305. ルイナス
鬱屈とした、青い靄に覆われる原生林。景色は一向に代わり映えせず、同じ場所をぐるぐる回っているのではないかという疑念すら浮かんでくる。
二号車のほうはどうなっただろうか。こちらでは、結果として四名の死者が出てしまっている。深い傷を負ったテッドも、今は馬車の中で休息中だ。
これ以上凶事が起きぬよう祈るばかりだが――と、三号車の面々は考えているだろう。
そんな中、
「……なあ、あれが……そうなのか?」
ほどなくして、若い一人が森の奥を指し示す。
その方角へ目を向けた者たちが、それぞれにざわつき始めた。
ひしめく木々の合間に、灰色の石壁らしきものが見え隠れしている。もはや建造物としての体を成してはいなかったが、それらは人為的に積み上げられた石の成れの果てに違いなかった。
一体いつの時代のものなのか。朽ち果て、辛うじて現存している残骸。
「間違いありません。あれです」
先ほど実際に見てきた二人が頷く。
「ようし……もっと寄ってみるか。案外見晴らしは悪くねえな。確かに、妙な獣の棲家になってたりはしねえようだが……」
御者のアデオーの言葉通り警戒しつつ、一行は実際に廃墟の前までやってきた。
周辺と内部へ、兵たちが慎重に散開していく。
「結構、大きいですね」
「うーむ……かなり古そうだね、これは」
窓から眺めるシャロムとロック博士を始めとした白衣姿の面々も、その遺構に釘付けとなった。
知りたがりの虫、ともいえる研究者の前に現れた、朽ち果てた怪しげな廃墟。酒飲みの目の前に、年代ものの逸品をちらつかせるようなものだ。食いつかないはずがない。
「むう……少し不気味ではありますが、入ってみたいですな」
「壁も頑丈そうですしね」
森にひっそりと佇む景観から、しばらく身を落ち着けることができるかもしれないという期待もあった。仮にあのズゥウィーラ・シャモアがまだ他にいたとしても、あれほどの巨体ではこの石造りの構造の中まで入れない。
「調査終了しました。問題はなさそうです。……ここが何だったのかはまるで分かりませんが……あとは、研究者の皆さんにお任せしましょう」
念入りな安全確認が終わり、許可が下りた。研究員たちはそれぞれ、馬車を降りて廃墟へと向かっていく。
色褪せ、苔に覆われた石壁の群れ。屋根や床はほば全損、これでは一時的に雨風を凌ぐことすら難しそうだ。九割方を緑に侵食され、ほとんど自然と同化したその遺構は、森の木々に取り込まれたようにひっそりと佇んでいる。『廃墟』というよりも、自然の中に残る建造物の『面影』、とでも表現するほうが正しいかもしれない。
「う、うーむ……!」
そんなかつて何らかの建物だったものを前に、ロック博士――岩波輝の瞳は純粋な子供さながらに煌めいていた。
「雰囲気ありますね、先生! 何か見つかるかもしれませんよ、これは!」
もっともそれは他の研究者たちも同じで、女性研究員シャロムも鼻息荒く眼前の遺跡を見つめている。
四体ものズゥウィーラ・シャモアに襲われたという未曾有の事態。部隊も分断されてしまっている状況。それでも、この朽ちた人工物は不可思議な何かを内包しているのか、研究者たちを魅了した。
もっとも御者のアデオーが主張した通り、この危険な地を訪れた目的は探索や調査である。最悪、分断されることも想定していなかった訳ではないのだ。本来の任務を忘れ、こんな怪しげなものを見過ごしてしまったのでは意味もない。
(流護クンたちのことも心配だけど……)
「ひとまず問題はなさそうです。ご安心を、ロックウェーブ博士」
廃墟を眺めていると、そう声をかけてきたのはテッドだった。神妙な面持ちを廃墟への不安と勘違いしたらしい。
包帯を巻いた右手は痛々しく、明らかに顔色も悪い。人の心配より自分の身を案じるべき容体なのだが、そこは誇り高き精鋭騎士。博士が口を出しても無駄だろう。
停めた馬車の下では、ダーミーが車輪に寄りかかって休んでいる。廃墟にはまるで興味がないようで、テッドとは正反対の雰囲気でくつろいでいた。
「じゃあ、お言葉に甘えて行ってこようかと……」
「ええ」
兵士らが張り込む中、シャロムや研究者たちは思い思いに散らばっていった。博士も、テッドに見送られて内部へ入ってみる。
歩きながら、ロック博士は早速その正体に思いを巡らせる。
(街……? いや……)
かつてここにあったのかと考え、すぐさま否定する。
街や村、集落といった雰囲気ではない。城や砦のような、単一の巨大建造物が朽ちたものに思える。外観の大半は崩れ落ち、今なお屹立しているのは内外の仕切りとなっていただろう石壁のみ。その様相は、まるで屋外に造られた巨大迷路だった。
そんな迷宮へ踏み入り、しばし歩いてみる。
野晒しになった長い通路と、そこに連なる小部屋だったと思わしき空間。
(うーむ……?)
最初は城か砦だと思って歩いていたが、何か違うな、と博士は首を傾げた。
建造物の外観は全体的に平たく、また内部も無機的に続く通路と部屋ばかり。外敵を拒む堅牢な外壁もなく、侵入者を惑わせる入り組んだ造りでもない。
(これは……病院? いや、違うな……でも、何らかの施設みたいな……)
数ある小部屋へと入り、注意深く見て回る。似たような個室ばかりだが、何か違いがあるかもしれない。
同じ構造の部屋をどれだけ覗いただろうか。
袋小路にあるその一室へ入った博士は、
「おわっと!?」
出っ張った石片に躓いて、危うく転びかけた。辛うじて壁に手をつき持ち直すも、メガネを落としてしまう。カシャン、と硬質の音とともに、視界がぼんやりと滲む。
「うわわわ、割れてないだろうね……?」
床に這いつくばってメガネを無事回収。耳にかけ直して立ち上がろうとして、
「……ん?」
その近くの床に違和感を覚えた。
荒れ果てた石張りの床、その一角を切り取るように巡る、正方形の線。汚れや被った土で見逃してしまいそうになるが、確かにまっすぐな線が床に走り、大きな七十センチ四方ほどの正方形を描いている。
こうして屈んで観察しなければ分からなかったろう。となれば、事前に様子見をした兵士たちはこれに気付かなかったはずだ。
(これは……もしや……『下』がある……?)
そう考えて入念に探せば、鎮座した石塊の陰に取っ手が見つかった。
台所の床下収納のようなあれだ。
ただの収納スペースか、それとも地下室か。
別に悪いことをしようとしている訳でもないはずだが、博士は何となくキョロキョロと首を回し、周囲に誰もいないことを確認してしまった。兵の姿もないが、なぜか逆にホッと安堵する。
「よーし……、」
腰を痛めないようしっかりとしゃがみ込み、両手で取っ手を握る。思いきり引っ張れば、石床と同化していたかに見えた扉は、存外楽にバカリと音を立てて持ち上がった。
細かな埃が舞い落ちると同時、長い間封じ込められていただろう冷たい空気が、博士の肌をざわりと撫でていく。
「……こ、これは……地下室か……!」
目に入ってきたのは、下方へ続くコンクリートのように舗装された灰色の階段。それなりの長さがあるのか、先は暗闇に飲まれており、この位置からでは何も見えなかった。
これまでも見逃していただけで、他の部屋にも同じものがあるのだろうか。ともあれ、
「気に……なるよねえ、やっぱり」
言い訳するように呟いたロック博士は、
「よ……っと!」
扉が完全に閉じてしまわないよう、階段の最上段に大きな石を支え棒代わりとして設置した。 荷物からカンテラを取り出し、マッチで火をつける。
意を決し、下へ続く階段をゆっくりと慎重に降り進んでいく。
「……む」
怨魔とかいたりしないよねえ、と思いながら、二階分ほどの高さを下ったか。
ようやく階段の終わったそこには、それなりに開けた一室が広がっていた。
「……、ここは」
一言で表せば、資料室。
四方を石で囲まれた部屋には、同じく石製の机や椅子、それに――
「おお、本棚か……!」
これは有力な情報源となる。
思わず小走りで駆け寄り、棚にぎっしりと詰まったうちの一冊を抜き出してみた。
しかし、
「おわっと……!」
黒い装丁の分厚い本は、ずるりと崩れて床に大量の紙束を撒き散らしてしまった。屈み込んで頁の一枚を拾い上げてみるが、もはや劣化しきっている。紙とは思えないざらついた手触り。虫食いはさほど見られないが、紙面は余すところなく土くれじみた焦茶色に染まっており、まともに文字を読み取ることはできそうになかった。この分では、他の本も同様だろう。
少なくとも、書物が役割を放棄してしまうほどの年月は経っている、ということか。
(ここは……どれぐらい前に造られた、何の建物なんだ……?)
部屋を見て回り、何製だかもよく分からない机の前に立つ。眼前の壁から剥がれ落ちたのか、机上には大小様々な石片が散らばっている。密閉された空間だったゆえか、埃は思ったより堆積していない。引き出しらしきものがあるが、たった今の本のように、これも触っただけで壊れる可能性が否定できない。
慎重に机へ触れ、そっと引き出しを開けてみる――
「……?」
そこには、下敷きに似た薄い板が大量に収納されていた。
やはり恐る恐る、そのうち一枚を手に取ってみる。
「!」
博士は思わず目を見開いた。
長方形の極めて薄い板。色は薄い青。大きさはB5用紙ほどか。驚くほど軽く、それでいて硬いような軟らかいような――不思議な感触。材質不明の奇妙な板だが、それよりも驚くべきことがある。
「こ、れは……!?」
薄板の全面には、びっしりと細かな文字や図形が刻まれていた。
刻まれていた、というのは比喩ではない。言葉通りの意味で、削り取った傷による精緻な文字が横書きで記されているのだ。
(……これは……英文、だ)
この世界では古いイリスタニア語の一つとされる、その言語。大昔のレインディール――その一部地域では、日常的に英語(と岩波輝が認識する言葉)が使われていたのでは、と思われる資料などが残っている。
不可思議かつ助かることに、現在のレインディール周辺で筆記文字として用いられるのは『日本語』であるため、意思疎通に困ったことはない。この『英文』を読める人間となると、今のレインディールにはいないだろう。
何気なく目を通した最初の一文の中、いきなり視界に飛び込んできた単語があった。
Earthling、という言葉。その意味は――
(『地球人』……か? これ……、まさか、この世界に迷い込んできた、誰かの……!?)
思いもよらぬ筆者を予感し、にわかに震える手でメガネのフレームを押し上げる。
(うーむ、英語はあまり得意じゃないんだよなあ……!)
面倒がって英語を専攻しなかった過去の自分を恨みつつ、刻まれた文字へと慌てて目を走らせ始める。
読み取れるのはひどく断片的だったが、前後の単語と比較しながら意訳していく。
――レンブラント氏が提唱した……により、ひとまずの……を、脱却し――
『Eulogia』の……、段階――
最も微弱な反応――最終的に、
レンブラントという人名らしきもの。『Eulogia』。気になる単語がちらほらと散見されるが、考えるのは後にしようとまず読み進めることしばし。
「!」
途切れ途切れにしか読めない文章の中、なじみある単語を発見した。
二重の鉤括弧で強調されているその言葉は、
『Penta』、と表記されていた。
(……『ペンタ』、か)
それは、このグリムクロウズで稀有な才覚を持つ者の呼称だ。どのような経緯でそう呼ばれるに至ったかは不明。遥か昔に栄えた文明の単語に由来しているのでは、との考え方が一般的となっている。
それは果たして偶然なのか。地球にも――ギリシャ語にも存在する、その単語。
(……いかにも意味ありげに強調されてるけど……この文脈では……そのまま『五』とか、『五番目』ってことでいいのかな……? それとも……この世界の『ペンタ』、そのままの意味なのか……?)
数字の『5』を意味する、その単語。地球からやってきた誰かが残したと思われる、その文献。
注意して見返してみれば、最初のほうには『Mono』という表記があった。これは『1』を意味する。よくよく文章に目を通してみたところ、同じように2から4までの数字も見つけることができた。
ここで強調されているこれらの数字は、果たして何を意味しているのか。この板に刻まれている文章や図は、何について記述したものなのか。
(ただ……パッと見た感じだと、これはまるで……)
堅苦しい印象の記号や図形。少なくとも、誰かが残した個人的な手記といったような雰囲気ではない。
ゴクリと唾を飲み干し、続きを読み進める。
適合しない――
のジェド……私は一人の父親として
愛する我が子らが、――に『ヘキサ』となることを願う
ざっと目を通しただけではあるが。
所々に強調かつ散見されていた数字は、『Hexa』――『6』で終わっている。
筆者と思わしき何者かの、希望を託すような記述で締め括られているその文章。
最後のほうに記されているジェドとは、このグリムクロウズの創造神、ジェド・メティーウのことだろうか。
「…………、」
数十枚もある薄板の中の一枚。そのうえ、目についた単語をざっと脳内で翻訳しただけだ。まだまだ結論を出すには早い。焦りもあってあまり正確に読み取れてはいないだろうし、腰を据えて解読すれば、もう少し何か分かるかもしれない。
ここにある薄板をまとめて持ち帰ろうかと考えた博士だったが、
「……、」
自分でもよく分からないまま、手が止まった。躊躇が生まれた。
何か、これは。
この場所から持ち出してはいけない――否、グリムクロウズという世界の住人の目には、触れさせてはいけないもののような気がして。
「……よーし、」
とはいえ、こんな予想外の発見をみすみす見逃すつもりもない。
流護から借りた携帯電話を取り出し、これらの薄板を――記されている文章を、写真に収めていくことにする。
現物では何かの拍子に誰かの手へ渡ってしまうことがあるかもしれないが、基本的に流護が所持している携帯電話、その中に保存される電子データであれば、他の誰かの目に触れる可能性は低い。
全て写真に収め、後でゆっくりと解読すべきだと判断した。
「あぁ、暗くて上手く撮れないな……!」
フラッシュ機能はどれだったか。
十四年ぶり、それも自分の知るモデルからはかけ離れた機械に四苦八苦していたため――だったのかもしれない。身体が机に当たり、板の一枚がカシャンと音を立てて床に落ちてしまった。
「うわっ、と……、おお、割れてない」
手触りからして衝撃に弱そうに思える板だったが、どんな材質なのか、机から落ちた程度では傷ひとつつかないようだった。
「……ん?」
拾い上げた板に何気なく目をやり、眉をひそめる。
これもまた英文が記されている。それはいいのだが、先に読んだ一枚とはまるで雰囲気が異なっていた。どうやって刻んだものなのか、文字の形状も丸みを帯びており、どことなく優しい印象がある。
その内容はといえば、
(……昔、兄と妹が……、目を覚ました。森の中で……、えーと?)
簡素な英文だった。まるで、子供が記したもののような。
(森を出ようと……、崖を越えて、沼を…………、んん?)
既視感。この文章の内容に、展開に見覚えがある。
(……、そうだ! これは……、『暗き森と、最初のふたり』だ……!)
レインディールでは有名な童話だった。子供向けに普及していることはもちろん、多くの学者たちが研究している『資料』でもある。
『竜滅書記』にこの作品の名前が登場するところから、旧文明の謎を解く鍵となる文書なのでは、との見方も強い。
それがなぜ、ここに英語で記されているのか。
博士自身も、この世界を知るための資料として過去に読んだことがあるが、
(確か……ある日目覚めた兄妹が、森で暮らしていくんだっけ。嵐が来てリンゴと飲み水が手に入って、冬は湯の湧く泉を見つけて凌いで、夏は洞窟で氷塊を見つけて……それで最後には、父親との再会を匂わせる描写で終わり……)
読み進めていくと、やはり覚えている通りの展開が書かれていた。
――が。
「えぇっ!?」
知っている結末を予想して読み進めていた博士は、思わず声を上げていた。
『そのとき、森の奥でなにかが動きました。
それは、草木をかきわけて、少しずつ二人のほうへ近づいてきます。
やがて、二人の前に姿を現したのは――』
『二人の友人、イリスでした』
違う。
童話は、『そうして彼らは、いつまでもにぎやかに、幸せに暮らしましたとさ。おしまい』で終わるはずだ。父親との再会を匂わせる描写で、幕を閉じるはずだ。
(……イリス……!? 人名、だよねえ。誰だ……、いや待て、イリス? この名前、どこかで……。いや、落ち着け。まだ、続きがある)
童話に記されていない、そこから先の物語。
それは、このように訳せそうだった。
『やあ、Ako(アコ、おそらく人名?)じゃないか! 生きていたんだね。再会できるだなんて、嬉しいよ』
兄は言いました。
『アコ! 生きていたのね!』
妹も喜びました。
『こっちこそ驚いたわよ。でも装置にあなたたちの姿がなかったから、もしかしてと思って』
イリスも嬉しそうでした。彼女は妹をまじまじと見つめ、言います。
『ところであなた、足は……?』
『ええ、見ての通りもう大丈夫よ。これも、父さんと兄さん……そしてみんなのおかげ』
『それはよかった。……それにしてもあなた、なんだか雰囲気が変わった……?』
『そう見える? なんだか、目覚めてからとても調子がいいの。高いところのりんごが欲しいな、って思ったら嵐が来るし、冬は温かい泉が見つかるし、夏は氷の塊が見つかるし。最初はこんな森の中で暮らしていくのは無理、って思ったけど……すっかり慣れてきちゃった』
そう言う妹の周りを、ほのかな青白い光が囲んでいきます。
彼女を抱き、守るように。
『――なんだか。今なら、どんなことだってできちゃいそう――』
後になって考えてみれば。
慣れるのは、当たり前でした。どんなことだってできるのは、当たり前でした。
都合よく嵐が来たことも、冬や夏を快適に過ごせるのも、当たり前でした。
だって『その力』は――この世界の全ては、彼女の
「何か――珍しいものは見つかりましたか、ロックウェーブ博士」
「うっわあああぁぁ!?」
背後から唐突に声をかけられ、博士は口から心臓が飛び出そうなほど驚いてしまった。
「あ、お、え?」
胸を押さえつつ振り返れば、そこに立っていたのは一人の兵士。歳の頃は二十歳前後か。真面目そうな雰囲気の青年。
読みふけるあまり、背後からやってきていたその人物に気付くのが遅れたのだ。
よくよく見れば、知った顔の兵士だった。
この廃墟へやってくることを頑として否定し続けていた――オズーロイという兵士。
「えー、うん、いや……、ぼちぼち、かなあ……」
薄板や携帯電話を後ろ手に隠しながら、博士は曖昧に笑う。
「そうですか。……ところで、」
オズーロイは淡々と、日常会話のように続けた。
「英語は専攻されてたんだったかな? 岩波教授は」
呼吸が、止まる。
「――――――――――」
今、何を。
グリムクロウズという世界の、レインディールという国のいち兵士であるはずのこの青年は。
今、何と言った?
「き、みは…………?」
混乱の渦へ突き落とされた思考から、気のきいた言葉が出ることはなく。ただ漠然と零れ落ちた岩波輝の疑問に対し、
「オズーロイ・ゴーダリック。……というのが、『彼』の名前だ」
自らの胸に手を当て、まるで他人事のように青年は答える。
「……ったく。やっぱり君はこの場所に気付いたね。だから僕は反対したんだけど」
やけに砕けた口調で、ふーっと溜息をつきながら。
「君が持ってるそれ……一応、童話のはずなんだけど」
にこやかに微笑み、どこか懐かしむように。
「童話らしくないよね。まあ、彼女も童話なんて書いたことないって言ってたし……だから、後半はカットして展開を変えたんだ。もうちょっと子供向けになるようにね」
何だ。この青年は、何の話をしている。
博士がゴクリと唾を飲み込むと同時、
「岩波教授。今はまだ、そこに書かれてることを知るべきじゃない」
かつん、と硬質の床に響く靴音。兵士が――、否、兵士の姿を借りた何者かが歩み寄る。
「君を信用してない訳じゃない。それでも……情報っていうものは、どこから漏れるか分からないからね。何しろ『魔法みたいな力』が存在する世界だ。本人の意思とは無関係に情報を引き出せるような能力もあるし」
「くっ……!」
何か。
『とんでもない人物』が今、目の前にいる。かつてない情報を持った、何者かがいる。十四年もの間、何の進展もなかった状況を覆し得る何者かが。
どうこの状況を切り抜けるか。どう聞き出すか。
しかし焦るばかりで、思考がついてこない。
思わず下がろうとする博士だったが、そこは袋小路。机に尻をぶつけただけに終わる。その衝撃で、薄板の何枚かが机上からバサバサと床へ散らばり落ちた。
そちらには目もくれず、オズーロイと名乗った男はただ博士のみを――岩波輝のみを視界に収める。
「逸ることはない。いずれ、知ることになる」
悲しげな声音で、言う。
「残酷な結末を迎えてしまった、この世界を」
全てを知っているかのような声音で、言う。
「とうに終わっていながら……それでも永らえさせている、この世界を」
――遠のいていく意識の中、聞こえる。
「そんな飽和した世界を生き続ける、僕たちのことを――なんて、ね」
ひどく。悲しげだな、と思える声だった。
「……おい。ここで何をしている?」
その声を受けて、オズーロイは振り返った。
長い階段を下りた先にある薄暗い地下室。足元に倒れた岩波輝。
そんな状況へ声をかけてきたのは、
「……テッド殿、ですか」
『銀黎部隊』が一人、テッド・テールヴィッド。
ズゥウィーラ・シャモアとの交戦で重傷を負い休んでいたはずだが、何とも勤勉なことだ――とオズーロイ……否、『男』は胸中で感心する。
石を噛ませてある入り口の不自然さに気付き、入ってきてしまったようだ。
「……こんな場所に、こんな部屋があることも驚きだが……ロックウェ-ブ博士に何があった?」
スッと、地下室の出入り口に立つテッドの目が細まった。
それも無理はないだろう。床に博士が倒れ伏していながら、オズーロイは介抱する素振りすら見せていない。
「言い方を変えようか、オズーロイ。貴様、博士に何をした?」
地下室内が、殊更に朱色の明るさを増した。
テッドがその左手に喚び出した炎の斧が、松明よりもはっきりと室内を照らし出したのだ。
しかし、その勢いは弱い。怨魔との闘いで傷を負った状態。応急処置を済ませただけ。まともに闘える状態ではない。
それでも戦闘態勢へ入った『銀黎部隊』の一員を前にして、はぁ、と『男』は気のない溜息を漏らす。随分と生真面目なことだ。
「……貴様……本当に、オズーロイ・ゴーダリックなのか?」
眉をひそめたテッドのそんな誰何に対し、
「違うよ」
正直に答えた『男』は地を蹴り、一直線にテッドへと肉薄する。
「貴様――、……な!?」
そして身構えた『銀黎部隊』の青年は、目を剥いた。『男』の計略通りに。
戦闘状態。一触即発の場面。本来であれば精鋭騎士たるテッドがこれほど愕然とし、隙を作るはずがない。
「――悪いね」
テッドはそれから意識を絶たれるまでの数瞬の間、ただひたすらの疑問を味わったことだろう。
なぜこのオズーロイが、遊撃兵と同じ『カラテ』の構えを見せている――と。
ほんの一瞬。棒立ちとなったテッドの顎先を、ステップインした『男』の右上段廻し蹴りがかすめていく。
精緻な真円を描いた右足が地に舞い戻ると同時、テッドの手から炎の斧が消失し、長躯がその場にガクリとくずおれた。
「……『守られる側』でしかない君には、関係ない話だ。眠っていてくれ、息子よ――なんてね」
この分では、また誰が迷い込んでこないとも限らない。さっさと埋めてしまおう。
『男』は運ばねばならない人間が一人増えたことを嘆息しながら、作業に取りかかり始めた。




