301. 昏き明滅
「……くそ、あれからどうなったんだ……?」
小さな洞窟の空間に、誰かの不安げな声が頼りなく反響する。
「……、」
ベルグレッテは岩場の入り口で、静かに外の様子を窺っていた。青く霞む森は、静謐な空気に包まれている。
物資を満載した二号車と、その護衛についた約三十名は、発見した小さな洞穴に身を寄せていた。洞穴や洞窟というよりは、横向きに少し窪んだ崖際、とでもいうのが正しいかもしれない。高さや奥行きはほとんどなく、その場にいる全員が入るには少々狭い場所だった。
が、それでもズゥウィーラ・シャモアの巨体ではここへ入り込むことはできない。最悪の場合でも、しばしここで時間を稼ぐことができる。
「二号車についてきた奴は、これで全員か?」
「ゴフレーとべデットが、あの怪物に蹴り飛ばされるところを見た……あれでは、もう……」
「……くそっ」
「……他にいない人は、三号車の方に行ったと考えていいでしょうね……」
どちらかといえば、そうあってくれという願いに近い。
そして――そんな希望的観測はすぐさま、否定をもって打ち破られてしまう。
「いや……リサーリット殿もこっちに来ようとしてたはずなんだ。でも、姿が見えない」
「なんだと……まさか、はぐれてしまったのではなかろうな」
「はは、かもしれないわね……」
「夜は頼りになる女騎士殿だが、昼間は大人しい令嬢のような方だからな。落ち着いたら、捜しに行ってさしあげんとな……」
――誰も、口にしない。
やられてしまったのかもしれない、とは。
「…………」
その会話を耳にしていたベルグレッテも、静かに唇を噛む。
リサーリットだけではない。本当に他の人員は皆、三号車につけたのか。迷い、はぐれてしまった者はいないのか。倒れていた兵士たちのように、撥ね飛ばされてしまった者はいないのか。そして、ズゥウィーラ・シャモアを引き受けた流護はどうなったのか――
視線を巡らすと、兵士たちが二頭の黒馬をなだめている。大きな荷台部分は、大した損傷もなく無事だ。この二号車には、必要な食料や物資が積まれている。これを失うこと即ち、任務の失敗と考えていい。奪われることや破棄することだけは、絶対に許されないのだ。
パラ、と天井から小さな石片が落下する。肩へ降りかかってきた埃を軽く払ったベルグレッテは、ハッとして外を眺めた。
微細な振動。これらが落ちてきたのは、地面が揺れたからだと気付いたのだ。
外の森を注視した少女騎士は、そこで――
「……、――――」
ありえないはずのものを、目撃した。
疎らな木々の間を歩み来る長躯。巨大鹿とでもいうべき容貌の怨魔、『暴食』ズゥウィーラ・シャモア――。
――――なぜ。どうして。
流護が足止めしているはずの相手が。
いや違う。アマンダたちや流護が食い止めている個体ではない、新手かもしれない。
逃げ道を探すようなその思考を、現実が封鎖する。
怨魔は、左目を失っていた。眼窩から涙のように赤い血流を滴らせ、長い首を周囲へと巡らせている。馬車の轍を追って、ここまでやってきている。
よく見れば、歩き方も少しおかしい。脚を痛めていると見える。あの怪物に対し、アマンダとオルエッタ以外の誰が、あそこまでの傷を負わせることができるのか。その傷を負った異形はなぜ、峙していたはずの相手を放ってここまでやってきたのか。そうではない。闘っていたその人物が、負けて――
死んでしまったからこそ。次の獲物を追って、ここへやってきたのだ。
「――――――――――」
世界が、傾いた気がした。
「おっ、おい……なん、で……アイツが」
「き、来やがった! あの遊撃兵、やられちまったのか!?」
近づいてくる怨魔に気付き、洞窟に身を潜める兵士たちがざわめく。ベルグレッテの耳には、それらの喧騒がどこか遠く――夢心地に響いた。
「……――――リュー……ゴ、」
そんな、彼の名を呼ぶ自分の声さえも。
『少女』は、迷わず術の詠唱を開始する。
一撃限り。銀色の軌跡を一度描いただけで霧散してしまう、自らも力を使い果たしてしまう、されど絶対の必殺剣――
ふざけ、ないでよ。
やっ した に。
や か え の 。
の く うな を 徨 て、
「やっと……流護を……」
怒りに、憎悪に、思考が、意識が消し飛びかける。
リューゴを。私の流護を。
ワたしノ、リューゴヲ。
『何のつもりだ』。
『不出来な失敗作風情』が。
「――――殺してやる」
ベルグレッテらしからぬ。
結論として溢れ出たその声には、別の何かが混じっていた。
「ま、まずい……奴が、こっちに……」
身に感じる振動が近く、大きくなっていく。
ズゥウィーラ・シャモアは、忙しなく辺りを見回しながら――しかし確実に、二号車と兵士たちが潜む洞窟へと歩み寄っていた。
ここに隠れていれば安全――とは、言い切れない。洞穴は浅く、外から見えなくなるほどの奥行きがない。
それに怨魔とは、常に人の予想を超えてくる存在である。アマンダやオルエッタがやってくるまで、果たして無事に凌げるかどうか。ここへ直接入り込めずとも、長い首を利用して何か仕掛けてくる可能性もありうる。
全員が息を潜め、怪物が通り過ぎていくことを願う中。ただ一人、入り口付近の岩陰から外を覗くベルグレッテが、小さな息を吐く。
それは。隠れるのではなく、敵へ踊りかかるための……力を滾らせる呼気。
そして、
「うっ……く、来るぞ!」
ついに怨魔は気付いた。
導くように伸びる馬車の轍。その先へ続く洞窟。そこへ隠れ潜む、餌の存在に。
「くっ、くそ! もっと奥に詰めろ!」
「牽制だ! 一番奥に陣取って全員で叩き込め!」
巨怪が洞穴へ駆け寄ってきた。軽やかな足取りはしかし大地を小刻みに揺るがし、洞穴の天井から埃を舞い散らせる。ただ走るという行動。それだけで、桁違いの能力を有しているのだと否が応にも実感させる。
「臆するな! 一方的に攻撃できるのは俺たちのほうだ! 射撃で確実に――」
兵士たち皆が穴の奥へ奥へと退避して身構える最中、少女騎士が飛び出した。
「なッ、ベルグレッテ殿!?」
誰が止める間もなく洞窟から踊り出て、穴の前までやってきていたズゥウィーラ・シャモアへ猛然と仕掛けていく。
「――剣よ」
誰ひとりとして例外なく、思わざるを得なかった。無謀だ、と。理知的な彼女らしからぬ、あまりに迂闊すぎる特攻だと。
こうして目撃することで、その場の全員は現実というものをまざまざと見せつけられることとなった。あの遊撃兵や『ペンタ』、上位騎士など一部の人間は、生まれ持った『何か』が決定的に違っている存在なのだと。
勇猛に怨魔へ肉薄していくベルグレッテは、確かに速い。しかしそれは、飽くまで人間としての――常識の範疇での速さ。
ズゥウィーラ・シャモアの隻眼には、緩慢にすら映ったのかもしれない。
無造作に振り回された首が――鎚のような頭部が、ベルグレッテの携えた水の大剣と激突する。しかし当然ながら踏ん張ることなどできはせず、少女騎士は振り抜かれた頭突きの勢いのまま盛大に吹き飛ばされた。大剣は呆気なく虚空へと消え失せ、彼女は草葉の大地を十マイレ近くも転がって倒れ伏す。
水刃とかち合った怨魔の頭からはわずかな血飛沫が舞ったが、それだけだった。
「ベルグレッテ殿っ……」
見守る兵士達の幾人かが呻くが、どうにもならない。
遊撃兵と懇意だと聞いていたが、足止めをしていたはずの彼が斃れてしまったかもしれないゆえの錯乱か。
うつ伏せに寝そべった少女騎士へ、異形がのそのそと近づいていく。
これが現実。これが当然。
ベルグレッテが弱いのではない。『暴食』という存在が、強大すぎるのだと。
ぼんやりとした視界に映るのは、こちらへ歩み寄ってくる巨大な四本の脚と蹄。一歩進むごとに、大地が振動する。
(…………あ、あ――)
胡乱な思考の中、ベルグレッテはただ見つめる。
自分は何をしているのか。なぜ、こんなところで横たわっているのか。
……ああ、そうだ。気付いたら――まるで突き動かされるみたいに、
――なにしてるの。このままだと、――
――すの、――が、面……になる――
自分のものでないような、奥底から聞こえる声。
(…………これ、って……)
どこかで覚えのある、自分のものでないような、冥府の奥底から溢れ出してきたかのような、どこかドロリとした雑念。
分からないのに、分かる。それが、光すら塗り潰すような闇色をしていることが。
(初めて……じゃない。……前に、も……)
――また。流護を失っ――
――――流護が無事に帰ってきてくれるなら。
いっそ負けてしまったって、構わないから。
そうだ。いつも、彼の身に危険が及んだ、そのときに――
突き動かされるみたいに、ではない。
突き動かされたのだ。
その納得が下りた瞬間、
倒れた少女騎士の真上から、限界まで開かれたズゥウィーラ・シャモアの口腔が迫った。
がしゃんと派手な激突音が鳴り響き、地に伏した少女騎士へ細かな氷の破片が降り注ぐ。
ズゥウィーラ・シャモアとベルグレッテの間に割り込んだのは、宙に展開された巨大な白氷の薄板。
「く……、無事か、ベル!」
アマンダ・アイードが誇る鉄壁の防御術、絶氷楯。
間一髪の差で飛び込んだ守護の騎士が、後輩を守るべく立ちはだかっていた。
捕食行動を邪魔された怨魔は、アマンダらが討伐したもう一体と全く同じように、屋根めいた氷の楯へ頭突きを振り下ろす。
「クッ、貴様もそれか! 馬鹿の一つ覚えめ……!」
ぐったりしたベルグレッテを左腕に抱えながら、アマンダは防御術を維持し続ける。
「おお、お二人が間に合った! 到着されたぞ!」
「よし、援護しろ! 撃てエェッ!」
洞穴から、種々様々な色合いの攻撃術が一斉に掃射された。満遍なく怨魔の全身に命中するが、当の怪物はよろける素振りすら見せず、目の前の氷の壁――正確には獲物と認識したベルグレッテを喰らうために頭突きを振り下ろし続ける。
「調子に乗ってくれるじゃないの、鹿……!」
それは遊撃兵が奮闘した証か。怨魔は左目が潰れ、隻眼となっていた。頭を激しく振る挙動に合わせ、血雨が注ぐ。女騎士の氷楯は、傘のようにその全てを弾く。
(さて……)
兵士たちの攻撃は通じていない。自分はベルグレッテを抱えているため動けない。逆転の目はやはり――オルエッタ。一緒にやってきた彼女は、離れた位置で留まりすでに詠唱を開始している。
(この、まま……五分、いや四分程度……持ち堪えられるか……!?)
正直なところ、厳しいと言わざるを得ない。アマンダも術を発動し通しで消耗し始めている。オルエッタはこの怪物の姿を確認し次第詠唱を始めたが、それでも四分はかかる。その間、一方的に攻撃され続けてはさすがに難しい。
自分が力尽き、ベルグレッテ諸共に喰われるのが先か。オルエッタの術が完成し、怨魔が両断されるのが先か。
(我慢比べ、か……!)
異変が起きたのは、その直後だった。
狂ったようにアマンダの絶氷楯へ頭突きを繰り返していた怨魔は、唐突によろけ、ふらつく形で数歩後退した。
「……?」
兵士たちの援護射撃が効いたのか。彼ら自身も怪訝に思ったのか仕留めたと思ったのか、攻撃術の雨を中断する。
(いや、違う。これは……?)
巨大な怪物はその身を震わせ、苦しげに首を下向ける。
瞬間。
怨魔と正面から対峙する、アマンダが。その腕に抱かれ、生気の抜けていたベルグレッテが。詠唱に注力していたはずの、オルエッタが。洞窟にて身構える、大勢の兵士たちが――
一人の例外もなく全員が、その出来事に目を奪われた。
ズゥウィーラ・シャモアが巨体をよじり、嘔吐した。
たらいの水をひっくり返したかのように撒き散らされる胃液。
むせ返る酸の異臭、立ち上る湯気。
ぼごん、という鈍い音と共に、長い首を何かが逆流してくる。大きな膨らみが二つ。
裂けるほど大きく開かれた怨魔の口から、それらがドサリと転がり出た。粘性を帯びた液体にまみれながら。
――即ち、二人の人間が。
「けほ、けほけほ、かはっ!」
倒れ込んだまま盛大に咳き込む『銀黎部隊』の女騎士リサーリット・テールヴィッドと、
「ふー……、大成功ってか。やってみるもんだ」
全身を胃液に濡らしながらも立ち上がる、遊撃兵こと有海流護が。




