311. 神のいない世界
庭に放置されている大きな植木鉢をどかし、そこに隠してあった鍵を拾い上げる。
これらがあるということは、やはり間違いなく自分の家だ。流護不在のうちに、別の誰かの家になっているという可能性も消えた。
玄関へ戻って鍵を回し、がたつく戸を静かに引き開ける。
「――――――――」
暗闇に慣れた目に、以前と変わらない玄関の様子が飛び込んできた。
「……やっぱ親父はいねえな。よしベル子、入ってくれ」
「う、うん。お邪魔します……」
まさか、この少女騎士を自宅へ招く日がやってくるとは。
夢にも思わなかったな、と少年は心中で苦笑う。
「よし……、あ」
そんなことを考えながら玄関の電灯スイッチへ手を伸ばしかけ、慌てて引っ込めた。
父はおそらく長期不在なのだ。基本的に、出張の場合は近所にも知らせていく。今この家に電気がついているのを外から誰かが目にしたなら、不審に思うかもしれない。
「……悪い。暗いけど、足元に気を付けて上がってくれ」
ひどく懐かしい我が家の匂いを感じながら、靴を脱ぐ。少し冷たい床板を踏みしめて――
がこっ。がこっ。
後ろに続くベルグレッテのほうから、やたら硬質な音が流護の耳に響いてきた。
「……?」
何事かと振り返ってみれば、
「え、えーっとベル子さん」
「んっ?」
「すまん、言い忘れた。悪いんだけど、靴は入り口で脱いでもらって……」
「えっ……あ、そ、そうなの!?」
互いの足元を見比べてハッとしたベルグレッテは、編み上げブーツを脱ぎに慌てて玄関へと戻る。
「ご、ごめんなさい。レフェのお城みたいな感じかしら」
「ははは、そんな感じかな。いや、言わなかった俺も悪かった。『向こう』だと部屋の入り口で脱ぐもんなぁ」
レインディールでは学生棟や王城、ベルグレッテの屋敷でもそうだったが、基本的に屋内へは靴を履いたままで入る。レフェの王城の二階以上のような、土足禁止となっている場所のほうが稀なのだ。
自分にとっては常識でも、ファンタジー世界の少女騎士には通じない。ベル子の目線に立って考えないとな、と流護は認識を改めた。
「よし、ちょっと待ってくれ」
居間の入り口にベルグレッテを待たせ、暗い室内の窓際に遮光カーテンを引いていく。夜勤に備えた父が昼間眠るためのものだったが、今は目的が異なる。内側の光を外へ漏らさないようにするためだ。家は塀に囲まれているため問題ないはずだが、念には念を。誰に気付かれないとも限らない。完全にシャットアウトできるものでもなかったが、やらないよりは幾分かマシだろう。
下準備を終えてようやく部屋の電気をつければ、ベルグレッテが眩しそうに目を細めた。
「あ、明るいっ」
「はは、確かにそうかもな」
流護自身、久々の蛍光灯。その明るさは、カンテラのそれとは比較にもならない。
「……、」
部屋を見渡すベルグレッテは、珍しく口が半開きになっていた。家具や調度品、目に映るもの全てが自分の知るものとは異なるからに違いない。
「…………マジで、」
戻ってきたんだな、と。思わず、鼻から変な息が漏れた。奇妙な半笑いを浮かべている自覚がある。
正直、まだ半信半疑な部分があった。
実はよくできた幻を見ているだとか、自分の家にそっくりな別世界であるとか。
それぐらい、突拍子もない出来事。
ほんの十数分前は異世界の危険な森の廃墟にいたというのに、今はこうして自宅のリビングに立っているのだから。
「…………、」
柱や天井の染み、そして家の匂い。それらは全て、幼い頃から知っているものに違いなく。
変わらない居間を眺めて、流護は今一度、自宅へ帰還したという事実を強く噛み締めた。
「……おう、適当に座ってくれ」
「う、うん……」
促せば、おずおずとベルグレッテがソファに腰掛けた。流護も対面の席へ身を投げ出す。この座り心地もえらく久しぶりだった。
(にしても、すげー絵ヅラだな……)
ごく平凡な現代日本の居間に、ファンタジー世界の少女騎士がいるという風景。何ともミスマッチな図である。今の流護の格好も同じようなものではあるのだが。
「さて……俺にも訳が分からん状況なんだけど、こっからどうするかな……」
まず、何をどうしたらいいのか。考えるべきことが多すぎて、思考が定まらない。
「今頃、アマンダたちはどうしているかしら……」
グリムクロウズ基準の思考を持つベルグレッテが、不安げに呟く。
単純な時間として考えたなら、あの穴に落ちてから二十分も経っていない。目撃したロック博士やオズーロイからすれば、流護たちは緑の奔流渦巻く大穴へ転落していったという認識になるはず。その結果、まさか現代日本への――故郷への帰還を果たしているなど、さすがの岩波輝ですら予想だにしていないだろう。
「みんな……捜してるだろな」
少なくとも、アマンダや皆に情報が伝わっている頃か。
「えっと……その、簡単には戻れない、のよね?」
久方ぶりに家へ帰ることができた流護に配慮してか、ベルグレッテの言は少し遠慮がちだった。
「はは、そんな気を使わんでもいいぞ。俺も帰ってきたくて帰ってきた訳じゃねーし、正直まだ現実味がねえって言うか……」
おかしな話だ、と頭のどこかで声がした。
グリムクロウズへ迷い込んでしばらくは、こうして帰ってくることこそが目的だったというのに。
今しがた話した通り、唐突すぎて実感が湧かないのだろう。何かを封じ込めるように、流護は自身へそう言い聞かせた。
「まあ、そうだな……しばらくは戻れねえ、かも……」
しばらく、どころではない。
本来、異世界への転移という現象こそが異常なのだ。『向こう』に再び渡れる保証などどこにもない。
「あ!」
そこでベルグレッテの表情がぱっと明るくなる。
「せめて、私たちが無事だってことを伝えられれば……!」
そして彼女は、その白く細い指で宙を優雅になぞった。
「!」
流護も意図を察する。
それは――通信の神詠術。
しかし、
「あ、れ……術が……発動しない……!?」
やっぱりか、と流護は胸中で納得した。
「無理だと思うぞ。大体あの場所は霊場だったんだし、外から通信は届かないんじゃね?」
「あ……」
術を扱えない少年でも気付くほどの、単純な見落とし。ベルグレッテの動揺が表れている行動だった。
「それに、距離的にも届かないぞ。あの場所とここは、多分とんでもなく離れてる」
「そう、なの? ついさっきまであそこにいたんだし、そこまで遠くはないのかな、なんて思ってたんだけど……」
この世界へやってきたのは一瞬の出来事といえる。転移現象について知らない彼女がそう思うのも無理はない。
得体の知れない場所へ迷い込んでしまって、それでも帰ろうと思えば帰れるのでは、と考えたくなる気持ちも流護には理解できる。しかし――
「……そうだベル子。他の術は使えるか?」
「えっ?」
少女騎士はきょとんとなった。何を言い出すのか、といった内心が如実に顔へ表れている。
「ちょっといつもみたいに、水を出してみてくれ」
「いいけど……」
渋々といった表情で、彼女は意識を集中し始めた。
やや不服そうなのも当然のこと。神詠術の行使とは、手足を動かすことと同義。程度の差こそあれ誰にでも扱える、神に授けられし力。よほど取り乱して集中を欠いているといった状態でもない限り、発動しないはずがない。例えば先ほどあの大穴に落ちかけていたときは、逼迫した状況だったからこそ詠唱が上手くいかなかったという可能性もある。
しかし、今は違う。腰を落ち着けていて、術の発動に失敗などするはずがない。
「癒しの水よ。我が意に応え、その姿をここに現したまえ――」
そう。グリムクロウズという世界において、ならば。
「あっ!?」
悲鳴に近い叫びだった。
詠術士の喚び声に呼応して現れたのは、小さなコップ半分にも満たないわずかな飛沫。それも虚空に出現したと思った瞬間、少女の意思に従うことなく滴り落ちる。
わずかに目前のテーブルや絨毯に雫を垂らして――それで、終わり。
「えっ……? そんな、うそ……、どう、して…………」
「やっぱりか……」
「どういう、こと……?」
流護を見るベルグレッテの瞳には、未知に対する恐れの色が浮かんでいた。
詠術士たる彼女にしてみれば、何の制約もないはずの状況で神詠術が思い通りに発現しなかったことなど、きっと生まれて初めての経験に違いない。
「前に言った通り……俺らの世界には、魂心力とか神詠術が存在してないんだ。多分今の水も、ベル子の中にある魂心力に反応して出てきただけなんだと思う。だからこの世界じゃ、神詠術は使えない」
流護としては、全く何も起こらないのでは、とすら考えていた。わずかな水が現れたのは、まさに今語った通りなのだろうと予想する。
先の通信の神詠術も同じ。霊場や距離の問題以前に、術が発動していないのだ。
「そん、な……」
納得する流護に反して、ベルグレッテの顔がみるみる青ざめていく。
(あ、やべ……!)
半ば興味本位からの提案と確認だったが、少年は己の迂闊さに舌を打った。
神詠術は神の恵み。異世界の住人たる彼女らの誇りであり、心の拠りどころ。それが発動しなかったとなれば、神に見捨てられてしまったのでは――と勘違いしてもおかしくない。
「だ、大丈夫だって。ここは……ほら、遠すぎて創造神でも管轄外、みたいな場所だからな。周りに魂心力がないんだから、使えなくて当たり前なんだよ。グリムクロウズに戻れば、またちゃんと使えるようになる」
「で、でも……」
「誓う。絶対、大丈夫だって」
無論、根拠などあろうはずもない。
ただ泣きそうな彼女をなだめたくて、流護は必死に言い繕った。




