326. 半生の軌跡・後編
彩花の家から離れた流護は、ある場所を目指して歩いている途中だった。
とっぷりと暮れた静かな住宅地。えらく久しぶりに感じる道。懐かしく思いながらブロック塀の角を曲がると、
(……ん)
反対側からやってくる人影があった。
少し目線を下げ、足早にすれ違う。
「……、」
行き違った後、流護は思わす振り返る。
その人物は、大柄な外国人だった。アメリカ人だろうか。街灯に照らされる短髪の色は金。年齢は二十代ぐらい。暖かそうなダウンジャケットを羽織っていることもあって、まるで熊か何かかのようにこんもりとしている。
(……デカいな。ラガーマンか何か? もしかすっと格闘技ってセンも……)
ただ単純に身長が高いのではない。分厚いのだ。ジーンズに包まれた大きな太ももなど、明らかに素人のそれとは一線を画している。
何やら気落ちするようなことでもあったのか、すれ違いざまに「マイゴッド」だの「アブセンス」だのといった英語らしき独り言が聞こえていた。その後ろ姿は、どことなくしょんぼりしているようにも見える。
(こんな何もない田舎にもあんな外国の人が……珍しいな。最近、増えてきたりしてるとか?)
とはいえ、やはりベルグレッテを連れ歩くには目立つだろう。
そんなことを考えながら黙々と歩き続け、すぐに目的の建物の前へとたどり着いた。
何の変哲もない、木造瓦屋根の平屋。台風でも来れば壊れてしまいそうな、古い建物。武月流空手道場、と書かれた看板が掲げられている、十年も通い続けた修練の場。
――なのだが。
(……うーん……?)
内部から明かりは漏れておらず、人の気配も感じられない。古びた日本家屋は、完全に辺りの闇と同化している。
(今日は……月曜だよな。休みじゃねえはずだけど……?)
定休日は基本的に火曜と金曜。開館は午前十時、閉館は午後七時。今この時間帯は、まだ開いているはずなのだ。
(まさか……ついに潰れちまったとか……?)
元々、門下生は少なかった。低迷した景気情勢が続く昨今、この道場は大丈夫なのか、と思ったこともなくはなかったが……。
とりあえず敷地内へ入り、玄関口まで進んでみる。
「……ん?」
目の前まで行って、ガラス戸にでかでかと貼り紙がされていることに気付いた。かすかな街灯の明かりの中で目を凝らし、筆の手書きでしたためられたその文面を追う。
『旅に出ますので、しばらく武月流空手道場は休館致します。 片山十河』
やたらと勢いに乗った達筆は、間違いなく当人のものだった。
「……えぇ~……」
思わず声に出してしまっていた。
(旅って……。まあ、あの人らしい……っちゃらしいかもしれんが)
もはや絶滅寸前の門下生たちも、「まあ片山先生だし」と思ったに違いない。
片山十河。
この道場の主にして、流護の師。
今年で七十も中盤に差しかかる年齢のはずだが、やたらと流行に敏感。テレビで取り上げられた人気商品などはいつの間にか持っている、携帯電話は新作が出るたびに買い替える――といったような、バイタリティ溢れる爺様である。
そのうえ、おちゃらけた性格で女好き。流護と一緒に道場を訪れていた彩花とも十年来の顔なじみだが、二人が高校進学を控えたあたりからは、
「彩花ちゃんは、すっかり別嬪さんになったのう~。もう、派手なおパンツとか穿いちゃったりしてんのか? ん? じいちゃんにこっそり教えてみ?」
「先生、残念です。通報させていただきますね(満面の笑顔)」
「待っとくれ! じゃあ今のなし! 残り少ない余生、檻の中で過ごしとうない……!」
などといったやり取りも交わされるようになっていた。
うん、やっぱ死んだほうがいいぞあのじじい。
そんな思いを新たにする。
(……でも)
一方で、武人としては底知れないものがあった。
流護は一度として、あの怪老から一本を取れたことがない。本気で闘り合ったなら、自分は果たして何秒持ちこたえられるのか。年齢を増すごとに、衰えるどころか成長しているのではないかとすら思える技巧の冴え。鈍る気配など、微塵も感じられなかった。
流護の身のこなしをいたく買った片山だったが、その当人の技巧はもはや常軌を逸したものがあった。冗談抜きで、指一本触れられないこともあった。
本人曰く、
『調子が良い時は、こう……白い光の筋が見えるんよ。相手の攻撃がここにこう来る、って。空中に予告線みたいのが走ってね。直後、実際その通りに攻撃が飛んでくるんじゃな』
あんたは合気道の創始者か、と言いたくなる傑物っぷりだった。
(当たり前に、身近にいたんだよなあ……。マンガに出てくるみたいな強キャラジジイが……)
そして何より、
貌。
あの老人は、時折奇妙な貌を覗かせることがあった。それは喜を宿した能面のような、鬼を思わせる夜叉面のような――表情よりも雄弁に感情を語る、『何か』。
『流護。お前はいつか、ワシの――』
『その為に見出し、手塩に掛けて育て上げておる。――に殺されるなぞ、まっぴら御免よ』
『――頼むぞ、流護や』
あれは小学生の頃だったろうか。猛特訓によって倒れ込み、半ば朦朧とした意識の中で。こちらを見下ろす『面』の呟いたそんな言葉が、脳裡にぼんやりと残っている。
(あの人は、俺に……何を求めてたんかな)
『――強くなりなさい、流護や。その裡に眠る「狂」を手懐け――いずれ、ワシの前に立つほどに』
覗き込んできた顔は逆光で見えなかった。どんな表情をしていたのだろう。
この身に施された、明らかな空手『外』の技術。
目貫き、鼻裂き、歯牙砕き、指拉ぎ、爪返し、投撃――といった、真っ当な場であれば反則と見なされる手段。そして……貌滅、轡發、八荒といった、対象を殺めるためとしか思えないような禁じ手の数々。
あの師の下で長く学び、様々な格闘技の知識を身につけて、気付いたことがある。
片山十河は、空手家ではない。
飽くまで、『空手も使う何者か』であるということ。
根源となっている技術は空手に違いないが、その本質には何か――別のものが混ざっているように感じられる。そもそも、「地面は武器」などと公言して投げ技を得手とするような妖怪である。『何でもあり』で練習する場合、喜々として掴みかかってくるような老人だった。
(正拳へのカウンターに大外刈りとか仕掛けてくるからな……)
あんたは何の道場を開いてるんだ、と言いたくなったものである。
ともあれ本来は別の技術を扱っている人間が、その一端である空手を手ほどきしているような。自分で深く経験を積むようになって、そんな印象が強まっていった。
(若い頃は中東かどっかで傭兵やってた、なんて噂もあるし……まさか、よく分かんねー戦場格闘術とかか……?)
当人が全く過去を語ろうとしなかったため不明だが、何をやっていてもおかしくない、超然とした雰囲気を纏う老人だった。
ともあれそんな片山十河は、貼り紙によれば旅に出てしまい不在だという。
(うーん……奥さんのとこにでも行ったのか……?)
この老人は一応、既婚者――『という話』である。別居中で、熊本のほうに奥さんが住んでいる『らしい』。そう。流護は、一度も会ったことがないのだ。
(うむ、エア嫁の可能性もある……って、まあそれはいいや。あとは……もしかして、いなくなった俺を捜しに……? いや、ねえな)
ここで遅まきながら気付いたことがある。
流護が行方知れずとなり、その間に携帯電話へと送られていた大量のメール。思えばそこに、この師から届いたものは一通もなかった。
(最新端末使いこなしてるくせに、いなくなった弟子にメールの一つぐらい寄越してもいいんじゃねーのか~? この妖怪ジジイめが)
心の底から悪態をついている訳ではない。
あの師匠ならばなぜかそれが自然な気がしたし、深刻に連絡するほど心配していない――つまりそれだけ弟子を信じている、という内面の表れにすら感じられた。事実、流護はこうして息災に暮らしている。
――ともあれ。最後にこっそり道場の様子を見ていこうと寄った門下生の少年だったが、閉まっているうえに不在とあっては仕方がない。
(……、師匠なら……)
あの突飛な性格である。電話でもして全てを話せば、異世界の話ですら受け入れてくれるのではないかという思いすらあった。
……それでも。
(……)
もう、この世界を去ると決めた。
あの達人が、自分に何を望んでいたのかは分からない。
ただ。
もう二度と、ここへ戻ってくることはない。あの師と、顏を合わせることはない。つまり――師の要望に、応えることはできない。
流護は最後に、建物へ向かって「押忍」と十字を切った。
「…………、」
ここは、ただ練習に明け暮れただけの場所ではない。師匠や門下生たち、彩花との思い出が詰まった場所でもある。子供の頃から慣れ親しんだ、遊び場でもあったのだ。
暖かな春、庭に咲く桜の下で花見をしたこと。暑い夏、スイカを食べながら縁側で涼んだこと。穏やかな秋、かき集めた落ち葉で芋を焼いたこと。冷え込んだ冬、うっすらと積もった雪で小さな雪だるまを作ったこと。
否が応にも、ここで皆と過ごしてきた十年の日々が胸に去来する……。
「……っし、行くか……!」
目頭に浮かんだものを指で拭い、流護は足早に道場を後にした。
 




