「き、気持ちのいい行為が何だって?」

「なっ、なに言ってるの!? ぜ、全然違うってばっ……!」


 少女騎士が腕の中で身じろぎする。その力の弱さが却って誘っているようにも感じられ、彼女の一挙一動、全てが流護の煩悩を逐一刺激した。……が、


「……って、な、なんだよベル子……そんな嫌がらなくても……」


 少女の瞳にうっすらと浮かんだ涙に気付き、冷静さが戻ってくる。


「ち、違うの。嫌とかじゃなくて……リューゴの気持ちは、すごく嬉しい。でも、私はリリアーヌに仕えるロイヤルガードだし、けっ、結婚するまで、そ……そういう行為はよくないと思うし、その……」


 申し訳なさそうに、目を伏せながら。


「でも……私、リューゴになにも……言葉や態度で示せてないし……」


 厳格な少女騎士としての貞操観念と、ベルグレッテ自身が抱く想い。その間で板挟みになっているようだった。


「……いいよ、ベル子。ありがとう」


 軽く彼女の背中をぽんぽんと叩き、密着状態を惜しみながら身体を離す。


「充分伝わってる。なんつっても今、メシ中だしな。行儀も悪いわな。メシもいただいてベル子もいただこう、なんて欲張りだよなーグヘヘヘ」

「…………、」


 ド滑りした。


「わ、わり。今のはねーわ……オッサンかよ……忘れてケロ……」


 瞬間的に陥った自己嫌悪のあまり、謎の語尾までついてしまった。そんな流護の悔恨の呻きに対し、


「――じゃあ、リューゴも。これから私がすることは、忘れて」


 囁くような声だった。

 ベルグレッテが勢いよく動いたことで、椅子がガタリと音を響かせた。


 一瞬だった。一瞬すぎて、流護は何もできなかった。その触れ合いによって、刹那の沈黙が訪れる。

 それも当然のこと。



 互いに触れ合ったその部分は、言葉を発するべきところ。

 唇と唇、だったから。



 時間にすればほんの一瞬。限界まで近づいていた二人の距離が、離れる。弾かれたように、彼女が顏を離す。

 禁じられた秘め事を、人に見られまいとするかのように。


「………………語るより、行動で示せ。父さまから習った、貴族の心得。だから、その、えと、そういうこと」


 思いきり視線を逸らして。顔全体を真っ赤に染めた少女騎士が、自分に言い聞かせるようにそう呟く。


「……、う、うう……偉大なる水の主、ウィーテリヴィアよ……それに父さま……リリアーヌ……ごめんなさい……」


 少しだけ、懺悔の言葉と共にうつむいて。


「こっ、これからもよろしくね、リューゴ……!」


 顏を上げた少女は、ぎこちなくも花のような満面の笑みで。


「……あっ、はい」


 一方で少年も、呆けたまま頷くのだった。






 カチャカチャと、かすかな食器の音のみが響く。

 どちらともなく席につき、どちらともなく普通に食事を再開していた。


「…………」


 流護としては、もはや料理の味もよく分からない。

 浮ついた思考が、そのまま羽を生やして遥か彼方へ飛び立ってしまったみたいな感覚だ。

 自作の雑な野菜炒めを口の中に放り込みながら、


(この……俺の唇が、ついさっき……)


 生まれて初めての、その行為。

 ちらっと目線を上向ける。

 可憐という言葉では足りないほど美しい少女の、桜色をした小さな唇。瑞々しいその部分が、丁寧な所作で運ばれてきたフォークから野菜を受け取る。


(べ、別に味とかしないんだな、キスって……)


 もっとも、ほんの一瞬触れただけだ。それだけで何が分かろうはずもない。ついまじまじと見つめてしまったためか。流護の視線に気付いた彼女が、慌てて顏を背けてしまう。


「えーと、あれだ、その……」


 耐えがたい気まずさを振り払うべく、流護は何も考えず切り出した。


「あー、ベル子は、そのー……えーと……」


 何か。何か言わなければ。

 大丈夫。有海流護は、追い詰められた状況に強い。師匠にもそう太鼓判を押されているのだ。これまで死闘を潜り抜けてきたみたいに、今この状況だって――


(でででも、キスしちゃったんだよな俺――!?)


 雑念が入った。


「ベル子は初めてだったのか? キスって」


 そして、盛大に地雷源の真ん中へと着地した。


(ななな何言ってんだ俺――――!?)


 ピュワな少年なら当然というか、心の奥底に封じられていた『好きな子に訊いてみたい色んなこと』、そのうちの一つがつい零れ出てしまったといえよう。

 いきなり不躾な疑問を投げかけられたベルグレッテはといえば、


「………………、」


 愕然とした面持ちで固まっていた。驚きの度合いとしては、あの廃城の地下で目に見える魂心力プラルナを発見したときにすら匹敵するかもしれない。


「いや、わ、悪い! そんなこと訊くつもりじゃなくて……! えーとあれだ、」


 あわあわと謝り倒す流護――からプイッと視線を逸らしながら、


「あ……あ、当たり前でしょ、そんなの……」


 しかし少女騎士は、律儀というべきか生真面目に答えていた。


「お!? お、おおう、そうか……」

「そ、そういうリューゴはどうなの? アヤカさんと、したことがあるんじゃないの?」


 正直な回答は、この反撃を刺すためだったのかもしれない。……少し拗ねたみたいな口調が愛おしく、流護は思わず胸を高鳴らせた。


「だから何で彩花が……つか、それはないから安心してくれ。……俺だって、その……初めてだよ、そりゃ」

「そ、そうなんだ」

「おう……」

「でも小さい頃、結婚の約束までしてたんでしょ?」

「は!? そ、そりゃほんとガキん頃の話だし。今となっちゃお互いに黒歴史だろ、んなもん……」

「ふぅーん……」


 ええい、なんだこの空気は。

 居心地がいいような悪いような、くすぐったくて落ち着かないような。

 そこで天啓とでもいうべきか、先の失言とは比較にもならない冴えた例えを閃いた。


「うむ、あれだ。ベル子は子供の頃、『大きくなったらお父さんと結婚する!』とか言ったりしたことないか?」

「……、そ、そうね。父さまや兄さまに言ったような覚えも……」

「だろ? それと同じこった。あいつは妹みたいなもんだし」

「そ、そう……なのかしら……?」

「そうだよ。今思い出すと『あああああー!』ってなる過去の一つや二つ、誰にだってあるもんだろ? ちなみに、人はそれを黒歴史と呼ぶ。グリムクロウズに行く直前ぐらいの俺とか、まさにそれだわ……。『俺に近づくとケガすんぜ』みたいなさ……」

「う、うーん。そう、なの、かなぁ」


 何とか納得してくれたようだ。

 ホッとしつつ下手くそなぶつ切りのキャベツを箸に挟んだ流護は、


「………………?」


 そのままピタリと動きを止めた。

 脳裏によぎったのだ。



 今、何かおかしくなかったか?



 そんな、高揚した気分に水を差すような疑問が。


「………」


 そろそろと――なぜか誰にも悟られまいとするかのように、ゆっくりと顏を上向ける。

 自分なりに全力は尽くしたが、あまり見てくれのよくない野菜炒めをメインとした食卓。対面に座るジャージ姿の少女騎士は、そんな雑な料理を美味しそうに口へと運んでくれている。


「……」


 おかしい? 何が?

 自問する。

 ベルグレッテの気持ちを知ることができた。現代日本や彩花に対する気持ちも、自分なりに整理をつけた。再びグリムクロウズへ行く覚悟も決まった。明確に、これからの方針が定まった。

 おかしいことなど何もない。


(いや……、なんか、今の会話だ。……会話、が……?)


 奇妙な違和感。さらっと見過ごしそうになってしまった何か。

 喉元まで出かかっているのに、出てこない。手が届きそうで、届かない。時間が過ぎていくほど、答えから遠のいてしまうような焦燥感……。


「あの、リューゴ」

「あ、おう、何だ?」

「その……まだ、指定の日まで時間はあるわ。もし、考えが変わるようだったら……」

「……何かと思えば……、ベル子はいいのか? それで」

「だ、だって……」

「余計な心配すんな。もう、迷いはねえ。一緒に帰ろう」

「う、うん」


 くすぐったい空気に耐えられないのか、それからもベルグレッテは思い出したようにあれこれと話しかけてきた。流護も彼女の笑顔を見ていたら、些細な疑問などどうでもよくなっていくのを感じた。



 何もおかしくなんてない。気にしなくていいよ。



 まるで、誰かにそう導かれるかのように。

 ふと見えそうになった舞台裏が、さっと隠されてしまったかのように。

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