30. プレデター
天空に輝くは、昼の神たるインベレヌス。その熱気が燦々と照りつけ、夏がすぐそこまで来ていることを実感させる。
「……あっつ……」
ベルグレッテはハンカチを取り出し、額の汗を拭った。
こんなとき、レノーレのような氷の使い手が羨ましい。
彼女に言わせれば、「……ずっと冷気を展開できるわけじゃないから、やめたときに余計暑いだけで、あまり意味がない」とのこと。それでもこの時期、水を喚び出したところでお湯みたいになっている自分に比べれば、遥かにマシだとベルグレッテは思ってしまう。
散歩がてらゆっくりと歩きながら、十三番街にある小さな公園の脇道へと差しかかった。日陰に入ったことで、すっと涼しくなる。周囲の建物に囲まれて位置するこの公園は常に日当たりが悪く、昼間でも人気のない場所となっていた。
それはまるで――都市の死角。
その死角を突くように、男はいた。
悠然と、ベルグレッテへ向かって歩を進めるその人物。身長は二マイレ弱。顔も体躯も、どこか岩を思わせる無骨な男だった。
その身に纏う衣服は、レインディールのものではない。ゆったりとした、異国の民族衣装。遥か東にある大国、レフェ巫術神国の衣だった。クラスメイトの一人、ダイゴスの出身国でもある。
双方の距離、約六マイレ。
そこで男は足を止め、口を開いた。発せられるのは、見た目通りのざらついた低い声。
「ベルグレッテ・フィズ・ガーティルード殿とお見受けする」
「……ええ。そうですけど」
ベルグレッテは、街中で男に声をかけられることも多い。
しかし、違う。目前のこの男は、明らかにそういった手合いとは異なる空気を帯びていた。
相対するだけで伝わってくる――殺気。
「我は、ボン・ダーリオ。薄汚れた仕事ではあるが……不意打ちを良しとしないため、このような形を採らせて貰った」
す……と、男は身構える。
「早くした方が良いぞ。妹の身を、案じるのならな」
「……私たちは、とんだ思い違いをしてたようね。あなたたち暗殺者の狙いは、姫様じゃない。最初から、私たち姉妹だった。……はぁ。どうしてもっと早く気付けなかったかなぁ」
ベルグレッテは自己嫌悪の溜息を漏らす。
リリアーヌ姫の『アドューレ』。そこへいつも通りに入ってきた、ならず者による妨害。直後、姫の下へ飛来した――かに見えた、炎の神詠術による槍のような一撃。
あれは最初から、姫を狙ったものではなく――
「まいったわね……私たち、暗殺者を仕向けられるほど恨まれるようなこと、何かしたかしら……」
暗殺者をけしかけられるなど、ただごとではない。
心に受けた衝撃を隠しきれずに言いながら、ベルグレッテは自身の周囲へ水を現界させる。
「なァに。人が人を殺めるにあたって、理由が怨恨だけとは限らんよ」
言葉と同時。ボンの周囲の景色がかすかに、ゆらりと歪んだ。
「熱……炎使いね。この暑い中、ご苦労なことで」
「現界すらしておらんにもかかわらず、気付くか。実に聡い。ここで殺めるには――少し、惜しいな」
ドンッ、と。爆発じみた勢いで、ボンの周囲に炎が現われる。
「『アウズィ』が一人、ボン・ダーリオ……参る」
「え……狙われてるのは姫様じゃなくて、私たち姉妹ですって……!?」
息を切らせながら、クレアリアが驚愕に目を見開く。
「ああ。多分、間違いねえ……!」
先ほど倒した刺客を引き取りに来る兵士を待たず、二人は十三番街の菓子屋、モンティレーヌへ向けて疾走していた。
「おかしいとは思ってたんだよ。昨夜の奴も、姫様を狙うことよりベル子たちと闘う方をずっと優先してた。けど、そうじゃない。最初から、姫様を狙ってなんかいなかったんだ」
「……っ、そういう、こと……!」
クレアリアにも、思い当たったのだろう。
リリアーヌ姫の『アドューレ』。最初のならず者による妨害の直後、あの炎の神詠術による狙撃。壇上のリリアーヌ姫を狙ったかに見えた一撃だったが、そもそも三人はあそこに密集していたのだ。あの一撃で、流護たち……いや、おそらくはあの場にいた全員が、『狙われているのはリリアーヌ姫だ』と勘違いしてしまった。
その後の路地裏での戦闘。
暗殺者は会話中の姉妹に仕掛けることこそあっても、姫に向かって攻撃することはなかった。流護と姫が逃げ出したときにも、阻止する素振りすら見せなかった。当然だ。姫は、ターゲットではないのだから。
「……私は……こんな性格だから、人に恨みを買うこともあるかもしれません。だけど、姉様は……!」
一応、自分の性格に自覚はあるんだな……と思う流護だったが、そこはもちろん黙っておく。
「怨恨じゃねえと思う」
「え?」
「まあ、二人の人付き合いとか、俺は分からねえけど……ただ、性格の全く違う貴族の姉妹が狙われる理由。となると多分、金か……でなければ――」
会話をしながら、見通しの悪い角を曲がる。
瞬間。
流護を先導するために一歩先を走っていたクレアリアが、爆発して吹き飛んだ。
「――――、な」
道行く人々の悲鳴が巻き起こる。
白い煙を吹き上げたクレアリアの小柄な身体が、まるでボールみたいに数メートルも転がった。
「クレアリアッ!」
流護は思わず叫ぶ。――が。
「……、っく!」
少女は転がった勢いを利用し、反動で起き上がった。地面を派手に転がったことにより砂や埃にまみれてはいたが、爆発によるものと思われる傷はなかった。
直撃はしていない。瞬時に、水の防御を展開したのだ。
「ククク……成程。便利だな、完全自律防御というのは」
甲高い、錆びついたような声だった。二人は声の出所へと顔を向ける。
突然の爆発に逃げ惑う人々の中、歩道に泰然と佇む男が一人。
行く手を遮るように立つ男は、禿頭だった。黒一色の服を着ているが、これまでの刺客のような、身体のラインがはっきりと分かるものではない。本来の体格が判別できないほどにゆったりとした、ローブらしきものに身を包んでいる。
痩せこけた顔つきだが、その双眸は獰猛な光を帯びており、餓えた猛禽類を彷彿とさせた。
「向こうではボンが楽しんでる頃だろうが……こちらはこちらで、楽しめそうだ」
ジュル……と品のない音を立て、禿頭の男が舌なめずりをする。
確定だ。暗殺者たちの狙いは――ベルグレッテと、クレアリア。
「クレアリア。ここは俺がやっから、早く行け。姉ちゃんとこにさ」
「えっ……」
珍しく、この少女が呆けた表情を見せる。
「姫様が言ってたけど、二人ならすっげえ強えんだろ。早く行って、加勢してやれ」
「で、でも……貴方、左腕が」
その言葉に流護はにやりと笑みを浮かべ、声を少し大きくして言う。
「――問題ねえよ。ハンデとしちゃ、まだ足りねえぐらいじゃねえの?」
ぴくり……と。禿頭の暗殺者は、その言葉を受けて額に青筋を浮き上がらせた。
「あっ。聞こえちゃった? すんませんね……えっと……ハゲの人」
「――何だ? お前は」
「んーと……何だって言われると困るな……ま、アンタよりは余裕で強いと思うけどさ」
男は気味が悪いほどニコリとした満面の笑みを浮かべ、その顔のまま手を横に振るった。
ゴウッと音を立てて、テニスボールほどの大きさの火球が飛来する。流護は、それを右拳で打ち払った。
軌道の逸れた火球が、歩道脇の建物に当たって爆発を起こす。降り注ぐ石の破片に、居合わせて様子を見ていた人々がクモの子を散らしたように逃げ、いよいよ周囲が無人となった。
(……このハゲ)
打ち払った右腕が、ビリビリと痺れを訴えた。
無造作に放たれた、小さな火球。あの一撃に、エドヴィンのスキャッターボムを上回る威力が内包されている。そう認識した。
流護は足元に転がってきた石の破片の一つを、男に向かって蹴り飛ばした。
暗殺者は一歩も動かず、自分の周囲に炎の渦を出現させて石を弾き飛ばす。その隙に、クレアリアが脇道へと飛び込んだ。
「……ち」
目標を逃がしてしまったことに気付き、男は忌々しいとばかりに流護を睨みつける。
「そんな青スジ立てて睨まんでも」
その刺客はまたも笑みを浮かべて、ひどく馴れ馴れしい声で語りかけた。
「良かったのかい? 行かせてしまって。姉の下に辿り着く前に、他の者に襲われるかもしれんよ?」
「ねえな。アンタさっき言ったろ。『向こうでナントカが楽しんでる頃だろうが、こっちはこっちで楽しめそうだ』って。つまりベルグレッテに刺客が一人、クレアリアに刺客が一人。そういう分担なんだろ?」
す……と、男の表情から笑みが消えた。
その代わりとでもいうように、禿頭に浮かぶ無数の青筋。
「分かりやすいなーおい。ほれ、さっさと始めようぜ。アンタが派手にカマしたせいで、すぐにでも兵士が飛んでくるんじゃねーの?」
「問題ない、その前に終わる。『アウズィ』のシヴィーム。お前を殺す男の名だ。憶えておけ」
はっきり「殺す」と宣言されても、恐怖や緊張は感じなかった。
上回っている。
こんな下衆どもが、あの二人を……ベルグレッテを狙っているという事実が、流護を猛らせる。怒りが、負の感情を――上回る。
「有海流護、ただの一般人だ。憶えなくていいぞ。トラウマになるだろうからな」
双方、歪に口の端を吊り上げ――
刹那。
大地を蹴って接近した凶相の二人が、激突した。