307. より深く、奥地へと
(お……)
自分の身体を見下ろすと、久々に道着を身につけていた。
すぐ目の前には、やたら首の長い巨大な獣が倒れ伏している。
(あ、そうだった)
俺が仕留めたんだ、と有海流護は思い出す。
そう。一度は飲み込まれながらも、胃袋の中から逆転したのだ。リサーリットと一緒に。
(しっ)
遅まきながら残心を取ると、周りから歓声が巻き起こった。
驚いて目をやると、観客席にたくさんの兵士たちがひしめいている。『銀黎部隊』のテッドやリサーリット、オルエッタやアマンダ、ベルグレッテとクレアリア、そしてアルディア王にリリアーヌ姫まで。
皆が、有海流護に拍手喝采を送っていた。
何だか照れくさくて視線を逸らすと、ズゥウィーラ・シャモアの近くにはドラウトローやオルソバル、ドボービークといった怨魔たちが死屍累々となって転がっていた。
全て、流護が撃破した怪物たちだった。
(……そうだ。俺……)
強くなったんだよな、と血濡れた拳に視線を落とす。
路地裏でつまらないケンカに明け暮れていた頃も、この拳は朱に染まっていた。
しかし、もうあの頃とは違う。
こんな怪物たちと渡り合えるようになった。
一国の王に腕っ節を見込まれて遊撃兵となり、悲願を託され原初の溟渤にまでやってきた。あの頃の自分なんてものは、もういない……。
顔を上げると、観客席の中に懐かしい姿を発見した。
紺色のブレザーと、同じ色をした膝丈のボックスプリーツスカート。見覚えある制服に身を包んだ女子生徒は、腰まで伸ばした艶やかな黒髪が印象的だ。
幼なじみの少女、蓮城彩花。その表情は――、影になっていてよく分からない。
(彩花……、あ、そうだよ)
そこで今さらのようにハッとする。
そういえばまだ、グリムクロウズで遊撃兵となったことを彩花に報告していなかった。何かと口うるさい幼なじみの少女だが、これまでの話を聞けばきっと驚くことだろう。どうしてこんな後回しになったのだろうか。
おーい彩花、と呼びかけようとした流護だが、なぜか声が出ない。
仕方ないので彼女の下へ歩いていこうとした瞬間、
『噂は聞いている、有海流護。俺の技が当たるのかどうか。正直、震えているよ』
後ろから聞こえた。
ざらついた、重く低い声が。
振り返る。
そこに、巌のような男がいた。
一見して肥満体かと錯覚しそうになるが、それは誤りだ。全身余すところなく、膨張した筋肉の塊。髪型を整えるという概念などないとばかり、豪快に刈り上げられた頭。野獣じみた太い頸、度重なる寝技や打撃の鍛錬によるものだろう、潰れてよじれ、変形した耳。
そして、この世に……現代日本に生れ落ちてたかだか十数年の人間が放てるとは思えない、鋭く研ぎ澄まされた眼光。
桐畑良造。
半年前、有海流護に苦渋を舐めさせた男。
(て、めえ……)
ディノに勝った。天轟闘宴で優勝した。原初の溟渤への遠征にも抜擢された。
街の酒場では、リューゴ・アリウミこそが最強だと語られることも増えてきたと聞いている。
けれど。
(まだだ。まだ俺は)
この男に、勝っていない。
ちょうどいい。ここで白黒はっきりさせてやる。
思い、逸るように身構える。
鏡写しのように両の腕を掲げた良造が、撃ち放つ。
一直線に飛んでくる右拳。
見える。今の自分には。
(――遅ぇ……! 当たるかよ、んなモン――、ッ!?)
おかしい。
身体が、動かない。
(また、かよ……! ふざ、っ、見えてんだよ、この――)
迫り来る。
飛んでくるのが分かっているのに、身体が動かない。
そうこうしている間に、隆起した拳ダコの目立つ分厚い右拳が、良造の一撃が、ゆっくりと――
「…………ッ」
両目を開くと、飛び込んできたのは森の木々だった。
すでに明るくなりつつある空と、青い霧に包まれた自然の風景。見渡せば、幾人かの兵士たちが朝食の準備に取りかかっている。
「……」
両手に視線を落とす。血にまみれていることはない。腕には邪竜の小手が巻かれている。
見下ろす身体も、道着姿ではない。探索のために誂えた、ファンタジー風の旅装だ。
(……またか)
……初めて、ではない。
この世界へやってきてからも、幾度となく良造と対峙する夢を見た。
そしてその都度、身体は金縛りにかかったように動かなかった。
敗北した現実は、過去の記憶は、決して塗り替えられないとでもいうように。
(……くだらねえ。今の俺だったら……勝てるっつーの)
まさに昨日、あの巨大なズゥウィーラ・シャモアを仕留めたばかり。
グリムクロウズにやってきてからこれまで、幾多の怨魔、数々の詠術士と闘ってきた。そして、勝利を収めてきた。
ただ。
今の有海流護が桐畑良造を超えているかどうか、正確に知る術はない。
何しろ。
もう二度と、あの男に会うことはないのだから。
(……関係ねーし……知る必要もねーよ)
あんな狭い田舎町で最強だったかどうかなど、今さらどうでもいい。
今はこの世界で多くのかけがえのないものを得て、王の依頼でここまでやってきた。
遊撃兵のリューゴ・アリウミにとって、高校生だった有海流護のことなどもう関係がない。
この任務で結晶化した魂心力を見つけ出すことができれば、世界は変革するかもしれない。
今、それが間近に迫っている。
この手には、そんなとてつもない未来が懸かっている。
「……うっし!」
自分の両頬を叩き、立ち上がる。
三日目の探索に備え、まずは顔を洗おうと川べりに向かう遊撃兵だった。
激しい闘いと、それに伴う脱落者が出続けた二日目までとは違い、三日目――そして四日目も、順調な探索が続いた。
「やっぱりあのズゥウィーラ・シャモアは、この一帯の生態系の頂点に君臨していたんだろうね」
とは、ロック博士の言。
怨魔や猛獣の類とあまり遭遇しないのは、あの四体の『暴食』がその名の通り食い荒らしたため。道の途上では、漁られて日にちの経過した大型獣の死骸が何度となく見つかった。大きさから、丸呑みできなかった獲物の成れの果てであることは明白だった。
あれだけの巨体を誇る『暴食』が四体、悠然と無傷で出てきたことから考えても、あの怪物を上回る脅威はこの近辺には存在しないはず――というのが、ロック博士を含めた研究者たちの見解だった。
無論、楽観や油断は禁物である。ここは、何が待ち受けているか分からない原初の溟渤なのだ。
十二分に警戒しつつも、幸いあの怨魔以上の怪物が襲来することはなく、一団はさらなる奥地へと踏み入っていく。
「ロ、ロック博士! ちょっといいすか!」
目線を『それ』に固定したまま、流護はすがるように研究者を呼んだ。
「どうしたんだい? ……むうっ」
のたのたとやってきた博士が、少年の視線を追ってメガネのフレームを押し上げる。
「なにか見つけたの、リューゴ……、わっ……?」
「お、おおっ。こ、これは……何でしょうか、先生」
一緒にやってきたベルグレッテとシャロムも、同じく困惑しつつ眉をひそめた。
馬車を降りての調査も、早幾度目となるか。何気なく周囲の木々を眺めながら散策していた流護が発見したのは――
「……ネコ……か? こいつ……」
朽ちた木の根元に、その生き物は座っていた。
まず、毛がやたらと長い。ハリネズミを彷彿とさせるボサボサの長毛だが、全体的にふっさりとしていて柔らかそうだ。色は茶色で、体長は三十センチほど。ともすれば、丸っこい毛玉の塊が鎮座しているだけのように見える。しかしその中心部には、ふてぶてしいネコそのものの顔。じとっとした視線が、流護たちを見上げている。
「うーむ……ネコ、にしか見えない顔してるけど……これは、おそらく公式に認定されていない動物だね……。少なくとも、ボクの知る限りでは」
博士が小さく呟く。
目と鼻の距離でまるっと座っているその生物は、逃げる素振りすら見せようとしない。
「先生ですら知らないとなると、新種の生物でしょうか? ……そうなると……普通の動物なのか、実は怨魔だったりなんてことも……?」
シャロムのそんな言葉を受けて、すぐ隣のベルグレッテがはっとする。
「な、なんだか愛らしいですけど……たしかに、怨魔の可能性はあるかもしれません。博士とシャロムさんは、念のため私の後ろへ」
少女騎士の指示に従って、今更ながら気持ち程度に下がる二人の研究員。
四人と一匹、奇妙な睨み合いが続く。
「……よし」
そこで動いたのは流護だった。
「ちょっと……触ってみるか。どう思います、博士」
「うーむ、そうだねえ……攻撃的な外見や気性じゃないようだし、触れたらどんな反応するのか見てみたい、って気持ちもあるけど」
「で、でも……危ないかも」
ベルグレッテの言はもっともだ。無害そうな顔で鎮座している毛玉生物だが、いきなり豹変して噛まれたり引っ掻かれたりする可能性もありうる。
「まあほら、俺なら頑丈だし……。一応ベル子、回復術とか用意しといてくれ」
こんな見た目でありながら、妙な毒を持ったりしているかもしれない。そうでなくとも、相手は野生動物だ。何らかの菌を保有していることも考えられる。
だが、誰かが確認してみなければ分からないままなのだ。まさに自分たちが今いる、この原初の溟渤と同じように。先陣を切って未知の危険に接してみることは、兵の務めともいえるはず。
そんな事情を知るよしもないだろう、ネコ(?)が大きなあくびをした。無警戒にあんぐりと口を開け、眠たそうに目を細める。
「な、なかなか可愛いじゃないですか」
「特に鋭い牙が生えてる、ってワケじゃなさそうだねえ」
シャロムとロック博士がそれぞれ感想を漏らす。
確かに鋭利な歯は見当たらなかったが、だからといって噛まれていいものでもないだろう。後ろで控えるベルグレッテの治療術を頼りに、流護は意を決する。
「よーし……そんじゃ、触ってみますよ?」
「流護クンなら大丈夫だとは思うけど……気をつけるんだよ」
三人に見守られながら、遊撃兵はネコ(?)を警戒させないよう屈んで近づき、まずは拾った棒の先をそっと差し延べてみる。彼(?)は興味深そうに鼻を近づけ、ふんふんとひとしきり匂いを嗅いだ後、先端を顎の下へこすりつけ始めた。
これは――
「博士」
「何だい?」
「ネコですよね?」
「ネコだねえ」
ネコだこれ。
「原初の溟渤に迷い込んでしまったノラネコの成れの果て……だとでもいうのだろうか」
「誰に説明してるの? リューゴ」
「いや、うん……何となくさ……つかこいつ、俺から逃げないんだな……」
棒の先で満足げに顎を掻く毛玉ネコを眺めながら、少年はちょっとだけソワソワした。
この異世界へやってきてから、どうにも動物に避けられる傾向があるのだ。ベルグレッテの実家の馬には逃げられるし、懐いてくれるのはミアぐらいのものだ。
しかし今、この謎のネコはまるで逃げる素振りを見せようとしていない。
「……よし」
次の段階に移る。そう決意した流護は、棒を手放して自らの右手をゆっくりと伸ばしていく。
「リ、リューゴっ」
心配そうなベルグレッテの声に「大丈夫」と返し、ゆっくりと差し出された手が――毛玉ネコの頭へと触れた。そのまま静かに撫でてみる。
「む……」
硬そうな見た目に反して、柔らかい。
「む、むむ……」
ゆっくり丁寧に撫でてやれば、毛玉ネコもまた応えるように目を細める。
「ふむ……ふむ、ふむ……この撫で心地は……なかなか、絶品ですぞ……」
「そ、そうなの?」
「そっ、そうなのですか?」
ベルグレッテとシャロムがそわそわしている。撫でたいのだろう。
「うむ。もっちりとしていながらもサラサラで、どこかしっとりと……ん? しっとり……?」
撫でている手に妙な水っぽさを感じた。
「!?」
よくよく見れば、いつの間にか毛玉ネコの全身が――長い毛が、なぜか濡れそぼっている。
「な、何だ? 何でこんな……いつ濡れたんだ、こいつ……?」
そう認識した瞬間だった。
「あっがあああああぁあああああぁ!?」
流護は手を引っ込めて絶叫した。
「リ、リューゴっ」
ベルグレッテがすぐさま駆け寄り、慌てて治療術を発動する。
「どこ!? 手をやられたの!?」
「て、手が……! 手があああぁ」
流護は右手首を押さえ、転がりながら叫んだ。
「かゆうううううううぅぅぅううううううぅぅうう」
「えっ、か、かゆ?」
「かっ、かゆい! んだこれ、やばいぐらいかゆい……!」
「か、かゆいの? ちょ、ちょっと待って……!」
困惑しきりなベルグレッテが治療術を施すことで、それでも何とか痒みが和らいでいく。
一方の毛玉ネコは、何やら満足げな顔で「ふんっ」と鼻を鳴らしたあと、(手足が極端に短いのか座っているのとあまり変わらない様子で)立ち上がってトコトコと去っていく。その長い毛足はしっとりと濡れそぼっていた。
「んがああ、待てこの野郎! 一仕事終えたみてーなツラで帰ろうとしやがって、水も滴るイイ何とかのつもり……あああぁかゆうううう」
地に伏して苦悶の怨嗟を漏らす少年を眺めながら、白髪の研究員がふむふむと頷いていた。
「なるほどね。手足が短くて運動能力にも乏しいから、ああやって痒み成分のある液体を分泌することで身を守るワケか」
「くっそ……ネコみたいな顔で油断させやがって……くっそ……俺を前にしても逃げないから、ちくしょう」
ようやく落ち着いた流護は、もそもそと去っていく茶色い塊を歯噛みして見送った。
「よし。あの生物は、『うるしねこ』と命名しよう」
博士がメガネのフレームを押し上げて満足げに頷くと同時、近くの茂みの向こうからテールヴィッド兄妹の声が聞こえてくる。
「兄さん。これは……ネコ? どう見ても、ネコだよな?」
「い、いや待てリサ。こんなところにネコがいるはずはない」
「けっ、けど兄さん。これがネコ以外の何に見えるというんだ」
「う、うーん」
「逃げる様子もないぞ……。触っても……大丈夫かな……? 大丈夫だよな、兄さん……」
……まずい。新たな被害者が出ようとしている。
「ぐわああああぁかゆ、かゆいぞおおおぉぉ」
と思いきや。初日、流護と一緒に戦死者の遺体を埋めた大柄な中年兵士が、手を押さえて駆け回っていた。
そんな大男の脇を、一匹の毛玉ネコが得意げな顔で堂々と通り過ぎていく。
(ちょっ、あんたその厳つい顔とガタイでネコの誘惑に耐えられなかったんすか……)
彼のことだから、貴重なタンパク源とするべく手を伸ばしたのかもしれないが。
「ロック先生。よろしいですか。もしかしてここって、あの生物の縄張りなのでは……? あっ、あそこの茂みにも、こっちをジッと見ている子がいますよ……」
「うーむ、とりあえず迂闊に触らないよう、皆に注意喚起してきた方が良さそうだねえ……!」
そうして、研究者二人が伝えるために慌てて走っていく。
古より伝わる禁断の地、原初の溟渤。考えてもみれば、ただのネコなどいるはずがない。探索続きで荒み始めた心の隙間に入り込もうとするかのような、まやかしの癒しだ。
「うー、あんなに可愛らしい見た目なのに……」
ベルグレッテも惜しそうに、もこもこ歩いていく(まだいた)毛玉を見送っていた。本当は触りたかったようだ。
その他にも、人の接近に反応して開く花や、空飛ぶ七色のトカゲなど、新種の動植物が次々と見つかった。これには研究者たちも大興奮である。
一方でこうして新発見が増えていくことは、いよいよ奥まった未開の地へやってきたその証ともいえた。
四日目の夕方を迎えた。
偶発的な怨魔との戦闘は幾度か起きたが、幸いにして死者が出ることもなく乗り切れている。
遮蔽物の多い川岸を今夜の野営地として定めた一行は、テントを設置する準備に取りかかっていた。
「うーむ。かなり奥地までやってきた感があるね」
頭上を覆う葉々の隙間から暮れなずむ空を仰ぎつつ、ロック博士が感慨深げに呟く。
「そうっすね……」
もはや見飽きた原生林の風景だが、探索を始めた頃とは明らかに異なる点が一つ。森全体に漂う青い霧が、より色濃くなっているのだ。新種の生物や植物がぽつぽつと発見され始めている点も、深い場所までやってきたことの証といえるだろう。
「なんか、まだ痒い気がしてますよ……」
手のひらへ視線を落とした流護が苦々しく呟けば、
「ははは。うるしねこ、驚きの生態だね」
あの愛らしいようなふてぶてしいような、それでいてとんでもない真似をしてくれた毛玉の名前は、『うるしねこ』で正式決定しそうな雰囲気だった。
そんな談笑の時間を過ごしていると、近くを通りかかった兵士ら二人の会話が聞こえてくる。
「何だって? お前も見たのか?」
「ああ、確かにこの目で見た。フワフワと空中に浮かんでて……。嘘じゃねぇ、ジェド・メティーウにかけて誓うさ」
「これだけ目撃者が増えてくると、確かに存在することだけは間違いなさそうだな……」
「次はお前が目にするかもしれんぞ」
通り過ぎていった彼らの背中を眺めつつ、
「また、か」
「また……だねえ」
流護とロック博士は、同調するように呟いていた。
昨日の昼を過ぎた頃からだろうか。
森の中で時折、奇妙な発光体が目撃されるようになっていた。青い闇の中を浮遊する、白い球体。話を聞いた限り、大きさはテニスボールより少し小さい程度。今しがた兵士たちが話していたように、見たという者が少しずつ増え始めている。それも不思議なことに、目撃する状況は決まっている。全員揃っての移動中ではなく、各々がばらけている窪地の探索中にのみ、である。
さらにこの謎の光球には、妙な特徴が二つ。
一つは、発見して近づいてみても、いつの間にか忽然と消えていること。一つは、見える者と見えない者がいること。
最初に発見した兵士は、すぐ隣の同僚に「あそこで光ってるのは何だ?」と問いかけたそうだが、その同僚にはそれらしきものは何も見えていなかったという。発見者は「冗談はよせ、見えるだろう」と同僚の肩を揺すったが、彼はふざけている風でもなく真顔で「何もないだろ、お前こそどうしたんだ」と返すのみ。業を煮やした発見者は他の者に尋ねてみようとしたが、そうこうしている間に光の球は消えてしまったそうだ。
この不可思議な特徴もあって、最初は発光体の存在そのものが怪しまれるところだったが、その後に目撃者が増え始め、今や十人弱が見たと証言するようになっていた。
さらに奇妙なことに、人物Aには見えて人物Bには見えず、その逆でBには見えるがAには見えない、といったような事例も報告されている。
ちなみに――流護を始め、博士、ベルグレッテ、シャロム、アマンダ、オルエッタ……『銀黎部隊』の面々は、まだ一度として目撃していない。
「謎の空飛ぶ光る球か……。博士は何だと思います?」
「うーん、まずは自分の目で見てみないと何ともねえ……。近づくと消える、見える人と見えない人がいる、って点から考えると、微妙な光の屈折とかが影響してるんじゃないかなあ、なんて思うんだけど」
神詠術研究の第一人者は、何だかんだでまずは科学的な視点から考えるようだった。
「あとは、新種の生物の可能性もあるよね。例えば、大型のホタルみたいな。ただその場合、誰もその姿形をはっきりと見てないのが気になるけど……流護クンは何だと思う?」
「俺に訊くんすか……。えーと……人魂とか……? なんか出そうだし、この森……」
我ながら適当にもほどがあるな、と思う流護だった。
「アリウミさん」
そんな会話を交わしているところへ、若い兵の一人が小走りでやってくる。
「これから浴槽を組み立てますので、ご協力お願いします」
「あ、了解っす」
「浴槽……、ああそうか、今日は風呂に入れるんだったねえ」
ロック博士が明るい笑顔で相槌を打つ。
今夜は水と火の術者を総動員し、大がかりな風呂を作る予定なのだ。
原初の溟渤へ踏み入って四日。水の術や川の水で軽く汚れを落とすことはあったが、本格的な入浴はこれが初めてとなる。久しぶりの風呂ということで、流護も内心かなり楽しみなのだった。
資材運搬用の二号車には、やたら長い木材や板が積み込まれている。これらを組み立てて中に水漏れ防止の敷き物を入れ、即席の浴槽とするのだ。ちなみに、一度に十人近くが入れるほどの大きさとなる。ちょっとした露天風呂の気分が味わえるだろう。
街並みや習慣からも推し量れるが、この世界は意外なまでに衛生観念が高い。現代日本からやってきた流護としては、実にありがたい限りだった。
「そんじゃ博士、ちょっと行ってくるっす」
「うんうん、久しぶりに湯舟に浸かれるんだねえ……。楽しみにしてるよ」
組み立ては力仕事のため、流護に声がかかることになっていたのだ。本日最後の一仕事とばかり、遊撃兵は腕まくりをしながら二号車へと向かっていく。
今回の野営地とした川縁は、頭上を覆う森の密度が比較的薄い。夜空に燦然と輝く月こと夜の女神イシュ・マーニの光が届き、地表や川面を白く淡く彩っている。
そんな明るい夜の中、盛大な焚き火を囲い、兵たちは肉や酒を楽しんでいた。慎ましやかに過ごしてきたこれまでの夜とは、盛り上がりが違う。一見して、羽目を外しすぎているようにも思えるが――
「幸い、計画はかなり前倒しで進んでるからね」
「ははは。すっかり宴会騒ぎっすね……」
アマンダの言葉に、流護は辺りを見渡しながら頷いた。
兵士らの多くが、赤ら顔で陽気に酒を酌み交わしている。探索が進んでいることを祝い、あるいは志半ばで斃れた仲間たちの弔いとして。一部、不寝番を担当する兵や下戸の者は飲まず、料理を頬張るのみではあるが。
見覚えのある巨体の中年兵士が、何か長い紐のようなものを手に持っている。
……よく見ると蛇だった。
「へへ、貴重な栄養源だ」
(また食うんすか……)
嬉々としてナイフを取り出す彼から視線を逸らした。
森の調査期間は三週間にも及ぶ。その間中、常に気を張り詰めていられるものでもない。
という訳で予定より早い進捗状況からささやかな褒美として、今夜は酒や良質な肉を解禁。風呂も完成したため、旅の汚れを落とすことも可能だ。
束の間の休息を経て、明日は昼過ぎから探索を開始する予定となっている。
「順調にいけば、明日の夕方には……『ここ』に到達するはずよ」
四隅に置かれた酒瓶で押さえられた、ルビルトリ山岳地帯の地図。アマンダが指差したそこは、原初の溟渤の中心部と予想される地点。研究者たちによれば、高確率で結晶化した魂心力があるはずだという場所。
地図を囲む面々――流護、ロック博士、ベルグレッテ、オルエッタはそれぞれに押し黙る。
(確かに……思った以上に早かったんかな)
結果として――実働隊がこの地へ踏み入った時点で怨魔の数が激減していたこと、その原因たる『暴食』を二日目という早期に排除できたことが、飛躍的な前進へと繋がった。
それ以降ランクD~B相当の怨魔や猛獣と出くわすことは少なからずあったものの、今や部隊の進撃を阻む障害とはなり得ず、三日目・四日目だけでもかなりの領域を踏破することに成功している。この地の探索に、そして戦闘に慣れてきたということも一因だろう。
そうして――
「いよいよ原初の溟渤の中心部に肉薄した、か……」
酒杯を片手にしたロック博士が、感慨深げに呟いた。
その弁に対し、誰かが言葉を継ぐことはなかったが――おそらく今、皆は同じことを考えている。根拠などなかったものの、流護はそう確信を抱くことができた。その考えとはつまり、
(原初の溟渤の中心……どんな場所なんだ……? つか、ほんとにあんのか……?)
目に見えるほど高濃度の魂心力などというものが、本当に存在しているのか。現状、飽くまで研究者たちの予想にすぎない物質だ。かなり奥地までやってきたが、それらはこの道中で未だ影も形も発見されていない。
今まで誰も踏破したことがない、前人未踏の地。いよいよ迫ってきた、その中心部。想像だにしない危険な何かが待ち受けているかもしれないし、逆に何もなくて拍子抜けしてしまうかもしれない。
「心配はいらないわよ、アリウミ遊撃兵」
そんな思考に差し込まれた優しげな声音は、オルエッタのものだった。
「行けばはっきりするわ。何が待ち受けているのか……むしろ、楽しみにしておくぐらいの気概で行きましょう」
「は、はあ」
ぱん、と手を合わせながら白の麗人は微笑む。
よほど複雑な表情をしてしまっていたのか、心の中の疑問に答えられてしまった。
「出立前に、陛下が仰ってたんだけどね」
夜空を仰いだオルエッタが、少し儚げな顔となる。
「最悪、何も見つからなくても構わないんですって」
「え? いや……それ、は……いいん、すか……?」
いいはずがない。そんなことになれば、この遠征にかけた費用や労力――そして突入からここへ至るまでの間に消えてしまった、九人の兵士たちの命までもが無駄になるはずだ。
しかし。
「……何もなかった、という事実が手に入る。そう仰って、豪快に笑っておられたな」
ぽつりと言ったのはアマンダだった。
「……なるほど」
得心のいったような顔で、ロック博士がメガネのフレームを押し上げる。
「遥か古より、謎の禁足地とされてきた原初の溟渤。『そこには何もなかった』という事実が判明すれば、それはそれでこの上ない発見となるワケだ。決して、無駄じゃあない。確かにそれは、何も分からないまま終わるよりは、遥かに大きく進んだ一歩である……といえるのかもね」
「いや、それは……そうなのかもしんないすけど……、うーん……ベル子はどう思うよ」
隣に座る少女騎士へ話を振れば、
「ん……なにも見つからなくてもかまわない、かぁ」
両手でカップを包んだ彼女は花のように微笑んだ。
「陛下のことだから、それももちろん本心の一つとして仰ったとは思うんだけど……。仮にそうなった場合に私たちが気落ちしなくて済むよう、あえて明るく振る舞ってくださった部分もあるのかな、って」
おおそういうことか、と感銘を受ける流護だったが、
「ないな」
「ないわねー」
アマンダとオルエッタの古参騎士両名は、全く同時に手を横へ振っていた。
「陛下は、そんな思いやりのあるお方じゃないわよ~」
「その点は同意だな」
「こないだだって、『オルエッタ、まーた乳がデカくなったんじゃねぇか?』なんて仰って、手をいやらしくワキワキさせて……」
「そのくせあのお方は、聖妃に対するお気遣いが少々不足しておられる。陛下なりの照れ隠しだということは分かっている。分かっているが……色事を恥じる年頃の少年でもあるまいに。以前、聖妃が遠征先から文をしたためられた時もだな……」
つい今しがたまで真剣そのものの空気が張り詰めていたはずなのだが、
(昼休みに上司の愚痴を零すOLの集いか何かですかね……)
……よくよく見れば、女性二人の持つ大きな杯が空になっている。脇の酒樽から並々とおかわりを注ぎながら、女騎士の本音暴露大会は続く。
「ほーらベルグレッテも! 陛下に思うところの一つや二つ、あるでしょう~? そもそも、胸ならベルグレッテの方が大きいじゃないのよ~」
「うむ。どうなんだベル、この際だから本音を聞かせてみなさい。ちなみに綺麗事はナシだ。我々が聞きたいのは飽くまで本音、本心。心配は無用、ジェド・メティーウに懸けて、誰にも口外せんと誓おう」
「え、えっ!?」
そして巻き込まれる少女騎士。
「ほら、そこで兄妹でチビチビ飲んでる二人! リサ! 貴女もこっちに来なさい! 副隊長命令ですっ!」
「えぇ!? どうしたのですか、突然!?」
引きずり込まれるリサーリット。
そんな女子会を微笑ましげに眺めつつ、博士がゆっくりと夜空を仰ぐ。
「うーむ」
「博士? どうかしたんすか?」
「ああ、うん。明日の今頃は、この禁断の地の中心に何があるのか……判明してるんだろうなあ、と思ってね。やっぱり研究者としては、逸る気持ちを抑えられないよ」
「言われてみれば……そう、なんすよね」
そう意識すると、流護も少し緊張してきてしまう。
古より伝わる、神出鬼没の禁じられた地。原初の溟渤。
果たしてそこに、何が待っているのか。人が過剰に恐れ幻想を抱いているだけで、何もありはしないのか。
全てはもうすぐ、明らかとなる。




