325. 半生の軌跡・前編
静かにドアを叩いてみるが、中からの返事はなかった。
とはいえ、部屋にいることは分かっている。しかも鍵もかからない、安普請の六畳間。ずかずかと入っていくこともできるだろう。が、扉を開けるようなことはせず、もう一度小さくノックして、反応を待たずに呼びかけた。
「……ベル子。晩メシに使う調味料が足りないから、ちょっと買いに行ってくる。すぐ戻るからさ」
「……リュー、ゴ?」
聞こえてきたのはかすれた涙声だった。
怪訝に思い、反応したのだろう。流護の声が、あまりに穏やかなものだったから。
「すぐ戻る」
繰り返し、少年は足早に階段を下りて裏口へと向かう。パーカーのフードを目深に被り、日も落ちて肌寒くなりつつある外へと繰り出した。
十二月を明日に控えたこの時期。今年は暖冬なのか今はそれほどでもないが、じき吐息の白くなる日々がやってくることだろう。
これも慣れか。車のヘッドライトが近づいてきても、妙に緊張したりすることはなくなった。
団地の狭い舗道を歩きながら、流護は目的の場所を目指す。店がある方向とは逆。久しぶりに通る、閑静な昔なじみの道。
「………」
歩くこと五分ほど。
その家が望める、住宅街の一角へと到着した。
幼なじみの少女――蓮城彩花が住む、その一軒家の近くへと。
(まだ帰ってねーか……)
遠目で見上げる二階、少女の部屋の窓から明かりは漏れていない。学校の部活動で遅くなっているのだろう。
流護はしばし、子供の頃は毎日のように入り浸ったその家を眺めた。一階にある居間の窓、閉め切られたカーテンの隙間からは、かすかな光が溢れている。駐車場に車が停まっていることから、両親共に在宅のはずだ。夕食の準備をしながら、一人娘の帰宅を待っているといったところか。
(おじさんとおばさんは……元気にしてんのかな)
自分の父親が家を空けがちだったこともあり、昔から彩花の両親にはよくしてもらっていた。特に小さい頃は、当たり前のように夕飯をご馳走になったり、泊めてもらったりしたものだ。流護にとっては、それぞれもう一人の両親といえるかもしれない。
子供時代を思い出して懐かしい気持ちになっていたところで、向こう側から歩いてくる人影が見えた。
流護は反射的に塀の裏側へと身を潜め、
「――――――――――」
ただ、思考が空白に染まった。
街灯に照らし出されて露となったその人物を前に、何もかもが吹き飛びそうになった。
やってきたのは、流護が通っていた高校の制服に身を包んだ少女が二人。紺色のブレザーと、膝上の長さに詰めた同色のボックスプリーツスカート。
一人は、おさげの髪型をした背の低い女生徒。
(あれは、芹沢……)
芹沢七菜。流護のクラスメイトだった。中学も一緒だったが、あまり話したこともなく、特に親しい訳ではないといった間柄。
そして、もう一人。
「――――……っ」
腰まで伸ばした艶やかな長い黒髪。目鼻立ちのはっきりした、整った小顔。この半年で、少しやつれただろうか。
(…………彩、花……)
流護は思わず腰から崩れ落ちそうになった。
異世界へと飛んだあの夜ぶり。およそ十年来の付き合いとなる幼なじみの少女、蓮城彩花だった。
並んで話しながらゆっくりと歩いてきた二人は、蓮城家の前で立ち止まる。話題が尽きないのか、彼女らは足を止めたまま、その場で談笑を続けていた。その内容までは聞こえてこない。
(……、)
塀の影で息を潜めながら、流護はわずかに安堵する。
(……ったくよ。あんなヤンデレみてーなメール送ってくっから、つい心配しちまったけど……楽しそうにやってんじゃねーか)
それでいい、と思う。
塀の角に隠れる流護と、立ち話に興じる彩花。双方の距離は、きっと十メートルもない。
「よう、彩花。久しぶりだな」
――と。そんな風に声をかけながら出ていけるほど、近くにいる。
(……ッ)
実際にそうしてしまいたい衝動を、必死で抑え込む。意思と無関係に動き出してしまいそうな自分の身体を、理性という名の鎖で必死に縛りつける。これほど自分を制したのは、十五年の人生の中で初めてかもしれない。そう思えるほどに。
有海流護は。
蓮城彩花の前に、姿を現さない。
(……ああ。……ああ、いいんだよ、これで……!)
今度こそ、腹は決まった。
俺は、またグリムクロウズに行く。
もう、迷いはない。
流されるまま、深く考えずに決めた訳でもない。
限界まで悩み抜いた。
現代日本とグリムクロウズ、どちらの世界で生きるべきか。優劣なんてつけられない。それでも、どちらかを選ばなければならないのなら――
(俺は行く。この力を必要としてくれる人が大勢いる、あのグリムクロウズに)
それが、下した決断だった。
あの世界で、命を賭して戦い続けて。いつしか、大事な人や居場所ができていた。
それらがいつまでも無事である保障などどこにもない。今この瞬間だって分からない。守らなければ、即座に失われてしまう。そんな、過酷な世界。
本当なら、声をかけたい。すぐそこにいる彩花に、自分は無事だと知らせたい。彼女と喋りたい。
しかし、決めたのだ。この世界から去ると。
そう意志を固めた以上、避けるべきだ。
自分が生きていると知れば、彩花はきっと喜んでくれるだろう。しかしまたすぐにいなくなると聞けば、どう思うだろうか。今度こそ、きっと永遠の別れとなる。連絡を取り合うこともできない。その別離は、死と何ら変わりがない。
少なくとも現時点で有海流護が生きていると知らせることに、意味がない。ぬか喜びをさせるだけになってしまう。
(……だからさ、彩花……)
時が経てば、人は忘れる。時間の流れがいずれ、彼女の中から自分の存在を洗い流してくれるはず。
もちろん、この選択が正しいだなんて思わない。正誤なんてない。けれど、どちらか片方だけを選ばなければないらない。だから、
(……いつまでも、俺なんかに構ってんじゃねーよ)
久しぶりにその姿を目の当たりにして、再認識する。
彩花は、きれいだ。
今までは頑なに認めようとしてこなかったが、同級生の中でも際立って美人の部類に入ると思う。
(……んなもん、ったりめーだよクソ、彩花は俺の自慢の妹みてーなもんで……、あークソっ)
だからこそ。
(……ったくよ。しょーもねぇ嘘なんかつかんでも……お前なら彼氏の一人や二人、余裕でできんだろ)
その図を想像するだけで瞬間的に腹立たしくなる。もう、自分を偽ったりしない。それは嫉妬だ。そんな奴が本当に現れたら、ぶん殴ってやりたくなる。
(……でも、それでいいんだよ)
幸せになってくれれば、それでいい。
お前は、落ちこぼれた俺とは違う。勉強もできるし、友達も多いし、まだ高校一年なのに将来の夢もしっかり持ってるし、……その、きれいだし、これからきっと輝かしい未来が待ってる。
今はまだ、長いこと一緒にいた俺がいきなりいなくなっちまって、少し動揺してるかもしれねえけど……。
彼女の横顔を見やりながら、そう思う。
(お前なら、俺がいなくても絶対大丈夫。だから……)
自分勝手な願い。本当にただ、願うだけ。
いなくなった自分を、あれほど案じてくれた少女に対して。
(……ごめん、彩花)
少しやつれてしまった幼なじみ。
(本当に、ごめん)
顔色が悪く見えるのは、決して薄汚れた街灯の光加減のせいだけではないはずだ。
(俺、行くからさ……)
いつまでもこうしてはいられない。断腸の思いで、少年は踵を返す。
今にも思考に反して、身体が彼女の元へと駆け出してしまいそうだったから。
(最後に顔が見れて、よかったよ)
最初は、家を眺めるだけで去るつもりだった。本人に会えるとは思っていなかった。
歩き始める。離れていく。
すぐ近くにいる、声を出せば届く距離にいる、大切な幼なじみの少女から。
(――じゃあな、彩花)
心を引き裂かれるような思いに、耐えながら。
迷いを振り切って、流護は往く。
「えー、彩花も行こうよー、南高のテニス男子だよ? これ事実上合コンですよ? したことないでしょ? あたしもないけど……。人数合わせってことでいいからさー。っても、こっちのメンツ考えると彩花に言い寄ってくる男ばっかになりそうだけど……」
「いや、私は……うん……ごめん。自転車も修理に出さないとだし……」
「……ま、しょーがないかぁ」
『事情』を知っている友人の芹沢七菜としては、あまり強くも言えないようだ。ごり押しするでもなく、案外あっさりと引き下がった。どうしても合コンに行きたい訳ではなく、単に元気づけようとしてくれただけなのだろう。
「つか、あたしもどーでもよくなってきたな……タメとか一個二個違いとか、やっぱないわー……やっぱ男はオトナのミステリアスな、こう……あれだわ……」
と思いきや、どうやら『例の件』が尾を引いているらしい。
「ああ、こないだの話? すっごいかっこいい外国の人とぶつかったっていう」
「え!? いや、まあ……あんなとんでもねーモデルみたいの見ちゃうとね……。あれ、絶対なんかのゲームの主人公だって。CGかと思ったもん。あの人絶対シュヴァイツァーとかそういう名前だって。魔法とか使っても驚かないレベル」
「はは。なによそれ」
「とにかくさー、近いうちにどっかいこ。なんかしよ。ほら、新しい出会いとかあるかもよ」
「ん……でも……」
「ねえ、彩花。……その……ほら。もう、半年だよ?」
そんなの言いにくそうな七菜の呟きに対して、
「まだ半年、だよ」
蓮城彩花は、底抜けに明るい声で答えていた。それはどこか、自分を奮い立たせるための言葉のようでもあった。
「おじさんも、片山先生も……揃って同じこと言ってるしね。あいつはくたばるようなタマじゃない、って。私もそう思うし」
「……、ん、そっかー……」
友人は、複雑な笑顔でそれ以上何も言わなかった。
――彩花自身、自覚はあった。
もう、どんなに前向きな言葉を並べても言い繕えない。
有海流護は、帰ってこない。
絶対に認めまいとしているのに、心のどこかでそんな思いが鎌首をもたげ始めている。
一度だけ、駅前で流護捜索のためのビラ配りをしたことがあった。
労力に反して、実りは皆無だった。
それでもいつか、何か手がかりが得られるかもしれない。めげずに継続していきたいと考えた彩花だったが、ある人物に止められた。
彩花自身にかかる負担はもちろんのこと、流護の素行に問題があったのだ。失踪直前、彼はひどく荒れていた。表沙汰になりはしなかったものの、街でのケンカも一度や二度ではない。
何か、かかわってはいけないようなトラブルに巻き込まれ、姿を消してしまったのではないか。そんな噂も囁かれた。
幼なじみの少女としてはありえないと一笑に付したくなるような話だったが、例えば流護が本当にそういった事情で消えてしまった場合、捜そうとする彩花の身にまで危険が及ぶ可能性がある。
『――だから、彩花ちゃんは待っていなさい。なぁに、大丈夫じゃよ。流護なら』
流護が通っていた空手道場の主、片山十河はそう言った。完全に取り乱していた当時の彩花は、全く普段通りの老人に対し思わず口走りそうになったものだ。
「どうしてそんな呑気に構えていられるんですか。先生に、流護のなにが分かるんですか」と。
しかし。
『彩花ちゃんは、いつも通りに暮らしなさい。この件に引きずられ、自分を見失うようなことがあってはならんよ。変わらず壮健に暮らし、待ちなさい。あの子がひょっこり帰ってきたその時、「どこ行ってたのバカ! 責任取って結婚しなさいよ、このアホ!」って明るく迎えてやれるようにね』
ふざけていながらも優しげな、諭すような口調で。
それで、理解した。まさに流護しか見えなくなっていた小娘の自分とは違う。片山十河という人生の先達は、この件によってひどく取り乱した彩花の身をも案じていたのだと。
(でも、私……)
『時の流れ』ほど恐ろしいものはない。彩花は最近になって、それを痛いほど実感している。
当時こそ騒がれた流護の失踪だが、今では誰も話題に出さなくなった。学校でも、彼がいないことが当たり前になりつつある。
高校一年生の男子生徒が行方不明となったこの事件は、確実に風化が進んでいた。
――そして、何より恐ろしいのは。
(私も、いつか……)
認めてしまうのではないか。
少年の不在が日常となり、この心の傷が癒えて。有海流護はもうどこにもいないのだ、と諦めてしまうのではないか。そんな時がやってくるかもしれないことが、ただただ怖くてたまらない。
(…………)
自分だけではない。
流護の父はこれまで通り仕事に出かけるようになったし、片山老人に至っては――
「……あ……か、……か、おーい彩花ってば! 聞いてるー?」
「え、あ、ああごめん」
「ったく、このままじゃ彩花が……、ん?」
そこで七菜は言葉を切り、自分たちが歩いてきた方向とは逆――ひっそりと延びる暗い路地に目を向けた。
「どうかしたの、七菜」
「……いやなんか……そこの角から、誰かがこっちを見てたよーな気が……」
「え、ちょっ……怖いこと言わないでよ」
日が落ちてしばらく経つ。
時間的にまだ夕方だが、周囲の暗さは夜のそれと変わらない。日が短い今の時期、部活が終わってからは、あまり一人で帰りたくないほどには雰囲気があった。
「誰かが通り掛かっただけ、とかじゃない?」
「いーや、いた。物陰からこっそりとJKを見つめる、ねっとりとした視線を感じた。変態かな? ちょっと見てくる」
「まっ、やめなってば」
慌てて七菜の肩を掴めば、彼女はやたらと鼻息荒く振り返った。
「だってここ、彩花の家の前だよ? あんたのストーカーかもしれないじゃん」
「いや、私にストーカーとかないから。っていうか、もしホントにストーカーだったら危ないと思うんだけど」
「ここでダッシュ!」
「あ!」
この押し問答も計算のうちだったか、七菜は不意をついたように問題の曲がり角へ向けて駆け出した。本当にそこから様子を窺う誰かがいれば、確かに驚くことだろう。
「ふん!」
その小さな身体を弾ませて素早く路地へ飛び出すが、
「…………あれー?」
素人丸出しな謎の構えのまま、七菜は拍子抜けしたみたいに立ち尽くした。
「ストーカーはいたの?」
歩み寄りながら、彩花は答えの分かりきった問いを投げかける。
「いや、はは。そうそうあるわけないよねー。リアルでそんなのって」
苦笑う七菜に並んで、彩花は同じ方角を眺める。そこにはいつもと変わらない、夜の団地の景観だけがあった。時間的にはまだ夕方だからか、どの家からも明かりが漏れており、薄暗いながらも人の息遣いを感じさせる。
反面、通行人などの姿はなくシンと静まり返っているため、慌てて逃げたり走ったりする者がいれば足音で分かるはずだ。
「…………」
七菜の言う通り。そんな出来事、そうそうあるものではない。流護がいなくなってしまったことだけでも、これ以上ないほどの異常事態なのだから。
「……気のせいだったのかなー。まぁストーカーはあれだけど、里歩かなーって思ったんだよね。あいつ、家政婦ゴッコとか言ってこっちが気付くまで隙間から覗いてたりするし。家もこの近くだしさ」
「…………」
「まぁいいや。そんじゃ、そろそろ帰りますかー。……彩花? どしたん?」
「……ああ、うん」
まっすぐ続くアスファルトの直線を見つめていた。この道を五分ほど行けば、有海家にたどり着く。すっかり行くことのなくなった、流護のいなくなった、あの家に。
「彩花。今度の日曜さ、御山津に行こ」
「え?」
「いいから行こ行こ。里歩も誘ってさ。久々にシャルロッテ行きたいな。買い物しまくろうよ。キマリね!」
「あー……でも、自転車も修理に出さないと……」
「うるせー! チャリが何だってんだよぉ! そんなん時間かかるもんでもないでしょ。出してからでいいじゃん! はい、決定!」
「…………」
そろそろ、周囲に迷惑をかけてしまっている時期になってきたのだろうか。有海流護の幻影にすがって。疲れ果てて。心配されて、気を遣われて。
「……うん、分かった」
彩花は改めて実感する。やはり時の流れは恐ろしい。
いつまでも引きずるな。もう忘れろ。周りの全てからそんな風に言われてしまう日は、すぐそこまでやってきているのかもしれない。




