308. 最深部
試練は終わったとばかりに、進みやすいなだらかな傾斜が続く。
一行の周囲に広がるのは、木々も疎らな平原だった。これまでの鬱屈とした森が嘘のように開けており、見通しは極めて良好。
しかし、飽くまでここは原初の溟渤。それを示すかのごとく、例の青い霧が満遍なく立ち込めている。とはいえその霧も視界や進行の妨げになるほどではなく、静謐な空間を彩る要素の一つとして漂っているように思われた。
時は、五日目の夕刻に差しかかってしばし。
薄青く染まる世界が霧によるものなのか宵闇によるものなのか、いまいち判断がつきかねる時間帯。
実働隊の面々は、およそ半日もこの緩い坂道を下っているところだった。
「! あれは……」
そんな中、先頭を行くアマンダが足を止めた。
彼女が見つめるものに気付いて、兵士たちの間でざわめきが広がっていく。
「あ、あれだ! おれが見たのは……」
「わっ、私もよ!」
伝播していく動揺の中、アマンダが不敵に口の端を吊り上げた。
「ふむ……あれが噂の『光球』か。ようやくあたしの前にも現れたな」
ふわふわと漂う、ちょうど手のひらに収まりそうな光の球体が一つ――
「あれが……、リューゴにも……見えてる?」
視線をその物体へ固定したまま、ベルグレッテが夢見心地といった声で尋ねてくる。
「……、ああ」
流護も同じように呆然とそれを見つめたまま、しかしはっきりと頷いていた。
その白光はぼんやりと淡く、ともすればいつの間にか消えてしまいそうな儚さすら感じられる。それでいてどこか温かで、なぜか危険な雰囲気は感じられない。実際に目撃した印象としては、少し大きいものの、まるで発光するタンポポの綿毛のような――
(……、ん? あれ、……?)
そう思いかけて、頭の片隅に何かが引っ掛かった。
『発光する、タンポポの綿毛みたいな何か』。
そんな表現を、以前どこかで――
「ううむ、あれが噂の光る球か……! 流護クン、キミには見えてるかい!?」
馬車の伝声管から、やや熱を帯びたロック博士の声が流れてくる。かすかに、他の研究員たちの喧騒も漏れ聞こえていた。その様子からして、博士を始めとした研究員たちにも見えているのだろう。
というよりも、
「つかこの感じだと、みんな見えてるみたいっすよ……?」
兵士らの目線は揃って、ふわふわと浮遊する小さな光へと注がれている。
「あれが噂の……! きれいだな……」
「リサのほうがきれいだよ」
「兄さん……馬鹿の一つ覚えみたいな科白は、やめてほしい」
テールヴィッド兄妹は相変わらず。
「…………」
ダーミーの気だるげな目線も光球へと注がれているが、覇気のない瞳はいつもと変わりないように見える。
流護としては、この人物が驚愕する表情というのはどうにも想像がつかない。顔に出ないだけなのかもしれないが。
「し、しかし何だ……? あの光……なぜか、懐かしいような……どこか心が凪ぐような」
「お、お前もそう思うか。実は俺も、懐かしいというか妙に安心感があるというか……危険なものだという気がせんのだ」
「……」
流護は兵士らの言葉を聞いて内心で同意する。彼らと同じ印象を受けていたのだ。
見える者と見えない者がいる――と囁かれていた、謎の発光球体。しかし今この場で漂っているそれは、ここにいる全員の目に映っているようだった。皆が静かにその光を見つめていたのも束の間、
「う、うわ!」
「なっ、何だ!?」
それこそ、タンポポの綿毛が風に吹かれたように。
前方一帯――草薮から、水たまりから、あるいは何もない地面から、同じ光の球体がいくつも空中へ舞い上がった。その数、およそ数十にも及ぶだろうか。それらはまるで意思を持ったように、散り散りとなって空を舞い踊った。
「……すごい……、きれい……」
すぐ隣のベルグレッテが、見とれながらそう囁く。
「…………、」
流護としても、やはりこの正体不明の光の群れに嫌な気配や不気味さは感じない。人魂やら危険な何かと間違ってしまってもおかしくないはずだが、そういった負の感情がなぜか湧いてこない。
それぞれに乱舞した光たちは、一行が向かおうとしているその先へと飛んでいくように見える。
「あらあら、道案内してくれるのかしら?」
オルエッタが冗談めかして微笑むが、実際そう思えるような光景だった。
「よし。なら、お招きに与ろうじゃないか。行くぞ諸君。無論、充分に気を引き締めてな」
不敵に笑うのは隊長のアマンダだ。
確かに、怨魔か何かの罠でないとも限らない。
不可思議な現象と光景に、いよいよ禁足地の中心部へ近づいてきたことを実感する中、実働隊の約五十名は光に導かれる形で進み行き――
やがて。
そこが終着点であると示すかのごとく、緩やかに続いていた下り坂が終わり。
一行の目前に、それが姿を現した。
「………………、……城、……?」
それは誰の呟きか。
ただ、全員の胸中を表した一言だったに違いない。
そこにあったのは、朽ちて久しいと思われる巨大な廃城だった。
外壁も崩れ落ち、所々穴だらけとなってはいるものの――かつて極めた栄華を想像させる、在りし日の隆盛の成れの果て。その大きさはとてつもなく、レインディールの王城とそう変わらない規模に見える。
城跡の周辺を飛び交っていた例の光球たちは、役目を終えたようにすっと薄まっていき――
「き、消えたぞ……?」
「……一体何だったんだ、あの珍妙な光の球は……」
目を凝らすも、『彼ら』の姿は一つ残らず消え失せてしまっていた。そうなれば自然、一行の視線は眼前の巨大建造物へと注がれることになる。
「しかしまた、随分と古そうな城だな……」
「こんな場所に……いつの時代のものだ……?」
兵士たちの間から漏れた疑問を検証するべく、馬車から降りてきた研究員たちが周囲で朽ちている石柱などを調べ始める。
「ルビルトリに城があった、なんて記録はなかったわよねー?」
巨大な廃墟を見上げながら、オルエッタがいつもと変わらぬ口調で隣の相棒に尋ねる。
「だな。とすれば、一体、いつのものなのか……例の廃墟とやらと、何か関係があるのかもな」
アマンダがそう頷いた。
そこでふと思い立った流護は、傍らで屈み込んでいるロック博士に尋ねてみる。
「そういや博士、一昨日の……記憶なくなった時の廃墟って、どれぐらい昔のものだったんすか?」
「んー……残念ながら、自分で調べる前に倒れちゃったみたいだからねえ……。ただ、内部にかなり大きな木が根を張ってたっていうから、千年かそこらじゃきかないだろうって話みたいだけど――、っと」
話もそこそこに、博士がピンセットで何かを摘み上げる。
「それは?」
「ネユキゴケ。寿命は推定百年。けど実際にそこまで生きる可能性は皆無とも云われている、かなり希少な地衣類の一種さ。これは……うーん、それでも十五年ぐらいは経過してるのかな。はは、流護クンやベルちゃんと同い年ぐらいかもねえ」
「はあ、俺らとタメのコケっすか……。てか、寿命いっぱいまで生きる可能性がない、ってのは何でなんすか?」
「年月を経るごとに、動物や怨魔にとって有用な栄養素を溜め込んでいく性質があってね。つまり……」
「あ。そこまで育つ前に、パックリ食われちまうと」
「正解。で、推定十五歳ともなれば、もう結構な栄養素を内包してるんだけど……それがここに自生しているということは、」
「えーと……この場所には、これを食う生き物がいない……?」
「うん、そういうことだね。ついでに言えば、かなり多種に渡る動物や怨魔がこれを餌とするから、この城の周辺はそういった生物たちそのものが近付かない場所である……と考えられる。少なくとも、ここ何年かの間は。となれば――」
それほどの長い期間、動物や怨魔がこの場所に近づかなくなったのはなぜか。そんな状況を生み出したものは何か。そう提起した博士は、すぐさま自ら結論を述べる。
「時期的に考えても……原初の溟渤となったことが原因、なんだろうね」
おお……と流護は感嘆の吐息を漏らしていた。
「見つけたコケ一つでそこまで……。今度から博士のこと、コケ探偵テルって呼びますわ」
「うん、やめてくれるかな」
馬鹿話に移行しかけたところで、城の周囲を調査していた兵や研究員たちが戻ってくる。
ネユキゴケ(ちなみに発見者、命名者共に昔のロック博士なのだそうだ)が多数自生していること、怨魔を含む野生生物の痕跡が見つからないこと。報告内容は、今しがたの博士の推測を裏付けるようなものだった。
「如何されますか、アマンダ殿」
テッドに問われ、隊長たる女騎士は眼前の古城を仰ぎ見る。
「そうだな……」
隊を預かる長は腕組みをしながら顎の下へ指を添え、どう判断すべきか思案し始めた。
じき夜を迎える。本来であれば、視界の問題や夜行性の怨魔などの存在といった観点から夜間の探索は避けるべきだが、今この場においては状況が異なる。
辺りを包み込む青の霧によって見通しの程度は昼夜大差なく、怨魔や獣がここに近づかないこともたった今確認済み。そのうえ、夜間ということでリサーリットの戦力に期待もできる。
半日以上も傾斜を下った先にあったこの城は、今まで調査してきた窪地など比較にもならない低所にあるといえるのだ。研究員らの理論で考えても、何かが見つかる可能性は高い。
そして、いつ現れていつ消えるかも分からない、原初の溟渤という不可思議な事象の性質。そう。『ある時、突然終わってしまうかもしれない』のだ。
極端な話、城の調査を明日からとした場合、ぐっすり眠っている間にこの地が原初の溟渤でなくなってしまう可能性もある――ということだ。もっとも研究員たちによれば、今この時期にそこまで唐突に消失してしまうことはまずありえない『はず』だそうだが、やはり絶対ではない。飽くまでその確率も皆無ではない、ということ。
いざ明日になって城へ踏み入ろうとしたら、独特の雰囲気や青い霧もきれいさっぱり消え失せ、ただの廃墟や森となっているかもしれない。それによって本来はあるはずだった『何か』が消えてしまう、という可能性も否定はできない。
(……ここまで来ておいて、それだけは避けたいものだな……)
となれば――、とアマンダは共にやってきた兵士たちの顔を見渡す。
危険極まりない原初の溟渤という異界において、うち九人が欠けるも、折れずここまで生き延びた勇士たち。度重なる怨魔や獣の襲撃、果ては四体の『暴食』という前代未聞の脅威すら乗り越えた仲間たち。
「入ってみましょうや、隊長」
そう言ってごつい顔つきに満面の笑みを浮かべるのは、ここまで三号車の御者を務めてきたアデオーだ。
「俺ぁ魂心力の流れを感じるだとか、そういう細かいことに関しちゃーからっきしですが……そんな俺でも分かりますぜ。ここは、何かが違う。ここには、何かがある。そんな予感がヒシヒシとしてまさぁ」
その言葉を皮切りに、次々と同意の声が上がる。この地へやってくるまでよりどこか頼もしく見えるようになった顔ぶれに目を細めていると、その女騎士がはっきりと進言する。
「行きましょう、アマンダ殿! 何が待ち受けていようとも、今はイシュ・マーニの支配する時分。及ばずながら、私も死力を尽くさせていただきます……!」
リサーリットは『暴食』の腹の中から奇跡の生還を果たしたことで、随分と肝が据わったように見えた。腕のケガもほぼ癒えており、その戦力には十二分に期待できるだろう。
「そうです隊長、入ってみましょう!」
「ここまで来て明日にお預けとなっては、気になって夜も眠れないというものです」
高まる士気の中、アマンダは静かなその人物に問いかけてみる。
「貴方はどう考える? オズーロイ」
三号車一行が発見した遺構の探査に反対したという若き兵は、青い靄に抱かれて立つ巨影を見やりながら頷く。
「今は戦力も揃っています。中心部と思しき地点にあるのがこの城であれば、調査は当然行うべきかと」
淡々と言い結ぶオズーロイに対し、オルエッタが「あらあら」と小首を傾げる。
「てっきり反対するものかと思ったのだけれど~?」
「申し上げた通りです。先日と違い、否定する理由がございません」
そんなやり取りを横目に流護やベルグレッテ、ロック博士、テッドやダーミーに視線を向ければ、彼らも静かに――しかしはっきりと頷いた。
「……よし、分かった」
意を決し、アマンダは全員に向き直って声を張る。
「ではこれより廃城内に進入、調査を開始する! 内部に何が待ち受けているとも知れん。そのうえで夜間の任務となるが、行動指針に変わりはない。深入りは厳禁、危険があれば迷わず退く。しかし願わくば、新時代幕開けの契機となる何かを見つけたいものだ。さあ行こうか、勇壮なるレインディールの精鋭たちよ!」
おお、と猛々しい雄叫びが城前の広場に木霊した。




