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終天の異世界と拳撃の騎士  作者: ふるろうた
9. 英雄譚の裏側で
310/674

310. 予期せぬ帰還

 日本全国、四十七ある都道府県のうちの一つ。とある県の、とある山沿いにある田舎町。閑静な夜の住宅地、その片隅に位置する小さな公園にて。


「ベル子、俺の頬をつねってみてくれ」


 極めて月並みではあったが、有海流護はこの上なく真剣な面持ちで、ベルグレッテ・フィズ・ガーティルードにそう頼み込んだ。


「えっ? ど、どうしたの、いきなり……」

「頼む。思いっきり」


 そう要求する表情があまりに切羽詰まっていたか、


「えー……、じゃ、じゃあ」


 ベルグレッテは遠慮がちにその白く細い指を伸ばし、流護の頬肉を少しだけ摘む。きゅっと捻りが加えられれば、確かな痛みが少年の顔を伝った。

 思いきりと頼んだにもかかわらず控えめな力加減だったのは、彼女が持つ深い慈愛ゆえか、奇妙な頼みごとを不審に思ったゆえか。


「こ、これでよかったの? 痛いでしょ? 大丈夫?」

「……ああ。サンキュな」


 一陣の冷たい夜風が、そんな二人を強かに吹きつけていく。近場の畑の匂いが鼻孔をくすぐり、つねられた頬が寒さにジンと疼いた。

 眼前に広がる景色は、何度見返しても間違いない。現代日本の――ひどく見慣れた、けれど懐かしい、見覚えのある公園や団地。暗くて気付くのが遅れたが、すぐ脇には、薄汚れたコンクリートの壁がそびえている。二人がいるここは、公共トイレの裏側だった。


「それにしても、ここは一体……、建物、よね? あれ……」


 異世界の少女は、さも不思議そうにフェンスの向こう側にある夜の街並みを見渡している。


「………………、」


 ――何が何だか、訳が分からない。

でも、夢じゃない。どこぞの学院長の幻覚でもない。俺たちは、確かに――日本の、しかも地元の街にいる。


 流護は、ようやくにその現実を噛み締める。


「……ベル子。ちょっと聞いてくれ」


 わずかながら平静を取り戻した少年は、意を決してベルグレッテに語り始めた。






「ここが、リューゴの世界……? しかも、リューゴの家の近く……? でも、そんな……どういう、こと……?」


 グリムクロウズという世界の常識で考えたなら、あまりに突拍子のなさすぎる出来事。そんな話題であっても比較的理解を示すことの多かったベルグレッテだが、今回ばかりはさすがに疑念を隠せないようだった。


「リューゴの世界は……地下の奥深くにあった、ってこと?」


 少女騎士は目を白黒させながら、星だけが瞬く夜空を見上げる。

 今夜は新月なのか、イシュ・マーニ――もとい、月の姿はない。そこに『小さな月』でも浮かんでいれば、彼女も分かりやすく驚いたことだろう。


「私たちは……ずっと上のほうから、落ちてきた……わよ、ね?」

「いや、多分……そういうことじゃないんだけど」


 グリムクロウズという、剣と魔法飛び交う華やかで過酷な異世界。殊更に危険な禁足地とされる原初の溟渤、その最奥に佇んでいた怪しげな古城。そんな場所の地下で発見した、緑色の凄まじい気流渦巻く大穴。そこへ飲み込まれて、気がついたらここにいた――という経緯。

 ベルグレッテが勘違いしてしまうのも無理からぬことか。


「俺さ……前に、気がついたらいきなりグリムクロウズにいた、って言っただろ? だから……」

「……、それと……同じことが起きた……? 今度は私たちの世界から、リューゴの世界に『いきなり』……?」

「さすがベル子、察しが良くて助かる。実際はどうだか分からんけど、これはもう……」


 そうとしか、考えられない。


「しかも今回の場合は、あの怪しい緑の変な光が――」


 言いかけた瞬間、流護の耳に聞き覚えある懐かしい低音が届く。唸りを上げながら次第に近づいてくるそれは、


「ベル子、伏せてくれ」

「わっ」


 少女騎士の頭に手を置きながら、流護自身も屈む。

 二人が潜んだ植え込みのすぐ近く。フェンスの向こう側に広がる道路を通り過ぎていくのは、古そうなエンジン音を轟かせる一台の軽トラックだった。闇夜に浮かぶ赤いテールランプが、みるみる遠ざかっていく。


「なに、あれ……!?」

「自動車っていうんだよ。馬を使わずに走れる、馬車みてえなもんかな……」

「……、」


 そう言われて理解できるものでもないだろう。少女騎士は、車が消えていった闇の向こうを信じられないような眼差しで見つめている。

 彼女の困惑も察してあまりあるところだが、流護は流護で頭が追いついていかない。


(……とにかくまずは落ち着け……! 俺は……確かに、戻ってきた。しかも、ベル子と一緒に。ここからどうする? どうしたらいい……? ……、)


 自分の服装を見下ろす。

 夜の公園に佇む、現代日本ではありえない格好をした少年少女。不審なことこの上ないはずだ。ゲームやアニメのようなサブカルチャーがそれなりに認知されつつある昨今、もしかすればコスプレということでごまかせるかもしれないが、時と場所を考えたならやはり怪しすぎる。通報されても文句はいえないレベルだ。何はともあれ今、誰かに見つかることだけは避けたい。


「……とりあえず、まずはここから移動した方がいいな」

「ど、どうするの?」


 不安げな少女騎士に問われ、流護はしばし逡巡する。が、行き先など最初から一つしかない。


「……行こう。俺の家に」






 公園の時計を信じるならば、時刻は夜の九時半を少し回ったところ。

 都会の喧騒とは無縁なこの住宅街、この時間帯となれば、人通りなど皆無に等しい。長い遊歩道を抜けた二人は、周囲に誰もいないことを確認して、そそくさと公園を後にする。


「…………」


 公園を囲む塀――出入り口の部分を振り返ると、『笹鶴ささづる公園』とのプレートが目に留まった。

 やはり間違いない。流護が住んでいた団地にある公園だった。


「それにしても、公園の道もそうだったけど……、ここは、それ以上に平坦ね」


 アスファルトの道路に出るなり、ベルグレッテが足元を確かめながら驚く。


「はは。あっちの街道とか石畳とは全然違うよな。でも、ベル子の屋敷の舗道とかもこんな感じだったろ?」

「でも、これほどは……、うん、すごい、すべすべ」


 そんな異世界の少女を微笑ましく思いつつ、流護もここで思いついたことを試してみる。即ち、


「? どうしたの、リューゴ」


 軽くステップを踏みながら二、三回と拳を突き出している流護を見て、ベルグレッテが訝しげな顔をする。


「……いや」


 つまり、この世界とあの異世界でどれほど身体性能に差が出るのか。

 懐かしい重さを感じる。少なくとも、グリムクロウズと同じように動くことはできないはずだ。体格差の大きい相手を一撃で仕留めることも、一瞬で間を詰めることも、馬と同じ速さで走ることも。試すまでもなく無理だと、身体が理解している感覚がある。


(これが当たり前……なんだよな。っつーか)


 双方の世界の重力差は気になるといえば気になるが、やはりそれがあの異常な身体性能の原因になっているとは考えづらい。


(ってことは、やっぱグリムクロウズ独自の何かが関係してる……)


 かの異世界独自のもの。真っ先に思いつくのはやはり、


魂心力プラルナ……か)


 神の恩恵。フシギなチカラ。魔法的な能力、神詠術オラクルを使ううえで必要不可欠なもの。つい先ほどまで、自分たちが掘り起こそうとしていた未知のエネルギー。

 あれこれ考えていると、一本向こう側の道路を走り抜ける車が見えた。とにかく今は急ごう、とベルグレッテを促し、二人で歩き出す。

 マントで身体を覆えばファンタジー的な装いはごまかせないこともなさそうだが、それはそれで怪しさが倍増する。誰にも見つからないに越したことはない。


「…………」


 ひっそりと静まり返った夜の住宅地。ぽつぽつと点在する街灯や、家々から漏れる明かり。ほんのつい先ほどまでいた異世界の危険な森とは、あまりにもかけ離れた情景……。

 幸いにして、外に人の気配は感じられなかった。

 半年前に流護が行方不明となったことで、夜間の外出を控えるよう通達が出ているのかもしれない。一人の高校生が忽然と消えた出来事は、この小さな田舎町にしてみれば充分に大きな事件となったはずだ。


(……、)


 流護は歩きながら、すぐ脇のブロック塀を指でなぞる。ざらついた石の感触。子供の頃、自転車でバランスを崩してこの壁に激突したことがあった。空手を習っているという自負もあり、泣かずに痛みを堪えて、懸命に痩せ我慢した。


(ここは、高橋さん家だ)


 そんな塀に囲われた、何の変哲もない(失礼)二階建ての一軒家。

 小学生の頃。公園で蹴っ飛ばしたサッカーボールが思ったより飛んで、窓ガラスに当たってしまい怒られたこともあった。

 今は明かりがついており、中からはテレビのものと思われる音声がかすかに漏れている。


「わ……」


 そんな家の前を通り過ぎようとしたところで、ベルグレッテが感嘆の吐息を漏らす。その薄氷色アイスブルーの美しい瞳は、高橋家の一戸建てをまじまじと見つめていた。


「……、これは、家、よね? なんだか、なんていうのかしら……不思議な感じ……」

「はは、そうだろうな」


 彼女の目には、さぞかし異様な外見に映るだろう。

 流護はグリムクロウズの――レインディールの街並みを見て『中世風』となぞらえたが、ベルグレッテは他の世界の存在を知らない。他に例えてみようもない、極めて不可思議な風景に見えるのではなかろうか。


「でも……レフェの建物に少し近いかしら。屋根の形とか……」

「ああ、それはあるかもな」


 あの国が昔の日本に似ていることを考えれば、そう考えられないこともないだろう。なだらかな瓦屋根など、共通項は少なくない。


「……、」


 周囲に気を配りつつ、慎重に夜道を歩く。幸いにして誰かとすれ違うことはないものの、テレビの音、家族団欒の声が漏れている家も少なくない。

 ……やはり、夢や幻覚ではない。間違いなく、戻ってきた……。

 そうしてやがて、このままいけばあとわずかで自宅にたどり着ける――というところまでやってきた。


「リューゴ、どうしたの? さっきから、そんなにキョロキョロして……」

「……人目につきたくないんだ」

「……どうして? 久しぶりに故郷に戻ってきたのよね? 街の人たちに、無事で帰ってきたことを知らせてあげれば……」

「……いきなりいなくなってそのままだったからな。騒がれるのも面倒だし……今はとりあえず腰を落ち着けたいっつーか」


 長らく行方不明だったうえにこの格好。そして一緒にいる異国感丸出しの少女。人に見られたら間違いなく厄介なことになる。


(……ま、問題はそんなことよりも……)


 その先の思考をひとまず放棄し、黙々と進む。肌寒さや田舎ゆえの幸運か、人や車と遭遇することなく見知った道を歩き続け、やがて――


「………………、」


 今にも潰れそうな木造の一戸建ての前へと、たどり着いた。


「ここが……リューゴの……?」

「ああ……。ボロッボロで恥ずかしい限りだけど……」


 ――半年ぶりに戻ってきた。自分の生まれ育った、十五年間過ごしてきた、この家に。


 あの夜が。ここを出て、思いもよらぬ異世界へと迷い込んだあの夜が、ひどく遠い昔の出来事に思える。

 こうして帰ってくることなど、もう二度とないと思っていた……。

 言いようのない感慨にとらわれながら自宅を眺めていると、ベルグレッテがやや声を潜めながら尋ねてくる。


「リューゴは……お父さまと二人で暮らしていたのよね? 明かりがついてないみたいだけど……もうお休みかしら」

「いや……」


 そしてここで、幸いというべきか――懸念が一つ消えた。

 ベルグレッテの言う通り、家には明かりがついていない。まだ時刻は夜の九時半過ぎ。父親は早々と床に就いたのではなく、家にいないのだ。流護の父は、仕事の都合で一ヶ月や二ヶ月ほど帰ってこないことも珍しくない。今はまたどこかへ出張でもしているのだろう。

 ここで仮に父親がいたなら、何をどう説明したものかと頭を悩ませていたところだったのだ。ベルグレッテにもその旨を軽く説明し、塀の内側へと進んでいく。


「……入ろう」


 声は、流護自身が意外に思うほどに緊張を帯びていた。

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