320. 告解
「……ただいま」
「おかえりなさ……、リューゴ、どうしたの? その傷……」
裏口から静かに帰宅すると、出迎えたベルグレッテがにわかに目を見開いた。
「いや、まあ……」
いわゆるカツアゲ。
しかしそこは為す術なく奪われる有海流護ではない。制裁込みで撃退し、何事もなかったかのように帰ってきた――のだが。大した痛みはないものの、少し唇を切っていた。
グリムクロウズと同じ感覚で相手の攻撃をいなそうとしたところ、そこで初めて身体が『重い』ことに気付き、拳をもらってしまったのだ。
日常生活的にはどちらの世界もさほど変わりないが、やはりわずかな動きが影響する闘争行為において、この感覚の違いは大きい。
「ちょっと、チンピラに絡まれて……ケンカになっちゃってさ……」
「そう、なの?」
少しだけ驚き顔となるベルグレッテだったが、反応としてはその程度のものだ。グリムクロウズの感覚で考えたならこの程度のことは日常茶飯事。が、現代日本では大問題。今頃は警察が来ているかもしれない。
「よりによって、リューゴ相手にことを構えようとするなんて……無謀な輩がいたものね」
レインディールでのリューゴ・アリウミしか知らないい少女騎士は、やや呆れ気味にそう溜息をつく。
「っと、ひとまずその傷治療するわね……、あっ」
流護の顔に手を伸ばそうとしたベルグレッテだったが、思い出したようにハッとした。そう。この世界では、神詠術が発現しない。当然、治癒術も使えない。
「大丈夫だって。こんなん、ほっといてもすぐ治る」
心配そうな彼女を横切ってカーテンの閉めきられた薄暗い居間に移動し、どっかとソファへ腰を下ろした。
たかだか預金を下ろしに行ってきただけ。その過程で少し『運動』をしただけなのに、ひどく疲れた気がした。
予想以上に重圧となっている。
自分の存在が明るみに出ないよう、息を潜めて行動しなければならないことが。そして――
「ベル子はさ……俺のこと、どう思う?」
「ひぇっ!? い、いきなりなにを……」
対面に座ったベルグレッテがあからさまにビクッとしたのを微笑ましく思いながら、流護も慌てて言い方を正す。
「あ、はは、悪い悪い。変な意味じゃなくて……そうだな、戦力的にっつーか……強さ的にっつーか。一人の戦士として、闘う人間として、みたいな感じで」
おもむろな質問に対し不思議そうに小首を傾げる少女騎士だったが、
「それは……掛け値なしに、素晴らしい戦士だと思うわ。ファーヴナールやディノを下して、遊撃兵になって、エンロカクやプレディレッケと渡り合って、天轟闘宴で優勝して……。つい先日には、ズゥウィーラ・シャモアの体内から反撃に転じて……。ガイセリウスの再来かと思うような活躍ぶりだもの。正直、その……リューゴより屈強な戦士なんて、いないんじゃないかと思うぐらい」
「はは……ありがとな。でも――」
あまりのベタ誉めに照れくさくなりながらも、流護は口にする。
「違うんだ」
懺悔するように。隠していた真相を、告げるように。
「えっ?」
「有海流護ってのはさ、そんな立派な奴じゃないんだよ」
「……リューゴ? どうしたの、いきなり……そんなこと」
「俺も、すっかり忘れちゃってたんだけどさ」
それとも、あえて考えないようにしていただけか。自嘲気味な笑みが浮かぶのを自覚しながら。
「俺は……ただの落ちこぼれ。目標を見失って、無気力になって……周りに当たり散らしてた、ただのクズなんだよ」
それは、秘めていた罪を告白するような口調で吐き出されていた。
「リューゴ……?」
何を言っているのか、と。
ベルグレッテの瞳に、困惑の気配が浮かぶ。
「ベル子には……どこまで話してたっけ。こっちの世界での、俺のこと」
「ん……私たちと同じく学び舎に通う学生で、幼少の頃からカラテって呼ばれる武術を嗜んでて……」
そう。そんな、当たり障りのないことしか話していない。
都合の悪い、考えたくないようなことは話していない。
「俺は、さ」
ぽつぽつと、話し始めた。
子供の頃から始めて、それなりに自信のあった空手。それが通用せず敗退した県大会。屈折し、空虚になった無意味な毎日。街で幾度となく繰り返したケンカ。晴れることのない鬱憤。
「……で、その決勝で当たったのが、桐畑良造って奴なんだけどさ。コイツがもう、強かった。あっという間にやられて、その時のことなんてはっきり覚えてないぐらいで」
まずもらったのは腹部への中段突き。あれで、全てを持っていかれてしまった。その後すぐさま有効打を取られ、上段廻し蹴りを受けて終わった、と聞いている。気絶した訳ではないが、記憶が定かではない。緊張や初めての敗戦のショックもあったのだろう。
ただ確実だったのは。そこで――これまで積み上げてきた全てが、いとも容易く瓦解したということ。
「結局俺は、どこにでもいる井の中の蛙で……」
この小さな田舎町、高校生という括りの中ですら、最強になんてなれなくて。
その結果、やっていたことは金をせびろうと絡んできた連中とさして変わらない。消えない鬱屈を、無関係な誰かにぶつけていただけ。相手が屑だから構わないだろう、という自分勝手な免罪符を胸の裡に抱いて。
「ぶっちゃけた話さ。グリムクロウズに行ったのが俺じゃなくて、もっと強い奴……桐畑とかプロの格闘家みたいな連中だったとしたら、俺より全然上手くやったんじゃねーかな」
半笑いになりながら、女々しい愚痴が漏れていた。
有海流護は決して、特別な戦士などではない。ベルグレッテが……あの世界の人たちが思い描くような、伝説的人物でなどありえない……。
そのグリムクロウズでの活躍だって、あの世界では『なぜか』驚異的な力を発揮できたから成し得ただけ。
こうして予期せぬ形で帰還して、再びあの異世界へ舞い戻る方法を探そうにも、何一つ手がかりなど見つけられない。一方で、ベルグレッテを誰にも気付かれず匿い続けることすらもできはしない。
本当に何の力も持たない、ただの子供……。
吐き出す弱音も底をつき、湿った静寂に包まれることしばし。
ただ静かに話を聞き終えていたベルグレッテが、
「そう」
とだけ頷いた。
「けど、アリウミリューゴだわ」
彼女が発したその言葉の意味が分からず、少年はきょとんとなった。
「学院の危機や、私たちの命を救ってくれたのも……遊撃兵に任命されたのも、天轟闘宴で激闘を制し、優勝を飾ったのも。それらを成したのは、他の誰でもない……アリウミリューゴだわ」
「いや、でもさ……」
「他の誰かならもっと上手くやれたかもしれない……なんて仮定、無意味よ。実際に私たちと出会い、助けてくれたのは、あなた……アリウミリューゴなんだから」
「……ベル子……」
「誰だって……壁にぶつかったり、挫折したり……あるいは、間違ったり。人には言いづらい、なかったことにしたい過去の一つや二つ、持ってるものだと思う。私にだって当然あるし、きっと……あのガイセリウスにだってね。そんなこと、わざわざ伝記に書かれていないだけで」
「……そんなもん……かな」
「んっ。そんなもん、よ。なに一つ恥じることのない、失敗したことのない……そんな完璧な人間なんていないんだから」
笑顔で断言する少女が眩しくて、何だか申し訳なくて、流護はうつむいた。
「さあリューゴ、そろそろお昼だけど……今日はどうするの?」
そうしてジャージ姿の少女騎士は、食いしん坊キャラでもないのに鼻息荒く声を弾ませる。無理に空気を明るくしようとしてくれているのが丸分かりだったが、今はその気遣いが嬉しかった。
「……そう、だな……。よーし、今日はカップうどんにすっか」
「カップ……ウドン?」
「うむ。説明するより見た方が早いだろな。準備するから、ちょっと待ってろ」
立ち上がって台所へ向かう流護は、途中でピタリと足を止める。
振り向いて、
「……ベル子、帰ろうな」
当たり前のように、言う。
「えっ……?」
驚き顔で見つめてくる少女騎士に、
「一緒にさ。二人で一緒に……グリムクロウズに……レインディールに、『帰ろう』な」
はっきりと、そう宣言した。
「で、も……リューゴ……」
ベルグレッテの驚きはもっともだった。
おそらく彼女は、漠然と思っていたのではないだろうか。
例え、これからグリムクロウズへ渡れる方法が見つかっても。流護はもう、あの世界へ行かないのではないかと。
望んだはずもない、あまりにも突然すぎた世界間移動。
流護はかねてから、この現代日本へ帰りたがっていたのだから。その願いが叶わないからこそ、やむなくあの世界で暮らし続けていたのだから。
「リューゴ、あなた、でも……っ」
「今しがた、散々話したろ。俺にはさ、こっちの世界に残したものがなさすぎる。実際に戻ってきて、自分でもびっくりしたぐらいだったよ」
確かに、故郷の――実家の、自分の部屋の懐かしさに涙した。再会した柚の優しさに触れ、戻ってきてよかったと心から思えた。
一方で、予期せぬしがらみがつきまとうこととなった。
長らく行方不明だった自分にこれから浴びせられるだろう、世間の視線。
忘れられない惨めな過去。
『これから』のことも同じ。
例えば今後この現代社会で暮らしていく場合、自分はどうするのか。大して偏差値が高い訳でもない、平凡な田舎の公立高校。ただでさえ褒められた成績ではなかったのに、半年分も周囲から遅れている。二年生への進級もそう遠い先の話ではない。今から追いつくことは可能なのか。
必死になって挽回できたとして、空白の半年間はついて回る。その間、何があったのか。よくない事件に巻き込まれていたのでは。ああ、こいつが例の行方不明だった奴か。素行に問題があったのではないか。そんな、人々の詮索の的になる。将来の面接などでも指摘されることだろう。
何よりそれらを乗り越え他の皆と同じラインに並ぶことができたとして、そこからどうするのか。
高校を出て、その先は? 特別、将来の夢や目標も持ててはいない。落ちたら這い上がることが難しいこの現代日本で、有海流護はすでに足を踏み外しかけている……。
「……俺は『拳撃』の遊撃兵、リューゴ・アリウミだぜ。今は任務の途中で行方不明になってる状態なんだ。ちゃんと『戻る』のは当たり前……だろ?」
おどけ気味に言いながら肩をそびやかせば、
「……あなたは、いいの……? それで……」
心の奥底を見透かしたかのようなベルグレッテの問いに一瞬、返す言葉が詰まった。
「……いいんだよ」
本心に蓋をするように。
何かから逃げるように。
「いいんだ」
小さく、小さく口にした。
それが、振りきれぬ迷いの表れであるかのように。




