316. 午後の日常
時は正午を回り、場所は台所の食卓にて。
「かっぷ、らーめん?」
「うむ。是非一度、食してみていただきたいと思うのである」
眼前に置かれた『アルティメットカップ醤油メガ盛り』をまじまじと見つめながら、ベルグレッテが不思議そうに首を傾げた。
「これは……? ふたをしてるの……?」
カップの上には、定番というか逆さにした皿が乗せられている。彼女にしてみれば、なぜこんなことをしているのか理解できないに違いない。
「ああ。そのままちょっとだけ、三分だな。いいって言うまで待っててくれ」
飲み物を注いだり買ってきた食材を片付けたりしているうちに、待ち時間の三分が経過した。
「よし、そろっと食べ頃だな。開けるぞ」
皿をどけてゆっくりと上蓋を剥がせば、封じ込められていた湯気が一挙に立ち上った。
「わ……!」
白い靄の下に現れたものを見て、ベルグレッテが目を見開く。脂が乗った茶色いスープの海にたゆたう、細くコシのある縮れ麺――などと大仰にのたまうようなものでもなく、ただのインスタントカップ麺である。
しかし彼女の目には、さぞ奇異なものとして映ったに違いない。
「これって……スープパスタ……?」
「まあ、向こうだとそれが一番近いかもな。実際はまるっきり別モンだけど。ほれ、熱いうちに食ってみてくれ」
「う、うん。それじゃあ……」
食前の祈りを(この世界にはいない)神に捧げた少女騎士は、覚悟を決めたように銀色のフォークをぐっと握り込む。慎重に麺を食器の先端へと巻きつけていき、恐る恐る口へと運んで――
「どうだ?」
「…………、変わった味つけ……。でも味が濃くて、……うん、なんだか……くせになりそう、かも……」
戸惑いを隠せないながらも、悪くない感触のようだった。少しずつ食べては、うんうんと頷いている。長い髪の毛を押さえながら麺をすする姿が何とも色っぽい。
「よーし。夜はもっと豪華にいくぜ。俺が牛丼を作ってしんぜよう」
「ぎゅーどん?」
「まあ、見てからのお楽しみってことで」
「ん……リューゴって、お料理上手なのね。少し意外かも」
「別に大したこたねーよ。このカップ麺なんてお湯入れるだけだし。昔から家に一人ってことが多かったから、自然と作れるようになっただけで。そいや、そういうベル子はどうなんだ? 向こうだと学院にも城にも食堂あるし、屋敷はメイドさんいるし、自分でメシとか作る必要もなさそうだよな。前にリンゴ剥いてもらったときはすごい上手かったけど」
「うん……いちおう、一通り習ったことはあるんだけど……。果物を少し切るぐらいならともかく、本格的に料理する機会がないから、今はもうさっぱり」
「やっぱそうなのか。この際だし、料理やってみるか?」
「ええっ」
自宅でこうして誰かと談笑するのはいつぶりだろう。他愛のない会話を交えながら、穏やかな午後の時間が過ぎていく。
「……、ふんぬうぅぅー……」
デスクチェアに寄りかかった流護が伸びをすれば、背中や肩がパキパキと心地いい音を響かせた。
時計を確認すると、夕方の六時になろうとしているところ。すでに部屋のカーテンは閉めきり、蛍光灯をつけている。
狭い部屋の三分の一を占拠する流護のベッドでは、ジャージ姿のベルグレッテがすやすやと寝息を立てていた。
微笑ましい気持ちになりながらも、流護は眼前のディスプレイへと視線を戻す。
(……収穫らしい収穫は、ねぇな……)
あるはずがない。
地球とは全く異なる別世界、グリムクロウズにまつわる情報など。あの世界への転移を果たした自分こと有海流護、岩波輝、雪崎桜枝里の三人についても、共通点らしきものは見出せなかった。
(桜枝里っていやあ、やっぱ『これ』が気になるけど……)
それは今朝の件。ベルグレッテのウォシュレット騒動で、うやむやとなってしまっていたが――
検索サイトを開き、彼女のフルネームを入力する。が、出てこない。
(字は間違ってねぇはずだし……)
しかし何度調べてみても、どんなサイトを回ってみても、雪崎桜枝里という女子高生が――彼女の行方不明事件がヒットすることはなかった。
そもそも、日本国内だけでも行方不明者は相当な数になる。一人一人の情報が確実にヒットするものでもないだろうし、探し方が悪いのかもしれない。
あえてそうでない可能性を考えてみるならば、
(桜枝里が実は、偽名を名乗ってる? あとは……親御さんが桜枝里の捜索願いを出してない、とか?)
どっちも苦しいよなあ、とすぐさま否定する。
前者はそもそも、彼女があの異世界で名前を偽る理由がない。後者は例え親が隠そうとしたところで、生徒が学校へ来なくなったとなれば、遠からず世間に発覚するはずだ。それにやはり、忽然と消えた娘を親が捜していないとは思えない。
『とにかくほんともう、参ったよ……お父さんとお母さん、心配してるだろうな』
寂しげだった桜枝里のそんな言葉が、今も胸に残っている。流護としても、異世界への転移という現象に対して憤りを覚えたものだ。
レフェに滞在していた間、何度も彼女の部屋へ通い詰めて色々な話をしたが、家族関係は問題もなく良好だったと聞いている。
「うーむ……」
通っていた学校の名前は一応聞いた気もするのだが、さすがに覚えていない。
(……そうだな、例えば……)
ファンタジー世界への転移、などという珍妙極まりない現象を経験した流護は、随分と発想も柔軟になった。
そこで、『グリムクロウズに渡った人間は地球での存在が失われてしまう説』も考えてみる。この現代日本の人々の記憶や記録から消えてしまった、というのはどうか。
(……とか、思ってみたりもすんだけど……)
……が、岩波輝教授の情報がボロボロと出てくる時点でそれはありえない。
(……なら……!)
勇気を振り絞り、ついに勢いのまま『有海流護』と入力してみた。
「げっ」
『~県の男子高校生・有海流護さんが今年の初夏に~』とそれっぽいニュースが目に留まり、慌ててブラウザバックを連打した。
「セーフ、セーフ……、」
どのような扱いかは知らない(知りたくもない)が、少なくとも流護の事件は、検索すれば出る程度には認知されている――ということになる。詳しく見もしなかったが、名前の珍しさからして同姓同名の別人といったセンは極めて薄いだろう。
(つか今朝、玄関口に来た奥様方が俺の名前出してたじゃねーか)
有海流護も岩波輝も、行方知れずになった人間として、確かに認識されている。
(じゃあ、桜枝里の情報は何で出てこないんだ? 俺や博士と違って、どうして桜枝里だけ……、他に考えられそうな理由……ん? あれ、そういや――)
本筋からは脱線するが、そこでふと思い至ることがあった。
あれはレフェを訪れ、彼女と互いの自己紹介を済ませたその後。グリムクロウズへ迷い込んだ経緯の話題になったときのことだ。
『帰り道歩いてて、この世界に迷い込む直前……何となく脇の空き地に目がいったときに、なんて言うのかな……光る綿毛、みたいのが見えた気がして』
流護や博士は見ておらず、桜枝里だけが目撃したという謎の発光体。それは、例えるならタンポポの綿毛が発光しているようだったという。
「あ!」
思わず、流護は声を上げていた。
『発光するタンポポの綿毛』。
そんな特徴に合致するものを、つい最近見た覚えがある。
(原初の溟渤の……!)
そう。
あの異世界の深く入り組んだ山岳地帯、その最奥にあった廃城――を発見する直前。数日前から兵士たちの間で存在が囁かれ、ついには全員が揃って目の当たりにすることとなった、謎の光る球体。
流護たちを城へ導くかのように飛び回り、そして廃墟地下の――緑の奔流が渦巻くあの空間でも乱舞していた、謎の光群。
(トリップ直前に桜枝里が見た光と、俺らがあそこで見た光って……同じモノなんじゃ……?)
浮遊する謎の光球。異なる世界への跳躍。
流護や博士がグリムクロウズへ迷い込んだときは見逃していただけで、あの光はその場に存在していたのでは。そしてそれが、世界間の移動に関係している――?
桜枝里の件によって、思わぬ形で思わぬ説が浮かび上がることとなった。
「ん……」
そこで背後から、かすれ気味な吐息が聞こえてくる。今しがた咄嗟に上げた声で起こしてしまったようだ。
「おう、おはようさん。ベル子」
椅子を軋ませながら振り返ると、流護のベッドに横たわっていた緑ジャージの少女騎士がムクリと起き上がるところだった。緩慢な仕草で目をこすったのも束の間、すぐさまハッとしたバツの悪そうな表情になる。
「あ、わっ、私、リューゴのベッドで寝ちゃって……? ご、ごめんなさい」
慌てて居住まいを正すが、彼女にしては珍しく、美しい藍色の髪が少しだけハネてしまっていた。
「はは。気にすんなって」
昼間はやたらと暖かな陽気だったうえ、まだ任務の疲れも抜けていないのだろう。うたた寝と呼ぶにはやや長く、かれこれ二時間は眠っていたはずだ。
……まったりと過ごすのも結構ではあるが、こんな時間ばかりでは身体も鈍ってしまう。有海家としては、夕飯にもまだ少し早い。
昼間の感触から『大丈夫』と判断した行方不明扱いの少年は、こう提案する。
「そうだベル子。夕飯前に、ちょっと散歩でも行かねえか?」
冬を間近に控えたこの季節、夕方の六時過ぎともなれば、辺りは完全な宵闇に包まれていた。会社帰りのラッシュが収まって間もない時間帯、田舎の静かな夜は始まったばかりといったところか。
この薄暗さであれば、互いの顔も認識しづらい。誰かに気付かれる可能性も低いだろう。人に見られるリスクは完全には払拭しきれないが、隠れるように引きこもり続けていても気分が滅入ってしまう。
やましいことなど何もないのに、罪人のように身を潜めているのもうんざりだ。結果として、ベルグレッテを閉じ込めることにも繋がってしまっている。彼女には、もっと気楽に外の世界を見てもらいたい、という気持ちもあった。
流護は、適当な普段着の上に着古した薄手のパーカー。隣を歩くベルグレッテはやはりジャージ姿だが、さすがに日が落ちて肌寒くなってきたため、流護のカーディガンを一枚着せている。商店街に行けば、部活帰りの学生が同じような格好でうろついていたりもするので、ファンタジー世界のお嬢様だからといって悪目立ちすることはないはずだ。
(まあ、どう見ても日本の学生じゃない超絶美少女がジャージを着てる、ってのは違和感バリバリかもしれんが……)
流護個人としては、やたらと似合っているので『アリ』だと思う次第である。
さてそんなベルグレッテだが、何やらソワソワした様子で辺りを見渡していた。その理由は、見慣れない住宅街を歩いているから――というだけではない。
「何だよベル子、やっぱ落ち着かないか?」
「え、ええ……」
「はは……まあでも、悪いけど我慢してくれ。この国だと、ちょっとマズイんだ。剣を持ち歩く、ってのはさ」
そうなのだ。いざ出かけようとした折、彼女は当たり前のように長剣を持っていこうとした。
が、ここは現代日本。下手をすればカッターナイフの所持ですら咎められてしまう安全な国である。本物のロングソードを提げて歩いたらどうなるかなど、もはや考えるまでもない。
「大体、剣が必要になる場面なんてないぞ。ここには、怨魔も野盗もいないからな」
「う、うん……」
とはいえ、少女騎士の心情も理解できる。
右も左も分からない、見たことのないものだらけの世界。そんな中で、今は神詠術も満足に発動できない状況なのだ。加えて得物すら持てないとなれば、不安を感じるのは致し方ないところだろう。
「大丈夫だよ。武器とか持ち歩く必要なんて全然なくてさ……ベル子が知ったら拍子抜けするぐらい安全なんだ、この国は。多分……向こうの感覚じゃ、ちょっと考えられないぐらいに」
どこか自嘲気味に言えば、納得した訳ではないのだろうが、彼女も小さく頷いた。
ベルグレッテは異世界の神を奉ずる敬謙な信徒だが、郷に入ったら郷に従うことのできる人物でもある。
グリムクロウズの住人には、『己の信じる神こそが至高』とし、それ以外を軽んじようとする傾向が強い者も多い。
ベルグレッテはそういった排他的な思考にとらわれることなく、柔軟な視点を持つことができる稀有な一人だといえた。その融通のきく感性があったからこそ、価値観のまるで異なる流護とここまで親しくなることができたのだろう。
(それにまあ、ベル子なら……)
この現代世界の事情や常識についても、聡明な彼女なら驚くべき早さで学習していくに違いない。
(うーむ。それも、いいんだか悪いんだか……)
何となく高貴なファンタジー世界のお嬢様にはこちらの世俗にまみれてほしくないな、と思う流護だった。
そんなことを考えつつ静かな夜の団地を行くことしばし、二人はその場所に到着した。
「……リューゴ?」
何もないT字路で足を止めた少年を訝ってか、少女騎士が窺うように呼びかける。
「……ここなんだ」
一方で流護の口からは、自分でも驚くほど重々しい声が漏れていた。
「あの夜、買い物の帰り道……俺はこの辺を歩いてたら、いつの間にかグリムクロウズに迷い込んでたんだ」
そう聞いて、ベルグレッテは息をのみながら周囲へ素早く視線を飛ばす。
しかし、何もない。
流護自身、再びこの場を訪れたことで改めて実感する。
世辞にも広いとはいえない舗道。立ち並ぶ家々と、それらを囲むブロック塀。ぽつぽつと点在する街灯。
閑静な田舎の住宅街、その一角。それ以外の何物でもない景観。
あの異世界へ跳んでしまいそうな仕掛けもなければ、桜枝里が言っていたような――原初の溟渤で見かけたような光球も漂っていたりはしない。
「それっぽい……怪しいもんはねえ、よなあ……」
おそらく、『場所』は関係ない。岩波輝は、研究室を出て気がついたらあの世界にいたと語っていた。雪崎桜枝里は、学校の帰り道からいつの間にかレフェの街中へ転移していたと言っていた。
場所は関係なく、それ以外の『何か』が、その時そこに居合わせた者をグリムクロウズへと誘った――のではないか。
その『何か』が仮にあの奇妙な光球だったとして、その正体はようとして知れないのだが。電柱に設置された街灯と、周囲の家々から零れる薄明かり。光源はそれ以外にない。原初の溟渤で見かけたようなあの発光体が漂っていれば、すぐ気がつくはずだ。
(こっちの世界で変な光の球を見てるのは、桜枝里だけなんだよな。で、検索に何も出てこなかったりするのも桜枝里だけ、か。なんか関係あるのか? 考えすぎか? ……ちょっと分からんな……)
いずれにせよ、ここで得られる情報はもうなさそうだった。
「ううーむ」
流護はがしがしと頭を掻きつつ、注意深く辺りを眺めているベルグレッテへと顔を向ける。
「ベル子、何か気付いたこととかあるか?」
「うーん……、残念だけど、なにも……」
「だよなあ」
実際にここへ来れば何かが……とまで期待していた訳ではなかったが、いざ何もないと判明してしまえば、やはり少なからず落胆してしまう気持ちはあった。
「ま、ここでこうしてても仕方ねえな。んじゃそろっと行くか、ベル子……、ベル子?」
気付いたことはない、と言っていた少女騎士だが、
「…………」
T字路の先。ある一方向をじっと見つめたまま、微動だにせず佇んでいる。
「……おーい、ベル子さんや。どうかしたかー?」
「あ、う、うん」
そこでようやくベルグレッテが反応した。
「……そっちの道が……どうかしたのか?」
「あ、うん……」
何の変哲もないT字路。彼女が見つめている先もまた、代わり映えしない風景が続いている。細く延びるアスファルトの道路、立ち並ぶ家屋、寂しげに立つ街灯。
誰か通行人がやってくるでもない、これまでと変わらない閑散とした団地の景観。
――ただ。この先には。たかだか百メートルもない、その曲がり角の先には。
(……、)
流護にとって、幼い頃から見慣れている道。中学、高校と進学するにつれ、通る機会の減っていった道。
この先には、
「この道の先には、なにがあるの?」
「――――――――」
思いがけない言葉。異世界の少女騎士にそんなことを問われ、有海流護は動揺も露わにその身を硬直させた。
「……え、いや……どうしたんだよ、ベル子。何で、そんな、こと……」
「あ、ううん。ただ、ちょっと……ふと気になっただけで。深い意味はないんだけど……、……どうかしたの、リューゴ?」
少年の明らかな狼狽は、鋭い少女騎士が見過ごすようなものでもなく。
「いや、別に……どうも……しねえよ。そっちの道も、これまでと同じような住宅地だ。別に何もない。ほれ、とっとと行こうぜベル子。そっちじゃなくてこっちに行くと、店とかがある方に出るから」
「……、うん」
ベルグレッテが気を取られた道の逆の方角へと、足を向ける。そそくさと、逃げるように。
「…………」
最後に一度だけ、流護は振り返った。
なぜか少女騎士が気にした方角。
幼なじみの少女――蓮城彩花の家へと続いている、その道を。
歩道の片隅から街並みを眺めたベルグレッテは、
「わ……ぁ、っ」
かつてないほど驚いた面持ちで、眼前の光景に目を奪われていた。
当然といえば当然である。
薄汚れたアーケードやぼんやりと光る街灯、日が落ちて半分以上が閉まったシャッター街。歩道を行くスーツ姿のサラリーマンはまっすぐ帰るのか、それとも飲みにでも寄るのか。帰宅ラッシュのピークも去り、疎らとなった車の交通量――。
ごく日常的な田舎の夜の一幕だが、ベルグレッテにしてみれば全てが初めて見るものばかり。
「わっ、……!」
車が大通りを走り去るたび、流護の後ろへ隠れるようにして身を縮めている。
異世界少女のそんな珍しい仕草がたまらなく愛おしい流護だったが、いつまでもこうしてはいられない。ただ同じ場所に佇んでいるだけでも、否応なく人目についてしまうものだ。
「ほれ、行こうぜ」
流護はパーカーのフードを浅く被り、車道からベルグレッテを庇うようにして歩き出した。しきりにキョロキョロしている少女騎士だが、
「はは。やっぱ、車……自動車が気になるか?」
「う、うん。あれは、どういう原理で動いてるの……?」
馬の力もなしに次々と通り過ぎていく大きな鉄の箱は、ファンタジー世界の住人にとって最も理解し得ないものの一つに違いない。
「そうだな……向こうで例えると、火の神詠術に似た力? を、機械とか科学とかでこう……実現して走らせてる、って感じ……か……?」
「う、うーん……?」
よく分からなかったようだ。むしろ、流護も自分で言っておきながら意味不明だった。しかしこうして自動車を知らない人間にいざ説明してみようとした場合、その難しさに気付く。
結局のところ、流護にとって文明の利器というものはあって当たり前――生まれたときから身近だったというだけの話で、その仕組みなどまともに理解できてはいないのだ。そういった意味では、やはり魔法と何ら変わらない気もしてくる。
「それにしても、明るい……。これだけの光量を、こんなにもたくさん確保し続けていられるだなんて……」
電灯によって闇の払われた歩道を行くベルグレッテの瞳は、目まぐるしく色々なものへと注がれている。
「あの青い明かりは……、あれ、黄色に……あ、赤に変わった」
「信号だな。あれで、自動車とか歩行者の流れを管理してるんだ」
「あれは……六十分、一万八千えん……? やたらとピンク色の看板ね」
「あ、あれは……、よ、読み上げなくてよろしい」
「あそこにあるのは……お店?」
「ああ、ハンバーガーショップつってな。パンに肉挟んだのとか、揚げた芋とかコーヒーとか……色々お手軽に食える全国チェーン店だな」
せっかくここまで来たということで一緒に入ってみたい気もする流護だったが、やはり今は避けるべきだと判断した。
田舎の悲しさか、ガラス越しに見える店内は経営が心配になるほどに閑散としている。それでもやはり、こうした場所で食事をとっていれば、同じ学校の――部活帰りの生徒と鉢合わせたりしてしまう可能性も否定できない。
――結論からいえば。
そうした不安があると分かっていたのだから、こんな時間に繁華街まで足を伸ばしたのは少々迂闊だったのだ。
ここまで来ると、さすがに人の目は避けられなかった。ちらほら通行人とすれ違うが、流護はフードを被っていることもあり、むしろ素知らぬ顔で堂々としていた。変にビクついたりするから逆に目立つのだ。
とはいえ。
行き違う人々の視線が、必ずといっていいほど固定される。異なる世界からやってきた、ベルグレッテという少女に。ただ外国人というだけでも物珍しげな目を向けられるのだろうが、それに加えて『美』そのものを体現したかのような麗しい容姿、漂う気品。それでいてなぜかジャージ姿。そういった要素は、道行く人々の気を引くに充分すぎたようだ。
通り過ぎようとしたカップルの男の視線がベルグレッテに釘付けとなり、ムッとした連れ合いの女が――
「……っ、すっご、どっかのモデル……? でも何でジャージ……?」
嫉妬すら忘れ、驚愕の眼差しを向けてくる始末である。さすがのベルグレッテも、歩きながら居心地悪そうに身を竦ませた。
「……なんだか、すごく見られてるような……」
「ま、まあそうだな。他の国から来たってだけで目立つんだよ、ここは田舎だから特に。充分歩いたし、早いとこ帰ってメシにするか、ベル子さんや」
「う、うん」
本人そのものが目立つことは百も承知だったからこそ、ジャージにシックな色合いのカーディガンを着せたのだが、
(この程度じゃ、ベル子を地味化するのは無理だったか……つか、むしろギャップ萌え? でくそ可愛いし……だめだ、結婚するしかねえ……)
やや早足になりながら、人の少ない横道を選んで帰途につく。そうして、何人目となるか分からない通行人とすれ違おうとした瞬間、
「有海、くん?」
その通行人が。対面からやってきて、足を止めたその人物が。
目立つ異世界の少女に対してではなく――フードを被った地味な少年へ向けて、確かにそう呟いた。
「――――――――」
聞き間違えではない。相手は足を止めている。どくん、と跳ね上がる心臓の鼓動。
何も考えられないまま反射的に、名を呼ばれた流護は顔を上げる。
背は流護やベルグレッテより五センチほど低いだろうか。肩で揃えられた、黒髪のショートボブ。化粧っ気のない整った小顔。活発そうな印象が強い大きな瞳は今、驚愕に見開かれている。
「有海くん、だよね……?」
冬服の紺色ブレザー。大半の女子がそうしているように、丈を少し詰めて短くした紺色のボックスプリーツスカート。流護が通っていた高校の女子制服。
部活帰りなのだろう。その制服姿の女子高生は、驚きのあまり肩から下げていたスポーツバッグを地面に落としてしまった。ドサリと、ベタな漫画やドラマのように。そうした創作物の表現もあながち大げさじゃないんだな……などと頭の片隅でどこか冷静に考えながら、流護はその人物の名前を呟く。
「……宮原、先輩……」
自らが所属していた高校の空手部、そのマネージャーである女子生徒の名を、後輩の少年は久しぶりに言葉として口に出していた。




