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終天の異世界と拳撃の騎士  作者: ふるろうた
9. 英雄譚の裏側で
315/672

315. 平和な世界

「…………ふうっ」


 滞りなく用事を済ませたベルグレッテは、便座に腰掛けたまま小さく安堵の息をついた。


(って、おおげさよね……)


 ただ用を足しただけである。便器の造形も、レインディールのものと大差はない。しかし、


(紙がやわらかい……)


 こういった些細な点ひとつ取っても、この世界の技術力の高さを垣間見ることができる。

 グリムクロウズに迷い込んだ流護は、あらゆる面において不便な思いをしていたことだろう。そういった観点から考えても、彼は故郷に帰りたいと強く願っていたはずだ。

 そして、実際にその夢は叶えられた。

 自室の扉を開けて、抑えきれないように泣き崩れた少年の顔を思い出す……。


(……初めてだった。リューゴが、あんなに……)


 彼は、自ら望んでグリムクロウズへと渡ったのではない。そのうえで二度と帰れないと思っていた場所に戻ることができたのだから、当然の反応といえる。


(……、)


 そろそろ出よう、とベルグレッテは便器の右脇へ視線を落とす。

 そこには、何やらたくさんのボタンがついた妙な物体があった。


(えっと……水を流すときは、『水洗』……でいいのよね)


 昨夜教わった通りに恐る恐るボタンを押し込めば、ピッという音と共に、多量の水が勢いよく便器内へと流れ込んだ。ごうごうと感じる振動が、間違いなく用を終えることのできた証ともいえるはずだ。


(ふう……。……それにしても……)


 用を足し、水を流す。

 トイレ――便器の用途というものは、それ以外にないはずだ。だというのに、この脇の装置らしきものには、無数のボタンがついている。

『節電タイマー』、『温水』(その下に高・低と書かれ、赤い光が点灯している)、『水勢』(強・弱と書かれている)、『おしり』、『ビデ』、『止』……等々。用途が分からないようなものばかり。


(お、おしり……って……)


 何とも率直である。

 昨夜流護からトイレの使い方について説明されたときには、


「えーと、と、とりあえず何も触らなくていい。使うのは『水洗』だけでいい。いっぺんに教えても混乱するだろうし、その辺のボタンについてはまた今度な」


 と早口でまくし立てられてしまったのだ。

 が、彼の言うことももっともだろう。何から何まで、見たことのないもの、分からないものだらけの場所。無闇やたらに、知識のない自分が触れるべきではない――


「わ、っと、と……!」


 立ち上がりながら下衣を引き上げようとしたベルグレッテだったが、にわかにふらついた。

 このジャージと呼ばれる穿き物、確かに着心地はこの上なく良好である。しかし、平服にしろ学院の制服にしろ、普段スカートばかりの少女騎士としては、やはりズボンというものは何とも慣れず、違和感が大きいのだ――


「わっ、あ、あぶな!」


 手間取ってよろけた拍子に、また便座へと逆戻り。すとんと腰掛けてしまった。内側に『はまらなかった』だけ、不幸中の幸いというべきか。


「ふう……」


 一安心すると同時、ピッと無機的な音がベルグレッテの耳に届く。


「えっ?」


 そこで、自分の右手がボタンの並ぶ装置へ触れていることに気付いた。


「あ!」


 慌てて手をどけるがもう遅い。ごうんごうん、と便座が低い音を立て始める。


(ま、まずっ……! どれを押しちゃったのかしら……!?)


 手の下から現れたボタンには、『ビデ』と書かれていた。



 ――直後。


「ひゃうぅわあぁああぁぁわぁはああぁっっ!?」


 少女の凄まじくも珍妙な悲鳴が、あまり広くもない有海邸宅内に響き渡った。






「な、なんだぁっ!?」


 届いてきたのは、それはもう断末魔じみた絶叫。ディスプレイを見つめていた流護は、驚いて椅子から転げ落ちそうになった。


「って、ベル子か……!?」


 家の中、下の階から聞こえたのだから、当然それ以外に考えられない。しかし、あの少女騎士が今のような声を出す状況が想像できない。死と隣り合わせの事態が珍しくないグリムクロウズにおいてすら、彼女があんな悲鳴を上げたことはなかった。

 ともあれ、ただならぬ何かが起きたと考えて間違いない。


「ベル子……!」


 すぐさま自室を飛び出した流護は、二段飛ばしで階段を駆け下りる。短い廊下を飛ぶ勢いで走り抜け、トイレのドアを高速ノックした。


「おいベル子、どうした!? 中にいるんだよな!? 返事しろ!」

「あわ、わわ、リ、リューゴ……っ!?」


 向こう側から、蚊の鳴くような弱々しい声が聞こえてくる。


「大丈夫か!? 何があった!?」

「いや、えっと、その……」






「……」

「……」


 数分後。トイレの前で立ち尽くす二人の間には、如何ともしがたい微妙な空気が流れていた。


「……そんな訳であれだ、こう、色々とキレイにしてくれる機能っつーか……そういうあれで……。操作方法も分からんだろうしと思って、昨日は説明しなかったんだ。まあ知らなかったら、最初はびっくりするよなー、は、ははは」

「…………、」


 ベルグレッテは耳まで真っ赤になった顔を無言で背けてしまった。くそかわいい。この少女騎士がビデによってデリケートな部分を刺激されてあんな声を上げたと思うだけで、思春期の少年的には色々と想像が逞しくなってしまう。でもやっぱりそれでいてなんか気まずい。


「はは、は。ま、とりあえず部屋に戻ろうぜ……、……っ!?」


 自室に引き返そうとした流護は、そのまま廊下の真ん中で雷に打たれたように硬直した。


「…………リューゴ?」

「しっ。静かに」


 唇の前で人差し指を立て、怪訝そうな隣のベルグレッテに目配せする。

 流護の視線の先。狭い廊下の延長上にある、有海家の玄関。古い引き戸の曇りガラスに、ぼんやりと人影が浮かび上がったのだ。


(誰か、来た……)


 モザイクじみたシルエットだけでは今ひとつ判別できないが、郵便や宅配便の類ではない。小太り気味の中年女性に見える。


(近所のおばちゃんの誰かか……?)


 しかしそれなら、今この家に誰もいないことは知っているはずだが――


『あら村田さん、どうしたのぉ! 有海さんちの前でェ!』


 そんな大声が戸越しにもはっきり届き、玄関前のシルエットが道路側へと振り向く。


『あんら篠山さん! おはようございますゥ!』


 互いに被せ気味で相手の話を聞いているのかどうか分からない主婦同士の挨拶が続き、玄関前の人影が二つとなった。


(この二人……村田むらたさんと篠山しのやまさんか……)


 やはり近所の奥様方で間違いない。流護としては別段親しい訳でもなく、学校の行き帰りにすれ違えば挨拶をする程度の間柄だった。


『ちょっと聞いてよ篠山さんッ。有海さんって、まだ帰ってきてないわよねぇ?』

『駐車場に車もないし、そうでしょうねぇ』

『そうよねぇ。でも今、ゴミ捨て場の周りを掃いてたんだけどぉ……そしたら有海さんちから、女の人の悲鳴みたいのが聞こえてきた気がしたのよねぇ~……』

『えェッ!?』


 そういうことか、と流護は息を潜めながら納得した。少女騎士のウォシュレット初体験による高らかな悲鳴は、外界にまで届いていたらしい。


『やめてよ村田さんったら、こんな朝っぱらからァ。気のせいよォ、奥さんも亡くなって長いんだし……。それに流護くんは……ねぇ?』

『そうよ、ねぇ~……』

「……!」


 期せず自分の名前が話題に上り、廊下の隅に隠れる少年は心臓を掴まれたような錯覚を味わった。


『実はこっそり、女の人が同棲してたりしてぇ?』

『まっさかぁ~』

『けど有海さんってば、まだまだ若々しくてワイルドでステキなのに、浮いた話がないわよねぇ~。フフ。一度でいいから、あの太くて逞しい腕に抱かれてみたいわぁ~』

『あら奥さんってば、そんなこと言っちゃってェ! 旦那さんが聞いたら泣くわよぉ~』

『だってウチのダンナ、結婚した頃の面影なんてどこへやら! いつまで経っても出世しないし、ブクブク太る一方だし、髪もすっかり薄くなってェ……』


 流護の緊張は杞憂に終わった。話は逸れ、遠ざかり始める声と共に、曇りガラス越しの人影が薄まっていく。


「…………行ったか」


 やがて、声も影も完全に消える。思わず溜息を吐けば、ベルグレッテが不思議そうな顔で尋ねてきた。


「帰られたみたいだけど……いいの? お客さまじゃないの?」

「ああ。いいんだ」


 ただ、静かに。小さく、そう答えた。






 一階に下りてきたついでということで、そのまま朝食をとることにした。

 居間は遮光カーテンが引かれっぱなしである。誰かが見たなら不審に思うかもしれないが、位置的に家の塀に囲まれているため、まず気にする必要はない。

 とはいえ、朝から部屋の中が真っ暗なのも気が滅入る。少しだけカーテンに隙間を作って、眩しい朝日を取り入れた。父親が不在になって長いためか、日差しの中に舞い散る埃がキラキラと目立つ。


 テレビをつけると、朝のニュースや天気予報をやっていた。今日は穏やかな晴れの一日となるらしい。

 異世界産の携帯食料を頬張りながら、傍らにはインスタントのコーヒーや紅茶。そしてテレビを眺める日本人の少年と異世界の少女。何ともごちゃ交ぜな状況である。


「この……テレビ。昨日とは違うかたが映ってるのね。……なんの話をしてるのかしら」


 原稿を読むスーツ姿のニュースキャスターへ真剣な眼差しを向けながら、ベルグレッテが不思議そうに呟く。


「ああ、これはニュースっていうんだけどさ。色んな場所で起きた色んな出来事とかを伝える、って言やぁいいのかな……。向こうでも、号外の機関紙が街中で配られたりすることとかあるだろ? 姫様の『アドューレ』の日程が決まったりした時とか。ああいうのの映像版、って感じかな。テレビは大体どこの家にもあるから、ほとんどの人間がこうやって話題を見聞きできる……みたいな感じか」


 この世界では誰もが知る『ニュース』だが、いざ知らない人間に説明するとなると、それがまた存外難しいことに気付く。我ながらヘタクソな言い回しだな、と頭を掻く流護だったが、


「みんながこの情景を見て、情報や知らせを共有できる、ってこと?」

「お、そうそう。そんな感じだな。さすがベル子さん」


 そこはミディール学院トップクラスたる才色兼備の少女。この分ならそう遠くないうちに、現代日本にもなじんでしまうかもしれない。

 味気ない携帯食料を胃に収め終わると同時、


『次は一昨日の夜、――市内にて発生しました、殺人事件に関する続報です』


 県内のとある街で強盗殺人が発生し、その犯人である男が逮捕されたというニュースが報じられた。


「……、」


 その瞬間、流護は自分の中に浮かんだ思いに気付き、自分で驚く。

 それは即ち――大げさだな、と。

 人の生き死になど、さして珍しくもない日常的な部類に入る出来事。そんなグリムクロウズの感覚が、すっかり染みついてしまっている。あちらでは、よほどの身分の者でもない限り、人ひとりの死が大々的に扱われることなどない。

 テレビには、警察車両で連行されていく中年男の姿が映っていた。容疑者は意味不明な発言を繰り返しており、責任能力が云々、精神鑑定が云々――といった文言が続く。この男の刑が確定する頃、被害者は何回忌を迎えていることか。今ほど「大げさだ」などと思ってしまった身ながら、そんな皮肉めいた考えが脳裏をよぎった。

 そういった点も、あの世界とはまるで異なる部分。グリムクロウズでは、罪人に慈悲などない。その場で斬り捨てられるか、捕縛されたなら遅くとも二、三週間のうちには処罰が下される。


「…………」


 続いてスタジオの雰囲気が一転し、『通なお店の紹介』やら『大人気女優電撃入籍』やらといったニュースが垂れ流されていく。

 ぼんやり眺めるうち、アナウンサーが午前九時を知らせた。


「九時、か」


 壁のアナログ時計も逆L字を指し示している。それらを眺めて、流護はまた別の思いにとらわれた。

 学校では、一時間目が始まった頃か。今日は平日。大半の生徒は、真面目に登校して机に向かっていることだろう。……もちろん、『アイツ』も。


「…………、」


 あえて考えないようにしていたその思いが渦巻く。心の声が少しずつ肥大して、無視できなくなっていく。即ち、


 俺はこれからどうするんだ? と。


「……ューゴ……、ねえ、リューゴってば」

「ん、あ、おう」


 呼ばれていることに気付き、慌ててベルグレッテへと顔を向ける。


「何だ、どした?」

「んっ……いえ、用があるわけじゃないんだけど……なんだか、思いつめた顔してるみたいだったから」

「そ、そうか? まあ……ちょっと、どうしよっかな、って」

「なにを?」

「今日の昼メシをさ」


 笑顔を作って、そうごまかした。






 鍔つき帽子を目深に被り、久々に履く軽い運動靴のつま先をトントンと鳴らす。


「さて……それじゃ、行ってくる」


 裏口のドア前に立った流護がそう言って振り返ると、


「う、うん……」


 ジャージ姿のベルグレッテは不安そうな面持ちで頷いた。

 時刻は午前十時半過ぎ。これから、今日の食事の買い出しに出かけるところだった。あまり昼近くになると店が混んでしまうかもしれないため、この時間がベストである。


「ちょっとだけ、一人で留守番させることになっちまうけど……大丈夫か?」

「うん。それは大丈夫なんだけど……」


 逡巡する素振りを見せたベルグレッテが、やや言いづらそうに切り出した。


「リューゴ……なんだか随分と人目を気にしてるみたいだから、それが気になって」


 流護の今の格好は、地味な色合いのウェアと顔を隠すほど深く被った帽子。玄関ではなく、狭い裏口のドアから静かに出ていこうとしている。

 玄関口へやってきた主婦二人に対応しなかったことはもちろん、カーテンを閉めきったり窓辺に立たないよう言い含めたりしている時点で、彼女でなくとも察するだろう。


「まあ、詳しいことはまた後でゆっくり話すけどさ……俺って、半年も行方不明になってた訳だろ? それがひょっこり誰かに見つかったりしたら、どうなると思う?」

「それは……生死不明だったリューゴが無事に帰ってきたんだもの。喜ばれるんじゃない?」


 だから、一刻も早く自分が戻ってきたことを周囲に知らせてあげればいい。それがベルグレッテの弁。


「その前に一つ、どう反応されると思う? まず、驚かれて……騒がれると思わないか?」

「えっ、それは……、うん、そうね。でも……」


 聡明なベルグレッテは、自分の立場に置き換えて考えてみたに違いない。まさに今、彼女自身が『異世界トリップ』を体験している状態だ。

 例えばここから半年後、少女騎士が無事グリムクロウズに戻れたなら――学院の皆や同僚の騎士たち、家族も大いに喜ぶだろう。その光景は、流護にも容易に想像できる。だから、帰還したことを報告せず、隠そうとする理由が分からない。ベルグレッテはそう考えている。


「なんつーかさ……こっちの世界って、色々めんどくせーんだよな」


 この現代日本という社会において。長らく行方不明となっていた高校生が発見されたなら、果たしてどうなるか。

「無事でよかったね」では終わらない。大人たちからは事情を追及され、ニュースでも取り上げられるだろう。根拠のない様々な噂や憶測も飛び交うはずだ。


(それで……俺だけが晒し者になって終わるなら、それはそれでいい。でも……)


 ここで最大の問題となるのは――異世界からやってきた、この少女。ベルグレッテの存在、そのものなのだ。

 もし流護の帰還が知れ渡ったなら、共にやってきた彼女のことも明らかとなる。行方不明の冴えない高校生が見つかった、さて一緒にいたこの外国人の美少女は何者なのか、と。

 一介の高校生に、人ひとりの身柄を隠し通すことなどできはしない。ごまかすにも限度がある。

 見るからに異国感丸出しの謎の少女が、この現代日本という世界でどのような扱いを受けるのか。マスコミやら何やらにしてみれば、まさに格好のネタだ。こぞって食いつくに違いない。

 詳しく調べられたなら、パスポートを持っていないだの何だので揉める可能性もある。

 間違っても、ベルグレッテをそんな事態になど巻き込みたくはなかった。


(……そのつもり、なんだけどな……)


 しかし、刻限タイムリミットが迫っている。八日後には、父親が出張から帰ってきてしまう。そうなれば――流護の帰還も、ベルグレッテの存在も露呈する。

 どこかへ隠れようにも、行き場などない。宛もない。金もない。下手を打って誰かに見つかれば、本末転倒だ。


「…………、」



 ――今、ここにいるのは。


 レインディール王国が擁する新進気鋭の遊撃兵、あらゆる障害を退けてきた『拳撃ラッケルス』のリューゴ・アリウミではなく。

 何の力も持たないただの高校生、有海流護だった。



「……とりあえず、サッと行ってくる。ベル子は、洗濯物でも干しながら待っててくれ」

「うん……」


 先ほど、流護の私室の隣にある空き部屋を、彼女の住まいとして宛がった。裏手が小さな用水路、その向こう側が空き地のため、あまり人目を気にせず済む間取りとなっている。さすがに、万一誰かに見られると困るので外干しは無理だが、室内で洗濯物を日に当てることぐらいは可能だ。


「それじゃ行ってくるよ」

「……ん、いってらっしゃい」


 やはり、一人で家に残るのが不安なのだろう。寂しげな彼女の顔に後ろ髪を引かれる思いの流護だったが、食料なしではいられない。

 誰か来ても出ないこと、電話にも応答しないこと(そもそもベルグレッテは受話器の使い方を知らないので問題はないが)を言い含め、少年は断腸の思いで自宅を後にするのだった。






 塀の隙間から外を覗き、周囲に誰もいないことを確認する。意を決して、サッと道路へ出た。


「……はー。スニーキングミッションかよ」


 妙な緊張感に手が汗ばみ、後ろめたい犯罪者にでもなった気分だった。


(よし……さっさと終わらせちまおう)


 その足は、徒歩十分ほどの距離にある『スーパー浦善うらよし』へと向かう。元々あまり行かない店だったが、だからこそだ。

 交遊関係など世辞にも広いとはいえないほうだが、極力顔見知りと出会うことは避けたい。それでいてベルグレッテには、出来合いのものでなくそれなりの食事を出してあげたい。そして、彼女のそばへできる限り早く戻りたい。

 そういった条件に合致するのが、創業二十五年の地元スーパー浦善だった。


「…………」


 現代日本の景色を懐かしむよりもまず、誰にも見つからないことを意識して気を張り詰める。平日の昼間とあってか、幸いにも人と行き違うことなく順調に進んでいく。

 今まで、この街で補導員の類に出会ったことはない。流護は決して勤勉な生徒ではなかったため、授業に出ず街をうろつくことも幾度となくあったが、捕まった経験は皆無だった。


(ただ……御山津みやまつの方はヤバイんだよな)


 すぐ隣の御山津市は店や遊び場の数も多く、同じ学校の生徒が何人も補導されていると聞く。休日以外は近付かないのが賢明だろう。

 すぐ横を車が走り抜けていくたびに少し緊張したが、歩くこと十分弱――何事もなく、スーパーの前に到着した。

 ここまで来ると、店の脇は大通り。頻繁に車が行き交い、歩道には通行人の姿も見受けられる。

 特別なものなど何もない、ごく当たり前な日常の風景――。


「…………、」


 それらを前にして、流護は思わず鼻の奥が少しだけツンとするのを自覚した。


(……っと)


 こんなところで立ち尽くしていては目立ってしまう。

 帽子を深く被り直し、目的を果たすべくスーパー浦善の店内へ入っていく。






「あんたが思うほど、他人はあんたのことなんて気にしていない」とは、どこで知ったセリフだったか。

 結果からいえば――そんな言葉を体現したかのように、買い物は拍子抜けなほど滞りなく完了した。平日の昼間とあって店内は年配の方々ばかりだったが、誰かに注目されるといったこともなかった。


「ふう……」


 肉、野菜、インスタント食品類……それらが限界まで詰め込まれた買い物袋を両手へ提げた流護は、帰途につきながら安堵の息を零す。

 考えすぎだったか。そもそも出先で偶然知人に遭遇することも、今まで滅多になかった。帽子も被っているし、そこまで神経質になる必要はないのかもしれない。失踪直後ならまだしも、すでに半年が経過していることもあり、人々の記憶からも薄れているのだろう。


(それならそれで、助かるしな)


 気軽に出かけられるなら、それに越したことはない。一度にできる買い溜めにも限度がある。結局のところ、全く外出せずにはいられない。


(それに……金も引き落としてこなきゃなんだよな)


 日本の硬貨や紙幣が入った財布は、異世界のほうの自室に置いてきてしまっている。今回は家にあったヘソクリで凌いだが、次からは自分の貯金を切り崩す必要があった。ちなみに浦善にはキャッシュコーナーがなく、金を下ろすには逆方向の繁華街へ行かなければならないという田舎の本領発揮である。


 誰にも見つからなかったことや、結局は出かけなければならないという開き直りから、少しは周囲の景観に気を払う余裕が生まれてきた。

 継ぎ足されて架かる電線や、ひび割れたコンクリートブロック、歩道脇を流れる下水の音にすら、例えようのない懐かしさが込み上げた。


 浸りながら静かな団地を歩くうち、やがて自宅の裏手へとたどり着く。


「……、」


 流護はさりげなく辺りを窺いながら、サッと裏口の戸を開けて家の中に滑り込んだ。素早くドアを閉めて施錠すると同時、安堵の溜息をつきながら壁に寄りかかる。


「はー……」


 今回は無事、ミッションクリア。ともかく誰もいないはずの有海家に入るところだけは、人に見られる訳にはいかない。外出・帰宅の際、この部分には最大限の注意を払う必要があるだろう。


「……あー、」


 無事に買い物を終え、どっとした倦怠感が肩へとのしかかってくる。


(……つ、疲れた……)


 ただ率直に、そんな思いが少年の胸中を渦巻いた。

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