297. グラ
探し物こそ見つからないものの、二日目の行軍は順調だった。
怨魔や獣と遭遇することなく、怪しい箇所を念入りに調べていく。
「ロックウェーブ博士、あの場所はどうでしょうか?」
「うーん……よし、調べてみますかねえ」
一際大きな窪地を発見し、馬車から降りた研究者一同が調査を開始する。
まず最初に、風使いの兵たちが術を用い、一帯を念入りに吹き払う(ダーミーなどは、この作業を行う場合もポケットに手を入れたまま脚を振ることで術を発動していた)。悪しき気やら何やらを浄化するため――という名目だが、これは有毒ガスの滞留を警戒しての処置である。その真実を知っているのは、流護とロック博士だけだ。
安全を確保した後、研究員たちはそれぞれ窪地の中に散開し、彼らを守る形で兵士らが周囲を見張る。
流護は何となく手持ち無沙汰だったため、博士と一緒に行動し、調査の様子を眺めていた。
……と、少し離れた位置で屈みこんでいるテールヴィッド兄妹のやり取りが聞こえてくる。
「む……兄さん、見たことのないキノコだ。小さくて可愛い……」
「リサのほうが可愛いよ」
「兄さん……それで私が喜ぶと思っているのか……?」
そんな二人の様子を何となしに眺めていると、
「む……こ、これは……!」
岩場に屈み込んだ博士が、白い粉のようなものをピンセットで慎重に摘み上げた。
「まさかそれが……」
「うん。ただの苔だね」
「んなこったろうと思った」
「でもボクらとしては……固形化した魂心力っていうのは、まさにこんな感じの外観なんじゃないかと予想してるんだけどね」
大きな岩にびっしりとへばりついたそれらは、霜か汚れにしか見えない。仮に固体の魂心力が博士の考えた通りの見た目だったとしても、間違えて多量の苔を持って帰ってしまいそうだ。神の産物と考えられている魂心力を苔と間違えた――などということになれば、それこそ教会関係者が助走をつけて殴りかかってくるかもしれない。
「間違えないように、サンプルとして持ち帰ろうかな。……う~ん、それにしても」
いそいそと作業しつつ、博士が惜しむような声を漏らした。
「どうしたんすか?」
「いやあ、つくづくカメラが欲しいなと思ってね。やっぱりこういう現地調査には、欠かせないアイテムだよ」
「……、」
そんな博士の言葉を聞いてふと思い立った流護は、それとなく周囲を見渡した。誰も見ていないことを確認し、ひっそりと切り出す。
「……博士。カメラなら、ありますよ」
「えぇ……!?」
さすがの博士がギョッと目を剥いた。
説明するより見せたほうが早い。密かに上着の内ポケットへ忍ばせていたそれを取り出した。
「……おや、それは……?」
「いや……見ての通り、ケータイっすけど」
博士の妙な反応に戸惑いながらも、電源ボタンを長押しして起動する。
色はピアノブラック。コンパクトな薄型ではあるが、元は父親のお下がりだ。今の最新機種からは随分と遅れた旧型である。ガラパゴスどころか化石だろう。本当にちょっとした連絡に使えれば充分だったため、契約プランも必要最低限のものにしか入っていない。
『11/04 09:17』と日時が表示されているが、これが地球時間で正確なものかどうかはすでに怪しいところである。もちろん電波のアンテナは立たない。
この世界ではもはや何の意味もない物体と成り下がってしまったため、おもちゃ代わりとしてミアに貸したりするのだが、彼女が『充電』した折に表示がバグってしまうことがあった。正規の充電方法でないのが祟ったのかもしれない。一度『78/39 31:88』になったのを見たときは、ついに時計としても使えなくなったかと一抹の寂しさを覚えたものだ。
以前久しぶりに電源を入れた折、日付などは一見して正常に戻っていたが、時刻が大きくずれていたので、月日のほうも怪しいだろうと踏んでいる。
ちなみに今回なぜ持ち歩いているのかというと、ミアへのささやかな土産として珍しい写真でも撮って帰るつもりだったからだ。
それはともかくとして、
「えぇ……? それ、携帯電話なのかい……!?」
「そうですけど……どうかしたんすか?」
どうも博士の反応がおかしい。目を白黒させている。
「ち、ちょっと見せてもらってもいいかな!?」
「はあ、どうぞ」
差し出してみれば、博士は様々な角度から携帯電話を眺めつつ、興味深げな様子で唸っている。
「どうしたんすか? 博士」
「いやいや。今のケータイってこんななんだなあ、と思って」
「……? ああ、」
『現代日本』の少年は、そこでようやく気がついた。
ロック博士――岩波輝は、十四年前の携帯電話しか知らないのだ。
電子機器の類などは、その間に飛躍的な進歩を遂げている。十四年前といえば、当時の流護は一歳。物心すらついていないその頃から現在に至るまでで、性能や外観が変わっていない品などほとんどないのではなかろうか。
「うーむ……今はこんなにコンパクトな形になってるんだねえ。……ボクの知る頃とは、何もかもが変わってるんだろうなぁ」
「……、」
様々な思いが詰まっているだろうその呟きに、生まれ落ちて十五年、異世界へ迷い込んで数ヶ月の若輩が返せる言葉は何もなかった。
「おっと、ごめんごめん。えーと、このケータイのカメラ機能を使えば……」
「あ、はい。何だかんだ解像度も充分だし……かなりきれいに撮れると思いますよ」
「じゃあせっかくだから、少し借りてもいいかな?」
「どうぞどうぞ」
操作方法を軽く説明し、バッテリーがへたって消耗が早くなっている旨も伝える(そのため普段は電源を切っている)。手当たり次第に写真を撮っていては、あっという間に電池切れとなってしまうだろう。
周辺の調査へ戻る博士を尻目に何気なく首を巡らせると、
「……?」
坂の上――これまで通ってきた道、馬車を停めている辺りにそびえている大きな木の下で、ベルグレッテとアマンダ、オルエッタが何やら忙しなく動いている。よくよく見れば、木の枝に赤い布を巻きつけているようだ。
(何してんだ、あれ……?)
博士は念願のカメラを手に入れたためか、より精力的に調査に没頭している。
近くをうろうろしても邪魔になりそうだったため、手持ち無沙汰となった遊撃兵は彼女らの下へ行ってみることにした。
「こんなところかしら」
ちょうど作業が一段落したのか、アマンダが腰に手を当てて眼前の巨大樹を仰ぎ見る。
手を伸ばして届く程度の高さの枝に、大きな薄手の赤い織物が巻きつけられていた。やたらと目立つ真紅のそれは、風に吹かれてバサバサと揺らめいている。かなり遠くからでも目につくだろう。よく見れば、中央に黒字で『1』と書かれていた。
「……ん、リューゴ君か」
やってきた流護に気付き、アマンダを始めとした女性陳が振り返る。
「この旗みたいのは何ですか?」
「見ての通り旗よ」
にべもなくアマンダが即答する。説明不足と思ったのか、すぐさま自分で補足した。
「正確には、合流地点の目印ね」
「合流……?」
「今のところは皆で順調に進めてるけど、この先何があるか分からないからね。万が一、隊が分断しちゃった時のための合流地点……その一つにするのよ。ここを」
一定の距離を進むごとに、これと同じ旗を設置していく。設置するごとに、書き入れる数字を『2』『3』と増やしていく。
例えば『4』と記入した旗を残してしばらく進んだ後、不慮の事態によって分断を余儀なくされることがあれば、各員が『4』の地点を目指して戻るのだ。探索の結果『2』や『3』にたどり着いてしまった場合は、行きと同じようにそこから『4』を目指せばよい。
「まっ、ほとんど気休めみたいなものだけどね」
苦笑するアマンダの言う通り。
この策を使うなら、旗の立てられた道を見失わないことが前提となる。分断された末に道が分からなくなってしまえば、戻るのは極めて困難になるだろう。方角を誤って旗より先へ進んでしまっても、また無意味なものとなる。
山道が予想よりも一本道だったため、とりあえず保険としてこの方法をとってみることにしたらしい。
「まあ、これに頼るような事態が起きないことを祈るばかりかしらねー」
旗を見上げるオルエッタのそんな言葉に、流護は心底同意した。
しばらく念入りに窪地を調べていた研究員たちだったが、やはりと言うべきか収穫はなし。早々に見切りをつけて、一行は前進を再開することにした。
窪地の調査も幾度か終わり、『6』の旗を立てた直後のことだった。
「うおっと、ありゃあ……」
前を行く一人の声に釣られて目を向けた流護は、
「!」
思わずその光景を前にビクリとした。周りの兵士たちもにわかにざわめく。
何らかの大型獣の死体が、道外れの薮に打ち捨てられていた。クマ――だろうか。食い荒らされたその黒い巨体は、生々しい血肉と白骨を剥き出して、異質なオブジェさながらに転がっている。
遊撃兵として場数を踏み、死体にも慣れてきた感のあった流護だが、やはりこういったものをいきなり目にすると驚いてしまう。
「……あれは……アーマードベアか。新しいねえ」
伝声管から流れてきたのは、訝るようなロック博士の声だった。
「え?」
「あの死体さ。腐食してないどころか、血が乾いてすらいない」
「……、」
そう言われて流護も気付く。
その意味するところは、つまり――
そこで、隊の前進が止まった。
黒々と茂る木立に囲まれた道の中途。
自然と、先頭を行くアマンダの足が。追従する兵や馬車が。合図もなく、申し合わせたように。
流護も同じく歩みを止める。
「……この地へ踏み入って以降、気に掛かっていたことがある」
アマンダの声は決して大きなものではなかったが、静かな森にそのハスキーボイスを遮るものは何もない。
「これまで過去にも、多くの調査隊が様々な場所に発生した原初の溟渤へ挑んできたそうだが……いずれも例外なく、そこへ巣食う怨魔によって全滅……もしくは撤退を余儀なくされていると聞く」
彼女が何を言おうとしているのか。流護を含め、全員が続く言葉に耳を傾ける。
「だが今回、我々はほとんど怨魔と遭遇していない。現時点で、わずか三度のみ。そのうち一度は、異常な規模の群れを成したドボービークだ」
――ずしん。
そこで少しだけ、地面が揺れた気がした。
「なぜ、これほどまでに怨魔と遭遇しないのか? あのドボービークの大群は何だったのか? あそこで転がってるアーマードベアは自然死したのではない。争った跡が見受けられる。ランクBの怨魔にすら引けを取らない猛獣だが、何者にやられたのか?」
「た、隊長……まさか」
アマンダの言わんとしていることを察したのか、兵士の一人が震える声で呼びかける。
「ファーヴナールを始めとした例外はいるが、怨魔同士というものは存外に共生する。ドラウトローとルガルが互いにいがみ合うことすらせず、同じ川の水を飲んでいたなんて報告もあるほどだ。そのように奴等があまり潰し合わないからこそ、人が怨魔の巣窟に入り込めば、多種多様な連中に次々と襲われることになるワケだけど――」
今回、そのようなことが全くない。
考えられる仮説は一つしかない、とアマンダが低い声で断言する。
「本来この地にいるはずの怨魔たちは、とある何者かによってほぼ駆逐された」
ずん、とまた少しだけ地面が揺れる。
「昨日のドボービークは、一丸となって何者かから逃げようと大移動している最中だった。例の春先の件……ファーヴナールに追われて学院に駆け込んできたっていう、あのドラウトローみたいにね」
またも地面が震える。その振動は少しずつ大きく、頻度は多くなっていく。
「そこのクマは喰われたばかり。つまりその『何者か』は――今、私たちのすぐ側にいる」
流護はそこでようやく気がついた。
先ほどから一定間隔でわずかに感じる振動。これは、巨大な何かが歩くことによって引き起こされているのだと。
「周りにいる者を等しく根絶やしにする怪異。怨魔すら食い尽くす、共生の枠から外れた例外たる存在。私には、一つしか心当たりがない」
大きくなる地面の振動。ざわめく兵士たちが次々に身構える。
流護はすぐ隣の伝声管に呼びかけた。
「は、博士。何なんすか? 何がどうなってんすか? つまり、何かやべぇのが近くにいるってことすか!?」
「……ボクもアマンダさんと同意見だ。危険は覚悟していたつもりだったけど……これは、とんでもない相手に当たっちゃったね……」
答えになっていないような返答だった。が、真剣みを帯びた――かすかに震えている声から察する。あのロック博士が今、動揺しているのだと。
振動が一際早く、大きくなった。まるでゆっくりと歩いていた巨大な何かが、こちらに気付いて駆け寄ってきているかのように。
「総員、備えろ……!」
腹を括ったアマンダの号令が飛ぶ。
彼女の隣を見れば、オルエッタが腰の黒剣を抜き放っていた。オーグストルスやドボービークの大群を前にしても余裕げだったその顔は、別人のように引き締められている。
さらにその隣では、ベルグレッテが緊張した面持ちで周囲に気を払っていた。
ダーミーは変わらずだが、その軸足を強く踏みしめて警戒態勢に入ったことが分かる。
テールヴィッド兄妹も、寄り添って目つきを鋭くした。
兵士たちもそれぞれ武具を手に、決死の表情で身構える。
「……、」
向かってくる音と小刻みな揺れ。とてつもない何かが近づいているのを予感した直後、
「――――……!?」
とてつもないソレが現れた。
流護は思わず呆然とその姿を凝視する。隊の進行方向からは向かって右。木々の疎らな緩い傾斜を、長く細い四本の脚で駆け降りてくる。大きな蹄が地を蹴るたび、呼応するかのごとく地表が震えた。
高みにある木立の枝を揺らし、あるいは強引にへし折りながらやってくる様子は、まるで気軽に暖簾を潜っているかのようでもある。
歩幅が大きいゆえ、驚くほど速い。軽快な足取りでやってきたその存在は、部隊の行く手を塞ぐ形で立ちはだかった。
既存の動物で例えるならば、鹿。
スラリとした四肢、長い首。しかし華奢な印象はなく、灰色の短毛に覆われた全身には力強さが満ちている。
そして何より、
「で……でけえ……」
ちょっとしたビルを見上げるようだった。兵士たちからもざわめきが漏れる。
脚の長さだけで二メートル強はあるだろう。手を伸ばしても届かない高みにある分厚い胴体を経由し、長い首から頭部まではどれほどになるか。
全長は恐らく六、七メートル。とにかく縦に長く、見下ろされる威圧感がつきまとう。その遥か高みの頂上から、ポタリと透明な液体が滴った。それは大きな口から零れ落ちた涎。鹿に似た体躯ながら、その顔はおよそ草食動物からかけ離れた造形をしていた。
「……ッ、」
流護の背筋をゾッとしたものが伝う。
誰にだって分かる。きっと何も知らない子供でも。前後不覚に陥った酔っ払いでも。
こいつはやばい、と。
まず、顔の下半分が口。だらしなく開け放たれたその部分からは、異常に並びのいい白い歯がこれでもかと列を成しているのが覗いており、言い知れぬ怖気を誘う。どことなく人間の口部そっくりで、それが不気味さを助長している。
そして顔の上半分は、巨大な楕円の両目で占められていた。赤目の中でギョロリと動く、濁った緑の瞳孔。その色彩も毒々しく、ただただ無機質で、冷たさ以外に何も感じられなかった。
「なん、だよ……こいつは」
かすれきった流護の問いには、伝声管を通した博士の声が答えた。
「十五年前に発生した『ラインカダルの惨劇』で確認されるまで、討伐事例は皆無。動物、植物、怨魔、人……ありとあらゆるものを捕食対象とする異常なまでの食欲から、付いた渾名は『暴食』――」
呪いの言葉を吐き出すように、その名を告げる。
「カテゴリーA……ズゥウィーラ・シャモア……!」




