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終天の異世界と拳撃の騎士  作者: ふるろうた
9. 英雄譚の裏側で
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322. 目を背けていたもの

「……何だよ、お前。また、泣いてんのか」


 子供の頃の彼女は、ひどく泣き虫だった。

 どうすれば助けてやれるだろう。幼いなりに、真剣に悩んだ。

 ある日テレビを見ていると、正義のヒーロー『マーシャルンジャー』が画面内を縦横無尽に飛び回りながら悪の怪人と戦っていた。

 これだ、と思った。

 強くなればいい。どんな奴が相手だろうと、蹴散らしてやれるぐらいに。それだけだ。


「名前は? 流護ちゃん、か。えらいえらい。よろしくのう」


 父に連れられ、初めて踏み入った道場。神聖で厳かな雰囲気が漂う澄んだ空気を、今でも覚えている。

 そこで老人に見せてもらった型や演舞に、力なき少年はたちまち魅了された。

 身体が弱く病気がちだったこともあり、それを克服するとの名目もあって、その日から始まったのだ。

 有海流護の、格闘技とは切り離せない人生が。


 師となる老人――片山十河は、流護の才能を絶賛した。

 流護も期待に応え、技術を高めていった。


 後から入った大人に教えることも増え、まともに触れられる者もいなくなってきた中学生の頃。

 かなりの頻度で訊かれるようになった質問があった。


「空手を始めた切っ掛けは?」


 まあ……小さい頃、身体が弱くて。

 そんな答えで濁すのが、当たり前になっていた。本当の理由など、今さら誰かに言えるはずもなかった。


「ねえ。流護って、なんで空手やり出したの?」


 いつだったか、彼女にすらそう問われたことがある。

 鼻白んだ少年はつい「お前に関係あるかアホバカマヌケ」と突っぱねてしまい、いつも通りのケンカが始まるのだが――


 言えるはずがない。

 蓮城彩花という一人の少女の助けになりたくて、強さに焦がれたことなんて。






「じゃあ、今日はこっちの……ミソ、味? で……」

「まじか、味噌に挑戦っすかベル子さん。日本人にはお馴染みの味なんだけど……慣れてないと厳しいかもしれんぞー」

「そ、そうなの? でも、試してみないことには……、がんばってみる……!」


 昼は買い溜めしたカップラーメンをすするのが定番となり、


「明日は……雨、みたいね。洗濯物、きちんと乾くかしら」


 当たり前のようにテレビの天気予報を利用するようになったベルグレッテが、日本の主婦みたいなことを呟く。

 まだ少し慣れない手つきではあるものの、水道や電気といった文明の利器も使いこなしつつある。


 現代日本へやってきて六日目。

 想像していたことではあったが、この少女の理解の早さや順応性の高さには、目を見張るべきものがあった。

 そして――


「……っ、この二人、どうなっちゃうのかしらっ……」


 行儀よく背筋をピンと伸ばして座ったジャージ少女ベルグレッテ。その真剣な眼差しは、液晶画面内で繰り広げられる愛憎劇――即ち『昼ドラ』へと注がれている。

 当初は「黒水鏡を使って劇を見せるだなんて! なるほど!」と驚いていたファンタジー少女だが、今や画面に釘付けであった。


『どうしてわかってくれないの、タカユキさん!?』

『そっちこそ! 君は、いつもそうだ!』


 背景のイルミネーションも煌びやかな夜の公園で、スーツ姿の若い男女がどうしようもない痴話ゲンカを披露していた。


「ど、どっちも言いすぎじゃない……? 結婚を控えてるんだから、もっと落ち着いて……」

「残念ながらどうもならんな。この後、女の方が『もうタカユキさんなんて知らない!』つって走り去って、勢いのままバーに行くだろ。で、やさぐれながら一人で酒飲んでると、優しげな年上ナイスミドルに声をかけられる。ケンカしたことと酒の勢いもあって、女はそのオッサンとついつい禁断の一夜を過ごしちまう。『私はなんてことを……タカユキさんごめんなさい、でも一度だけだし……』なんつって自分を許しちゃうビ……女だったが、そしたら後でナイスミドルが職場の上司として転勤してきてあら大変って寸法よ。女は婚約者とナイスミドル上司の間で板挟みになって、ドロドロしたまま最後まで続く。間違いないぞ」

「え、えぇ!? 禁断のいちっ……、!? だ、だめよ! そんな、婚約までしてるのに、別の男の人と……!? そんなふしだらなっ……だ、だめだめ、絶対ありえないわ! 第一、結婚するまでそのっ、そういうことはっ」


 厳格な貞操観念を持つ貴族のお嬢様がひどく動揺する間に、画面の向こう側では女優が「もうタカユキさんなんて知らない!」と叫びながら駆け出していく。有海流護が預言者となった瞬間であった。


『ああっ!』

「ああっ!」


 タカユキさんとベルグレッテの悲鳴が完全にシンクロし、思わず流護はボフッと鼻水を吹き出してしまった。


「そ、そんな……リューゴが言ったとおりに……」

「ふぉっふぉっふぉ。だから言うたじゃろう……。いや、まさかここまで直撃するとは思わんかったけど……。っと、ちょっと部屋に戻ってるな、俺」

「あ、う、うん」


 ベタな愛憎劇の続きが気になって仕方ないらしい少女騎士を残し、流護は居間を後にした。






「こんな……とこか」


 パンパンと手を払い、自室全体を見渡す。きれいに片付いた部屋に我ながら満足しつつ、心中でうんうんと頷いた。


「……ははっ」


 ふと先ほどのベルグレッテを思い出し、つい頬が緩む。

 彼女は、目に見えて明るくなった。あんな昼ドラに興味を示すほどには、余裕が生まれている。それも当然だろう。まるで見通しのつかなかった故郷への帰還に、ようやく目処が立ったのだから。


 事態を急変させた例のメールが届いた、その翌日。同じアドレスから、もう一通メールが送られてきたのだ。


『大事なことを伝え忘れていた。機会は一度きり。こうした行き来は、もうできないと考えてもらいたい。期日まで熟考を重ね、決断してほしい』


 強制ではない、どうするかはそちらに委ねる――とでも言いたげな。

 さらに詳しく聞き出そうと思いメールを送ってみたが、さすがにというべきか、もう返信は来なかった。

 伝えるべきことは伝えた、ということか。


(機会は一度きり……か。なら、もっとちゃんと説明してほしいもんだぜ)


 罠の可能性も否定できないが、少なくともあの謎のメッセンジャーがグリムクロウズを知る人物であることは間違いない。指定通りに動けば、本当に戻れるか否かは別として、必ず何らかの形で進展があるはず。

 かすかに差した光明でベルグレッテの気持ちが楽になったのなら、流護としても大いに歓迎すべきことだった。

 そして、


(俺も……今更、迷いなんてねーさ)


 だから、こうして部屋を片付けた。

 訳も分からず、初めてグリムクロウズへ迷い込んだあの頃とは違う。今度は自分の意思で、再び異世界へと舞い戻る。この部屋を――家を。現代日本を、出ていく。そんな決意の表れとして。


「思った以上に……何もなかったもんなぁ? 残したもんとか、色々と」


 自らに同意を求めるかのように、半笑いで呟いた。

 故郷へ戻ってきて。世間の目から逃げ隠れて。半年の空白を抱えた学生、というハンデを背負った現実を認識して。

 惨めな過去と、苦難ばかりの現実。先行きの見えない未来。


(土日もアレだったし……鬱になっちまいそうだっての)


 先日、戻ってきて初めてとなる週末を過ごした。

 せっかくの休日、私服で街をうろついても不審がられることはない。いい機会なのでベルグレッテを連れて出かけてみよう――としたのだが、結局は取り止めとなり、家に閉じ篭もる土日となってしまった。

 近所の神社で祭りがあり、人の出が多く、とてもではないが外へ出られなかったのだ。普段は閑散としている団地の狭い道路を、絶えず誰かしらが行き来していた。

 外出どころか、この家で過ごしていることを気付かれないよう努めるのが精一杯だったといえる。かすかに木霊してくる、カラオケ大会の音声を聞きながら。


 この現代日本へ戻ってきて、早くも一週間近くが過ぎようとしている。変わらず続く、まるで犯罪者のような息を潜め続ける時間……。


(最初は、親父が帰ってくりゃこんな生活も終わり……とか思って観念してたけど、結局それより先に例の日になっちまうしな)


 例の指定日は十二月の三日。父の帰宅予定は四日。わずか一日差でのすれ違い。さすがに、父親の顔は一度見ておきたかったかもしれない。せめて、置き手紙の一つでも残していくべきだろうか。


(まあ、まだ確実にグリムクロウズに行けるって決まった訳じゃねーんだけど……、お)


 あれこれ考えるうち、部屋の片隅でひっそりと光っていた赤いランプがフッと消えたことに気付く。専用スタンドに立ててあった、携帯電話の充電が終わったのだ。

 ずた袋に放り込んだまま放置となっていたその存在に気付いたのが、遅まきながらほんの今朝。携帯電話を持ち歩く――などという習慣は異世界生活によって完全消失していたため、発見が遅れてしまったのだ。


(電源入れとけ、って宮原先輩にも言われてたのにな……すっかり忘れちまってた)


 完全に電池切れとなっていたため、スタンドに立てたのが数時間前。異世界ではミアという電撃娘によるインスタントチャージを繰り返していたので、正しい方法による充電も実に半年ぶりとなる。

 時刻表記がおかしくなったりといった不具合もあったため、とりあえず充電中に火を吹いたりしなくてよかった――と何気なく電源ボタンを押し込んでみた流護は、


「……うお、何だっ……!?」


 思わずのけ反りそうになった。

 画面に次々と表示されるアイコン。

 何件もの不在着信、そして実に五十件強にも及ぶメール受信。


「…………、」


 当たり前だった。

 電波の届く圏内で電源を入れたことにより、行方不明となってからこれまで――半年分の溜まりに溜まったメールや不在着信通知が、雪崩さながらにドッと押し寄せてきたのだ。


「そっか、そりゃ、そうだよな……、っ――」


 苦笑いしつつ、最初のメールの差出人、その名前を見て凍りつく。


「……、」


 ここまできて開封しないという選択肢もありえない。突き動かされるように、決定ボタンを押し込む。


「――――――――ッ」


 有海流護は。

 現代日本へ戻ってきてからの、この六日間――あえて見ないようにしていた、考えないようにしていた、ある現実を直視することとなった。


『ちょっと、どこでなにしてんの!? 今何時だと思ってんの! 電話も繋がらないし! これ見たらさっさと連絡しなさい! あほ!』


 各所に機種依存の絵文字が散りばめられた、賑やかなそれは。


 蓮城彩花、という幼なじみの少女がいる。

 互いの家は、徒歩で五分少々の距離。幼稚園、小学校、中学校、そして高校。歩んできた道のりも同じ。

 子供の頃は、何だかんだでいつも一緒だった。

 中学、高校と進むにつれ、少しずつ顔を合わせる機会が減っていった。

 流護は空手部、彩花は料理部。互い、打ち込んでいた活動に割く時間が増えたことも、一因ではあるだろう。

 今になって思い返せば、決定打となったのは――


『……ねえ、流護。その……もし、私に……彼氏ができた。……とかって言ったらどうする?』

『……ああ? ……そうなん? ……げ、被弾したし』

『真面目な話してるんだけど。ゲームやめて聞いてくれない?』


 ゲーム機片手だったかもしれないが、ちゃんと聞いていた。

 そのうえで馬鹿なりに――鈍いなりに考えた。

 なら、これからは距離を置いたほうがいいんだろうな、と。

 流護にとって彩花は、妹のような存在だ。向こうに言わせれば、「あんたは私の弟みたいなもんなんだから」とのことだが。

 そんな『家族』にいいことがあったのだから、祝うのも当然のこと。


『ま、よかったじゃねーか。お前みたいなのと付き合う物好きが現れてくれて』

『……、はあ? なにそれ、むかつく。あんた、ほんとにそう思ってんの……?』


 声の震えに気付き、顔を上げた。

 そこには、見たこともないような――怒ったような、悲しんでいるような幼なじみの顔があって――


『帰って』

『は?』

『あーごめんごめん、その彼氏とこれから約束があるんだった。忘れてたわ、ごめんね。だから、帰って』


 ケンカなんて、別にいつものことで。

 それでも今後は、少しずつ俺らの関係も変わっていくんだろうな――なんて、ちょっとだけ寂しさを感じたことも事実で。

 実際、二人で過ごす時間は少なくなって。


 なのに、


『……ねえ。明日って、ひま? ……時間、作れない?』


 あの日、当たり前のようにそんなことを言ってきて。

 毎年、二人で欠かさず行っていた夏祭り。

 彼氏と行けよ、何してんだお前――なんて思いながら返信をした直後、気付けばあのグリムクロウズへと飛ばされていたのだ。



 たった今押し寄せた、五十件以上ものメールや通知。

 これは、有海流護が現代日本から消えた後に送られた、届かなかった言葉たち。

 有海流護が異世界で英雄とはやし立てられていた間――その裏側で紡がれていた、残された者たちの思い。

 受取人たる少年は半年の空白を経て、ようやくその全てを目にすることになる。



『おじさんに聞いた。夕べから帰ってないって、どういうこと? メールに気付いたらすぐ連絡して』


『ねえ、今どこ? なにしてるの? 怒らないから、お願いだから返事して。電話に出て』


 事態の深刻さを認識した頃だろう。絵文字の類は一切使われなくなっている。

 自分がいなくなった後の状況が。慌てふためくあの少女の心情が。手に取るように。


『おうバカ息子。どこで何してるか知らんが、さすがに警察に知らせんわけにもいかん。顔出しづらくなるかもしれんが、さっさと戻ってこい。彩花ちゃんに心配かけるんじゃないぞ、このろくでなしめ。待ってるからな』


『宮原です。有海くんのことだから、心配は……いろんな意味でしてるけど、大丈夫だよね。みんな待ってるよ』


 父親、マネージャーの柚、クラスメートたち……。

 特に失踪直後は、膨大な量のメッセージが押し寄せている。

 日にちが経つごとに、そうしたものも減っていく。最終的にメールを送り続けてくる名前は、たった一つだけとなった。


『今日は小テストだったー。もう二ヶ月になるけど、勉強遅れて大変になるぞー。まぁ私が優しく教えてあげるから、さっさと戻ってきなさーい』


『今日は部活が大変だったー。でも終わったら連休だしと思って乗り切った! ほめろ!』


 毎日のように。

 返事などないのに。


「は、はは……お前の日記帳じゃねーぞ、俺のメールフォルダは……」


 それも二ヶ月半、三ヶ月と過ぎる頃には、さすがに頻度が減っていく。それでも、繋ぎ止めるかのように。決して、途絶えることだけはなく……。


『ねー、流護。結局この夏は、一回も会えなかったね。こんなの初めてだよ。これからは、こんなのが当たり前になっちゃうのかな』


『おーい、そろそろ帰ってこーい』


 彩花自身、もう返信がないことは悟っていたのだろう。

 メールの送信時間も、昼夜を問わなくなってきている。平日だというのに、夜中の二時や三時に送られているものもあった。

 そしてそれは――その時間、彼女が眠れずにいたという証に他ならない。


『今、なにしてる? 私はなんだか全然眠くなくて』


『会いたい』


『会いたいよ、流護』


「……………………ッ……!」


 思わず喉元まで出かかった絶叫を、流護はすんでのところで飲み込んだ。


 俺は。

 考えたないように、してたのに。

 グリムクロウズに行ってからも、こうして戻ってきてからも。

 お前のことを、できるだけ考えないようにしてたのに。

 なのに、お前は。


 まるで対照的。正反対。

 この少女は、まるで呪われたように――いなくなった有海流護に縛りつけられて。


「馬鹿、かよ……俺のことなんて、さっさと忘れちまえって……」


 零れた声は震えていた。


『ねえ流護、死んじゃったの? それなら私も、そっち行っちゃおうかな』


 ゾワ、と嫌な予感が少年の全身を震わせた。

 そのメールの受信は一ヶ月前。時刻は妙な不吉を予感させる午前四時四十二分。

 流護はこの世界へ舞い戻って以降、彩花の動向について一切確認していない。ずっと、彼女から目を逸らし続けていた。

 蓮城彩花が今、どうしているかを知らない。

 まさか――


 慌てて次のメールを確認すると、


『なーんて。びっくりした? はよ戻ってこい、あほ、ばか、まぬけ』


 どっ、と安堵の溜息が盛大に吐き出される。


「ふざ、……ふざっ……けんな、馬鹿」


 そもそも『そんなこと』になっていれば先日、柚が何か言っているはずだ。流護が不在の間、学校の生徒に『不幸』があったと。そういったことを隠している素振りも感じられなかった。

 つかアイツそんなタマじゃねーよ、と自分に言い聞かせるように思いながら、メールの確認を続ける。


『いきなりだけど、衝撃の告白をしまーす。実は私、彼氏ができたなんて大嘘でした。いやね、部活の先輩に告白はされたの。断ったんだけど、それでもなかなか諦めてもらえなくて……。優しいし、悪い人じゃないんだけどね。その先輩と話してるとこ部活仲間にも見られちゃって、色々とはやし立てられちゃったりもして。それであんたにも相談してみようと思って。でも、あんたに話したら……』


 あ、と流護の喉から吐息が漏れる。


『……ねえ、流護。その……もし、私に……彼氏ができた。……とかって言ったらどうする?』

『ま、よかったじゃねーか。お前みたいなのと付き合う物好きが現れてくれて』

『……、はあ? なにそれ、むかつく。あんた、ほんとにそう思ってんの……?』


 分かっていたはずなのだ。

 十年も一緒だった幼なじみが、そこでどう反応してほしかったかなど。


『引くに引けなくなっちゃうじゃん! ばか! とにかくそんなわけで彩花さんは今もフリーだよ。もしあんたが私に彼氏できて、それで余計な気を使ってるとかだったらそんな必要なし! 白状しちゃうけど、あんたの反応すっごい薄くて傷ついたわ! あほ! なんか言うに言い出せなくなっちゃったし……。ほれ安心したでしょ? はよ戻ってこい! そろそろストーブのいる季節になっちゃうよ』


「……平日の夜中に何だよ、この長文は」


 ああ、おかしいとは思ってたんだ。

 結局ただの一度だって、あいつの彼氏とやらを実際に見たことはなかったから。

 何をくだらない見栄張ってんだかな、あの馬鹿は。

 そんな気持ちとは裏腹に、胸の内側で燻っていた妙なモヤモヤがすっと晴れていく。


『ねえ流護、好きだよ。……弟代わりとしてね! 早く帰ってこい、ばーか』


 最後の受信はわずか四日前。すでに流護が戻ってきてからだ。

 一番新しいメールが、それだった。


「馬鹿はお前だ、馬鹿……!」


 絞り出した声は、嗚咽混じりとなっていた。


 ――考えないようにしてた。

 お前のことなんて、忘れたふりをしてた。

 思い出せば、自覚すれば、叫び出してしまいそうだったから。

 もう、二度と会えない。

 俺のことなんてすっかり忘れて、彼氏と仲良くやってるかもしれない。

 でも彩花が幸せなら、それでいい。

 そのはずなのに、納得がいかない。

 そんな、板挟みの気持ちに押し潰されそうで――


「……、ッ」


 くだらねえ、終わりだ。

 俺は今、ここにいる。日本に、自分の家に……彩花の家から五分足らずの距離にいる。あいつの声に応えてやれる場所にいる。


(戻ってこいって? ははっ、ああ、戻ってきてんだよ、もう……!)


 怒涛のごとく、頭の中でそんな声が囁く。


「彩花……っ」


 突き動かされるようにメールの返信作成画面を開いた。

 電話をかけたところで授業中のはず。逸る気持ちを押さえ、深呼吸する。

 どう書こうか。

 改まって返事となると、妙に緊張する。相手は彩花なんだから、変に気を使わず落ち着いて――


「…………っ!」


 そこでハッとして、流護は携帯電話を取り落とした。


(……馬鹿か、俺は)


 どうするつもりだ。

 ここで彩花にメールを送って、どうするつもりなんだ。


 数日後には、再びグリムクロウズへ渡るかもしれないのに。自分がこの現代日本にいることを、可能な限り隠しておきたいのに。

 ここで彩花に連絡しても、ぬか喜びさせるだけとなってしまう。

 さらには連絡したことが原因で、事態がこじれる可能性もある。流護とベルグレッテの存在が明るみに出て――例えば警察に拘束されたりしたなら、指定の日時に公園へ向かえないようなことにもなりかねない。


「俺……、」


 有海流護は、再びあの世界へ行く。

 そう決めたはずだ。

 しかし。


『……あなたは、いいの……? それで……』


 ベルグレッテのそんなセリフが、脳裏で反復される。

 まるでこの展開を見越していたような、その言葉が。


「………………、」


 あいつの言う通り。俺は、それでいいのか? もう、終わりでいいんじゃないか? あんな命の軽い世界にまた戻ろうなんて、どうかしてるだろ。


 頭の中で、もう一人の自分が冷めた声で囁く。


 また詠術士メイジやら怨魔やらと闘うことになって、次こそは死ぬかもしれない。この日本は確かに退屈だけど、少なくとも生きるか死ぬかの事態なんてそうはない。命が危険に晒されるようなことなんてまず起こり得ない。間違いなく、向こうの世界よりは安全に生きていくことができる。


 俺は元々、何の変哲もないただの日本人。ただの高校生。

 こっちに留まっていいんじゃないか。

 そうすれば、何も気にする必要なんてなくなる。彩花にだって知らせてやれる。俺は帰ってきたって。もう、どこにも行かないって――


 それは反動だった。

 これまで無意識に抑え続けてきたそんな思いが、嵐のように少年の中を渦巻き始めた。






「……、」


 ベルグレッテは、流護の部屋の前で立ち尽くしていた。

 そして――


(……ん、戻ろう)


 結局、扉をノックすることなく静かに引き返した。

 自分で紅茶を淹れてみたいんだけど、お砂糖どこ?

 とても、そんなことを尋ねられるような雰囲気ではなかった。


(……リューゴ……)


 閉まりきっていなかった扉の隙間から、見えてしまった。『ケータイデンワ』に視線を落とし、肩を震わせる彼の姿が。


(あのときと、同じ……)


 あれは、流護がミディール学院へやってきて数日が過ぎた頃。学院が怨魔たちの襲撃を受ける前日の夜。

 自分が『チキュウ』という別世界からやってきたと主張する彼は、その証拠を見せてやると言ってあの『ケータイデンワ』を取り出した。そして、たった今と同じように。『ケータイデンワ』をじっと見つめ、涙を流した。

 少しばかり知識がついた今なら分かる。おそらくは、誰かから『メール』が届いたのだ。手紙のやり取りのようなことができるという、その機能。


 そして、その相手は――


『彩花……っ』


 過去、一度だけその名を耳にしたことがある。

 学院が怨魔の群れに襲われた、あの日。流護の名が知れ渡る契機となった闘いが起きた、その日。

 ドラウトローの大群を殲滅して一息ついた流護が、談笑の最中でベルグレッテに向けて呼びかけた名前。


『彩花……?』

『アヤ、カ……?』

『あ、ああいや。何言ってんだ俺は。いや、彩花ってのはさ、元の世界にいた妹みたいなもんで――』


 当時、彼はそう言っていた。

 詳しく訊くのも憚られたため、何だか訊くのが嫌だったため、それ以降その話題には触れていない。


「……、」


 妹のような存在。

 本当に、それだけなのだろうか。流護は、その少女のことを――



 ううん。流護が好きなのは、■■。



「……!?」


 ふらりと身体が傾ぐ感覚を覚え、ベルグレッテは咄嗟に壁へと寄りかかった。


(……な、に……? 立ち、くらみ……?)


 階段を転げ落ちては大変だ。慎重に手をつき、辛うじて段上で踏み止まる。



 本当、驚いた。

 まさか、こんなハ  リノバ  に。

 今の状況は正直、想定外。縺セ縺輔°縺薙s縺ェ縺薙→縺ォ縺ェ繧九↑繧薙※縲√&縺吶′縺ォ莠域Φ縺励※縺ェ縺九

 嬉しいけどダメ。こレはダメ

 ねえ、繝吶Ν繧ー繝ャ繝・ユ縲・


 念のために、  シ

 縺昴≧縺吶l縺ー縲∫ァ√◆縺。縺ッ窶補€募ョ檎挑縺ォ縺ェ繧後k縲・


   を、絶て。

 それで、スベテのツジツマは合う。



「――――――……っ」


 次に知覚したのは、意識が遠のくほどの頭痛。自分の所在があやふやになるほどの眩暈。

 そして、


(はじめて、じゃ、ない……?)


 強烈な既視感。


(……! わた、しは――)


 思考が真理に届きかけたのも刹那のこと。

 ベルグレッテの意識は、瞬く間に暗闇の中へと吸い込まれていった。何者かに阻まれるかのように。

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