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終天の異世界と拳撃の騎士  作者: ふるろうた
9. 英雄譚の裏側で
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314. 情報の泉

 ――やっぱり、夢じゃない。


 カーテンの隙間から差し込む朝日に目を細めながら、流護は改めて現状を噛み締めた。

 物心ついた頃からなじんでいる手狭なリビング。そんな部屋の中央で毛布にくるまって横たわる、異世界から迷い込んできた少女。

 メチャクチャといえば、あまりにメチャクチャだ。

 ほんの半日前まで、怪物が跋扈する危険な森や得体の知れない廃城を彷徨っていたというのに。

 今は、なじみ深い居間の風景が――平穏の二文字以外何もない空気が、当たり前のようにここにある。

 落差が大きすぎて、未だに心が追いついていかない。


(……、起きるか……)


 若干疲れの残る身体をおして、台所へと移動する。小窓から外を窺えば、電線に並んでチチチと囀る雀たちの姿が目に止まった。

 水道の蛇口を勢いよく捻って顔を洗い、


(……俺は、帰ってきた……)


 もう何度目となるかも分からないセリフを、脳内で刻み込むように繰り返した。


「……あ、そうだ」


 ふと思いつき、戸棚や冷蔵庫を開けてみる。


(やっぱり……何もねえよな)


 昨夜、コーヒーや紅茶を淹れたときにも薄々気付いていたが、見事にスカスカだった。探ってみても賞味期限の切れていそうな調味料や缶ビールばかりで、まともな食料がない。


(買いに行ってこねえと……、でも……)


 ちょっとした懸念が、少年の胸中に不安の影を落とす。


(つったって、飲まず食わずじゃいられねーんだし……)


 覚悟を決めつつ、コップ一杯の水を胃に流し込んでリビングへ戻る。


「……」


 昨夜はドタバタしてしまったが、ここでまたもう一点。

 寝ているベルグレッテを起こさないよう、奥にある引き戸を開け、その先の小さな部屋へと入る。

 そこはリビングに比べたなら小ぢんまりとした、四畳の和室。薄い朝日が差し込むそんな一室の片隅には、小さな仏壇があった。

 その前に座り、飾られている白黒の写真を見上げる。黒縁の枠の中では、三十代半ばほどの女性が穏やかな笑みをたたえていた。


(母ちゃん……)


 流護がまだ幼い頃に亡くなった、母の遺影。

 原因は、交通事故だった。

 迫り来る車を呆然と見つめていた流護を救おうと、母が――


「……」


 当時、まだ五歳にすらなっていない小さな子供だった自分。

 けれどあのとき近づいてくる車に対し反応することができていたなら、あんなことにはならなかったかもしれない。


(……でも、俺、あの時……何で……)


 その記憶に触れようとすると、頭の片隅で必ず引っ掛かることがある。

 今だにはっきりと覚えている。車種も、迫り来るエンジン音も、携帯電話を片手に余所見をしていた運転手の顔すらも。

 当時の年齢が年齢だったこともあって、他の記憶こそあやふやなものの、その瞬間の光景だけはしっかりと脳に刻み込まれている。

 そのまま車が突っ込んでくると分かっていながら、


(俺は、どうして……『感じなかった』……?)


 そこで、隣の部屋――リビングからガタリと音がしたような気がして、すぐにそちらへと戻る。

 見れば、何のことはない。壁際に立てかけていた武具が倒れていた。

 しかしそれが目覚ましとなったか、部屋の中央に横たわっているこんもりした毛布の塊がゆっくりと起き上がった。


「あ、れ……わ、たし……?」

「おう、起きたか。おはよう、ベル子」

「……おはよ……う!? え!?」


 びくん、と少女騎士が跳ね上がったことで、ずり落ちた毛布からジャージ姿が露わとなる。


「あ、わ、私……!」


 おろおろと辺りを見渡し、ソファに詰まれているシーツと流護の顔を見比べて、


「……!」


 何か言いたげな顔のまま、毛布を握りしめて黙り込んでしまった。

 私、リューゴと同じ部屋で寝ちゃったの……!?

 顔にそう書かれていることにはあえて触れず、少年はいつも通りに語りかけた。


「そうそう。ウチ今、何も食い物がなくてさ。悪いんだけど、とりあえず朝は荷物の携帯食料で凌いでくれ。昼メシとかは、後でちょっと何か買ってくるからさ」

「え、う、うん」

「つか、腹減ったか?」

「いえ、まだ……」

「俺もなんだよな。よーし……」


 壁にかかったアナログ時計を見れば、午前七時前。


「ちょっと、調べものでもするか」

「調べもの?」


 ああ、と頷き、現代日本の少年は当たり前のように言ってのける。


「グリムクロウズに帰る方法を調べようぜ」






 トントンと階段を上る自分の足音すらも懐かしい。今はそこに、少女騎士らしい控え目なスリッパの音が追従する。

 二階の狭い廊下――と呼ぶほどのものでもない狭い空間を数歩、目的の場所へたどり着く。


「到着っと」

「ここは……? あ、図書室?」


 凝った装飾も何もないごくごく普通の木製扉を眺め、ベルグレッテが不思議そうに首を傾げた。

 調べものをすると宣言したので、『向こう』の感覚でそう思ったのだろう。しかし当然、日本の一般家庭、それも読書などとは無縁な有海親子の家に、そんなものがあろうはずもない。


「いや、ただの俺の部屋だよ」


 率直に告げれば、少女はむぐっと口をつぐんだ。


「何だよベル子ー、意識してんのか? ぐへへへ」

「な、なによっ。べ、べつに……」

「まあ落ち着け。よくよく考えてみるとさ、どうせ今この家には俺ら二人っきりなんだし、今さら俺の部屋に入るのを意識する必要もねんじゃね? って感じで」


 妙に落ち着いた心地で流護が言えば、少女騎士も「た、たしかにそうなのかも……」と納得した。


「俺も久々だなー。んじゃま、狭いとこだけど入ってくれ――」


 苦笑しながら自室の戸を押し開けて、


「――――――――」


 流護は、立ち尽くした。

 半年ぶりに入った自分の部屋。

 変わっていない。

 低スペックのデスクトップパソコンが乗った勉強机も。本棚に入りきらず床に積まれている雑誌の山も。その脇に置かれている鉄アレイも。雑に布団の敷かれているベッドも。


 何ひとつ変わらず――あの頃の、まま。

 違いはといえば、それらが多少は埃を被っていそうなことぐらい。


「…………は、はは」


 自分がいなくなったことで、もしかしたら部屋も片付けられているのでは。扉を開けるまでは、少なからずそんな懸念もあった。

 けれど。いざ目の当たりにした自室は、特別なことなど何もなかったかのように、あまりにも当時のままで――。


「……、リューゴ……」

「ん、お、おう。どし、た…………あ、あれ!?」


 呼ばれて、少年は初めて気付く。

 自分の頬を、涙が伝っていることに。


「いやあ、汚い部屋で悪いな! ほら、長いこと掃除もしてないし……! 汚いから、埃が、目には、入っ……っ」


 隠せない。みっともなく涙声になって、意思とは無関係に言葉が詰まってしまう。

 何もない、と考えていた。

 この故郷に残した未練なんてものは、思ったよりもなくて。実際に戻ってきても、あまり感慨はなかったはずなのに。

 自室の扉を開けたことで、同時に自分でも知らなかった感情の蓋が開いてしまったような――


「……俺、別に、お、れ……は……」


 袖で涙を拭い、流護はベルグレッテから慌てて顔を背ける。


「……私が言うことじゃ、ないかもしれないけど……」


 背中越しに、彼女の優しい声が届く。


「おかえりなさい、リューゴ」


 もう、我慢できなかった。

 押さえ込んでいたもの全てが溢れ出したかのように、少年はその場で泣き崩れた。






「……えっと……まあ、ベッドにでも座ってくれ……夏布団のままだけど」

「う、うん」

「あっ、あと、窓のそばには立たないようにな」


 号泣してしまった照れくささを隠すように口早に言いつつ、流護は窓際からこっそりと外を眺めた。


「窓……、なるほど。暗殺を警戒してるのね?」

「いや、そうじゃなくてだな」


 この少女には何度か現代日本について説明しているのだが、やはり理解しきれていない部分があるようだ。


「…………」


 窓の外に広がる風景は、向かい側の家々と何の変哲もないアスファルトの道路。対面の一軒屋は幸いにも長らく空き家となっており、人目を気にする必要はない。ざっと確認した限り、この半年の間に誰かが入居したということもなさそうだ。


 ただ、その家屋と有海家の間に延びる小道。軽自動車が行き交うにも苦労しそうな狭い道路だが、通行人などがそこから見上げた場合、この窓際は丸見えとなってしまう。


 近所の認識として現在、有海父は不在。息子は行方不明。つまり今、この家には誰もいないはずなのだ。通行人に目撃されて、面倒なことになるのは避けたかった。

 同じ理由から、カーテンを引くこともできない。むしろ夜なら、遮光カーテンや暗幕なりで窓を覆ってしまえば明かりもつけられるだろう。

 ひとまず近辺に人影がないことを確認し、流護は窓からそっと離れた。


「今はちょっと、人に見られたくないんだ」

「ん……わかったわ」


 ベルグレッテは深く追及してこなかった。今ほど号泣したことで気を使われているらしい。


「え、えーと……ワケとかは後で詳しく説明するからさ」


 今は窓に近づくことがなければ――つまり誰かに見られることがなければそれでいいので、とりあえずそのあたりは後回しにしよう、と話を終える。


「……よし」


 デスクチェアを引き出して腰掛け、パソコンの電源を入れた。昨今の省スペース化の流れに反逆するかのような大きい縦長の本体が、久々の出番に唸りを上げる。


「なっ、なんの音? その箱から鳴ってるの? だ、だいじょうぶ?」

「はは。うるせーよな、これ。まあ怪しいもんじゃないから、気にしないでくれ」


 たっぷり一分ほどを待って、ようやく画面にデスクトップが表示された。あまりパソコンを使うほうではなかったこともあって、壁紙はそのままOSのデフォルト。特別便利なソフトなども導入していない。スペック的に、あまりよさげなものを入れられないという理由もあるのだが。


「それは……下にあったのと同じ……えっと、テレビ、よね?」


 早速、文明の利器を知ったファンタジー少女が惜しいところを突いてくる。


「うむ。そっくりだけど、テレビじゃないんだ。パソコンっていうんだけど……どう説明したもんかな、これは……」

「ん……私たちの世界にあるもので例えたら、なにが近いかしら?」

「うーん……多分、向こうで似てるモンはないな。色んな人の持つ知識が集まってるものが見れたり、本や地図が見れたり、ノート代わりに使うこともできたり……時間とか天気も分かるし……とにかく、色々と便利な箱としか言いようがないかもしれん。知りたい色んな情報が探せるんだ。人によっちゃ、これを使ってるだけで時間なんていくらでも潰せるぞ」

「んー……、よくわからないけど、すごいわね。情報の泉……といった感じかしら」

「情報の泉とはまた詩的っすね」


 実際、全く知識のない人間にこれをどう説明したものだろうか。さすがの神詠術オラクルであっても、この便利さに敵うものはないはずだ。

「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」という言葉を聞いたことがある。その環境が当たり前となっている自分たちが意識していないだけで、現代という社会はとうにその領域へ到達しているのかもしれない。


「この、ぱそこん……で、グリムクロウズに戻る方法を探そう、ってこと?」

「まあ……そうだな。ただ、これも知りたいことが一から十まで何でも調べられる訳じゃないんだけどさ」


 むしろ、あの異世界へ行く方法など見つかるはずもない。

 何もしないよりはマシ、であるかどうかも怪しいところだ。しかし実際にあんな世界が存在して行き来ができた以上、もしかしたら……という気持ちがない訳でもない。

 アイコンをクリックし、インターネットのブラウザを立ち上げる。やや待って、契約しているプロバイダのトップページが表示された。


「……、」


 自分がいなくなったことでネット契約を解約された可能性も考えていたが、杞憂だったようだ。

 ざっとページを眺めるも、気になるようなニュースはなかった。アイドルの誰々がどうしたなど、ごく平和的な話題が並んでいる。元々あまりテレビを見ない流護としては、さして興味を惹かれるような記事もなかった。

 ……自分がいなくなって半年。世間はそんなことも関係なく、以前と同じように回っている。

 有名な検索サイトを開き、さてどうするかと腕を組む。


「…………、」


 まず思い立ったのは――自分の名前で検索をかけてみることだ。

 しかしキーボードに伸ばしかけた指が、凍ったように硬直する。


(……俺がいなくなったことで、ちったあ騒がれた、のか……?)


 確かにこの世の中は、流護ひとりが消えたところで何事もなく回り続ける。

 しかし。

 初夏の晩、忽然と姿を消した男子高校生・有海流護。この小さな田舎町であれば当時、ちょっとした事件として扱われたはずだ。流護自身の評判などは関係ない。人ひとりがいなくなったという出来事が、ここでは十二分に非日常なのだ。あのグリムクロウズなる異世界とは違って。

 テレビの地方ニュースや、地元の新聞などでも報じられたことだろう。全国規模でも、一日ぐらいはネットのニュースに載ったかもしれない。それこそ、先ほどのプロバイダのトップページなどに。当然、警察沙汰にもなっているはずだ。


(警察って、最初の一週間ぐらいは捜索すんだっけ……?)


 それから半年ほどが経ち、世間もそんなニュースの存在など忘れている頃合い――といったところか。


(……、……なんか……)


 ふと、知るのが怖くなってきてしまった。

 世間を騒がせていたなら、その規模のほどが。自分に落ち度はないはずなのに、なぜか手配中の犯罪者じみた心境にすらなってくる。


「よ、よし。そうだ……!」


 そこで半ば逃げるように、とある名前を勢いで入力した。

 即ち――岩波輝、と。


「おお!?」


 瞬間、驚きのあまり思わずのけ反ってしまう。


「どうしたの?」


 何事かと、立ち上がったベルグレッテがディスプレイを覗き込んでくる。


「いや、これなんだけどさ……」


 簡素な入力画面には、『岩波輝』と入力しただけで出てきた関連検索ワード候補がずらりと並んでいた。『岩波輝 失踪』、『岩波輝 行方不明』、『岩波輝 研究』――その他にも『実績』やら『ニュートリノ』やら何やら、名前とその後に続く様々な単語が羅列されている。


「なんだか文字がいっぱい出てるけど……これは?」

「ああ、これは今まさに調べものを……あ、そっか。ベル子に詳しく話したことねえんだっけ。この岩波輝ってのは、ロック博士の本名だよ」

「! そう、なんだ……」

「で、色々調べてみようと思って試しに博士の名前入れてみたんだけど、それだけで色んな情報がどっと出てきたからさ。ちょっとびっくりしてな」

「すごい……わね。そんなことができるなんて……」


 とりあえず名前のみの検索結果を表示させれば、大学やら難しそうな研究についてやらと思しきページがざっと並ぶ。


(そういや……)


 以前、ロック博士に尋ねようとして聞きそびれていたことがあったのを思い出す。つまり、


(博士って、こっちで何を研究してたんだ……?)


 ひとまず、検索結果の一番上に出てきた『岩波輝』とだけ書かれているページを開いてみる。中央にパッと表示された画像を見て、すぐさまベルグレッテが反応した。


「あ、ロック博士! ……よね? あれ、でも……今より随分と若い……? これは、シャシン?」

「そうそう。さすがベル子さん、飲み込みが早い。これはあれだな……二十年ぐらい前の写真じゃないか? かなり若いぞ。しっかしこの頃から、泥の混じった国道沿いの雪みたいな髪の色してんな、この人」


 在籍していた研究室時代のプロフィールなのか、細かいデータまで記載されている。

 出身は神奈川県(初耳)。流護には理解できない、何やらすごそうな経歴。漢字が難しくて読めない研究所の名前。そして――


(……天体物理学、の教授……?)


 小難しい名前の通り、その意味するところは流護にはピンとこない。

『天体物理学』で検索をかけてみたが、某『インターネット百科事典』に書かれている情報を読んでみてすら、流護にはその内容が難しすぎていまいち理解できなかった。天文学がどうとやら、宇宙論がどうとやら、小難しい学問の一分野らしい、程度のことしか頭に入ってこない。

 その他のページをいくつか開いてみると、博士の提唱したよく分からない説がよく分からない表彰をされたことがあるだの、読んでいて頭の痛くなりそうな文面ばかりが続いた。


「だめだ……俺には言ってる意味が全然理解できん。詳しくはよく分からんけど……博士、こっちの世界でも本当に凄い研究者だったみたいだな」

「そうなんだ。でも、それも当然でしょうね。有能なかただもの」

「俺としては正直、性犯罪とかで前科のある怪しいオッサンのセンもわりとマジで考えてたんだが……」

「また、そういうこと言って……。あ、そうだ。名前だけでそんなに情報が出てくるなら……リューゴの名前を調べたらどうなるの?」

「え!? それは……まあ、後で、かな……」


 むしろ、今さっきそれを躊躇した結果こうなっているのだ。


「そうなの? んー……あ! 私の名前だと、どうなるのかな……!?」


 うむ。インターネッツの怖さというものを知らぬ、純粋できれいな瞳をしておる。この少女には、いつまでもそんな純真さでいてほしい。などと思いつつ、


「はは、試してみるか」


『ベルグレッテ』と入力してみるが、そもそもその名前がヒットしない。比較的似たような響きの外国人の名前や、ゲームキャラ名みたいなものは出てくるが、まあ順当な結果だろう。


「なにも出なかったの? 残念……、……」

「ん? どうかしたか?」


 画面を見ていたはずの少女騎士の視線は、気付けば流護の手元――つまりキーボードへと落とされている。


「さっきから気になっていたんだけど……その板で……ぱそこんに、文字を出しているの?」

「まあな。ベル子、ちょっとやってみるか?」

「え、えっ!? で、でも……」

「貴重な体験になるぞ。やってみれやってみれ」

「で、できるかなぁ……」


 椅子に座らせて軽くキーボードの操作方法をレクチャーするが、やはり異世界からの客人には難しいようで、四苦八苦する時間が続く。

 グリムクロウズでは何事も要領よくこなしていた、完璧超人ベルグレッテ。そんな彼女が人差し指をピンと立てながらキーを一つ一つおっかなびっくり押し込んでいる姿は、何とも貴重かつ新鮮で微笑ましい。


「難しい……、肩が痛くなりそう……。で、でもこの……キー、だっけ? これを押す感覚が、ちょっと楽しいかも」

「はは。別にそういう遊びじゃないぞ」


 音楽ゲームでもやらせたら案外はまるかもしれない。しばらく真剣な表情でキーボードと格闘していた少女騎士だったが、


「…………んっ」


 突然、何かを決意したように勢いよく立ち上がる。


「お、おう? どしたベル子」

「えっと……」


 少し恥ずかしげに言い淀む様子で、思春期の少年も察した。


「お、おう。えーと……夕べ一応教えたけど、使い方は大丈夫か?」

「つかいかた? ……あ、う、うん。大丈夫、だと思う」

「一人で行けるか? ついてった方がいいか?」

「だ、大丈夫だってば!」


 会話を打ち切るように、ちょっと失礼するわね、とベルグレッテが部屋を出ていく。ううむ、トイレ一つで何とも奥ゆかしい。


(これが彩花のヤツだったら、自分の家みてーに断りなくズケズケ入ってったり、「中でおじさんがふんばりながら新聞読んでたから戻ってきちゃった」とか言ったり……)


 そこまで考えて、盛大な溜息と共に背もたれへ寄りかかる。


(……、彩花…………)


 有海流護は、今。

 いくつかの大きな問題を、先送りにしている。あえて考えないようにしている。こうして戻ってきた以上、やるべきことなど他にいくらでもあるはずなのに。しかし逃げ道を探すように、「グリムクロウズへ戻る方法を調べよう」などと言い出し、目を背けている。


(まだ……ちょっと、混乱してるとか……忙しいだけとか、だよ。くそっ)


 やけくそ気味に、『グリムクロウズ』と打ち込んで検索をかけた。しかし当然、あの世界に関係するものなどが出てくることはない。片やグリム、あるいはクロウズといった具合に、それぞれ個別の単語を含む文章が目に留まるだけだ。


(ん? そういや、今まで深く考えたことなかったけど……)


 剣と魔法のファンタジー的な異世界、グリムクロウズ。その名前の由来や意味は、何なのだろう。


(グリム、クロウズ……これ、そのまま英語なのか?)


 分けて考えた場合、共に聞き覚えのある単語だ。

 試しに『グリム』と打ってエンターを叩いてみれば、有名な童話についてやら、そういった名前の法則であるやら、といった検索結果が表示される。元々、ドイツ語圏の姓名であるらしい。


(グリムクロウズの場合、ドイツ人の名前が由来……ってこたねぇよな。英語だと、綴りは……grimでいいんかな)


 まだ高校一年生、成績もあまり褒められた部類でなかった流護には、聞き覚えこそあっても意味までは分からなかった。検索画面に入力してみると――


(……『grim』……意味は、『恐ろしい』、『残酷な』、『残忍な』……)


 やたらと不穏な表現の羅列。

 なぜか。知らなくていいことを知ってしまったような、ひどく居心地の悪い気持ちに襲われた。


(……クロウズの方は何だろ?)


 ちなみに以前博士から聞いた話では、『クローズ』ではなく『クロウズ』と書くとのことだった。

 同じように調べてみるが、


(うーむ……。これはちょっと、めんどいぞ……)


 まず、『ズ』が曲者だった。『クロウズ』という一個の単語なのか、それとも『クロウ』に『S』がついたものなのか。そして『ク』は、『C』と『K』のどちらを使うのか。『ロ』も同じで、『L』と『R』のどちらを使うのか。

 例えばクロウとした場合、ざっと調べただけでもその訳は多岐に渡る。単純に人の名前だったり、鴉のことだったり、引っ掻くという意味の動詞だったりと、読みは同じでも全く異なる言葉となってしまう。


(……『craw』……これでもクロウって読むのか。もうCとかRとかどころの話じゃねーな、似たようなの多過ぎだろ……。意味は……『胃袋』、『素嚢そのう』……?)


 分からなかったので、コピー&ペーストで貼りつけて意味を調べてみる。……と、これは多くの動物に見られる消化管の一つで、食べた餌を一時的に貯蔵しておく場所のことらしい。


(あー、インコなんかに餌やると喉膨らませてる、あれのことか)


 グリムクロウズ。残酷な素嚢。または胃袋。


(消化待ちの餌……なんつってか? あの世界そのものが)


 だとすれば、飲み込もうとしているのは何者なのか。

 さすがに飛躍しすぎか、と流護は溜息をつく。

 そもそも、『グリムクロウズ』が英語や地球の言語由来とは限らない。

 例えばあの世界には、古代ラスタリッド語を始めとする独自の言語が存在する。かつて王都でテロを引き起こした集団『ノルスタシオン』や、ミディール学院の超越者の一人であった『オプト』などの名は、この言語から引用して名付けられているという。

 確か、ベルグレッテの名前もその言語に由来するものだったはずだ。

 詠術士メイジに授けられる二つ名、果ては怨魔の名称に関しても、これを語源としていることが多い。

 仮にあの異世界のみで意味がある言葉なら、ここで調べても無駄ということになる。

 そもそもグリムとクロウズで切るのが正しいとは限らない。グリムクロ・ウズかもしれないし、グ・リムクロウズかもしれない。


(埒が明かねーな、こりゃ……)


 嘆息しつつブラウザバックを連打すれば、先ほど調べたロック博士――否、岩波輝についての情報が表示された。


(あ、そういや……)


 そこでふと、流護の脳裏にある人物が思い浮かんだ。

 自分や博士と同じ、あの異世界へと迷い込んだ日本人。レフェ巫術神国で『神域の巫女』として祭り上げられ、今この瞬間も民の支えとなるべく修業や業務に励んでいるだろう、かつてこちら側では生徒会副会長を務めていたという女子高生。

 即ち、『雪崎桜枝里』と検索欄に入力した。――のだが、


「……あれ?」


 出てこない。

 自分と同じ時期に、同じように行方不明となったはずのあの女子生徒。しかし、それらしき検索結果が何もヒットしない。


「間違えた……か?」


『さえり』という名前は、少し珍しい組み合わせの漢字でそう読ませる。間違って覚えてしまっていただろうか。


(いや、桜の枝の里だって言ってたし、合ってるだろ……。そういや桜枝里って、新潟出身だって言ってたっけ)


 レフェに滞在中、雑談の折にそんな話題が出たことがあったのだ。

 より細かに『新潟 女子高生 雪崎桜枝里 行方不明』と打ってみるが、やはりそれらしき事件や名前は出てこなかった。


「うーむ……?」


 探し方がよくないのだろうか。何しろ広大なネットの海である。まだまだ調べようはあるはずだ、と少年はめげずに再びキーボードを叩き始めた。

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