300. 不運
遊撃兵と怨魔の闘いを岩陰より覗いていたリサーリットは、注意深くその場から離脱する隙を窺っていた。
「……、」
大きな怪物と小さな人間。多少の神の恵みがあったところでどうにもならない、絶対的な生物としての差。その常識を覆す、無術の少年。
ただ狂ったように踊りかかるのみだったズゥウィーラ・シャモアは、一転して静かに流護を見下ろしている。一方の彼も、軽快な足取りで構えながら、怪物の動向を注視している。
捕食対象と餌……ではない。強者同士の戦闘と呼べるものが、そこに成立していた。
睨み合うこと一時、巨怪が動いた。
横向きの軌道。勢いをつけてしならせた首が、前方一帯を薙ぎ散らす。草葉が、豪風が荒れ狂う。小さなあばら屋程度であれば文字通り吹き飛ぶだろうその破壊の鉄槌は、離れた位置で見守るリサーリットをも竦ませるが――
「……!」
標的たる当の流護は、わずかに足と身体を引き、必要最小限の動きのみでこれを躱す。服が豪快にはためき、短い前髪がなびいても、怯む素振りすら見せずに。
(あの男……っ、完全に……見切って――、いや、)
百歩譲って、見切るのはいい。恐るべきはその胆力だ、と女騎士は驚嘆する。
いかに遊撃兵が強かろうと、一撃もらってしまえば確実に覆る。巨大な鉄塊じみたあの頭が直撃すれば、呆気なく即死してしまってもおかしくはない。
しかし少年はそれをまるで恐れず、淡々と捌いている。
「あっ……!」
しかし、怨魔もさるもの。
間髪入れず、横から縦へ。
怨魔は前脚を振り上げ、着地する勢いすら利用し、頭部を振り下ろした。それは万物全てを叩き潰すだろう、破砕の戦鎚。
一撃は大地を粉砕し、揺るがし、土砂を円周状に巻き上げた。その余波だけで、人など消し飛んでしまうのではないかと思うほどの圧倒的衝撃。この闘いを見ていなければ、突発的な地揺れと勘違いしたことだろう。
しかし人であるその少年は、そんな死の重撃にすら臆さない。躱すとほぼ同時、注ぐ土砂を篭手で弾きながら突っ込み、土煙の向こうで怪物と交錯した――ように見えた。
直後、天地揺るがす咆哮が大気を震わせる。
「…………、な、……うそ、……!?」
砂塵が晴れたそこに、信じがたい光景が広がっていた。
左目から血飛沫を撒き散らし、身をよじるズゥウィーラ・シャモア。朱に濡れた右腕を振り、血糊を払いながら飛びのく有海流護。
そして地震と紛うような振動。この巨大な怪物が、かつて忌まわしい惨劇を引き起こした恐るべき怨魔が――暴れ狂うまま、盛大に横倒しとなった。巨体をばたつかせ、立ち上がろうともがく。
「た、たた……た!? 倒れ、た……っ!」
小さな人間が。何の術も使えないという遊撃兵が、かの『暴食』を地へと這わせたのだ。振り下ろされた頭突き。そうして下りてきた顔へ――目へ、渾身の右拳を打ち込むという離れ業をもって。
「――――、」
一人の騎士として、この闘いを見届けてみたい。リサーリットの胸奥にそんな思いすら湧き上がってくるが、今この瞬間がまたとない好機。
「いっ、今の、うちに……行かねば……!」
女騎士は岩場から飛び出し、この異常な戦場から離れるべく全力で疾走を開始した。
「――ふうっ」
血に濡れた右腕を払い、流護は油断なく構え直しながら息を吐く。
ひとまず思惑は成功。
効くと分かった以上、目を狙わない道理はない。
フックめいた横の軌道に『合わせる』のは危険極まりない。問答無用で薙ぎ払われる恐れがある。
そのため、縦に叩きつけてくる強撃を待った。横で当たらなければ、いずれ焦れたように縦が来る。得体の知れない怨魔とはいえ、そこは獣だ。目を打たれた苦い経験は、あっさりと獲物が逃げ回る苛立ちに塗り潰される。その機会は思いのほか早く訪れた。そうして近づいた顔へ――左目へ体重の乗った一撃を打ち込み、眼球を砕くことに成功した。
(つか、二発目で潰せてよかったよかった)
また弾かれたらどうしようかと思っていたところだ。
辛うじて立ち上がったズゥウィーラ・シャモアは、左の眼窩から血飛沫を撒き散らしながら首を巡らせる。瞬間的に、左側――死角に立つ流護の姿を見失っていた。
(まだまだチャンス、ではあるんだけど……さて、こっからどうするか……)
狙い澄ました拳で優位に立つことはできたが、相手は強靭かつ巨大な怨魔。やはり頭部を叩かなければ、有効なダメージを与えることは難しい。こうして立ち上がられてしまうと、流護のリーチでは脚以外に攻撃できる箇所が存在しない。ダウンを奪っても、その巨体を激しく暴れさせるため、頭を叩くのは難しい。
それでも、
(――勝てる)
堅実に行けば、問題はない。
最初は常軌を逸した怪物四体の同時出現にどうなることかと思ったが、乗り切れる。
ズゥウィーラ・シャモア、その討伐事例は過去にたった一度。しかし、裏を返せば一度は勝利した実績があるということ。
最初に出現した一体については、レインディールの最上位騎士たるアマンダとオルエッタの二人ならば、確実に倒すはず。
小さめの二体はロック博士たちの乗る三号車を追ったが、テッドとダーミーがついたのを見た。彼らならばきっと勝つはずだ。
(後は……俺が、こいつをここで仕留めれば)
それで終わり。
早く二号車やベルグレッテを追いたい気持ちもあるが、焦らない。気負わない。ここで確実に倒す。
死角に回り続けて執拗に脚を叩き続けるか、次は右目を狙うか。とはいえ、片目を抉られたことでより警戒も深まるはず。後者は難しいかもしれない。持久戦覚悟で、脚に集中砲火を浴びせるのが最良か――
そう思索を巡らせていた流護は、
「……?」
そこで怨魔の異変に気がついた。
キョロキョロと辺りを見回しながら流護の姿を探していただろうズゥウィーラ・シャモアが、ピタリとその動きを止めていた。潰れた目の側へ立つ流護には、明らかに気付いていない。その頭部は、見当違いの方向を向いている。
(何だコイツ、どこ見てやが――)
流護は訝しく思いながらも、怨魔の顔が向く先へと目をやって――
「…………ッ」
猛烈に嫌な予感が、少年の全身を駆け巡った。
距離にして、およそ五十メートルほどだろうか。ズゥウィーラ・シャモアが見つめるその先には――木々も疎らな薄い青霧がかかる平原には、一人の女騎士の姿があった。逃げ遅れていたのか、今になって二号車の消えていった方角へと駆けていく。遠目ではあるが、はっきりと分かった。その人物が、リサーリット・テールヴィッドであると。
「……!」
流護は弾かれたように目前の怨魔を見上げた。涙みたいに溢れる左眼窩の血流。しかし、反対側――健在である右の巨大な眼球は、一体何を見つめているのか。
認識した一つ『のみ』を、攻撃対象と定める性質――
自分で確認したこの怪物の習性を思い起こすと同時、
「おい鹿野郎、てめえの相手はこっち――」
しかし野に生きる狩人は、焦る少年よりも遥か迅速だった。
重く、しかし軽やかな足取りで地表を蹴り、その場から駆け出す。すぐ近くにいる流護を無視して。遠く、目についた獲物を目指して。
「おっ、い……、何してんだ! コラ、待てってんだてめえ!」
ゾッと、腹に冷たい感覚がのしかかる。
――リセットされた。
その一言に尽きる、最悪の状況だった。
痛撃により、対峙していたはずの敵を見失った。そこで偶然目に留まった存在へ、意識が移った。そもそも人間の識別ができず、走っていくリサーリットを流護と見間違えたのかもしれない。
その実際の理由など、対峙していた少年には知りようもなかったが――しかし確実なのは、ターゲットが切り替わった、ということ。
「ウソだろ、ふざけんなよおい……!」
手負いのズゥウィーラ・シャモアを全力で追いながら、流護は懐から取り出した石つぶてを撃ち放つ。首に命中するが、しかし怨魔は意にも介さない。前進する速度と分厚い短毛が、衝撃を殺してしまっている。
(ダメだ、頭に当てねえと……! もう一発――)
しかし。わずか五十メートル前後の距離、猛進する怪物の速度、焦った少年の手元が、阻止を現実のものとはさせず――
「くそ……っ、リサーリットさんっ! 逃げろ! 逃げてくれッ――!」
そんな言葉で、これから起こる現実は何も変わらないと理解していながら。それでもただ全力で叫ぶ以外、遊撃兵にできることはなかった。
断続し、次第に大きくなってくる――近づいてくる大地の振動。直後、後ろから聞こえた少年の叫び声。
「……、…………」
とうに影も形も見えなくなって久しい二号車、轍を頼りにその後を追おうと走っていたリサーリットは、確信にも似た嫌な予感を抱きながら振り返り――
「――――あ……、ああ」
想像した通りの現実に、ただ足を止める。
すぐ眼前。
まるで建造物のような巨大さ。
隻眼の右。赤眼の眼光が。
高みから、自分を……餌を、見下ろしている。
間近で見るとより大きく、恐ろしく感じるその威容。
こうしていざ正面から相対すると、怪物の貌はどこか嗤っているようにも見えた。
圧倒的な存在を前に――逃げようとか、闘おうとか、そういった考えが浮かぶことはなく。それどころか腰が抜け、その場にぺたりと座り込んだ。
夜だったら。夜だったら、きっと闘えるのに。ただ、そんな言い訳じみた言葉だけが何度も頭の中で反芻されて。
信じられないほど開かれて膨張する、怪物の口腔。ぐん、と伸びる首。無駄や躊躇の存在しない、捕食者の挙動。
リサーリットには、降りかかってきた闇が視界を包み込んだようにしか見えなかった。
「――――――」
流護はただ、呆然とその光景を眺めていた。
ズゥウィーラ・シャモアがしつこいほどに繰り返していた、限界まで開いた口部を覆い被せる――という捕食行動。
それに捕まってしまえばこうなるのだ、という答えがそこにあった。
目が合った。
助けを求めるような、すがるようなリサーリットの瞳が。怯えた表情が、被さってきた怪物の口腔によってすっぽりと覆い隠され――
へたり込んだ彼女を掬い上げるように口へ含んだ怪物は、そのまま首を真上に向ける。長い塔のようなその部分を、膨らみが落下していく。それはどこか、蛇が飲み込んだ卵みたいだった。
それで終わり。
呆気ないほどの一呑み。
わずか数秒で、人間が怪物の胃に収められたという現実。
「……………………」
――何だよこれ。
上手くいってたじゃねーか。
ただ立ち尽くし、思う。
昨日、オーグストルスやガーゲルメイラムとの闘いでは、犠牲やケガ人もなくきれいに勝利を収めることができた。
なのに、そこからたった半日。
ドボービークの大群と、このズゥウィーラ・シャモアによって、あっという間に死者が出て。
そして今、リサーリットが目の前で。
これがゲームか何かだったら、直前からロードしてやり直せんのかな、と。
起きた事態とその呆気なさから、そんな現実逃避めいた思考すら浮かぶ。
そして件の怨魔は、流護へと向き直る――ことなく、またもキョロキョロと首を巡らせ始めた。
左後方にいる少年には、まるで気付かない。鼻先を伝う血流のためか、嗅覚も鈍っているようだ。
しばし辺りを窺っていたズゥウィーラ・シャモアだったが、地面に残る轍を食い入るように見つめた後、二号車の消えていった先を凝視する。次の獲物を定めたように。
片目を失ったばかりでなお、『食』しか頭にないその思考……。
「――おい。いい加減にしろや、お前」
ここでようやく、遊撃兵は静かに爆発した。
駆ける。
警戒。戦術。牽制。
そんなものは微塵も介在しない、ただただ原始的な接近。
助走から勢いのまま、怨魔の左後ろ脚に渾身の蹴りを叩き込んだ。
ゴォン、と石壁を破砕したような打撃音が木霊する。
「どこ見てんだよ、ビチグソが」
そこでようやく気付いたのか。
首を巡らせた怨魔が、右の隻眼で自らの足元を見下ろす。左目のあった箇所から伝う血流が、雫となって流護の頬に滴り落ちた。
「シュッ――」
赤いぬめりを拭うことすらせず、少年は渾身の下段蹴りを叩き込む。日課の鍛錬で、サンドバッグを前にしたように。がん、ごんと硬質の音が平原を駆け抜ける。
しかし、揺らがない。相手の巨大さを考えるなら、家屋を素手で破壊しようとするに近しい愚行なのかもしれなかった。
それでも、打ちつける。分厚い感触を返してくる硬質の脚へ、右の下段蹴りを。立ち回りや戦術など、何もなく。
「……ッ!」
離れた位置に赤い筋を広げて転がる二つの死体。
目の前で人が捕食されるという場面。
「いーち、にっ」
少年からは、冷静さというものが消し飛んでしまっていた。
かつて、ミネットという少女が喪われたときのように。
かつて、ディアレーの洞窟で兵士の死を目撃したときのように。
自身が危機に陥るほど、際限なく冴え渡る。
師がいたく買ったその特性は、他者の危機に……死に際しては機能せず。
有海流護には未だ、眼前で次々と誰かが死ぬ光景を「はいそうですか」と受け入れられるほどの『何か』は備わっていなかった。
「三ッ!」
渾身の右ローが、パンと乾いた音を木霊させる。
連続したコンビネーションで、わずかに怨魔の巨体がガクンと揺れた。
「おっ。効いたか、こら」
さらに一発、二発。
建造物じみた巨躯が、かすかに傾ぐ。
「ヘシ折って生まれたての小鹿みてぇにしてやっからよ、そのまま死んどけ」
右腕を引き、渾身の正拳を打ち放とうとした刹那――
「!」
それはまるで、解体工事に使う重機のハンマーだった。
ごん、と鈍い音が木霊する。
横殴りの衝撃が、流護の身体を球のように弾き飛ばしていた。無造作に振り払われた首。その先端に接続された硬い頭部によって。
「……っ、……!」
軽く数メートルほど後方に吹き飛びながらも、流護は倒れず手をついて着地する。
咄嗟に掲げた両腕にて、この重撃の威力を殺していた。
「……ッ、し」
効かない。やれる。
そんな前のめりの意志に反し、
「……~~、な、」
腕は痺れていた。
どん、どんと二度の振動。
咄嗟に動かない腕へ意識を向けたその一瞬で、怪物は接近を終えていた。
衝撃。
反転する天地。
それまで当たらないよう慎重に躱し続けていた一撃によって、遊撃兵は二転三転しながら草原を転がり、大の字となって倒れ伏す。
「………………か……、……」
調子乗んな。今すぐ殺すからちょっと待ってろ。
滾らせる殺意とともに辛うじて起き上がろうとした流護だったが、膝を曲げて跪く。先走ろうとする戦意に、身体がついてこない。
脳震盪。回復までに、十秒。いや、もう少しだけ……。
日が落ちたような黒い影が、ぬっと覆い被さって――
そこからは、つい先ほどと全く同じ光景が繰り返された。
拾い上げる形で、怨魔が流護を口へ含む。垂直に伸ばされた長い首の内側を、ゴポンと膨らみが滑り落ちていく。
草原に静寂が訪れた。
二人を胃袋に収めた怪物は、その長い首と隻眼をしばし巡らせていたが――やがて、蹄の音も高らかに移動を開始した。
荒く刻まれた、車輪の形跡。轍の続く先。馬車の二号車が走り去っていった方角へと。
「…………、」
その場に到着したアマンダは、苦い表情で小さな息を吐き出した。
そこにあったのは、激しい戦闘の痕跡。
超大型の馬車にでも撥ねられてしまったかのような、兵士二人の死体。無残にへし折られて転がる並木。歪に陥没した大地。そして、土くれの地表を染める赤黒い血だまり。それは一見して、人のものか否か判別がつかない。だが……もし、人が――有海流護が勝利していたとするなら、なぜ彼の姿がないのか。なぜ怪物の死体がないのか。
その闘いにて勝利したのはどちらなのか。結果を察するまでもない。
「…………」
目をつぶったアマンダが、ただ静かにかぶりを振る。
かつて『ラインカダルの惨劇』を引き起こした異形。そんな存在と四体も遭遇したとなれば、これは当然の結果なのかもしれない。否、まだ途中だ。こんなものでは済まない可能性のほうが、遥かに高い。
「……」
ベルグレッテはどうしただろう。彼の死に取り乱しているのではないか。
「アマンダ。悔しがるのは後にしましょ」
血だまりの前で屈み込んでいたオルエッタが、立ち上がりながら静かに告げる。
「……!」
相棒の視線を追って、アマンダは息をのんだ。
道なき道を無理矢理に進んだことで地表へ刻まれた車輪の跡。その上にうっすらと浮かぶ巨大な蹄の形。それらを装飾するように一定間隔で撒き散らされている、朱色の痕跡。
考えるまでもなく、その状況は雄弁に語っている。流護を捕食した怪物が、馬車を追いかけていったのだと。
彼ですら止められなかった以上、もはや自分たち以外にあの怨魔と渡り合える者はいない。昼間のためリサーリットは頼りにできず、テッドやダーミーは仔のほうと交戦中のはず。飛躍的に腕を上げたとはいえ、ベルグレッテでは厳しい相手だ。否――そもそもリサーリットやベルグレッテを含めた全員が、今現在も無事でいる保証はない。
一刻も早く追わなければ、新たに『ルビルトリの惨劇』とでも銘打たれる悪夢となるだろう。
「行くぞ、オルエッタ」
「ええ」
二人の女騎士は頷き合い、馬車と怪物の残した痕跡を追う。




