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終天の異世界と拳撃の騎士  作者: ふるろうた
8. プログレッシヴ・イーラ
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298. 頂点捕食種

 周囲に満ちていた深緑の匂いが、むせ返るような獣臭に塗り潰された。


 周囲の風景と比較して、縮尺や遠近感が狂っているのではと思えるほどの長躯。とてつもなく大きな、鹿――に似た異形。

 塔さながらに長い首をゆらゆらと揺らしながら、ズゥウィーラ・シャモアは眼前の人間たちを見下ろしていた。

 ――それはどこか。

 食卓に並べられた色とりどりの料理を前に、どれから食べようか迷っている子供めいた無邪気さで。


 過去に討伐事例はある。だが、それはわずか十五年前、『ラインカダルの惨劇』の一度のみ。

 まともに正面からぶつかったなら、犠牲がどれだけ出るかも分からない。仮に勝てたとしても、馬をやられればお終いなのだ。


 不気味すぎる巨怪を睨んだまま、アマンダが低く指示を飛ばす。


「……全員、私の合図と共に散開。一号車はこの場に放棄。乗員は馬だけ回収して離脱。狙いを分散させるため、二号車と三号車はそれぞれ別の方向へ。この二台は何としても死守だ。それから――」


 攻撃、ではないのだろう。

 例えるなら、真上からすっぽりと布袋を被せるような。

 信じられないほど柔軟に大きく開かれた口部は、奥深い洞窟を思わせた。細身の人間など、簡単に収まってしまうに違いない。

 実際にそれを示すがごとく。

 ズゥウィーラ・シャモアは首を傾け、アマンダの頭上から覆い被さる形で顔を近づけた。それはただ、眼前の餌を捕食しようとするだけの挙動。

 そうして女騎士を丸呑みにすべく迫った巨顔が、直前で空中展開された氷の薄板へと激突した。その衝撃が、細かな白氷を宙に舞わせる。

 頭上へ手をかざし、氷の防壁を屋根のように展開維持しながら、アマンダは頬を引きつらせて笑った。


食事作法テーブルマナーのなってないデカブツね。人がまだ喋ってる途中でしょうが……!」


 首をしならせて、ズゥウィーラ・シャモアが顔を引く。

 もちろん、諦めたのではない。

 その反動を利用し、氷の防壁へ凄まじい頭突きを叩きつけた。二度、三度。巨大な戦鎚じみた豪打が、白銀の天板目がけて容赦なく振り下ろされる。


「グッ……!」


 響く轟音と衝撃。振動する大地。

 オーグストルスの打撃に身じろぎすらしなかったアマンダが、苦悶の表情で歯を食いしばった。


(あれがアマンダさんの防御術……、でも)


 流護は無意識に唾を飲む。

 恐るべきは怨魔、その巨体による力任せの乱撃。

 並の人間ならば、文字通り叩き潰されて地面の染みと化していることは間違いない。


「うっ……」

「ア、アマンダ殿!」


 歴戦の兵士たちですら怯み、尻込みする光景。

 そこに術理や戦法といったものは存在しない。食事を邪魔されて暴れるという、単純極まりない原始暴力。しかし圧倒的な規模で繰り出されるそれは、小さな存在でしなかい人間に本能的な恐怖を抱かせた。

 防御に徹しながら、アマンダは声を張り上げる。


「く……、よ……し、散り散りになって馬車を死守! こいつは私たち二人が受け持つ! オルエッタ、任せたわよ!」

「ええ」


 怪物の豪打に削られ、パラパラと舞い散る凍壁の薄氷。その真下で顔色ひとつ変えず頷く白装の麗人の返答を受けて、


「――総員、散開ッ!」


 飛んだアマンダの号令に従い、各員がそれぞれ行動に移った。

 放棄する一号車からは乗っていた兵士たちが飛び出し、ここまで車体を引いてきた馬二頭を解放。手際よく二人の兵がそれぞれの背に跨がり、離脱を開始する。

 物資を積んだ二号車、研究員らを乗せた三号車は、それぞれ道を外れて反対方向へと緩い傾斜を駆けていく。

 団員たちも分かれた二台の馬車に随伴する形で、それぞれ全力疾走を開始した。

 この場に留まって闘うアマンダとオルエッタ。傾斜を下っていく二号車。その反対側へ駆けていく三号車。

 ここで隊は、三つに分断させられることとなった。

 そんな混迷の元凶となったズゥウィーラ・シャモアは、クモの子を散らしたように遁走していく兵たちには目もくれず、アマンダの頭上へ展開された氷の薄板に頭突きを繰り返している。


「……発狂しすぎだろ、あのバケモン……。自分の思い通りにならんでブチギレたクレーマーみてーだな……」


 猛り狂う怨魔も怨魔だが、それを防ぎ続けているアマンダの技量も凄まじいものがある。

 そんな光景を尻目にしつつ、流護は素早く視線を巡らせた。


(俺は……どうする?)


 さすがに咄嗟のことで、兵の均等な振り分けができていない。二号車についていく者のほうが多く偏ってしまっている。それなら――


「リューゴ、三号車が手薄よ! 私たちで行きましょう!」

「お、おう、分かった……!」


 考えをまとめるより早く、ベルグレッテが駆けてきた。頷き合い、博士たちを乗せた三号車を追い始めようとして――


「う、わあぁあぁ――――ッ!」


 青い森に、空気を切り裂くような凄まじい絶叫が木霊した。






 その瞬間。

 人々は、神に問うていた。

 なぜ、と。


「な、……に……?」


 眼前のズゥウィーラ・シャモアを押し止めながら――辛うじて振り返った、アマンダが。


「これ、は」


 同じく悲鳴の出所へ目を向けた、オルエッタが。


「……そん……、な…………」


 三号車への追従を開始しようとした、ベルグレッテが。


「何だと!? こ、れは……! どういう状況だ……!」

「そっ、そんなっ……! こ、こんな馬鹿なことが……ッ!?」


 同じく馬車につこうとした、テールヴィッド兄妹が。


「…………へぇ~~……これはまた……」


 駆け出そうとしていた、ダーミーが。


「どう、なって……」

「嘘、だ……」


 馬車を追って走り出していた、多くの兵士たちが。



 二号車が向かう先、木立の合間。そこからおもむろに現れた巨影。

 即ちもう一体のズゥウィーラ・シャモアを目にして、誰もが絶望の淵へと叩き落とされた。


 そして三号車が向かう先。

 体躯こそかなり小さめではあるものの、二体のズゥウィーラ・シャモアが、唐突に森の中からまろび出た。



 十五年前、猛威を振るった悪夢のような怨魔が――カテゴリーAに分類される正真正銘の怪物が、計四体。

 絶望の縁で、一行は否が応にも悟る。

 自分たちは――餌として、すでに囲まれていたのだと。狙いを定められていたのだと。



「くそっ……くそおぉあぁ――!」


 二号車の御者台に跨がった若い兵が、やけくそ気味に鞭を振るう。行く手に突如として現れた怨魔を回避すべく、全力の手綱捌きで馬の進行方向を変えた。

 一瞬の英断と称えるべきだろう。馬車は乗車室を傾けながらも旋回に成功し、ズゥウィーラ・シャモアの巨躯では入り込めない、木立の密集した斜面を下っていく。

 新しく現れた当の怪物は、柵越しに『お預け』を食らったような惑う素振りを見せたものの、すぐさま二号車と併走し始める。

 次に動いたのは――この場でただ一人、神の存在を信じぬ少年だった。


「リューゴっ!?」

「俺が行く! とりあえず二号車がやべえ!」


 ベルグレッテの声に振り返らず答え、一目散に二号車の救助に向かう。馬に匹敵する流護の走力ならば、整っていない悪路を行く車両に追いつくことは決して難しくない。


「くっ!」


 一拍遅れて、ベルグレッテもそんな遊撃兵の後を追った。


「く、そ……こうなったら……!」

「やるしかねえぇ! 行くぞちくしょうッ!」


 我に返った兵士たちが、動いた二人を見て次々と走り出す。それぞれ、自分から近いほうの馬車へと全力で駆けていく。

 爆風を伴う飛翔で滑空したダーミーが、三号車の屋根に着地する。


「こっちは、私がつきますよ~」

「くそったれええぇ、頼むぜダーミーさんよぉ!」


 三号車の御者を務める大男が、野太い声と共に手綱を捌く。その後を、二体の小さなズゥウィーラ・シャモアが追い始める。


「リサ! どこだ!?」


 同じく三号車へ駆け出したテッドは、この混乱の中で傍らに妹の姿がないことに気付いた。


「兄さん!」


 やや離れた位置。皆が駆け出す中、二号車寄りの位置にリサーリットの姿があった。


「く……! リサは二号車を! だが、絶対に闘おうとするな! 昼間のお前の勝てる相手じゃない!」

「……、了解っ!」


 兄は三号車へ向かって駆け出し、妹は二号車を追う。


「く……皆――、」


 アマンダは氷壁を維持しながら、散り散りになっていく同胞たちの姿を横目に捉えて――


「アマンダ、前!」


 オルエッタの鋭い声にハッとして、視線を眼前の敵へと戻す。


「ッ!」


 頭突きを繰り出すため反動をつけた、ズゥウィーラ・シャモアの首と頭。

 これまで『縦』に振りかぶられていたそれが、『横』に変わっていた。それは――万物全てを倒壊させるかのような、恐るべき薙ぎ払い。

 人の胴より太く長い首が、大理石じみた固さの頭部が、土くれの地面を削りながら真横の軌道でしなり飛んだ。

 直撃を受けて、背後に放棄された無人の武装馬車が横倒しとなる。幸いというべきか、それで一撃の威力が弱まった。


「――……、ぬう、ううぅ! くぅっ!」


 アマンダは氷壁を横に再展開して受け流し、大きく後方へ跳ぶ。威力を殺しつつ、素早く間合いを取った。

 薙ぎ払いを華麗に躱していたオルエッタと二人、怪物を挟み込む形で立つ。


「ったく……人が動けないのをいいことに、散々好き勝手やってくれたわね。このデカブツ」


 兵たちは全員がこの場から離脱した。もう注意を引きつけておく必要はない。被害を気にせず、全力で闘える。


「そんなに空腹なら、色々たっぷりとご馳走してあげるわ。死ぬほどね」






 ――甘かった。

 言葉の通じない巨怪に向かって挑発的な軽口を叩きながら、アマンダ・アイードは内心で歯噛みしていた。


 通常、カテゴリーA以上に分類される怨魔は単独で活動すると考えられている。

 理由は大まかに二つ。

 一つ。強大な力を持つがゆえ、群れて外敵から身を守る必要がないこと。

 一つ。巨体を維持するため多量の食糧が必要となるが、複数体で行動した場合、充分な量の餌にありつけなくなってしまうこと。

 ゆえにランクA以上の個体が複数、同一地域内で活動することはない。それが定説であり、アマンダも常識としてそう考えていた。経験上、これを覆す事態に遭遇したこともなかった。


 しかし、これまでの状況は暗に語っていたのだ。

 広大なルビルトリ山岳地帯、原初の溟渤となる以前から怨魔の棲み処だったこの地にしては、あまりに敵と遭遇『しなさすぎた』こと。その要因としてズゥウィーラ・シャモアの棲息は充分予測できたが、それでも怨魔の数が『少なすぎた』こと。

 この『暴食』と呼ばれる怪物が複数いると仮定したなら、辻褄が合っていた状況なのだ。

 しかし常識にとらわれ、そんな可能性を考慮しなかった。したくなかったのかもしれない。こんな怪物が二体以上存在するなどという、悪夢のような仮定を。しかし、その悪夢は現実として突きつけられた。ロック博士を始めとする研究者たちですら、これほどの事態は想定していなかっただろう。


 個々の大きさから考えて、この四体のズゥウィーラ・シャモアは一家。親と子。

 広大かつ、原初の溟渤と化したことによって潤沢な資源を蓄えたこの地。本来であればもっと早く子も自立するはずだが、餌が豊富なこの場所に群れて留まっていたのだ。

 怪物たちがいつからこの地に居座っていたのかは不明だが、


(仮定しておくべきだった、ということか……。こんな冗談のような状況すら……)


 この場所は――人の常識など通用しない、前人未踏の禁じられた地。怨魔の習性すら捻じ曲げる、禁断の魔境。原初の溟渤。


「アマンダ、反省は後にしましょ。まずはこの一匹をささっと片付けなきゃ」


 常のおっとりした雰囲気からは一転――禍々しい黒剣を携えたオルエッタが、敵を見上げて静かに告げる。


「仔の方の二匹は、ダーミーさんたちが片付けてくれるはず。もう一匹のおっきな方は、アリウミ遊撃兵が抑えてくれるとは思うけど……素手の拳足が主となる彼じゃ、ちょっと相性が悪いわね。倒すことは難しいはず。私たちがコレを片付けて、一刻も早く援護に行く。それ以外に道はないわね」

「……ああ、そうだな……!」


 悔いている時間などない。

 ひとまず敵は四体。さすがに五体目以降のズゥウィーラ・シャモアがいるとは考えたくないが、そんな都合のいい楽観は捨てるべきだ。

 まず見えている敵を確実に、速やかに排除する。ここで自分たちが遅れれば遅れるほど、犠牲者が出ることになるのだから。


「氷神よ……その偉大なりし力の一端、我に授け給え!」


 猛々しい女騎士の喚び声に応え、氷の嵐が渦を巻いた。






「よし……!」


 悪路を行く二号車にいち早く追いついた遊撃兵は、並木を隔てて併走する鹿めいた怪物を仰ぎ見た。何かの間違いかと思うような巨大さ。涎を垂らしながらもどかしそうに疾駆する怨魔、その血走った眼球は、ただひたすら馬車のみを視界に収めている。すぐ後ろへ迫ってきた流護には目もくれない。


(こいつ……)


 このズゥウィーラ・シャモアという異形。つい今ほどアマンダを狙い続けていた一体もそうだったが、最初に『喰う』と決めた相手を執拗に追う習性があるようだ。


(けど、当然……ターゲットを切り替えるはずだ)


 大きめの石を握り込み、遊撃兵は確信と共に振りかぶる。


(スルーできねーほどの一撃を受けりゃあ、な!)


 全霊の一投、狙い澄ました偏差射撃。

 空を裂いて飛んだ石弾は、ズゥウィーラ・シャモアの横っ面に見事直撃した。鈍い打撃音。長い首がぐらりと傾ぎ、軽快に進んでいた蹄がたたらを踏んで止まる。

 そうして、怨魔は振り向きながら見下ろした。鹿に似た躯体ながら、鹿からはあまりにかけ離れたおぞましい貌。濁った赤目の中に浮かぶ黒々とした眼球が、遥か下方――手のひらで小石を弄ぶ少年の姿を捉える。

 温度の感じられない視線にゾッとしたものを感じつつも、流護は不敵に笑ってみせた。


「よう……やっと俺に気付いてくれたかよ。スルースキル高すぎだろ」


 当然ではあるが、そんな言葉に反応を示すでもなく。

 ズゥウィーラ・シャモアは、並木越しの俯瞰から流護をじっと凝視している。直前まで自らが追っていた相手――走り去っていく馬車には、目もくれずに。


(やっぱな。思った通りだ、こいつ)


 ターゲットが、切り替わった。

 二兎を追わない。切っ掛けが何であれ、意識した『一つのみ』を攻撃対象と定める性質。

 不幸中の幸いかもしれない、と流護は内心でホッとしていた。自分がこの怪物を引きつけている限り、他の誰かが狙われることはないからだ。


(にしても、あわよくば大ダメージとか思ってブチ当てたんだけど……マジで『こっちに気付いただけ』かよ、こいつ……)


 ドラウトローの頭部すら吹き飛ばす投撃を受け、無傷。


(しかもこいつ……なんかデカくね……?)


 アマンダたちが引きつけている個体より大きいかもしれない。三階建ての建物ほどもありそうだ。すぐ隣にそびえている木よりも高い位置に頭がある。


(鹿……っつーより、首の長さと背丈を考えるとキリンっぽいな……。まあ、キリンにしちゃ不恰好っつーか……凶悪になったアルカパみたいな……?)


 どことなく、生物として異質な肉体の均衡。

 頭の大きさと首の太さが尋常ではない。人間などすっぽり収まってしまうことは確実だ。そんな敵に頬を引きつらせながら、流護はその場で身構えた。


「ゆ、遊撃兵殿!」


 林に隠れた兵士の一人が、遠巻きに声をかけてくる。


「こいつは俺が引き受けます! 皆さんは馬車を追ってください!」


 怪物と睨み合ったままそう返した――、瞬間だった。

 響く轟音。軋む並木。

 ズゥウィーラ・シャモアが、流護との間を阻む木立に体当たりを仕掛けていた。巨体が生み出す凄まじい衝撃に、決して脆くないはずの幹がメキメキと破滅の音を響かせる。


「う、うわあ!?」

「こっ、こっちに来るぞ!」


 近くにいた兵士たちがそれぞれ泡を食って退避した。

 粉砕し、舞い散る枝葉。

 再三のぶちかましで若木を数本まとめて叩き折ったズゥウィーラ・シャモアが、駆ける。


「――がっ!」

「げは!」


 その巨大な蹄によって、近くにいた兵士二人が信じられないほどあっさりと蹴飛ばされた。ばしゃあ、と赤い線を大地に描きながら、彼らの身体が転がっていく。


「! てめ……!」


 そんな兵士たちにはまるで目もくれず。

 大地が揺れたのはわずか二度。睨みつける流護の目前へ、怪異はわずか二歩で到達した。


(ッ、速……!)


 その巨大さは、信じられないほど速さに直結していた。

 いざ自分の目で仰ぎ見て、トンネルみたいだ、などと思った。獲物を飲み込まんと迫る、開け放たれた口腔。その前部上下にズラリと規則正しく並ぶ、臼めいた歯の列。まるでゴムのような伸縮性をもって大きく裂けた口が、流護の真上から覆い被さる形で降ってきた。


「うおっ!」


 間一髪で避ければ、勢い余って大地に激突した怨魔の顔が足元を揺らす。

 そんな空振りもお構いなし、巨怪は流護を一呑みしようと何度も首を振るった。

 それは例えるなら虫取り網だ。流護という虫を目がけて振り下ろされる、ズゥウィーラ・シャモアの口という網。

 しかし『虫』も簡単には捕まらない。


「シッ!」


 幾度となく被せられる『網』を躱しざま、反撃の針を突き入れる。


「らあっ!」


 捕食を外した顔部に、拳や蹴りを打ち入れる。

 ――が、


(硬ってぇ……!)


 頬、鼻先、口元。どこを叩いても分厚いゴムタイヤみたいな感触が返り、流護は顔をしかめた。生物である以上、例に漏れず頭部は弱点のはず――なのだが、わざわざ顔から突っ込んでくるだけあって、どの部位も恐ろしく硬い。ずっしりした厚みと弾力が感じられる。

 至近で目の当たりにして初めて気付いたが、頭頂部の肉厚は思ったよりも薄そうだ。脳天に強烈な打撃を叩き落とすことができれば有効そうだが、そもそも上を取ることが難しい。


(だったら――)


 飽きもせず覆い被さってくる口腔を躱し、


「ここだ!」


 縦になった怨魔の顔、大きく裂けた口のやや上部――即ち左目へ、渾身の右拳を叩き込んだ。弓なりの軌道を描いた一撃が、ガンと今までにない手応えを返し――


(は? 『ガン』……?)


 ジロリと向けられた巨眼と、目が合った。


「……なっ、に……?」


 拳を『眼球に受けながら』、瞬きすらせず。ズゥウィーラ・シャモアは、バレーボールほどもある見開いた左目で――直に押しつけられた拳を、流護を凝視していた。


「……ッ」


 思わずよろけながら後退すれば、怨魔は何事もなかったかのように鎌首をもたげ、眼下の流護を俯瞰する。


「……マジか……ファーヴナールの目ん玉だってブチ抜いたんだがな……」


 頬を引きつらせ、思わずそうぼやいていた。

 それは――顔ごと突っ込んで餌を捕らえる、という豪快な習性を持つがゆえなのか。硬い。眼球ですらも。


(『餌』の多少の反撃なんざ、どこに受けようと屁でもねえってか……!)


 とはいえ、積み重ねるしかない。目を何度も叩くか、脳天に対する打撃も狙いたいところだが――

 腹を括って身構え直す流護に対し、怨魔はこれまでと異なる行動を取った。低く身体を屈め、首を横に振りかぶり、


「く……、うおっとぉ!?」


 まるで連接棍フレイル。しならせた首の反動を利用し、真横の軌道で頭部をぶん回す。それは豪快なまでに巨大すぎるスイング。凄まじい攻撃半径が、周囲の地面から草葉と砂塵を巻き上げた。直撃を受ければ、武装馬車ですらひっくり返るかもしれない。


「野郎……!」


 すんでのところで飛びずさって回避した流護は、その絶大なリーチを警戒して間合いを取った。


「っと!?」


 そこへ息つく間もなく突っ込んでくる巨大鹿。まるで箒のように首を左右へ振りながら、前方一帯を頭突きで薙ぎ払う。


「うらっ……!」


 流護はあえて相手の懐へ飛び込み、股下を潜ることでこれを回避した。

 勢いよく互いを通り過ぎた双方は同時に振り返り、しばし睨み合う。


「んだその、メチャクチャな動きは……!」


 なかなか捕まらない餌に業を煮やしたのか。愚直なまでに繰り返していた捕食行動から、明らかな攻撃行動へと切り替わった。

 丸呑みしようと迫ってきたところに反撃を当てることができた、先ほどまでとは違う。よくしなる首の先端についた硬い頭部は、物騒極まりない鈍器そのものだ。あんな風に振り回されては、迂闊に近づくこともできはしない――


(……ん? 近づけ、ない……?)


 そこに妙な違和感を覚え、流護は怪物を注視した。当然、怨魔という存在から表情や内面を読み取れる訳ではないが――


(こいつ、もしかして……)


「リューゴっ!」


 そこで聞こえてきたのは、なじみある少女騎士の声。ズゥウィーラ・シャモアを引き止めるためこの場所まで全力で駆けつけた流護だったが、置いてくる形になった彼女が追いついてきたのだろう。


「ベル子、こっちは大丈夫だ! 二号車を頼む!」


 敵から目を離さず声を張れば、わずかに逡巡するような間があった。


「……、分かったわ。けどくれぐれも、無茶はしないで……!」


 これまでは流護の身を案じ、不安がることの多い少女騎士だったが、最近では『信じて委ねる』割合が増えつつあった。

 おう、と返しつつ視線を横向ければ、二号車の走り去っていった方角へ駆けていく銀色の背中が多数確認できた。そこにベルグレッテの後ろ姿も加わる。

 先ほど怨魔に蹴飛ばされて転がった兵士二人は、もはやピクリとも動かなかった。……というより、首がおかしな方角を向いてしまっていた。


(…………)


 新たに死者二名。しかし馬車はズゥウィーラ・シャモアの標的から外れ、随伴の兵士たちも狙われることなく後を追えている――


(俺がここでコイツをやれば……少なくとも二号車の護衛については、これ以上の犠牲は出ないで済むはずだ)


 怪物が地を蹴り、一挙動で間合いを詰めた。鉄球じみた頭部をぶん回し、流護を薙ぎ払わんと肉薄する。


「っと……!」


 丁寧に間合いの外へ逃れつつ、首の届かない位置へと移動し続ける。一方の怨魔は意地でも頭突きを当てるつもりなのか、しつこく方向転換しながら追いすがる。


(カテゴリーA……『暴食』、ズゥウィーラ・シャモア……)


 最初はその迫力に圧倒されていたが、落ち着いて対峙することで、見えてくるものがあった。

 気性は極めて荒い。ただ標的を丸呑みにしようとする行動そのものが、恐るべき攻撃手段となっている。これは人間を含めた小さな生物にとって、絶望以外の何物でもないだろう。

 流護がそんな捕食行動や振り回される頭突きを躱せているのは――今現在『戦闘』が成立しているのは、ひとえに特異な身体能力のおかげだ。

 全てを無慈悲に喰らう『暴食』。山に棲息する生物たちを根絶やしにしかねないというその業は、厄災と呼んで相応しいものに違いない。


 しかし、遊撃兵は確信を得ていた。

 かつて死闘を繰り広げたファーヴナールやプレディレッケと比して、この怨魔には圧倒的に足りないものがある。


「ふっ――!」


 潜り込みざま、細長い脚に拳を叩き込む。欲張らず、その一撃のみで離脱に移る。頭突きの来ない股下を抜けて、相手の背後へ。首を巡らせて、怨魔が振り向く。


(そう……何回目だ、このパターン)


 ファーヴナールは、多彩な攻め手を持っていた。爪や牙はもちろん、胃石を撃ち出すという飛び道具や、巨大な両翼による飛行能力も備えていた。

 プレディレッケは、もはや全身凶器と呼んで差し支えない存在だった。鎌、口吻、牙、羽、尾針――全てが鋭利な刃そのものだった。それらを余すところなく駆使し、流護、ディノ、ダイゴス、ドゥエンの四人を同時に相手取りながら撥ねのけるという、凄まじい立ち回りをも披露している。


 だが、このズゥウィーラ・シャモアは違う。

 突っ込み、相手を喰らおうとする。あるいは、頭突きを見舞う。もしくは、自重を乗せた体当たりをぶちかます。

 無論、いずれの威力も凄まじい。しかし身体構造上、攻撃行動がそれしか存在しない。鈎爪や羽、尻尾を持っていない。脚で『故意に』敵を蹴り飛ばす習性もない。死亡した兵士二人は、運悪く撥ねられる形となってしまったが――その四肢は躯体に比したなら、そこまで発達しているとはいえない(とはいえ、流護が少し殴った程度ではびくともしないのだが)。


 そのうえで――


「おっと」


 近づくズゥウィーラ・シャモアに対し、流護は余裕を持って下がる。目前を、ハンマーのような頭部が通過していく。

 現時点で少年が警戒しているのは、頭突き『だけ』だった。

 自分の足元程度の大きさしかない相手に、並木をへし折ったような体当たりは仕掛けられない。

 そして、


(今のこいつは、俺を喰おうとしない。できない)


 それは、先ほど覚えた違和感の正体。

 当初はひたすら流護を丸呑みにしようとしていたズゥウィーラ・シャモアだったが、ある時を境に捕食行動を行わなくなった。

 即ち、


(ヤツの眼球を殴った後からだ)


 つまり、効いていたのだ。左目に直で拳を受けながら瞬き一つしなかった怨魔だが、ノーダメージではなかった。だからこそ、そういった反撃を警戒して単調な捕食をやめた。流護が近づけないよう、頭を振り回すようになった。


「へっ……『暴食』にも喰えねーもんがあったみてーだな」


 挑発的に笑ってみせる流護だったが、


(さて……どうすっかな)


 実のところ、戦闘は奇妙な膠着状態に陥っている。

 反撃を嫌がり、ひたすら頭を振り回す怨魔。頭突きしか来ないと読めているため、安定して避けることができる流護。一方的に攻撃を受け、決定打を返せない流護のほうが不利ではあるが――


(一丁……ぶちかましてみるか!)


 いつまでもこうしてはいられない。二号車やベルグレッテらが駆けていった先に、別の脅威が待ち受けていないとも限らないのだ。

 流護は深く腰を落とし、どっしりと身構えた。対峙する巨怪も何かを察したのか、迂闊に飛び込まず静かに俯瞰する――。

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