296. 最初の夜明け
「よーし皆、疲れてるところ悪いけど、さっさと移動しちゃうわよー」
アマンダがしめやかな空気を破ってパンパンと手を叩けば、兵たちが「了解!」と一斉に応える。悲嘆に暮れていた者たちも、引きずったりはしない。
派手な戦闘を終えたばかり。ついに死者も出てしまった。ゆっくり休みたいところだが、そうはいかない。
もうじき、夕方が終わり完全な夜を迎える。元から薄暗い森のうえ、日照時間も短くなりつつある季節。真っ暗闇となるまでにあまり時間がない。できる限り早めに、今夜の寝床となる場所を見繕う必要があった。
森の明るさ的には今も夜も大差ないのだが、ドラウトローのように夜行性の怨魔というものも数多く存在する。夜間の移動は避けるのが定石だった。
何より、今この場所はドボービークの骸がこれでもかと積み重なり、むせ返るような死臭が漂っている。居心地の悪さもさることながら、血の匂いに釣られて他の怨魔や猛獣がやってくる前に移動してしまうべきだろう。浴びた返り血や汗などを拭うための水場も探したい。
一行は、激戦の余韻も覚めやらぬうちに移動を開始するのだった。
幸いにしてすぐ、それなりに大きな清流を見つけることができた。川沿いを歩いて、外敵に見つかりづらい天然の防壁となりそうな岩場を探す。
妥当な場所を見つけ、付近に魔除け効果のある杭を打ち立て、簡易結界術を張り巡らせる。内部に馬車を落ち着け、テントを張り、休息できる空間を作り上げる。壁こそないものの、即席の小さな村のようなものができたといえるだろう。
が、これにはどうしてみようもない欠点があった。
魔除けのため原則として低ランクの怨魔は寄りつかなくなるが、当たり前というべきか通常の動物――つまり猛獣の類は防げないのだ。水際で火を起こし、大人数で集っていれば、入り組んだ岩場とはいえどうしても目についてしまう。
ドボービークの血臭を流しきれていないこともあってか、宵の口には流護もよく知らない獅子のようで虎のような生物が襲いかかってきた。
しかしそこは屈強な兵士の一団である。見事返り討ちにし、獣は夕食の彩りとして一品添える役目を果たすことになった。
少しずつ、夜が更けていく。
いざ空が完全な闇に包まれてしまうと、さすがに昼よりも深い暗さになった。
交代で不寝番を立て、外敵――主に獣の襲撃を警戒する。
「……アリウミ遊撃兵。交代だ。起きられよ」
馬車の脇で仮眠を取る流護を起こしたのは、女騎士リサーリットだった。
「ん……あ、ども。了解っす」
「…………ふん」
不機嫌そうに鼻を鳴らした彼女が、停泊している馬車の中へと入っていく。
そうして流護も朝方の警備を受け持ったが、幸いにして敵襲を受けることはなかった。同じく番をしている兵らが相当数いたが、あくびを噛み殺している者も多い。
どこからか時折、獣の遠吠えのようなものが聞こえてくる程度で、基本的には静かな明け方だった。
「おう、お疲れだ遊撃兵さん。一杯どうだい」
「あ、いえ」
かすかに白んでいく空を望む中、一人の中年兵士が酒瓶をちらつかせてくるが、当たり前というべきか流護は断った。この異世界には未成年の飲酒に対する規制などは存在しないようだが、やはり日本人少年の感覚としては抵抗がある。というより一応は仕事中だ。
隣の岩場に腰掛けてきたこの男は、昼間戦死した三人の埋葬を共にこなした、あの巨体の中年兵士だった。
「どうにも眠れなくてなぁ。簡易的な結界を張ってるとはいっても、やっぱりここは怨魔の巣の中だ。落ち着かないよ」
ぷはー、と酒臭い息を吐きながら、男は暗い森を眺めて零す。
「はは……分かります」
「初日で三人脱落……。ここが原初の溟渤だってことを考えると、少ねぇ方なのかな。お互い、最後まで生き残りてぇもんだね。ま、あんたは心配ねぇか。俺なんかはさ、もちろん死にたくねーことは死にたくねーけど、何せこんなでっけえ身体だろ? おっ死んじまったら、俺の死体を埋めるヤツに申し訳が立たないよ。はっはははは」
大柄の男は、明るく豪快に笑った。
「俺が死んだら、丁寧に埋めてくれよな遊撃兵さん」
「今、自分で申し訳が立たないって……。嫌っすよ、埋めるのは。だから、生き残りましょうよ」
「……、そうか。ああ、そうだなぁ。……ふっ、あんたぁいい奴だな。これ、もらってくれ」
「?」
そう言ってゴソゴソと腰のポーチを探った彼が差し出したものを受け取ろうとして、
「うわあああぁ!?」
流護は思わず手を引っ込めた。全力、かつ神速で。
「なんでぇ、どうしたい」
不思議そうな顔をする男が指に摘んでいるそれは――うねうねと蠢く、太い芋虫だった。
「ななな何で!? 何でそんなモン手渡そうとしてんすか!? いい奴だって言っておきながら嫌がらせ!?」
「ははは。何だ遊撃兵さん、意外と繊細だな。こいつぁ、カルケの木が生えてる森なんかでよく捕れる虫なんだが……貴重な栄養源になるんだぜ」
そう言って、男は動いているそれを平然と自分の口の中へ放り込んでしまう。
そして、容赦なく上下する顎。聞こえてくる、ぶちぶちと噛み潰す嫌な音。
「う、うええええ……。い、いや……食料持ち込んでるんだし、わざわざそんなもん食わなくても……」
「節約だよ、節約。俺みてえなデカイ図体した大食らいは、少しでも節約せんとな。それによ、ザルバウムの肉なんか食うよりは百倍マシだろ?」
「えっ」
「何だ、どうした」
「い、いや……何でもないっす」
「ふむ。遊撃兵さんは若ぇし、森での生活も始まったばっかだし……コッチのほうがいいか」
そう言って彼は、背中に担いでいた別の荷袋をがさごそと探る。長い野外生活に備え、色々と持ってきているようだ。
「お近づきの印だ。これをやろう」
「な、何すか……?」
それは筒状の白い物体だった。いきなり芋虫を手渡されそうになった身としては、ついビクビクしてしまう。おっかなびっくり受け取ると、
「や、柔かい……」
何だろうか。縦長で、先から先まで十五センチほど。プニプニとした触感が心地よく、中央を縦に貫通する形で穴が開いている。巨大なちくわのようだ。
「……つか、何すかコレ?」
「いや、何って……。まさか知らんのか? 見ての通りさ、オンターの素材を使った性具だよ。その穴にイチモツを通して、こう……」
「性……、イチ……!?」
つまり日本だとジョークグッズとかって呼ばれるアレですか!? 驚きのあまり、ボトリと取り落としてしまう。白いそれは柔かさを主張するように、ぽよんぽよんと弾んだ。
「何でぇ何でぇ、随分と純粋な少年だな、遊撃兵さんはよ! 腕っ節やらカラダはすげぇのに、ソッチ方面はからっきしかい? 微笑ましいじゃな――」
「い、いやいや……からかわんでくださいよ。こんな穴じゃ、小さくて通らないじゃないすか~、またまたご冗談を」
「えっ」
「えっ」
明るさを増していく空。目覚め始めた鳥たちの囀りが、チュンチュンと静かな森に木霊する。
「……ゆ、遊撃兵さんは、そのカラダに違わぬご立派なモノをお持ち、と……」
「え!? い、いやそ、そんなことないって……!」
「うるせぇ! かー! 創造神よ! なぜこの少年にはイチブツもニブツも、ついでにご立派なイチモツをもお与えになったのか! さすがに不公平じゃ~ありゃしませんかい!」
「声でけえよ! やめて!」
朝っぱらから天を仰いで叫び出した大男を慌てて制止する。
「へっへっ……そういやぁ、遊撃兵さんはベルグレッテ様と懇意なんだったか。となりゃ、こんな代物もいらねぇってことかい……」
「え!? い、いや……そういう訳じゃ……」
「まっ、しばらく人目のある集団生活が続くからな。俺みたいな女っ気のねぇ寂しい一人モンは、こうしたブツも必要になってくるのさ。若い連中なんかは、いつの間にかくっついて番いになっちまうヤツも出てきたりするがね」
「は、はぁ」
どんなに栄誉ある任務を請け負っても、遂行するのはただの人。まして長い野外生活。
死闘を潜り抜けようと仲間が倒れようと、腹は減るし眠くもなる。人間の三大欲求、そのふたつには抗えない。
となれば、残る『もうひとつ』についても推して知るべし、といったところか。
むしろ男の場合、危険な状況下でこそ、種の保存を優先するためにそういった欲が働く……といった話を聞いた覚えがある。
「でも、その……そんなモン、いつ使うんすか? 人目があるのに」
「そら、用足しに行った時とかによ……チョチョイ、と」
「早ェ!」
「だが……」
男は首を巡らせ、周囲を取り囲む森の木々へ目を向ける。
「この森……何て言ったモンかね。漂う独特の気配が、そんな気持ちも起こらなくさせるっつーか……」
それは流護も感じていた。澄んだ空気と静謐な雰囲気が、そういった煩悩を洗い流していくような感覚。
例えば流護としてはあまり寝れなかったが、さして眠気も感じない。
これも特異な霊場の何かが作用しているのだろうか。
「とにかく、だ。今後もよろしく頼むぜ。遊撃兵さん」
「あ、はい」
やがて辺りがすっかり明るくなり、眠っていた皆が起き出してきた。
青い霧が漂っているとはいえ、やはり朝と夜では明度が違う。枝葉の隙間から空が望めるこの川岸では、それがより顕著に感じられた。
そうして無事、原初の溟渤での最初の夜が明けた。
「どうぞ、お使いください」
「あ、どうもすいません」
この時期、早朝はもはや肌寒い。それが山中となれば尚更である。川べりには、青い霧とはまた異なるかすかな薄靄がかかっていた。
流護は兵士の一人から、たらいになみなみと張られた湯を受け取った。火の神詠術で温めてもらった川の水である。
「博士、お湯もらったすよ」
「…………」
「博士?」
「…………」
「ロックはーかせー」
「あ、ああ。ごめんごめん」
座り込んで川の流れをぼーっと見つめていた白髪の研究者は、肩を叩かれてようやく我に返ったみたいに反応した。
「どうしたんすか。サバイバル生活初日で、もう疲れちゃいましたか」
「はは……珍しい体験で緊張してるのは確かだね。でも、流護クンたちは命がけで矢面に立って闘って、夜の番までしてくれてるんだ。安全な馬車で匿われて、夜もぐっすり眠ってるボクが、簡単にへこたれるワケにはいかないさ」
研究者はメガネを外しながら笑い、湯気の漂う温水で顔を洗う。
「そこは気にする必要ないと思いますよ。博士たちと俺らじゃ、役目が違う訳だし。博士たちは、ここでなんか凄い魂心力とかを発見するのが仕事。俺らは、博士たちが調査に専念できるようサポートするのが仕事。それだけの話ですって」
流護も顔を洗いつつそんな意見を滲ませれば、博士はどこか満足そうに微笑んだ。
「いやあ……流護クンは、すっかり兵士の顔になったねえ。うん、実に頼もしい」
しみじみ言う顔は、メガネを外しているせいもあってか、歳相応のくたびれた日本人男性に見えた。
「な、なんすか。それより、顔洗ってしゃっきりしてくださいよ? さっきみたいにボケッとしてて、大事なもん見落としたりしたらアレですし」
「ああ、うん。さっきはね、別にぼーっとしてたワケじゃないんだ。ちょっと気になることがあってね」
顔を拭き終えてメガネをかけ直した博士は、すっかり研究者の顔に戻っていた。
「気になること?」
「さっきアマンダさんとも話したんだけどね。昨日のドボービークの大群が少し引っ掛かってるんだ。あれだけ大規模な群れを成して襲ってくるなんて、普通じゃちょっと考えられない」
「ああ……ありゃさすがにウンザリでしたね」
弱めの個体とはいえ、常軌を逸した数だった。戦死者も出てしまっている。この先同じような目に遭うことは正直避けたい。戦闘も大変だが、汚れや臭いを落とすのも一苦労なのだ。
「まあゲームだったらバランス悪すぎって叩かれてるレベルでしたね、あれは」
「ふむ。バランス……バランスか……」
「ああいや、適当に言っただけなんで、そこは気にしなくても」
「いや……この原初の溟渤で何らかの事態が発生し、生態系のバランスに影響を及ぼした。その結果、ドボービークが異常行動に出た……なんて可能性も充分考えられるなあ、と思ってね」
「おおー。研究者っぽいすね」
「いや、研究者だからね」
しばしの談笑と簡素な朝食を終え、実働隊は二日目の探索を開始した。




