313. 静かな夜
「リューゴ、いるー……?」
「ちゃんといるぞー」
このやり取りも何度目だろうか。
泡立てた身体をこすりながら、ベルグレッテはガラス戸の向こう側へ声をかけた。
(み、見えてない……わよね)
この曇りガラス越しに浴場内が見えないことは、事前に自分の目で確認している。そのうえで扉に背を向けてはいるものの、落ち着かない気持ちが少女をそわそわさせた。
何しろ自分は裸。そして、このたった一枚のガラス戸を隔てた向こう側に彼がいるのだ。
父親のルーバートや妹のクレアリアが今の状況を知ったらどう思うだろう。……色々と考えたくないかもしれない。
「…………、」
見られるのは嫌。でも、近くにいてほしい。
無茶な要求を突きつけてしまった自分に、自己嫌悪せざるを得ない。
「ちょっと歯を磨いてたんだ」
「そうなの……」
「おうそうだ。ベル子、いいこと考えたで」
「? いいこと?」
やたらと肌触りの良好な身体拭きで腕をこすりながら尋ねれば、
「そんなに不安なら、もう一緒に入ろうぜ!」
「………………ばか」
小さく身を竦めて、小さくそう返す。
「あ。今、洗濯機動かし始めたからさ。四十分で終わるから、後でフタ開けて、中身回収してくれー」
流護の声の他に、向こう側からごうんごうんと低い音が聞こえ始めた。これが、その『センタッキ』のものなのか。
「う、うん。でも本当に、それだけで洗濯が終わっちゃうの?」
「おう。それどころか本来なら、勝手に乾かしてくれる機能までついてるんだぜ。ただそっちの性能はイマイチで、電気代……費用も掛かるから、あんまり使えないんだよな。だから取り出したものは濡れてるから、後で干して乾かしてくれ。それだけで洗濯は完了だ」
「ん、わ、分かった……」
聞いただけでは信じられないようなことだった。
あの箱に衣服を入れて、しばらく待つ。それだけで洗濯が終わりだなんて。
「…………、」
しかし、それに納得してしまうような現実がある。
例えばこの浴室。四方を白っぽい壁に囲まれているが、これは石ではない。指でなぞれば、硬すぎず平坦な壁面が、きゅっと軽快な音を立てる。不思議な材質だ。
天井に輝く照明も、カンテラではない。全くぶれずに、一定の光量を放ち続けている。居間でもそうだったが、これがボタン一つ押すだけで灯ってしまうというのだから驚きだ。
身体を磨くためのこの布の柔らかさや、石鹸の泡立ち加減もそう。レインディールの貴族でさえ、これほど良質なものにはそうそうお目にかかれない。
「リューゴ。髪を洗うときは、この……青い容器……だったかしら?」
「ああ。ボトルのフタの白いのを、上からギュッと押し込むんだ。そうすると、その白いのに空いてる小さい穴から、中身のシャンプーが出る」
自分にはまるで分からないものだらけで、しかし彼に尋ねれば答えてくれる。
(……本当に……)
実感する。ここは確かに、有海流護の生まれ育った場所なのだと。
(お湯のシャワーは、こっち……しばらくは、冷たい水が出るから注意……っと)
彼から受けた説明通り慎重に操作して、シャワーから水を出す。温かな湯に変わるのを待って、泡を流していく。
「……、」
今一度――意識を集中し、小さく前方へ手をかざした。やはりそこから、自らの力の象徴たる白銀の水流が現れることはない。先ほどと同じく、わずかな水ならば顕現しているのかもしれないが、それもシャワーに紛れて分からなくなってしまう程度のものでしかないということだ。
「……ん……」
そして、前方へかざした手がやけに重い。
最初は探索の疲れによるものと思っていたが、どこか違うように感じられる。見えない何かによって、全身を上から押さえつけられているような。
「あ、そうだベル子。聞きそびれてたんだけど、身体が重く感じるだろ?」
「えっ!?」
心を読んだかのような問いに、少女は思わず扉のほうを振り返った。当然ながら、彼がそこから顔を覗かせているなどということはない。
「え、べ、別に……そんなことは」
「いーや、重いはずだぞ。まーたベル子のことだから、余計な心配かけたくないとか思ってそんなこと言ってんだろ」
「う」
完全に見透かされ、少女は思わずのけ反った。
「いや、俺もさっき公園で訊こうと思ったんだけど、いきなり戻ってきたからいっぱいいっぱいになっててな……。んーとあれだ、説明もまた難しいんだけど……こっちの世界は、グリムクロウズよりも身体が重く感じるんだ。最初はちょっと慣れないかもしれないけど」
「そう……なの?」
今ひとつピンと来なかったが、そこで単純に浮かんだ疑問を口にしてみる。
「なら……リューゴが私たちの世界に来たときは、身体が軽く感じてたってこと?」
「お、そうそう。その通りなんだよ。今じゃ俺もすっかり向こうに慣れちゃって、こうして戻ってきて変な違和感があるぐらいなんだけどさ」
「そう、なんだ」
それぞれの世界で『重さ』が異なるなんて、どういった理由でそんなことが起こるのだろう。
「……、」
違うのだ。
あまりにも、何もかもがかけ離れている。自分にはまるで理解が及ばない。そんな世界へ迷い込んでしまったと。レインディールでは想像もできない、全てが違う――遠く離れた場所へ来てしまったのだと。
発現できなくなった神詠術。簡単には帰れない遠き異郷の地。
一体、これからどうなってしまうのか。
シャワーの温かな雫を浴びながら、少女は不安に震える自分の肩を抱いた。
「大丈夫かー? ちゃんと着れたか?」
流護は廊下から、薄い戸一枚を隔てた向こう側へと呼びかける。
「う、うん。大丈夫……だと思う」
すぐさま、少し不安げな応答。
そして脱衣所のドアをガチャリと開けて現れたのは、
「………………、……ほう。ほう、ほう」
「な、なに?」
緑一色のジャージ姿となった、異世界の少女騎士。
「……ふむ……」
少年は熟練の匠さながら、腕を組んで重々しく唸る。
そこには、ギャップが生み出す趣というものがあった。
少女の細身ゆえ生地が余り気味にだぶついていながら、ジッパーの引き上げられた胸元のみが窮屈そうに膨らんでいるというギャップ。ファンタジー世界の高貴なお嬢様が、日本の公立高校の体操服を着ているというギャップ。
そして、胸元に大きく書かれた『有海』の名前。まるでベルグレッテが自分のものになったかのような、歪んだ征服感すら覚えてしまいそうになる。
濡れそぼった長い髪をタオルで拭いている姿が何とも色っぽい。
「ふむ、ふむ……」
「な、なによっ……じ、じろじろ見ないで……。別におかしくない……、わよね? 着かた、間違ってる……?」
「ああ、いや、大丈夫。つか、普通に似合っててびびる」
むしろアリすぎてやばい。こっちがおかしくなりそうっつか、おかしなことをしたい。つかこれ、『有海ベルグレッテ』になってるからいいよね? これもう俺の嫁だよね? 体育の時間(夜)でいいよね? そんな悶々とした思いを必死で心の奥底に封じ込める思春期の少年であった。
「オ、オホン。ど、どうだった、風呂は。さっぱりしたか?」
「うん……すごくいいお風呂だった」
頷きながらも、しかしベルグレッテの表情は暗い。
「アマンダさんたちが今頃俺らのことを探してるかもって考えると、のんびり風呂に入るのは気が引ける……ってとこか?」
「う、ど、どうして……」
「そら分かるよ。何だかんだ、長い付き合いなんだから」
苦笑しながら、彼女を居間へと連れていく。
「でもさっきも言ったけど、俺らは今やれることをやっておくしかない。いつ向こうに戻れるチャンスが来てもいいように、準備は万全にしとこうぜ。ちゃんと風呂入ったり、飯食ったりとかさ」
「…………うん」
次いで、異世界の少女にドライヤーの使い方を説明した。慣れない手つきで髪を乾かす彼女を眺めながら、他には何かあったかなと考えた末、トイレについても軽く解説しておく。洋式便器の見た目や水の流し方についてはグリムクロウズと大差ないため、これは問題なさそうだった。ただ、ウォシュレット機能については今回はひとまず割愛する。
今度は流護が約半年ぶりとなる自宅での入浴を満喫し、しかし早風呂なので十分程度で上がった。脱衣所で待機していたベルグレッテを引き連れて再度居間へと戻れば、
「くしゅっ」
彼女が可愛らしいくしゃみをした。
「お、湯冷めしちまったか……?」
時刻はすでに夜の十一時前。より冷え込んできたのか、確かに随分と肌寒い。
「よし、ストーブ出そう」
倉庫から小さな石油ファンヒーターを運び出してきて、スイッチを入れた。幸いにしてというべきか、去年の余った灯油が入ったままとなっている。給油はしばらく必要ないだろう。
「あ、あったかい……」
「ははは、そうじゃろうそうじゃろう」
ほどなくして出てきた温風に吹かれ、ベルグレッテが居住まいを正す。またも文明の利器に目を丸くする少女騎士の姿が微笑ましくて、流護は見守るようにうんうんと頷いた。
「これも……こんな簡単に、暖かい風が……?」
「おう。そこの右端のスイッチを押すだけだ。寒い冬なんかは、さすがに部屋が暖まるまで時間掛かるけどな」
「そうなんだ……」
「でも、グリムクロウズにも暖房器具みたいのはあるんだろ? 温術器、つったっけ?」
「ええ。でも、これほど手間いらずじゃないわよ」
単純な操作方法以上に、この短時間で火の神詠術やマッチなどを使わずして暖かな風を吹かせることができる、という点が驚きどころのようだった。
「髪もなんだか、いつもと違う感じがして……すっごいふわふわする」
「はは、シャンプーの違いだな」
グリムクロウズでも文明に似合わないほど良質な石鹸類が使われているが、やはり現代日本産と比べたならこちらに軍配が上がる。
とりあえずテレビをつけて垂れ流しにしていると、ジャージ姿のベルグレッテはピンと背筋を伸ばして画面に見入っていた。妙に肩に力が入っているのが微笑ましい。
「…………、」
かくいう流護自身、以前とは違う心情で液晶を眺めていた。
半年前と――自分がいなくなる前と変わらないバラエティー番組。流護がいようといまいと、関係なく回り続けていた日常……。
「……って」
そこで、ベルグレッテの後ろ姿がうとうとと船を漕ぎ始めていることに気付く。
「おうベル子、眠くなってきたか? まだ寝る場所どうするか決めてなかったよな……っと、」
近くに寄れば、彼女はもう目を閉じてしまっていた。
「ちょ、おーい。座ったまま寝るなよ。危ねーぞー」
横倒しになりそうな細い身体を支え、ゆっくりとその場に横たえる。
「……無理もねえ、よな」
前人未踏の危険な地を探索し、ついに固体となった魂心力を発見。そこからどうした訳か、現代日本という名の異世界へ迷い込んでしまった。見慣れないものばかりの驚き。アマンダたちに心配をかけてしまっているという思いと、簡単には戻ることができないだろうという不安。
いかに常識や観念の異なる厳しい世界に生まれ育った貴族の令嬢とはいえ、まだ十五歳の少女なのだ。一気に降りかかってきた予想外の現実に、疲れた果ててしまったことだろう。
「……よっと」
押し入れから毛布を取り出し、少女の細身にゆっくりと覆い被せた。彼女はそれにも気付くことなく、安らかな寝息を立てている。
(うーん、俺はどうすっかな……)
かくいう流護も、横になればすぐ眠れそうな状態ではあった。久々の自室に戻って休むべきか。
しかし、一人になることを頑なに拒んでいたベルグレッテの様子を思い出す。ふと目を覚ましたとき、部屋に誰もいなかったら彼女はどう思うだろうか。
(うーむ。だからって、同じ部屋で寝ちまっていいのか……?)
本来であればまた思春期の少年特有の葛藤でも始まるところだが、流護自身も精神的に疲れているのか、妙な気持ちが沸き上がってくることはなかった。
(まあ自分の部屋があるんだし、久々に自分のベッドで寝るか……)
そうと決めて立ち上がろうとしたところで、
「……ごめ、んなさ……い」
「……、」
弱々しいかすれた声が、少年の後ろ髪を引く。
「……ごめ……」
はあ、と息をついた流護は、ベルグレッテの肩に被せた毛布を深くかけ直した。
「……夢の中でまで謝ってんなよ。ベル子は何も悪くないってのに」
「……ここ……どこ……、リューゴ……どこ……」
「ここにいるぞ」
小さく声を潜めて答えれば、少女は安心したようにまた寝息を立て始めた。
早速、この日本での夢を見ているのだろうか。見たこともない街並みや道具の数々は、彼女にかつてない衝撃や不安を与えたことだろう。
(っと、そういや人の寝言に返事はしない方がいい……とか聞いたことあるな)
具体的に何がどうよくないのかまでは忘れたが、受け答えした声で起こしてしまうかもしれない。何にせよ、そっとしておくに越したことはないはずだ。
「…………」
横たわるベルグレッテの姿は、いつもより一回り小さくなって見える気がした。毅然とした責任感溢れる騎士ではなく、歳相応の一人の少女として。
「……よっと」
押し入れからもう一枚、薄手の毛布を取り出す。
流護は結局、この部屋のソファで眠ることにした。やましい気持ちも何もなく、自然とそう決めることができた。
こうして二人が同じ部屋で夜を明かすのは初めてである。ベルグレッテが目を覚ましたら驚いてしまうかもしれないが、そこは大目に見てもらおう。貴族のお嬢様の貞操観念的に問題があって責任を取れという話になったなら、是非とも結婚することでその罪を償おう。何だ全然問題ないな、と流護は自分の寝床を整える。
「……おやすみ、ベル子」
電気やストーブを消して、眠るには少し硬く感じるソファへと横になった。
やはり疲れていたのだろう。見知った天井の木目や染みを懐かしむ暇もなく、少年の意識は電池が切れたように途絶えていった。




