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終天の異世界と拳撃の騎士  作者: ふるろうた
8. プログレッシヴ・イーラ
302/668

302. 袋の中の兵

 ――時は、しばし遡る。



「……く、がは!」


 何が起こったのか分からないまま、流護の口から呻きが吐き出される。

 目の前が真っ暗になった。

 最初は、脳震盪から倒れ込んだのかと錯覚した。そう思った瞬間、ぬめりを帯びた何かに全身が包まれた。


「ぐ、あ、あぁだだ……!?」


 ミシミシと締めつける圧迫感に翻弄されたのも束の間、ずるずると下方へ落ちていく感覚。ひどく狭苦しい。一度だけ学校の避難訓練で経験した、救助袋を使ったときのような。

 そう間を置かず、ビチャッと濡れそぼった不快な感触と共に、背中が接地する。出来の悪い滑り台を下りてきたみたいだった。


「ひっ」


 状況を認識するより早く、誰かの短い悲鳴らしきものが耳に届く。


(なん、……何だ? 今の、声……? つか、何がどうなって……)


 とりあえず身を起こそうと手をつけば、


「!?」


 地面に妙な弾力があり、しかも生温かい。さらには粘ついた液体で濡れそぼっていた。


「ぐげっ」


 ぬめった感覚が気持ち悪いことこの上ない。

 思わず反射的にズボンで手を拭いながら、周囲を見渡す。


「……!?」


 何も見えなかった。本当に見渡せているのだろうか、自分の首や目は機能しているのだろうか、と疑念が浮かぶほど。一片の光すら差し込まぬ完全な闇。

 妙に湿った大地と、吐き気を誘う生臭い空気。


(くっせ、気持ち悪……何だ、ここ……?)


 そう思った瞬間、すぐ間近で小さな赤光が点灯した。


「っと……!」


 いきなりの眩しさに驚いて目を細めれば、


「あ……! リューゴ・アリウミ……!」


 すぐそばで座り込んで流護を見つめるその人物が――手のひらに小さな火の球を浮かばせたリサーリットが、呆然と呟く。

 そこで、流護は全てを理解した。


「…………無事、だったんすね……」


 思わずホッとして呟けば、しかし女騎士は対照的に悲哀の篭もった声音で答える。


「は……無事、とは言わないだろう。処刑の順番を待つ囚人は、こんな気分なのだろうな……」


 ぼんやりと橙色に照らし出される周囲の空間へ目をやる。広いようでいて狭い。横の幅はそれなりにあるが、天井が極めて低い。足場も不安定で、立ち上がることはできそうにない。

 不気味に脈打つ、薄汚れた桃色の壁面。湿り気を帯びた同色の天井、そして地面。その全てがビクビクと躍動しており、生理的な嫌悪を誘う。閉鎖的で息の詰まる密室のような場所だが、詰め込めば結構な人数が入りそうだ。

 座り込んだリサーリットの太ももやチェック柄の赤いスカートも妙に粘ついた液体で濡れそぼっており、照明の影響もあって何とも色っぽい風情だが、今はそれどころではない。


 ――状況から考えて間違いなく、ここはズゥウィーラ・シャモアの胃の中だった。


「踊り食いときたか……、随分と粋な真似してくれやがって……。つか、広っ。コイツ、身体の中の大半が胃袋なんじゃねーのか。食うことしか頭にないヤツはこれだから」


 臓器の不気味な脈動とは別に、一定間隔でこの空間全体が揺れている。この怨魔が歩いているのだろう。当然ながら、乗り心地は極めて最悪だ。


「……何という、みっともない最期だ。背を向けて逃げたうえに、あえなく捕まって……こんな……」


 リサーリットが涙声で鼻をすするが、臭気をまともに吸い込んでしまったのかゲホゲホと咳き込む。

 幸いにして、ここには呼吸に不自由しない程度の空気が存在しているようだが、それも体内の異臭にまみれた劣悪なものだ。


「……兄さん、皆、すまない。私は……こんなところで……ぐう、……手が、痺れる……」

「……できるだけ、胃液に直接触らないようにしたほうがいいっすね」


 胃の中には現在、流護たち以外には何も入っていない。空腹状態なのだろう。

『暴食』と呼ばれるこの怪物。胃袋に収めた食料を消化する速度もまた、早いはずだ。遠からず、流護たちは生きたまま溶かされていくことになる。


「冗談じゃねーぞ、ったく……いてて」


 飲み込まれた折に全身を圧迫されたこともあり、節々が痛む。というより、


「リサーリットさん、その腕……」


 彼女は庇うように左腕を押さえていた。


「ん……ああ、折れているようだ。……もっともこうなった以上、どこがどうなろうと訪れる結末は変わらんがな……」


 嚥下されたときの圧迫で負傷したのだろう。


「でも……いや……まじ、よかった」


 そんな状況であっても、流護の口からは改めて安堵の溜息が吐き出されていた。


「よかった……だと? 正気か? 何がどうよかったのだ? こんな状況で」

「いや……リサーリットさんが生きてたから」

「は?」


 信じられないものを見る目だった。


「私が生きていたから……貴殿にとって、何だというのだ」

「いや別に、何もないっすけど……。ただ、死んでなかったんだから、そりゃよかったでしょ。人が死ぬより、死なない方がいいに決まってんじゃないすか」


 流護としては当たり前の感覚を口にすれば、リサーリットはポカンとしながら絶句していた。

 ややあって、ようやく思考を取り戻したみたいに言い募る。


「…………ふん。だが、今はまだ死んでいないだけだ。このまま、生きながらにして溶かされていくのだぞ。私も、貴殿もな。いっそ、一思いに噛み砕かれたほうがましだったかもしれん。恐ろしいものだな、丸呑みとは」


(……、丸呑み……か)


 そこでふと思い起こす。

 あれは一年ほど前だったろうか。インターネットで、大蛇が自分より遥かに大きい獲物を飲み込んでしまった、という動画を見たことがある。再生時間は数分程度でありながら、異常に膨らんだ蛇の胴体が中々に衝撃的な映像だった。

 ……が、動画へ付記されていた投稿者のコメントによれば、その蛇は結局、後になって食べたものを嘔吐してしまったという。

 そこには他にも、『蛇が獲物を吐き出す事例』というものがいくつか記されていた。いわゆるネット知識かもしれないが、やたらと詳しく事細かに書いてあったので印象に残っている。

 例えば……危険を感じた際、身軽になって逃げるために吐き出す。あるいは、単純に消化しきれずに戻す。動画の蛇はこの事例に相当した。あとは――


「リサーリットさん、火の術でこの胃袋炙ってみたらどうすか?」

「無論、その程度は試したさ。だが、昼間の私では無理だ。思った以上に頑丈で……」

「……ふむ」


 強いストレスを感じた場合、飲み込んだ餌を吐き戻してしまうことがあるという。

 しかし、この相手は大蛇よりも遥かに巨躯の怨魔。胃袋に入った獲物が暴れても、問題にならない程度の強度は備えている……ということか。

 だが――

 胡坐をかいてヒュッと息を吐いた流護は、おもむろに右拳を胃壁へと打ちつけた。ボゴンと小気味い音が響き、ぶよぶよした感触が反動として返ってくる。


「シッ」


 右手を引きざま、今度は左の拳を叩き込む。狭い胃の中に響く振動。


「ううむ……」


 硬すぎず、軟らかすぎず。

 悪くない殴り心地だ。是非サンドバッグの素材にしたい、と流護は熟年の職人のように頷く。


「なにを、している……?」


 身を縮めたリサーリットが、生気のない声音で尋ねてくる。流護はむしろ明るいほどの声音で答えた。


「いやまあ……どうせこのまま大人しくしてても、コイツの養分になっちまうだけですからね。それだったら、ほら」


 ぐっ、と拳を握り込みながら、当たり前のように言ってのける。


「せっかく今、一方的に攻撃できる場所にいるんだから……やるだけやってみるのもアリじゃないすか?」

「そ、そんな――」


 無茶だ、と思ったのだろう。女騎士の上げかけた声はしかし、続く凄まじい打撃音に塗り潰された。

 思いきり打ち込んだ右。波打つように、この空間全体がびくんと揺れる。


「お? 今の、結構効いたんじゃね? よーし」


 意気揚々と、少年は胃壁に向かって拳を叩きつけ始める。

 長旅によって、日課のトレーニングもできない状況が続いているところである。サンドバッグ代わりとばかり、座ったまま左右の拳を交互に振るう。


「……変わった男だな、貴殿は」


 そんな流護の様子を眺めていたリサーリットは疲れたように呟き、


「だが、確かに……何もしなければ、このまま死ぬだけか」


 腰に提げていた長剣を抜き放つ。


「こっ……のぉっ!」


 思いきり、桃色の壁面に先端を突き込んだ。


「く、硬っ……」


 しかし、ぶよぶよとした感触に押し返されたか、剣は刺さらず弾かれる。彼女はそれでもすぐさま構え直し、眼前の胃壁を睨みつけた。


「えっと……リサーリットさんって、夜になると凄い力が発揮できる、って感じなんすよね。今この場所みたいに、周りが暗ければ強くなれる、とかじゃなくて」

「……あ、ああ。そうだ。夕刻から朝方までの間、際限なく力が溢れてくるんだ。昼のうちは、ご覧の通りだがな」


 自嘲気味な溜息をつき、彼女は笑う。


「……情けないよ。夜の私と、昼の私……あまりに違いすぎて、自分でもよく分からなくなる。どちらが本当の自分なのだろう、と」

「そりゃーどっちも、じゃないすか」

「え……」

「どっちもリサーリットさんの特徴なんだから、深く考えることないんじゃないすか? 昼間には昼間、夜には夜でやれることをやればいいだけですって。俺なんか術なんてまるで使えねー訳だから、ほんっとこうして直接殴っていくぐらいしかできませんし」


 ゴン、と桃色の壁を殴り、流護はニッと笑う。


「完璧な人間なんていないんだから、気にすることないっすよ。今は、やれることを全力でやりましょう。ほれほれ、ガンガン殴らないと。マジでこのままじゃ、この鹿野郎の養分になっちまいますよ」


 そもそも本来、人が入るような場所ではない。無駄に喋り続けることで、空気がなくなる恐れもある。その分の酸素は行動に使うべきだ。


「人間の底力、見せてやりましょーよ。吐きたくなるまでブン殴るか、吐く気がねーなら腹突き破ってやるぐらいの勢いで」

「…………、そう、だな」


 キッと胃壁を睨みつけたリサーリットが、大きく剣を構える。


「私だって栄えある『銀黎部隊シルヴァリオス』の一人なんだ……っ、やってやる!」


 めげずに、横薙ぎの斬撃を叩き込む。天井が低く振りかぶれないうえ、左腕は骨折。若干やりづらそうにしながらも、右手で幾度となく剣を振るい続ける。

 そんな彼女の姿を見て、流護も満足げに笑った。


「おっ、いいすねー、その意気っすよ、リサーリットさん」

「……リサでいい!」


 吹っ切れたように言い放った女騎士は剣に炎を纏わせ、渾身の一撃を見舞った。






「ふー……、大成功ってか。やってみるもんだ」

「ぐ、げほ、かは……! あ、ああ……信じられんが……な」


 青い薄霧に包まれた深緑の森。眼前には、頭を垂れて這いつくばるズゥウィーラ・シャモア。

 その眼前に立ち上がる流護と、咳き込むリサーリット。


「ああ、空気がうめえわー。上手くいきましたよ、リサさん」

「か、は、……本当に、やってみるものだな……」


 短い間とはいえ生臭い閉所に押し込められていたためか、澄んだ森の外気がこの上なく心地よい。

 辺りを見渡せば、二号車についたと思わしき面々の姿があった。あれから他に死者が出てしまっているかどうかは定かでないが、少なくとも捕食された人間はいない。自分たち以外に誰も胃袋へ入ってこなかったのだから、これは確実だ。


「外が騒がしいと思ったけど、やっぱ皆を追って来てやがったか」


 流護は胃液で濡れそぼった腕を振りながら、追撃のために身構える。


「さて……俺らの大暴れがよっぽどストレスだったみてーだな、『暴食』さんよ」


 ズゥウィーラ・シャモアは確かに巨大な怨魔だが、丸呑み可能な餌となれば、その対象は――大きさは限られてくる。

 この怪物が現われる直前、道端に転がっていたクマの死体のように、大きな獣などは飲み込めるはずもない。

 となれば、丸ごと飲み込めるのはせいぜい、人間に近い大きさの生物のみ。仮に胃の中で抵抗されても、脅威にならないほどに小さく非力な対象のみ。


「想定外だったか? ちっぽけな相手を飲み込んだはずなのに、シャレにならんぐらい大暴れされてよ」


 眼前で這いつくばりながら睨みつけてくる怨魔の眼光を、真正面から受けて笑う。 


「もっかい言うぜ」



「『暴食』にも、喰えねーもんがあったみてーだな」



 跳んだ。

 未だ頭を上げられない怨魔――その鼻先を踏み台とし、流護は高々とその身を滞空させる。

 落下の勢いに任せて、怪物の脳天へ右肘を叩き落とした。立てた右腕の上から左手を添え、ひねりを加えて、楔の一撃を深々と抉り込む。

 かつて『殺し合い』を演じた、エンロカク・スティージェという男に対して放った一手と同じ業。武月流空手は禁忌の一刺。


 貌滅ボウメツ


 その一撃を喰らいつつも、怨魔の隻眼がギョロリと流護を睨めつける。反撃に出ようとしたのか、頭を動かそうとした瞬間、


「はあぁッ!」

 

 立ち上がりながら仕掛けたリサーリットが、ズゥウィーラ・シャモアの残る片眼に向けて剣を突き出した。その一刺は硬質の眼球に弾かれこそしたものの、しかし牽制として充分な効果を生む。


「ナイスフォロー、リサさん!」


 敵の視界が塞がった一瞬の隙を縫って、流護がその場で身体を捻る。

 相手が怯んだその隙を縫って、頭頂部を踏み台としながら再度跳び上がる。

 より高く。そして、より鋭く。


「シイィッ――エエェィアッ!」


 全体重を乗せて、ほとんど倒れ込みながらの肘。踏み台としたその箇所へ、渾身の一撃を叩き込んだ。

 重苦しい粉砕の手応えが、少年の肘から肩、そして全身へと伝わった。杭さながらに打ち立った肘撃、その分だけ押し出されたかのように――怨魔の眼窩、鼻、口から鮮血が零れ出す。無理矢理に噛み合わされ、頑丈そうな歯が砕け落ちる。頭部に刻まれていた切創から、一挙に血飛沫が噴出する。それはどこか、ひび割れた瓶から水が溢れ出る光景にも似ていた。


 その巨体がびくんと跳ねたのも一瞬のこと。

 一拍の間を置いて、ズゥウィーラ・シャモアは横倒しとなり――重々しく大地を揺るがせた。


「――しゃあっ! 押忍……!」


 伏した巨獣へ拳を向け、残心を取る遊撃兵。その姿を、兵士たちは呆然となりながら見つめていた。






「リューゴ……無茶ばっかり……するんだから……」

「いやいや……ベル子こそ……」


 ガタゴト揺れる馬車の荷台。隣り合わせで乗車室の壁へ寄りかかりながら、二人はそんな言葉を交わし合う。

 流護は、ベルグレッテがなりふり構わず怨魔へ挑みかかっていったことについて。ベルグレッテは、流護が冷静さを欠いて敵に丸呑みされてしまったことについて。

 共にギリギリ、間一髪。運よく生き残れた、といっても過言ではないだろう。

 体力や気力を使い果たしてしまった感もあってか、脱力感に包まれた二人は、先ほどから年老いた夫婦のように同じ会話を繰り返していた。


「けれど本当に無事で何より。そして助かったわ、リューゴ君」


 ゆっくりと馬車を先導して歩くアマンダが振り返った。


「あ、はい……いえ……」

「死者こそ出てしまったけれど……ズゥウィーラ・シャモア二体を相手にこの被害ならば、最低限に抑えることができたと言うべきよ。誰に話してもおいそれとは信じないでしょうね。もちろん、まだ三号車のこともあるから楽観はできないけれど」


 馬車を囲んで歩く兵士たちも、直前まで生きた心地がしなかったのだろう。その足取りはこれまでになく軽い。


「まあ、胃袋から舞い戻ってきた……っていうのが、そもそも信じられないでしょうね~……」


 アマンダの隣を歩くオルエッタなどは、それこそ自分で見ていながら信じられない、といった目を少年へと向ける。困惑しているというか……明らかに引いている気がする。


「あっはっはっ、違いない。ガイセリウスにすら、これほど常識外れな逸話はないわ。さすが、陛下が惚れ込んだだけのことはあるわね」


 一方のアマンダは、むしろこの戦果を大層気に入ったようだった。


「いえ、まあ……」


 少年がくすぐったそうに照れていると、すぐ隣から弱々しいベルグレッテの声がかかる。


「でも……無茶しすぎよ、リューゴ……」


 すぐ隣で弛緩しきって壁へ身を預ける少女騎士の姿は、そこにちょこんと飾られた高価な人形のようだ。


「えーい、ベル子も人のこと言えないだろ」


 すっと腕を伸ばしてデコピンしてやれば、彼女は目をつぶって為す術なく受け入れる。抗うほどの体力すら残っていないのだ。

 ベルグレッテの言によれば、水の大剣を振りかざして突っ込んでいったときの記憶が曖昧なのだという。

 反撃で吹き飛ばされた折、脳震盪を起こしてしまったためではないか、と流護は予想した。

 かくいう自分自身がそうだったからだ。怨魔の頭突きに叩き飛ばされて朦朧としている間に、気付けば胃袋の中へ招待されてしまっていた。


(こんなんじゃダメだな、まじで……)


 ある意味、踊り食いされたからこそ助かった、ともいえる。あの臼みたいな歯で咀嚼でもされていたら、どうなっていたか分からない。


(もっと……冷静さを保てるようにならんと)


 短期間で連続して死者が出て、目の前で人が丸呑みされたことで、瞬間的に我を忘れてしまった。

 ミネットの件で遭遇したドラウトローや、ディアレーの洞窟で対峙したレドラックと同じ。あのときは、激情に任せて勝てる相手だったから問題なかっただけの話。

 ズゥウィーラ・シャモアのような巨大な敵に、真正面から立ち向かっていいはずもない。


 勝利こそしたものの、納得のいく内容とはいいがたい。

 肉体だけでなく、もっと精神的にも成長しなければならない。


 余談だが、怨魔の胃液まみれとなった流護とリサーリットの汚れを落とす作業は極めて難航した。水の術者総出で洗い流そうとしたのだが、粘つきや臭いがなかなか頑固できれいに落ちない。最終的には炎の術で温めた水流を四方から流護とリサーリットへ向けて容赦なく一斉掃射、風の術者が擬似的な竜巻を作り出して無理矢理に乾かす――という強引極まりない手法によって、ようやくまっさらな身体に戻ることができた。まさしく洗濯機と乾燥機に突っ込まれたような心地、というのが妥当な表現か。

 それでも胃液の臭いがまだ鼻についている気がして、少し気分が悪いぐらいだった。しばらく、飲み食いをする気は起きそうにない。

 ちなみにリサーリットは、左腕を骨折してしまっていたが、すぐさま治療術による処置を受けたため、大事には至らないだろうとのこと。流護はやはりというべきなのか、特にケガらしいケガもなかった。


「……大丈夫か、アリウミ遊撃兵」


 そこで荷台に顔を覗かせたてきたのは、まさにそのリサーリットだった。骨折した人の定番というか、首から回した包帯によって左腕を吊り下げている。もっとも治療術で処置済みのため、骨そのものはすでに繋がっているはずだ。


「あ、ども……お疲れさんです、リサさん」

「ああ。その……貴殿のおかげで、命を拾うことができた。礼を言わせてくれ。あっ、よければこれを」


 そう言って、水筒を手渡してくる。


「ルートゥル・ラングの血液を蒸留した飲み物だ。力が湧くぞ」

「血……!?」


 この人ほんとに吸血鬼なんじゃ、との思いが鎌首をもたげてくる。


「ともあれ、本当に礼を言う」

「いやいや。こっちも死に物狂いだったんで……。気にしないでください」

「……あ、ありがとう。ではな」


 それだけ言い残して、彼女はそそくさと馬車を離れていく。


「……なんだか、随分とリサさんとの距離が縮まったのね」

「はは……。そらなんつっても、怨魔の胃袋の中で協力し合った身だからな……そら絆も深くなるってもんよ」

「……ま、まあ……ほかにそんな状況を体験した人って、世界のどこを捜してもまずいないでしょうね……」


 ともあれ、それから山道を戻り続けること十分ほど。


「お、あったあった」


 遠目にも映える赤い旗を見つけて、アマンダが声を弾ませる。

 そうして、二号車と一行はその場所へ戻ってきた。

 幅広い山道の一角。傍らにそびえ立つ大樹、その一際太い枝には、『6』と記された赤旗が括りつけられている。

 馬車を停めて、一行はしばしここで待機することになった。

 ズゥウィーラ・シャモアに横転させられていた一号車も回収してここまで引っ張ってきたが、かなりがたついていたため、兵士たちが修理に取りかかる。


「……三号車はまだ来ない、か。ダーミー殿やテッドが上手く捌いてくれていることを期待したいが……」


 先刻の激闘が嘘のように静まり返った青霧の森林を眺めつつ、アマンダがぽつりと零す。

 この『6』の旗を立てて進んだ先でズゥウィーラ・シャモアと遭遇、散開退避したため、ここが合流地点となる。が、ロック博士たち研究員を乗せた三号車や、その護衛についたはずのダーミーたち、兵士らの姿はない。

 尽きぬ不安は当然。『銀黎部隊シルヴァリオス』がついているとはいえ、仔とはいえ、彼らを追っていったのは二体ものズゥウィーラ・シャモアなのだ。


「それじゃ、ちょっと三号車一行の捜索に行ってこようかしら」


 そこで散歩にでも行くような口調で言うのは、白装の麗人ことオルエッタだ。


「んー、そうね。頼める?」


 一方のアマンダも、心配する風でもなく首肯する。


「……、」


 そんなやり取りを眺め、流護は思う。

 神詠術オラクルと呼ばれる異能の力が存在する世界。そんな力を駆使する詠術士メイジの強さというものが見た目では計れないことも、今や存分に承知している。それでもなお――流護としては、このオルエッタなる令嬢然とした女性がズゥウィーラ・シャモアを容易く両断してしまったという事実に、これ以上ない驚愕を隠せない。

 ここへ来る途中、あの怪物の死体を見たが、文字通りこれ以上ないほどの『両断』だった。一体どれだけの技量があれば、あのような真似ができるのか。

 というより、もし自分たちが怨魔の胃袋から脱出するのがもう少し遅れていたら、オルエッタに真っ二つにされてしまっていたのではないだろうか。


(『銀黎部隊シルヴァリオス』の副隊長、か……)


 アルディア王が自ら組織した精鋭部隊、そのトップクラスの実力――ということなのだろう。

 漫然と眺める間に、彼女はわずか三名のみの護衛を引き連れて木々の合間へと消えていく。


(ロック博士……無事なんかな……)


 流護も行きたい心境だったが、まだ倦怠感が残っている。亡くなってしまった兵士らの遺体も、ここで埋葬していかねばならない。水の大剣を行使したことによって身動きできなくなってしまったベルグレッテも置いてはいけない。戦力的にも、オルエッタが向かうのであれば申し分はないはずだ。

 少年はしばし、脱力しながら青霧に煙る静かな森を眺め続けた。

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