312. 逆異世界
「大丈夫だ。ちっと落ち着こう」
「う、うん……、あ! 水、ごめんなさい……」
ここで少女騎士は自分が零してしまった水に気が回ったのか、慌てて腰を浮かす。
「あ、気にするな気にするな。ちょっと拭くフリしとけばいいって」
彼女を押し止めてティッシュを適当に宛がい、ゴミ捨てついでで台所へ向かう。
「……とりあえずジタバタしてもしょうがねえ。ちょっと一息つこうぜ。ベル子、何か飲まねーか?」
久しぶりに見る、長らく使われた形跡のない台所。戸棚の中身を確認しながら、あえて明るく提案する。
「う、うん……」
「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「えっと……それじゃあ、紅茶で……」
「ほいよ」
準備しようとして、ポットのコンセントが抜かれていることに気付く。これも何気ない、父が長期不在である証だ。仕方ないのでガスコンロを使うことにした。
棚からカップを取り出し、やかんの湯が沸くのを待つ。
「……っと、そうだ」
落ち着かなそうなベルグレッテを横目にしつつ、流護は今一度リビング全体を見渡した。
確認しておきたいことがいくつかある。
まず目についたのは、台所の戸棚脇に吊るされている壁かけカレンダー。父の知人の酒屋から毎年無料で配られるそれは、十月のものとなっている。が、この冷え込みようからして、今が十月であるとは考えにくい。
「…………」
間近で確認すれば、升目の中に記されている1から31の数字のうち、18だけが雑な赤丸で囲まれていた。その脇に、同じく赤のペンで『出』と書き込まれている。
(親父が出張に行ったのは、十月の十八日か)
流護がいなくなったことで父親の一人暮らしとなったため、カレンダーがめくられず十月のままになっていたのだ。
一見して自分の知っている場所でありながら、実は遠い過去や未来の世界だった、というセンなども消えたらしい。異世界で暮らしていた分だけ、こちらでも同じ時間が経過している。
(いや、実はよく似たパラレルワールドとかって説も……とか考え出したらキリがねーか。で、親父が帰ってくるのはいつだ……?)
めくっていくと、十二月の四日に赤丸と『戻』の文字が記されていた。
(今回は一ヶ月半ぐらいか。仕事の都合で予定より早く帰ってくることもあったけど、今までに数えるほどしかなかったし……まあ、この通りに戻ってくるって考えていいだろ。……で、今日は何月何日なんだ?)
改めて意識してみれば、今日の日付を確認できるようなものが見当たらない。せっかくのカレンダーも、人がしっかり管理していなければ意味を成さないといえよう。父の出張期間中は新聞も来ないよう手配されているため、それで日付を確認することもできない。
(俺のケータイも表示バグってるし……)
他に日にちを知ることができそうなものといえば――
「お、あったあった」
目的のものがソファの片隅に放り出されているのを見つけ、ひょいと拾い上げる。
「ベル子さんや」
「ん、なに?」
振り返るベルグレッテに対し、流護は少し意地悪げな笑みを浮かべた。
「今からテレビをつける。ちょっとビックリするかもしれんが、まあ落ち着いてくれ」
「てれび……?」
「ほれ、そこに天轟闘宴で使われてた黒水鏡みたいのがあるだろ?」
「……あ、うん」
壁際に鎮座する三十二インチの液晶を指差せば、彼女は初めてその存在に気付いたように真っ暗な画面へと目を向ける。きょとんとなった少女騎士に答えを示すべく、握ったリモコンのボタンを押した。テレビにパッと表示されたのは、水曜日の夜にやっているニュース番組だった。スーツを着た真面目そうな男性が、カメラ目線で今日の出来事を伝えている。
「っ!? え、な、なに? こ、この……どなた!?」
「はははは、やっぱ驚くよな」
予想通りぎょっとなったファンタジー世界の少女に対し、流護はテレビのことを簡単に解説した。
「……つー訳で、あのレフェの黒水鏡みたいのが、各家庭で見れるんだと思ってもらえばいい」
「神詠術もなしに、こんな……。とんでもない技術ね……」
ポカンとなりながら、ベルグレッテは画面を見つめ続けた。
驚きっぱなしな彼女とは対照的に、流護は懐かしい気持ちで番組を眺めて、
『では明日、十一月二十六日の天気ですが――』
「おっ」
そこでようやく、知りたかった情報が手に入った。
(てことは、今日は二十五日か。同じような十二ヶ月のグリムクロウズと照らし合わせると、一ヶ月ぐらいズレがあんだな。まあ、大したアテにはならんけど。とにかく……親父は、あと十日ぐらいで戻ってくる……)
背筋をピンと伸ばしてテレビに釘付けとなっている少女の後ろ姿を見つめつつ、考えねばならないことをまとめる。
とりあえずグリムクロウズに行っている間、こちらも同じように時間が流れていたことは間違いない。
およそ半年ぶりに戻ってきた自分のこと。そして、共にやってきた異世界の少女のこと。
父親こと有海源壱はかなりぶっ飛んだ部分があり、エンターテイメントも解する人物ではある。が、さすがにこの半年間にあった出来事を話したところで、到底信じてもらえるとは思えない。かといって、上手い作り話も思い浮かばない。
(親父に……どう説明する……?)
自分ひとりの言い訳なら何とでもなる。しかし、誰が見ても外国人――それも高貴な身分の令嬢にしか見えないこの少女のことを、どう話したら納得してもらえるのか。
正直、何をどのように言い繕えばいいか皆目見当もつかなかった。
(…………)
が、そんなものは結局のところ目先の問題にすぎない。
最大の懸念が、流護の脳裡に不穏な靄をかける。
即ち――
これから、どうするのか。
今日明日の話ではない。大げさにいえば、これから先の未来の話だ。
有海流護は、故郷に戻ってきた。正直、いきなりすぎてまだ戸惑っている。
ただ。漠然とではあるが、分かっていることがある。
(もう……)
異世界への転移という、不可解極まりないこの現象。一度経験しただけでも異常だというのに、無事戻ってくることができてしまった。
当たり前だが、こんなことはそうそう起きるものではない。何度も起きる訳がない。もしかしたら起きるかもしれないが、それがいつになるかも分からない。となれば、
(……ベル子……、)
かつて流護が、帰還を諦めたように。
この少女騎士は、もう二度と故郷へ戻れない可能性も――
思考を寸断するように、やかんがピーッと準備完了を知らせた。
自分のコーヒーとベルグレッテの紅茶を淹れに台所へ戻る。もちろんインスタントだが、こんな何気ない作業にすら妙な感慨を覚えた。
「お待ち。大して美味いもんでもないけど、まあ一服ってことで」
「え、も、もう入ったの?」
「あ、そっか。ベル子にしてみれば意外だよな」
当然ながらあちらの世界には、インスタントの飲み物など存在しない。コーヒーにしろ紅茶にしろ、用意するにはそれなりの手間がかかる。
少女騎士の反応の一つ一つに、改めて世界の違いというものを実感する少年だった。
「味、薄く感じないか?」
「んっ、少し……でも、これはこれで……」
そして、そんな飲み物の風味もまた少し異なる。
流護自身、すっかり異世界産の味に慣れていたのか、インスタントコーヒーに違和感を覚えてしまった。
カップを置き、半年ぶりの居間を今一度見渡す。
今さらながら壁にかかったアナログ時計へと目を向ければ、時刻は夜の十時前。そこでふと思い立った流護は、懐から懐中時計を取り出した。
「やっぱり……」
すっかり手になじんだ異世界の時計は、七時前を指し示していた。『あちら』では、これから夜になろうとしている時間帯だったのだ。日本とグリムクロウズには、数時間程度の誤差がある。
「えっ……!? あれ? どういう、こと……!?」
流護に倣って自分の時計を確認したベルグレッテが、壁のアナログ時計と比較して目を白黒させた。やはり彼女も混乱し通しで、そこまで気が回らなかったらしい。
「まああれだ。あんまり遠いところ同士だと、時間がズレるらしいぞ。時差、っていうんだけど」
「そう、なの……?」
「……ああ」
もちろん、ほとんど口から出任せだった。時差などという規模の問題ではない。そもそも世界が――惑星が異なるのだろうから、時間が一致するはずもない。むしろ、どちらの世界も同じ二十四時間方式を採用していること自体が、奇跡に等しいはずだ。
「…………」
眼前の少女騎士は、うつむきがちになって身を固くしている。らしくない弱々しさは、見慣れない檻へ放り込まれて震えるウサギを彷彿とさせた。
「ベル子、もうちょっと楽にしていいぞ。荷物下ろして、肩の力抜いてさ……」
「でも……」
少女の表情は浮かないまま。
見たことがないものばかりの世界。使えなくなってしまった神詠術。任務の途中であるという責任感や、皆に心配や迷惑をかけてしまっているに違いないという気持ち。そして、簡単には帰れないだろうという不安。
ありとあらゆる負の思いが、今にも泣き出しそうなその顔に表れている。
「よしベル子、風呂でも入るか?」
「……、そんな、場合じゃ……」
咳払い一つ、流護は真剣な眼差しで対面のベルグレッテを見つめる。
「……ベル子。さっきも言ったけど、ここからあの場所には……グリムクロウズには、そう簡単には戻れない。ここで途方に暮れてても仕方ないから、今はやれることをやっておこうぜ」
「リューゴは……落ち着いてるのね」
ためらいがちな間を挟んで、震える声で少女騎士が言う。
「どうしてそんなに平然としていられるの? ずっと帰りたかった故郷に……自分の家に帰ってこられたから? もう任務のことなんて……レインディールのことなんて、どうでもよくなっちゃったの?」
「いや、そういうんじゃないけど……」
「っ、……あ、その。ごめんなさい……」
責める口調になっていたのを自覚してか、消え入りそうな声で謝罪の言葉を述べる。それきり、バツが悪そうに口をつぐんでしまった。
「……正直俺も、まだ混乱してるよ。あんまりにもイキナリすぎてさ。あの世界に迷い込んだ当初は、確かにずっと帰りたいと思ってたけど……今は、何て言ってみようもないな。とにかく俺が落ち着いて見えるなら、それは……二回目だから、かもな」
「二回目……?」
「ああ。最初は、地球からグリムクロウズに。そして今度は、グリムクロウズから地球に。さっきあの公園に出てきた時はビックリしすぎて漏れそうになったけど、この急な『転移』……体験としては二回目だ。頭のどっかで、『またか』って思ってるのかもな」
他人事みたいな弁になってしまったが、偽らず気持ちを伝えた。
「でさ、これは俺の師匠の言葉なんだけど」
『理解できない状況に陥ったとき、無理に脱しようとするよりも、まず何ができるのかを考えよ』
「焦ったり混乱したりしたまま何かやったって、上手くいきゃしねーからな。まずは無理にでも心を落ち着かせて、そっからやれることを考えようって。俺が最初グリムクロウズに迷い込んだ時も、この言葉を思い出して……まずはミネットから色々と話聞いたりしてさ」
今や懐かしく感じる、あの素朴な笑顔を思い出す。もう二度と見られない、彼女の顔を。
「そんでベル子に出会って、本当に色々と助けられて。それからずっと、助けられっぱなしで。お前に出会わなかったら、俺はあっさり野垂れ死んでたと思う」
続く言葉に、本音の限りを乗せる。
「今、この世界に迷い込んじまったベル子の不安な気持ちは、痛いほどよく分かるから。だから今度は、俺がベル子の助けになろう、って。少しでも不安和らげて、これからのこと考えられるようにさ。俺が焦ってテンパりまくってたら、ベル子も落ち着けねーだろうし」
そう言い切れば、少女騎士の瞳にうっすらと涙が浮かび始めた。
「ま、待った。泣くのなし、泣くのなしな」
「なっ、泣いてないもんっ」
ぐしぐしと目元を拭ったベルグレッテが、涙声で言い連ねる。
「……ごめんなさい。私、神詠術が発現しないとか、早く戻りたいとか、自分のことばっかりで……」
「いやいや。むしろお前っていっつも人のこと気にかけてばっかだから、たまには自分のこと考えた方がいいぐらいだぞ」
流護は脚を組み直し、鼻息荒く天井を仰ぐ。
「まず……ちょっと色々まとめてみるか。向こうのことは正直、俺らが今考えても仕方ねえ。任務的にも、俺とベル子が抜けたからって今更影響があるようなもんでもないしな。目的の結晶化した魂心力は見つかったんだし、あとは採掘して帰るだけ。連絡できないけど、俺らはこうして無事。とりあえず……」
ベルグレッテは先ほどまでと違い、落ち着いた顔で言葉の続きを待つ。
「気になるのは、やっぱあの緑の渦だな。ありゃ一体、何だってんだ……? 原初の溟渤に発生するのか? それとも、あの城だけにあるもんなのか……? あれが『転移』の原因になったのは間違いないと思うんだが。ロック博士もあれ見てすげー驚いてたし、あの人ですら想定してなかったモノなんだろうな」
他の誰かが落ちたりしないか。仮に落ちたなら、流護たちのようにこの世界の……すぐ近所の、あの公園へ導かれるのか。だとするなら、
(ロック博士……)
あの時。もし仮に博士が一緒に落ちていれば――この世界へ戻りたいと十四年間も望み続けていた男の夢は、成就されていたことになる。
(皮肉っつーか……正直諦めてた俺の方が、こんなあっさり戻ってきちまった……)
そんな感慨はひとまず置いておき、転移とあの公園の関係について考える。
少なくともあの公園については子供の頃からよく知っているが、特に奇妙な曰くなどない。ファンタジー的な格好をした外国人がどこからともなく現れた、などという逸話ももちろんない。公園に転移されたことについては、必然なのか偶然なのか分かりかねるといわざるを得ない。
「そういやベル子……あっから落ちそうになったとき、神詠術が出ないって言ってたよな」
あれがただの穴だったなら、術の噴射力を利用して這い上がる程度は充分可能だった。しかしベルグレッテによれば、術が全く発動しなかったという。
「ええ……、……」
頷いた少女騎士は、そこで何やら考える素振りを見せる。
「お、何か気がついたことでもあったか?」
「あっ、ううん。たいしたことじゃないんだけど……この世界で神詠術が発現しないことと、なにか関係あるのかなって思って……」
「いや、うーん……」
あの緑の地下と地球。ともに神の奇跡が顕れない場所ということか。
流護としては、特にそれ意外の共通項は見出せない。
「あの落ちそうになった時、全然何も出なかったのか? さっきみたいに、少しだけ水が出たとか」
「うー、あのときは動転してたから、そこまでは……」
「そりゃそうか……」
うーんと唸り、別の説を唱えてみる。
「封印術が施された部屋って、通信が届かなかったり術が使えなかったりするんだよな? あの場所も、天然のそういう空間になってたとか?」
かつてミアが誘拐されたとき、彼女はそうした一室に閉じ込められていたのだと聞いている。
「ううん。封印が施術された部屋の場合、神詠術が全く発現しないわけじゃないの。ただ、術が弾かれてしまうだけで。あの場所は、本当に……さっきみたいな感じだった気がしたから……」
「なるほど。そういう違いがあるのか」
黙り込めば、今度はベルグレッテが明るい声を響かせた。
「それこそ、今ここで考えても仕方ないかもしれないわね」
けれど、空元気が丸分かりの顔で。きっと少しでも、流護に心配をかけたくなくて。
「大丈夫だ」
流護は流護で悟った風に、重々しく言い切る。
「必ずグリムクロウズに……レインディールに帰れる。実際に俺はこうして、あっちとこっちを往復したんだしな。行き来できるのが実証されてんだから、絶対に大丈夫」
「……うん。ありがとう、リューゴ」
その笑顔を見て、日本人の少年の胸はチクリと痛んだ。
当然、あの世界に再び戻れる保証など、どこにもなかったから。
「説明は以上だ。大丈夫か? やれそうか?」
「ん。やってみる……!」
鼻息荒く頷いたベルグレッテに対し、流護は「よく言った」と親指を立ててみせた。
さて、何事かといえば。
ファンタジー世界の令嬢に、有海家の風呂の使い方をレクチャーしていたのである。
とはいえ、別段難しいことなどない。バスタブにはすでに適温の湯が張られており、追い焚きは不要。ベルグレッテが何か操作しなければならないようなことはない。
少し異なるのはシャワーの使い方程度だが、これも結局はレバーを捻ればいいだけだ。聡明なベルグレッテならば、問題のないミッションだと流護は信じている。
着ている衣服に関しては、脱衣所に鎮座しているドラム式洗濯機のことを軽く説明し、その中に放り込んでおくよう伝えた。さすがにレザーマントや皮鎧は無理と思われるので、これらは後日別の方法を考える。
……が、そこは年頃の少年少女。
洗濯物を見られたくないらしいベルグレッテは自分で手洗いすると主張したが、そもそも有海家にはたらいがない。仮にあったとしても、許可する訳にはいかないのだ。風呂場は狭く、たらいを使うなら庭しかない。……が、誰もいないはずの有海家の庭で、見知らぬ外国人の美少女が手洗いの洗濯に励んでいる――などという光景を近所の人間に見られようものなら、間違いなく面倒なことになってしまう。
中身を見なくてもボタン操作のみで洗濯が可能。そんな文明の利器たるドラム式洗濯機の素晴らしさを懇切丁寧に説き、何とか納得してもらうことができた。
そして、忘れてはならないことがもう一つ。
「あとは着替えだな。まともな服がなくて悪いんだけど……とりあえず、風呂上がりはこれ着といてくれ」
「ええ、ありがとう。…………これは……?」
当然知らないだろう衣服を渡され、薄氷色の瞳が不思議そうに見開かれる。
「学校指定の俺のジャージだ。学院にも運動用の服とかあるだろ、あれと同じだな。ちなみに一回も着てない新品だから汚くないぞ」
「えっ、一回も? でも……いいの?」
「同じのが何着もあるんだよ。どーせ使い切れないし、遠慮しないで着てくれ」
「そう、なんだ。……わ、手触りがいいわね……」
緑色のジャージ、というファンタジー世界のお嬢様にはあまりにも似つかわしくない代物を手に取りながら、彼女はふむふむと頷いた。
十年以上もの間、男だけの二人暮らしだった家である。彼女に着せられそうな服が他になかったのだ。
「こんなとこかな……。そんじゃ、あとはゆっくり風呂に入ってくれ」
「あ、ま、待って!」
脱衣所を出ようとした流護の背中へ、ベルグレッテの慌てた声がかかる。
「どした?」
「えっと、その……」
「他に分からんこととかあったか? 気になることがあれば訊いてくれ」
「…………んと……」
らしくないほどに悪い歯切れは、迷いの表れだろう。そんなに頼みづらいことでもあるのだろうか――
「……その…………ここで、待っててほしいな、って……」
…………。
「……」
「……」
「え? なんつったん?」
「う、な、なんでもな」
「ここで? ベル子が風呂入ってる間、この脱衣所で待ってろってことか……!?」
「き、聞こえてるんじゃない、もうっ!」
恥ずかしそうに顔を赤くする少女の姿は、それだけで夜のお供になりそうだ――とドギマギする流護だったが、気にすべきはそこではない。
この場で、入浴中のベルグレッテを待つ。それはつまり。風呂場の曇りガラスを隔てた向こう側に、一糸纏わぬ姿の彼女がいるという状況が生まれることに他ならず――
「い、いやあの……あれだ、このガラス越しでも、人のシルエットぐらいは見えちゃうぞ。逆に言や、それぐらいしか分からんけど……そんでもまあ、その……」
「う、うん。そうよね。へっ、変なこと言ってごめんなさい。それじゃ――」
「ちょ、ちょい待ち」
先ほどのベルグレッテのように、今度は流護が待ったをかけた。
「えーと、何でそんなことを……?」
当然ながら流護が抱く疑問に対し、少女はきゅっと口元を引き結ぶ。わずかな逡巡を経てか、観念したように口を開いた。
「やっぱりその、お風呂の使い方も不安だし……それに……、一人になるのも、少し……心細いかな、って……」
「…………」
下心で満ちそうになった少年の心に、すっと納得の気持ちが下りた。
ベルグレッテにしてみれば、まさにここは右も左も分からない『異世界』なのだ。そんな場所で言葉通りの裸となって一人取り残されるのは、何とも心許ないことに違いない。
「よし、分かった」
流護はカゴ置き用の小さな椅子にどっかと腰を下ろした。
「俺はここにいる。ここでなら、風呂のドア挟んで話もできるしさ」
「……、ん、ありがとう。……その、ごめんなさい、わがまま言って……」
「いやいや、もっとわがまま言ってくれていいぞ。普段のベル子が、一人で何でもやっちゃいすぎなんだよ。俺も、こうして頼られるのは嬉しいもんだしな」
にっと笑えば、少女は申し訳なさそうにまた、ありがとうと口にした。
「……」
「……」
妙な沈黙が舞い降りる。
「ん、何だこの間は。もう入ってもらっていいぞ。是非とも、冷めないうちに入りたまえ」
「……その、服を脱ぎたいんだけど……」
そう言われてようやく、流護は「あ、わ、悪い!」と腰を浮かした。
「え、えっと、脱いだものはさっき言った通り、全部この洗濯機の中に入れといてくれ。んじゃ一旦外出てるから、準備終わったら呼んでくれな」
早口でまくし立て、少年は脱衣所から一時退散した。




