309. アンドゥーイング
城そのものは見る影もなく穴だらけとなっているため、どこからでも入ることが可能だった。
ひとまず、内部にも怨魔などの気配はなさそうである――が、とにかく広々として大きい。固まって動いていては、どれだけの時間が必要になるかも分からない。
そこで現五十一名からなる兵団は、三つの班に分けられた。
上層階、中層部、下層部をそれぞれ同時に探索し、効率的に調査を進めるためである。
上層を担当するのは、風属性など身軽に動くための術を得意とする者たちで構成される十四名。足場が崩れ落ちる危険性を考慮し、もしもの場合の転落を防ぐことができる面々となっている。指揮はオルエッタが執り、『銀黎部隊』のテッドと、理系な女性研究員シャロムもここに配置されることとなった。
中層は、落下物と足場に注意を払うことになる十七名。その懸念のどちらにも対応できる均整の取れた面々で組織され、ダーミーとリサーリットもここへ。リーダーはアマンダが務める。上や下で問題が発生した場合、彼女が即座にどちらへも向かえるよう、との意図もあった。
下層は、天井から落ちてくるものや生き埋めに気をつけなければならない。ここは、最多人数となる二十名が配置された。この下層部分が一番広いゆえの人員配分だ。
流護とベルグレッテ、また自ら志願した凄腕の若手オズーロイが含まれた。指揮を任されたのはロック博士。戦闘要員でないうえに体力面でも不安が残るが、最も広大な範囲で有用な何かを発見するとなれば、この人物の観察眼は欠かせない。
二時間後に外の広場で再集合と取り決め、馬車の番を任された兵士三名以外の全員が、廃城内部へと足を踏み入れていった。
「……こいつは凄いな。まるで海だ……」
三階部分の崩落した壁際から外を眺めた兵士の一人が、感嘆の溜息と共にそう零す。眼下は揺らめく青い霧によって満遍なく覆われており、地上は影も形も見ることができない。
「へえ。海ってのは、こんな感じなのかい」
別の一人が興味深そうな口調で応じる。
「ああいや、全く別物ではあるんだが……青く広々として、底の見えない感じが何だか似ていると思ってな」
レインディールは地続きで四方を他国に囲まれているため、海が存在しない。最も近場でお目にかかれるのは、西の隣国バルクフォルト帝国の北部に広がるディリッツダム海となる。が、そこでさえ王都から馬車で二週間以上の距離。遠征任務などで赴いた経験のある者はともかく、大半のレインディール国民は海を見たことすらないのが普通だった。
「シャロム研究員は海を見たことはあるの?」
周囲の石壁を眺めるオルエッタが退屈げな調子で尋ねれば、
「いいえ、一度も。けれどいつか、自分の足で出向いて調べてみたいと考えて……、…………?」
屈み込んで瓦礫を調べていたシャロムは、不意に言葉を切って沈黙した。眉をひそめながら、慎重な手つきでピンセットに挟んだそれを掲げてみせる。
「あら、それは? 鉱石の欠片か何かかしら?」
そんなオルエッタの言葉通り。
大きさは一センタルにも満たない。透明に近い乳白色をした、小さな石片らしき物体。
確かに周辺の朽ち果てた石材とは毛色が異なるようだが、素人目にはさして異質なものとも映らない。
「……………………、」
しかしシャロムは無言のまま、摘み上げたその欠片を静かに受け皿へと載せた。そして恐る恐るといった様子で、素手の人差し指をその石片に近づけていき――
風が、爆発した。
受け皿が宙を舞い、のけ反ったシャロムの顔からはメガネがすっ飛んだ。
「うおっ!?」
「な、何だ!?」
兵士たちが慌てて身構える中、よろめいたシャロムをオルエッタが咄嗟に支える。テッドも素早く駆け寄った。
「ちょっとちょっと、何事!? 大丈夫!?」
「大丈夫ですか」
騎士両名に肩を抱かれた女性研究員は、小さくその身を震わせていた。
「シャロム研究員、どうしたの一体。震えてるわよ、大丈夫?」
「……けて……、し……いました」
「え?」
勢いよく振り返ったシャロムが、メガネを落としたためか、焦点の合わない瞳でオルエッタやテッドを見上げながら叫ぶ。
「み、みみ、見つけてしまいました! ついに、結晶化した魂心力を!」
「これが……、確かなのか?」
二階の奥まった一室に、訝しげなアマンダの問いが響く。
「ええ」
神妙な面持ちで頷くのは、ひげ面の中年研究者。
彼らの眼前――部屋の壁一面には、乳白色の岩盤が鉱脈さながらにびっしりと広がっていた。
この場には他に兵士や研究員ら総勢四名がいたが、皆いずれもその白い岩場からは距離を取り、やや遠巻きに佇んでいる。
ひげ面の研究者は分厚い手袋を装着すると、足元に転がっている白色の欠片の一つを慎重に拾い上げた。
「先程……水属性を扱う私が素手で触れたところ、溶け落ちて水たまりを作りました。炎属性を持つ別の研究員が触れた際には、火種のように燃え上がったのを確認しております」
内心の興奮を抑えるように、研究者はやや熱の篭もった声で続ける。
「私の服は水に濡れず、件の研究員が火傷を負うこともありませんでした。つまり、間違いなく……石に触れた折に起こった現象は、各々が扱う神詠術の発現……『そのもの』であると考えられます」
触っただけで属性が――術が発動する石。
魂心力に対し高い感応性を示す金属といったものも存在するが、触れただけでこのような現象を起こす物体など、過去を振り返ってみても例がない。
(これが……)
アルディア王が、自分たちが探し求めていたもの。
目に見え、触れられる形――結晶となって存在している、高純度の魂心力。
「……触ってみても?」
「どうぞ」
アマンダは手袋を借り、左手にのみ装着する。その手で小石を受け取って握り込み、素手の右手をゆっくりと近づけていく。指先が欠片の表面に触れた瞬間、
「!」
ぱん、と涼やかな冷風が巻き起こった。
石は弾け飛ぶ形で消滅し、代わりに細かな薄氷がパラパラと舞い落ちる。
「……、なんと……」
初めて見る現象に、アマンダは目を疑わずにいられなかった。
確かに簡素な術であれば詠唱を必要とせず、すぐさま発動させることも可能だが、今起きた出来事は前提が違う。自分の意思とは無関係に、自分の魂心力を消費することなく術が現界したのだ。それは例えるなら、意図せず手足が勝手に動いてしまったかのような不可解さに近しい。この凝縮された塊のみで、術を扱うために消費される魂心力が賄われている。
(……リーフィアは常々、こんな感覚を味わってるのかしらね)
己の意思とは関係なく神詠術が発動してしまう――という未熟な『ペンタ』の少女を思い起こし、女騎士は不思議な共感を胸に抱いた。
「アマンダ様。ついに……ついに、我々は……っ」
押し殺した研究者の声は、感極まり震えていた。釣られるように、周囲の職員たちも鼻をすする。
無理もない。これは、世紀の大発見となる。間違いなく、後世まで語り継がれる偉業となる。
ひげの研究員は目元を拭いながら、ぎこちない笑顔をアマンダへと向けた。
「……失敬、お見苦しいところをお見せ致しました。我々一同、既に盤石の準備は整っております。さあ、ご指示を」
何の指示か、考えるまでもない。
この乳白色の塊を回収、持ち帰る。
そのために自分たちは、危険を冒してここまでやってきたのだ。
が、
(本当に……見つかって、しまったのか)
アマンダの頭の片隅で、魔が差したようにそんな声が木霊した。
本当に、何の根拠もなく。
高濃度の魂心力、などというものが見つかることはなくて。王都へ戻り、報告を聞いたアルディア王が、「やっぱりダメだったかぁ、がははは」と頭を掻いて豪快に笑う。
それで、この話は終わるのではないか。
アマンダの中には、そんな根拠のない思いがあったのだ。
(……やれやれ。それこそ、未知の領域を恐れてる、ってことなんでしょうね)
この発見で、世界が変わる。変革が訪れる。その結果どうなっていくか分からない未来が、恐いのだ。
幾人もの同胞の命が失われているというのに、漠然とした不安が……見つからないほうがいい、などという思いが呪いのようにまとわりついていた。
(……レッシア……)
不意に、先代の遊撃兵の顔を思い起こす。原初の溟渤へ踏み入ることを頑なに拒んでいた、親友の姿を思い浮かべる。
(あんたが抱いてた恐れの根源は、まさにこの思いだったのかしらね……?)
答えの返らぬ問いに自嘲しながら、アマンダは意を決して告げる。
「……よし。我々はついに、目標を発見したと判断する! 慎重に調査、発掘を開始せよ!」
「ビンゴ、ってところかな」
メガネのフレームを押し上げるロック博士の顔は、全て予想通りだといわんばかり。
「うお……これが……!?」
流護は馬鹿みたいに口を半開きにしながら、目の前の光景を眺めていた。
「これが、そうなのか」
「まるで鉱脈のようだが……」
困惑する一行の眼前に広がるのは、天井や壁面、床の全てが乳白色に埋まった通路だった。一見して天然の洞窟かと思えるほど、四方全てが白い岩盤に覆われている。
「まさか……この白い塊が、全部……?」
信じられないといったベルグレッテの呟きに対して、博士は力強い首肯と断言を返した。
「うん。おそらくこれこそが――結晶化した魂心力、だよ」
自信に満ちた口調ではあったものの。流護には、メガネに添えられた博士の指がかすかに震えているように見えた。
遡ること、およそ二十分ほど前。
広すぎるほど広い一階部分。何を探すにしろ気の遠くなりそうな空間で探索を始めようとした下層担当の面々だったが、指揮権を預かったロック博士からは迷いのない指示が飛んだ。
「まず、地下への入り口を探してもらえるかな?」
当然のように言ってのける博士に対し、流護はすぐさま疑問を口にする。
「地下……っすか? いやでも、そもそも地下があるとは限らないんじゃ」
「いや。これだけの規模の城なら、まずあると考えて間違いないよ」
地下牢か、地下貯蔵庫か。あるいは非常時の避難用通路か。その用途は何であれ、レインディールと変わらない規模のこの城であれば、必ず広大な地下空間があるはずだとメガネの研究者は断言した。
そしてその言葉が予言だったかのごとく、探索を始めた兵士らによって下へ続く階段が発見される。
光源は兵らが掲げる松明の揺らめきのみ。神詠術の明かりは使わない。闇に包まれた石段を一つ一つ慎重に下りながら、博士が落ち着いた声を響かせる。
「今頃……上の方では、探し物が発見されているかもしれないね」
その探し物が何であるかなど、今さら問う者はいない。霊場の常として通信の術も通じないため、他の班の状況を知ることはできなかったが、
「まじで? そう、なんすか?」
「うん。ただ、その量はそこまで多くないはず」
流護の隣を歩く博士は、まるで見てきたようにはっきりと頷く。
高濃度の魂心力は、低所に堆積する。その説を前提として、これまで周囲より低くなっている窪地の探索を続けてきた。そして今日、半日近くも緩い傾斜を下り続けて、その末にたどり着いたこの廃城。
「これまで踏破してきた領域と地図を照らし合わせても、ここがルビルトリ山岳地帯で最も大きい『窪地』であることは間違いない」
だからこそ、見つかるはず。
その窪地の、さらに下方。つまり地下ともなれば、そこには――。
階段を下りきった一行の前に現れた白い通路には、鍾乳洞さながらの神秘的な空気が漂っていた。
「か、確認致します……!」
若い研究員の一人が手袋をはめながら進み出て、ノミを使い慎重に岩壁の一部を削り取る。採取したその破片へ、手袋を外した素手を恐る恐る近づけていき――
ぱん、と炎が弾けた。
その代償のように、欠片は跡形もなく消失している。
おおっ、と一行が声を上げる中、若い研究員は重々しく頷く。
「……間違いありません。これこそ、我々が探し求めていた……高純度の魂心力です……!」
どっと、皆が歓声に沸き立った。
「では、アマンダさんに報告を」
「はっ!」
ロック博士の指示を受けた二人の兵士が、意気揚々と階段を駆け上っていく。この場所の――魂心力の発見を知らせるためだ。おそらく上階でも同様のものは見つかるだろうが、まずこの場所の量には及ばない、と博士は判断する。
「後はボクらで、この地下の広さと、堆積している魂心力の量を調査しておきましょうかねえ」
全員が手袋を装着し、露出した素肌を隠す形となった。足元へ気をつけて、慎重に白い通路を歩き始める。
固形化した魂心力に四方を囲まれた空間。誰かが壁などに触っただけで、神詠術が暴発してしまうことになる。下手をすれば、白い塊の全てが連鎖反応を起こすかもしれない。その場合、炎属性の者であれば辺りが火の海と化し、水属性の者であれば洪水が巻き起こってしまう可能性もある。この閉所でそんなことになれば(術者以外の)全滅は必至だ。せっかくここまでたどり着いた以上、そんな最期を迎えることだけは避けたい。
(まあ、俺とかロック博士は触っても大丈夫なんだろうけど……)
かといって、日本人である流護たちも手袋を外すことはできない。結晶に触れて何の術も発現しなかったなら、それはそれで怪しまれてしまう。
「思った以上に広いわね……」
「だな……」
流護はベルグレッテの呟きに同意した。
通路はどこまでも延々と続いており、また白い塊も塗布したように延々とまぶされている。
道はいくつにも枝分かれしており、外敵との遭遇はなさそうとの判断から、兵士や研究者たちが次々と分散していった。
ほどなくして、流護とベルグレッテ、ロック博士、少し離れて後ろを歩く若手兵士オズーロイの四人だけとなっていた。
この入り組んだ様子からして、ここは避難通路だったのかもしれない。
ついに固体となった魂心力を発見できたのはいいが、
「博士、この結晶……かなりの量になると思うんすけど……持って帰れるんすか?」
「持って帰れるのは、ほんの一部だろうね。それも、上手く持ち運べるかどうかは分からない」
まず、掘削作業が困難を極める。
この世界では日常作業においても様々な神詠術が活用されているが、この結晶は術に反応してしまうため、採掘を完全手作業で行わなければならない。それも、素手で触らぬよう慎重に。
そうして手に入れた石も、冷凍保存や防護術――あらゆる方法で厳重に荷造りして運ぶつもりではあるが、保持の確証がない。ここから持ち出した時点で外気に溶けてしまうかもしれないし、防護術に反応して霧散してしまうかもしれない。
これらがこの城へやってくるまで見つかっていないということは、他の環境では固体化しないということ。安易に持ち出せば変質してしまうことだけは確実だった。
「で、でも博士。せっかくここまで来たのに、それじゃあ……」
「いいのさ。何より大きな情報が手に入ったしね」
「情報?」
「固体の魂心力は実在した。その事実が確認できただけでも、充分すぎるほどの収穫なんだよ」
どこか達観したように、白髪の研究者は笑った。
この場を調べ、魂心力が固体となる条件を見極める。その情報を元に試行錯誤していけば、いつかは自らの手で作り出せるようになるかもしれない。
そう、博士は展望を語るように言う。
(……、)
気の遠くなりそうな話だ、と流護は思った。
しかし博士の言う通り、魂心力は固体となることが確認された。研究が進み、自分たちの手で作り出せるようになる日は、そう遠からず訪れるのかもしれない。『神の恵みである不可思議な力』という認識が、いずれは『精製可能な燃料』へと変わっていくのだろうか――
「あら?」
漠然とそんなことを考えていると、隣を歩くベルグレッテの声が届く。
「どした、ベル子」
「こっち……」
少女騎士が松明を向けた先――脇道に、さらに下方へと続く階段が延びている。
「お、まだ下があったのか。博士、どうします?」
「そうだねえ。せっかくここまで来たんだし……ちょっと覗いてみようかな?」
「えーと……オズーロイさんも、大丈夫っすか?」
流護は振り返り、自分たちの他にただ一人ついてきている兵士へと確認を取る。
「……ええ。問題は……ありません」
やや迷ったような歯切れの悪さを感じさせる青年だったが、小さく頷いた。ドボービークをまるで寄せつけない確かな剣腕に加え、廃墟で倒れていたロック博士を介抱した人物である。その心強さは疑うべくもない。
そうして、四人は脇の階段を下り始めた。両側の壁は先へ行くほど狭くなっており、途中から流護、ベルグレッテ、ロック博士、オズーロイの順で縦に並んで進んでいくことになった。
「…………ん?」
ほどなくして、先頭の流護は異変に気付き足を止めた。
「わっ、どうしたのリューゴ」
後続のベルグレッテたちも慌てて急停止する。
「いや……なんか、あの先の方……光ってねえか?」
流護は皆に見えるよう身体を壁際へ寄せ、下方に続く闇を指差した。
「……あ、ほんとだ……」
「む、確かに……何かが光ってるように見えるねえ」
ベルグレッテと博士が同時に目を見張る。
階段の先。闇の中に、淡い緑色の光が見えている。どこか、部屋の照明が漏れ出ているみたいな印象だった。
「あの先に緑に光ってる何かがある、ってことか……? 博士、何だと思います?」
「いや、ちょっと分からないな……」
この第一人者ですらそう答えるならば、何が待ち受けているか予想もつかない。四人はゆっくりと、慎重に階段を下っていき――
現れたその光景に、ただただ言葉を失った。
それまでの狭い通路が嘘のように開放的な部屋だった。
何のために誂えた場所なのか。通常の家屋が四、五軒は丸々と収まるだろう。天井までの高さは十メートルといったところで、流護は何となく学校の体育館を連想した。
やはり老朽化は激しく、石の壁や床も所々崩れており、部屋の中央には直径十メートルもありそうな大穴がぽっかりと開いている。
それはいい。
「な、ん…………だ、これ…………!?」
四人は、呆然となって立ち尽くしていた。
「これは……」
息をのんだオズーロイの声もどこか遠く聞こえる。
それは、緑の嵐。
部屋の中心に穿たれた大穴――その底で、翠緑の光が渦を巻いていた。意思を持ったようにうねる、緑色の気流。大気に蛍光色を塗布したような、眩いばかりの輝き。
その周囲には、あの幾度となく目撃されてきた光の球が無数に浮遊している。
「………………、」
ロック博士ですら、愕然とした表情でその光景を見つめていた。
「……何なんだ、こりゃあ……」
流護は恐る恐る進み、間近で穴の下方を覗き込んでみる。
「――――――――」
言葉が出なかった。
底の見えない、藍碧の蛍光。
まるで海のような、世界の果てのような。どこか、人知の及ばない無限を感じさせる翠緑の螺旋。
「り、流護クン、危ないよ。落っこちないようにね。足場も怪しいから」
「あ……は、はい……」
ここに落ちたらどうなってしまうのかなど、想像もつかない。したくない。
「本当に……なんなの、これ……」
同じくそろそろとした足取りでやってきたベルグレッテも、落ちないよう距離を取りながら穴の底を覗き込む。
「…………」
ただ、不思議なことに。
流護はこの緑の奔流に対し、嫌な気配を感じなかった。こうして、無警戒に近づいてしまうほどに。優しい何かに、誘われるように。
呆然とそんなことを考えていた瞬間だった。
がら、と石の崩れる音が響く。
次いでばきんと重い振動が伝わり、
「――――――」
すぐ隣。目を向けた先。ベルグレッテの身体が、宙に浮いていた。
足場の崩壊により、彼女は緑の海へ転落しようとしていた。彼女の薄氷色の瞳が、翠緑の輝きを照り返しながら驚愕の色に染まる。
「ベル子ッ――――」
滑り込むように駆けた流護が、咄嗟にベルグレッテの手を取った。人ひとりの重さに引っ張られる形で、もろともに穴底へ落下しかける二人だったが、
「……、ぐ!」
流護は右手で少女騎士の手を取り、左手でぎりぎりの岩縁を掴む。
「り、流護クン、ベルちゃん!」
ロック博士の叫びに答える余裕もない。
完全に宙吊りとなったベルグレッテ、繋がる右手と右手、左手一本で二人分の体重を支えてぶら下がる流護。
絵に描いたような、転落寸前の場面。
「リ、リューゴっ……!」
呼ばれて下へ視線を向ければ、腕一本で繋ぎ止められた少女騎士の姿。苦しげに歪む美しい顔。その下方に渦巻く、空恐ろしくなるような翠の世界――
「ベ、ベル子……あれだ、術の逆噴射で飛べねぇか!?」
「そっ……それが、出ないの! 神詠術が、発動しないのっ……!」
「な、に……!?」
今までにない異常事態に愕然とするが、その原因や理由を考えている余裕もない。奈落で輝く緑光に照らし上げられながら、流護は左腕に力を込める。
(強引に……上がれ、ねぇ……ことも、ねえと思うけど……!)
懸念すべきは、自分が今指を引っかけている石畳の強度。
這い上がろうと体重をかけた瞬間、崩れてしまう恐れもある。そうなってしまえば一巻の終わりだ。
「く、な、何とか引き上げないと……!」
「ロックウェーブ博士、危険です。ここは私が」
博士を押し止め、荷物からロープを取り出してきたオズーロイがゆっくりと近づいてくる。
「アリウミ遊撃兵、今からあなたの左腕にこれを巻き付けて引き上げます。腕や肩にかなりの負荷が掛かることになりますが、どうかご容赦を」
「そ、それで構わないんで、お願いしま――」
言い終わる暇はなかった。
引き上げられるか否か、ドラマ的なぎりぎりの状況などというものが訪れることすらなく。流護の掴んでいた石床があっさりと崩れ、
「う、おぉぉわああぁッ――……!」
「あ――」
二人は――流護とベルグレッテは為す術なく、宙へと放り出される。
「く……!」
咄嗟に駆け寄ったオズーロイが手を伸ばすも――届かない。
「――――――……」
怖気を誘う浮遊感と、吸い込まれるような自由落下。
瞬く間に世界が緑一色へと染まっていく中、もはやその色彩以外の何も見えない中、流護はベルグレッテと繋がっている右手を強く握りしめた。
応えるように、彼女が握り返してくる感触が伝わる。
そこにいる。見えずとも、ベルグレッテは確かにそこにいる。
何ということか。
過酷な異世界、いつか戦闘で命を落とすことになるかもしれないと思ったことはあったが、よもや転落死という形で終わるなんて予想できなかった。
最後の最後まで、ベルグレッテと繋がるこの手だけは離さないつもりで――
「…………!」
気付けば、一面の闇が広がっていた。
その中には、無数の小さな煌めきが散りばめられたように瞬いている。
「……、?」
一瞬混乱するも、すぐに把握した。
これは……星空だ。
そして背中には、柔らかな草の感触。
自分は――有海流護は今。草葉の大地に寝転がって、夜空を眺めている。
そう認識した直後、ハッとして右手を確かめれば――
「ベル子!」
すぐ隣に、手を繋いだままで横たわっているベルグレッテの姿があった。成人女性と比較しても大きめな胸は、規則正しく上下している。ケガもなさそうだ。ほっと安堵しつつ、軽く頬を叩いて呼びかける。
「う、……ん……、リューゴ……?」
「おお、無事か? ベル子」
「え、ええ……。リューゴは?」
彼女も困惑気味に身を起こす。
「ああ、俺は大丈夫。何ともねえ」
「……ごめんなさい。私がもっと、気をつけていれば……」
「いや、ベル子のせいじゃねーって。あのボロボロっぷりじゃ、どこが崩れてもおかしくなかったし……。博士とオズーロイさんは……いねえか、やっぱ。俺らみたいに落ちてなきゃいいんだけど」
万事休すとしか言いようのない状況だったはずだが、幸いにして二人とも無事。ケガ一つない。となれば、次は現状確認だ。
あの地下の大穴を落ちたにもかかわらず、上には星の煌めく夜空が広がっている。巨大な月ことイシュ・マーニの姿はない。あの地下は、外に繋がっていたのだろうか。先ほどまでの目に眩しいほどの緑の輝きや、原初の溟渤特有の青い霧も見当たらない。
「どこなんだ? ここ……」
真っ暗で、辺りの様子もよく分からない。が、すぐ脇に木がそびえ立っているようだ。周囲には草薮が生い茂っている。下は土の地面。
周囲の様子からすると、やはり外に放り出されたのか。ともあれ、あの廃城の近くであることは確かなはず。
あと気になる点は、妙に身体が重く感じるぐらいか。痛みはない。落下した割に、どこかへぶつけた訳でもなさそうだが……。
「暗くて分からんな。ちょっと周りを見てみるか」
「ええ……」
「気をつけて行こうぜ。どっから何が出てくるか分からんし」
中腰のまま、眼前の薮を掻き分けて立ち上がった流護は、
「――――――――――は?」
言葉を、失った。
結論からいえば。
流護の目の前に広がっていたのは、公園だった。
等間隔で設置された外灯や木々。遠方に見える池や遊歩道。たった今自分が這い出てきたその場所も、よく見れば整えられた植え込みの一角だった。
ブランコやジャングルジムといった子供向けの遊具が、やや閑散とした空間にひっそりと立ち並んでいる。
そして敷地外周をぐるりと囲む編み目のフェンスと、片隅に設置された野外時計。薄汚れて淡い光を放つそれは、逆L字――つまり九時を指し示していた。
「………………え?」
間違いなく、『公園』だった。
それも、王都やディアレーの街に見られるような、異国情緒溢れる広場という意味のものではなく。
現代日本の――流護が生まれ育った街の、団地にある公園だった。
立ち尽くす。
「……いや…………、……え?」
ああ。そういやグリムクロウズに迷い込んだあの直後も、俺は似たような反応をしてたっけ。
頭のどこかで呑気にそんな声がする。
「………………、」
辺りをどれだけ見渡しても、間違いない。
公園の向こうに見えるアスファルトの道路。それを挟んで整然と並ぶ、懐かしくすら思える日本家屋のシルエット。それら家々から漏れる明かり。
ここは、現代日本。
それも、知っている……生まれ育った自分の街――。
「……俺……、……?」
抜け殻のように立ち尽くす少年の隣へ、
「こ、こは……? どこ……? あれって、建物……よね? しかも、あんなにたくさん……。なにが、どうなってるの……?」
異世界の少女騎士が立つ。
「ベル、子……」
「リ、リューゴ……?」
思わずベルグレッテへ顔を向ければ、彼女もただならぬ雰囲気を感じ取ったのか。眉をひそめて、心配そうに覗き込んでくる。
「俺…………っ、俺、は…………」
隣にはベルグレッテ。
自分の腕を包むは邪竜の小手。身に纏うは異国風の旅装。
しかし目前には、およそ半年ぶりに見る故郷の風景――。
「俺、帰って…………きた、のか……?」
声はただ、どうしようもなく震えていた。
――この日。
有海流護は、二度と帰れないと思っていた故郷へ舞い戻った。
異世界の少女騎士と共に。
第八部 完




