324. 願うなら
「……げ、まじか」
夕飯の準備を始めた流護は、醤油が切れかかっていることに気付く。先日の買い溜めでは見落としてしまっていたらしい。
(とても足りんぞ。うーん……いっそ使わない……って訳にもいかんしなあ)
ただでさえ大したことのない流護の料理である。そこから本来必要なものまで欠けてしまったら、それはもう残念な出来となること請け合いだ。
(ベル子にマズイもん食わせたくはねーし……。またあんな風に倒れたりしないよう、スタミナつけてほしいしな。買って来んと)
時計を確認すれば、午後六時に差しかかろうとしているところ。大半の生徒の下校時間からは外れているし、もう外は暗くなっているし、例によって帽子やフードを被っていけば問題はないだろう。
さっさと行ってこよう、と台所を出た流護は、
「……あ、リューゴ」
居間へ入ってきたベルグレッテと鉢合わせになった。
「おう、ベル子。調子はどうだ?」
「ん、大丈夫よ。ありがとう」
無理をしているようには見えない。本当に復調したのだろう。であれば過剰な心配をしても仕方がない。少し買い物に行ってくる、と口を開きかけた流護だったが、
「リューゴ、話があるんだけど……いい?」
「お、おう……、どした、改まって」
きりりとした少女の瞳、その光の強さに気圧される形で頷いた。
双方ひとまずソファへと腰掛け、流護はベルグレッテが切り出すのを待つ。互いに無言のまま、十数秒ほども経過しただろうか。
(……、)
彼女が逡巡する様子で、察することはできた。
何か、言いづらいことを言おうとしているのだと。
それでも、
「……リューゴ。率直に言うわ」
この少女らしい、と言うべきか。短い迷いの後、腹を括ったのだろう。堂々とした表情で、ベルグレッテは流護の目を見据えながら告げた。
「例の件。私は、一人で公園へ行こうと思うの」
瞬間的に、流護の頭の中は真っ白になった。
「私は、一人でグリムクロウズに戻る。リューゴは、ここに……この世界に残って」
「…………いや、何……、言ってんだよ、ベル子……」
かすれた声で零す少年とは対象的、少女はかすかな微笑みすらたたえる。
「短い間だけど、実際にこうして暮らしてみて……私にもはっきりと分かったわ。このチキュウという世界、ニホンという国は……私たちの住むグリムクロウズとは、本当に『違う』んだなって」
リビング全体を見渡し、穏やかな声音で続ける。
「正確には……私たちの住む世界より、遥かに進んだ技術を持ってる……って言うべきかしら。こうして実際に訪れて体験していながら、未だに信じられない。神詠術が使えなくても、それ以上に快適な生活ができるんだもの」
電気や水道の使い方を覚え、テレビの楽しみ方すらも理解したファンタジー世界の少女は、感慨深げに目を細めて言った。
「今なら分かる。リューゴはグリムクロウズにやってきて、想像を絶するほどの不便さや疎外感を覚えていたのよね……」
そんなことはない、とは言えなかった。
簡単な操作で、水や明かりを使うことなどできはしない。めぼしい娯楽もなく、ただひたすらの鍛練に打ち込むことで、退屈な時間を紛らわせていたという面も確かにあった。
「リューゴは、この世界で暮らしていくべきだと思う。だってこの世界で生まれて、十五年間ずっと暮らしてきたんだから。そんな生まれ育った場所に、やっと戻ってくることができたんだから」
「……ベル子……、本気で……言ってるのか?」
呻くような流護の言葉にも、ベルグレッテは迷うことなく頷く。
「リューゴから考えて……私は、どうするべきだと思う? ここで暮らしていくべきか、それともグリムクロウズに戻るべきか」
いきなりの質問に面食らう少年だったが、そこは即座に答える。
「いや、そりゃあ……向こうに戻らんとだろ。みんな心配してるだろうし……ベル子がいなくなったなんてことになりゃ、学院とか大騒ぎになっちまうだろ」
「ん、ありがと。でも……それなら、同じことだと思うの」
「え?」
「グリムクロウズで、私のことを心配してくれる人がいるように。このニホンには、リューゴのことを心配してくれる人がいるでしょう?」
息が止まりそうになった。
父親の顔が、柚の顔が、メールをくれた皆の顔が、そして彩花の顔が思い浮かんで。
返す言葉が出なかった。
「その人たちを安心させてあげなきゃ。これからは、その人たちのそばにいてあげなきゃ」
「……んだよ。お、俺……ベル子のことが好きだって言っただろ。なのにさ……そりゃつまり、俺はベル子にフラれちまったとか、そういうあれか?」
動揺のあまり、自分でも訳が分からないままそんなことを口走る。めちゃくちゃカッコ悪いな俺、と頭のどこかで思いながら。
少女騎士は、薄く微笑みながら頷いた。
「――うん。そうだね。私、リューゴとは一緒になれない。ごめんなさい」
そこで。
流護はただ、言葉を失った。
ベルグレッテにそう言われたから、ではない。
「ベル子……、」
「え、あれ……?」
そう言った彼女の瞳から、大粒の涙が零れたからだ。
「わ、ど、どうして……ちが、これっ、違うから! ご、ごめんなさいっ……」
彼女は慌てて立ち上がり、小走りで居間を出ていってしまった。続いて、とんとんと階段を駆け上がっていく音が響く。
「…………、」
昔から鈍いだの馬鹿だのトンチンカンだのと言われ続けてきた少年でも、さすがに気付く。
(……ベル子も、俺のこと……)
これまで、そんな節がない訳ではなかった。
他の女子と喋っていると不機嫌そうになることもあったし、そもそもあのディアレーの夜に告白した感触からして、『もしかしたら』を期待してしまうような反応ではあった。
だからこそ。
(……何だってんだ、この状況は……)
好きな人には、元の居場所で幸せになってもらいたい。
流護とベルグレッテ、双方がそれを望むなら、二人は離れ離れにならなければいけない。
(んな……馬鹿な話があるかよ)
最初から出会ってはいけなかった、とでもいうのか。
(俺がここに残れば……ベル子とは、もう……会えなくなる……)
この半年。
一緒にいるのが当たり前になっていたあの少女と――
(もう、これきり……?)
『当たり前』の生活を望むのならば。『拳撃』の遊撃兵は、ここで廃業だ。
(…………)
そこで、部屋の片隅に積んであった衣服の山がドサリと崩れ落ちた。普段着ではない。流護が異世界で身につけていた旅装一式と、邪竜の篭手だった。さすがに洗濯機では洗えそうになかったため、手洗いで泥や汚れを落とし、いつでも持っていけるよう準備していたものだった。
「…………」
無言で立ち上がった流護は、それらを畳み直そうと手に取った。
この世界ではありえないような、なめし革の硬いマント。強大な竜の外皮で拵えられた、灰色の手甲。レインディール産の麻を用いた平服の手触りは、ざらついて固い。いつしかこの感触が当たり前となり、何も思わなくなっていた。しかし先ほどのベルグレッテの言葉通り、服の作製技術ひとつ取っても、こちらと向こうでは大きな差があるのだ。
(この服を着ることも……この篭手を使うことも、もうなくなる……?)
手に取った旅装の隙間から、ポトリと何かが落下した。
「……あ」
それは、何とも不格好な人形だった。
手のひらに収まる大きさの、手製の小さな編みぐるみ。手足の長さもちぐはぐで、平らな場所に置いてもコテンと倒れてしまう。
『あ、あの、リューゴくん、ベルちゃん! こ、これ!』
『これは……?』
『あっ、これ……もしかして、ピアガ?』
『う、うん! そうだよ!』
『ピアガ……って何ぞや?』
『温暖な地方の草原に棲む草食獣で、旅の守り人とも呼ばれる生き物なの。旅の安全を願って、地方の土産物屋ではこういう風なお守りに……、あ……ミア、もしかして……私たちのために、自分で作ってくれたの?』
『う、うんっ……』
「……、ミア」
彼女が作ってくれた、旅立つ前に渡してくれた、お守り。
『あたし、いつも待ってることしかできなくて……お土産ももらったりしてるのに、なにも返せなくて。だからせめて、なにかできることないかな、って思って……』
「――――――――」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
『ね、リューゴくん。遊撃兵になっちゃったから、これからお仕事とかも大変だと思うけど……絶対に、帰ってきてね。……あたしのこと置いて、どこかに行ったりしないでね……?』
『ああ、それは約束するぞ。ミアのこと置いてどっか行ったりなんてしない。どんな仕事でどこに行っても、絶対に帰ってくる』
『……うんっ』
ベルグレッテたちの実家に招かれた折、宛てがわれた客室で交わした会話を。
今でもはっきりと、覚えている。
『ほんとに、ぜんぜん、もどってごないがら……あだ、あだじ、捨てだでたのかも、って思って、うぅ、』
天轟闘宴で帰還が遅れ、泣きじゃくった彼女の顔を。
はっきりと、覚えている。
そしてこのお守りを渡されて。今回の任務に赴く前の、
『……ありがとな、ミア。最高のお守りだよ。絶対……絶対、無事に帰ってくるからさ』
あの約束を、間違いなく覚えている。
――俺はまた、同じ過ちを繰り返すのか?
本当の父親に捨てられてしまった彼女を。俺が父親代わりだ、などと偉そうに言っておいて。
彼女にまた、同じ悲しみを背負わせるつもりなのか――?
ゴン、と硬質の音が響き渡る。
流護が部屋の柱に額を打ちつけた音だった。
鈍い痛みと共に、自身への怒りを自覚する。
(裏切れ、ねぇっ……!)
しっかりしろ。何をヘタレて寝ボケてやがる、有海流護。
ミアというあの少女を。実父に売られてしまい、どうにか取り戻した彼女を。
その人生を預かると約束しておきながら――自分は帰りたかった故郷に帰れたから、後は知りませんとでも言うつもりか。
あの無垢な信頼を、裏切るつもりなのか。
(俺は……ぁッ!)
彼女だけではない。
ダイゴス・アケローンという、物静かな巨漢がいる。朴訥ながらも心優しいその男は、ある少女を救うために自らの身を投げ打とうとした。
日常から彼という存在が失われることをよしとしなかった流護は、全力でぶつかりこれを阻止した。
『何だかんだで……今の生活が、楽しいものになってたんだよな。そっから、あんたが欠けちまうのは寂しいよ』
天轟闘宴であんなことを言っておきながら、自分はあっさりと姿を消すつもりなのか。
そして――
『俺も神詠術とかは全然分からないし、だから……これからベル子と一緒に、お互いに足りない部分は補い合いながら、助け合いながら、闘っていけたらなー、とか思うんだけどさ』
今も一緒にいる少女騎士とのあの約束を、破るつもりなのか。
(……ッ!)
自分の意思とは関係なく、ふと迷い込んでしまった異世界。そこでやむなく暮らすうち、いつしかかけがえのないものができてしまった。
(思ってなかった……)
現代日本での暮らし。幼なじみの蓮城彩花、宮原柚という優しい先輩、たった一人の肉親である父親。
グリムクロウズで得たもの。ミアやクレアリア、ダイゴスを始めとした学院の友人たち。共に死線を潜った同僚の兵士たち。そして――淡い恋心を自覚した、ベルグレッテという美しい一人の少女騎士。
(だって……こんなことになるなんて、思うわけねぇだろうがよ……ッ!)
両方を取ることはできない。現代日本か、異世界グリムクロウズか。
身を切るような二者択一。有海流護は、どちらの世界で生きるのか。
「……俺は――――!」
運命は、少年に過酷な選択を容赦なく突きつける。
 




