294. 奥地の灯火
深まってきた森を行きながら。
「今、何時だっけか」
流護がそう呟いたのには、理由があった。
「午後……二時になるわね」
懐中時計を取り出して答えたベルグレッテの声も、わずかながら緊張を帯びている。
午後二時。真っ昼間というべきその時間帯にありながら、いつしか周囲は不自然なほど青い薄闇に覆われていた。
馬車にはカンテラが灯され、一部の兵士たちは松明を持っている。
昼とも夜ともつかない不思議な視界の中、実動隊の面々は慎重に歩を進めていた。
流護も辺りに気を配りながら三台目の馬車について歩いていると、伝声管からロック博士の声が聞こえてきた。
「流護クン、ちょっとアマンダさんを呼んできてもらっていいかい?」
注文に従い、先頭を行く彼女を呼び止める。部隊は一時、進行を中断した。
「よし。それじゃ少しの間、警戒態勢にて待機よろしくー」
アマンダの指示通り、流護も周りへと目を走らせた。
森は不気味なほどの静けさに包まれている。
結局今のところ、怨魔との遭遇は泉でのオーグストルスと、道中のガーゲルメイラムのみ。順調に進んでいる、といえるだろう。……しかし。
「こんなもん、なのか……?」
「どういうこと?」
思わず漏れた流護の呟きを、隣のベルグレッテが拾っていた。
「ああ、いやさ。思った以上に怨魔と会わねーなと思って」
あれはもはや遠く懐かしい、グリムクロウズにやってきたその翌日の話。
流護はベルグレッテと二人、ミディール学院へ向かうため、ウェル・ドと呼ばれる小さな森を抜けた。あのときは、十数分間隔でコブリアやドラウトローといった怨魔たちと遭遇している(後者がいたのは特殊な事情あってのことだったが)。
それを考えたなら、原初の溟渤と化したこの場所、それ以前から怨魔が常在しているとされるこの山にしては、あまりに怪物たちと遭遇『しなさすぎる』のでは、と流護には思えたのだ。
その点について少女騎士に話してみれば、彼女は「たしかに……」と考える素振りを見せた。
「まあ、こっちは大人数でゾロゾロ歩いてるしなあ。怨魔の方が避けてる可能性もあんのかな」
「それはあるかもしれないね」
「あっ、やっぱテッドさんもそう思うっすか」
ふらりとやってきた『銀黎部隊』の青年も同意する。
基本的には人間と見れば有無を言わさず襲ってくる怨魔という存在だが、そこは一個の生命である。敵わないと分かっている相手に、わざわざ向かっていくようなことはないはず。
泉で遭遇したオーグストルスなどは、この六十人にも及ぶ大所帯ですら餌だと判断して襲ってきたのかもしれない。事実これだけの人数とはいえ、仮に全員が闘う力を持たない平民だったなら、あの二体に為す術なく全滅させられていたのではないだろうか。
植物系の怨魔ガーゲルメイラムに対しては、進行の妨げになる位置に陣取っていたため、こちらから仕掛けた形となっている。
(うーん……ただ……何だろな)
敵と遭わないのであれば、それはむしろ喜ばしいことである。
だが、ただ単純に『大人数で突っ込めば怨魔が警戒して寄って来ない』というのであれば、原初の溟渤が前人未踏の魔境と恐れられることもないだろう。そんな楽な話ではないはずだ。
(なんか、妙な静けさっつーか……)
この場に本来いるはずの怪物たちが不自然に消えてしまったかのような雰囲気が、少年の胸中をざわつかせた。
「ふむ……了解しました。ではお願いします、博士」
しばし伝声管を通じて会話を交わしていたアマンダとロック博士だったが、それも終わったらしい。
「諸君、ロックウェーブ博士から話がある。謹んで聴くように」
そんな彼女の言葉を合図に、馬車の扉を押し開けてロック博士が姿を現した。
「えぇーとすみませんね、皆さん。ボクの方から少し、今後の動き方について説明をと思いまして」
咳払いひとつ、博士は兵士たちの顔を見渡して話し始める。
「ご覧の通り、我々は青い霧が立ち込める一帯へと踏み入りました。いよいよ、原初の溟渤……その内部へ進入することができたと判断します」
兵士たちの幾人かが頷いた。流護も肌で感じ取っている。今までとは毛色の違う場所へ入り込んだ、と。
「我々の最終目的は、純度の高い魂心力を回収することです。原則としてはこの原初の溟渤の中心部と思しき場所を目指し、進軍していくことになりますが……その過程の部分……道中でも、目標物や新発見が得られる可能性がありまして」
博士は咳払いを挟み、にこやかに続けた。
「兵士の皆さんには、『窪地』を探していただきたいんです」
「窪地、と言いますと……?」
「そのままの意味です。周りに比べて、こう……軽く抉れたみたいに、ベコッと低くなっている場所ですね。そういった地形を見つけていただきたい」
博士は両手を上下させて高低差を表現しつつ、質問してきた兵士にそう答える。
「専門的な話は長くなるので省きますが、目標はそういった場所で見つかる可能性が高い……と我々は踏んでいます」
歩きながら窪地を探す。発見したならまず研究員に報告。無闇にその場所へ踏み入ることはしない。
博士の語る概要はそのようなものだった。
「ではそんな方針で、よろしくお願いします」
話も終わり、一団は前進を再開した。
暗く静かな、代わり映えのしない山道を行く。
木々の合間に伸びる道はかなりの幅があり、幸いこの武装馬車ですら悠々と通ることができる。所々木の根がのたくっており、さすがに整備されているような気配は皆無だが、かつては真っ当な行路として使われていたのでは、と思えるほどだった。
遥か昔、この山には人が住んでいた時期があったのかもしれない。
(うーん)
山について思い馳せることで時間を潰していた流護だが、そう結論したところで考えることがなくなった。
ベルグレッテは今、少し前のほうで『銀黎部隊』の女騎士リサーリットと会話しながら歩いている。
「ベルは……本当に、飛躍的に腕を上げたのだな。見事と言うほかないよ」
「いえ、そんな……。まだまだ至らぬ身です」
「私は……自分が情けない。未だに昼間は、本当にただの足手まといにしか……」
「そ、そんなことをおっしゃらないでください」
「……すまんな。私が自分を卑下しては、お主も接しづらいよな……」
「いえ、あまりお気になさらないでください」
「幸いにして、もうすぐ私の時間が来る。夕刻以降であれば、しっかりと仕事をさせてもらう」
ふむ、と流護は胸中で納得した。
テッドはリサーリットのことを「本当は優しい子だ」と言っていたが、実際にその通りなのだろう。手厳しくなるのは、自分のような神の加護を持たない人間に対してだけだ。
(なんか、最初の頃のクレアみたいだな……)
などと思いながら、俺も誰かと雑談したいなーと周囲を見渡す。
猫背でハンドポケットのままよたよた歩くダーミーと目が合った。
「…………」
「…………」
うん、そんな親しげに話せる知り合いがいねーや。
流護はガラガラと進む三号車に寄って、数少ない知人に話しかけることにした。
「あの、ロック博士。聞こえますかー?」
「あーはいはい。何だい?」
三号車の伝声管に呼びかければ、当人から応答があった。暇潰しも兼ねて、気になっていたことを尋ねてみることにした。少し、声を潜めながら。
「あの……リサーリットさんって、『銀黎部隊』なんすよね?」
「ははは。疑問に思ったかい」
「いえ、なんつーか……」
昨日の昼間、絡んできた男たちに手を掴まれるも、抵抗らしい抵抗もできず。そして数時間前、ガーゲルメイラムとの戦闘ではあのような結果となっている。
「彼女は特殊な体質……と言っていいのかな、魂心力に対して非常に変わった順応性を示していてね。昼間は、ほとんど強力な術を使うことができず、また身体能力も低下してしまうみたいなんだ。その代わり、夜が来ると……」
「……強くなる、ってことすか?」
「らしいよ。ボクも、実際にこの目で見た訳じゃないんだけど。ま、陛下が今回のメンバーに抜擢したっていうことは、そういうことなんだろうね」
「はー、なるほどな。にしても、昼は力が出せなくて、夜には強くなるって……なんか、吸血鬼みたいっすね」
「うん。不思議だよねぇ。彼女は本当に特殊でね、不可思議な部分が多いんだ。シャロム君も常に興味津々だよ」
「やっぱ詠術士にも、色んな人がいるんすね」
ピンと背筋を伸ばしてきれいに歩くリサーリットの後ろ姿を眺めながら、そんな相槌を打った。
「あ、そだ。さっきの話ですけど……窪地ですごい魂心力が見つかるかも、ってのはどうしてなんすか?」
「ああ、それはね」
元来、説明好きなのだ。博士の声音に楽しそうな響きが混じる。
「前に……あれは『蒼雷鳥の休息』の頃だっけ。ボクがした話を覚えてるかい? この星の重力では本来、大気が宇宙空間に拡散してしまうはずだ……っていう」
「あー、はい。何となく」
この惑星は地球よりも重力が弱い。そのため、地球と同じように大気を地表へ引きつけておくことができない。つまり空気は薄くなるか、なくなるかするはず。……なのだが、実際はこの世界でも地球と何ら変わるところなく、同じように呼吸することができる。
「まあ検証のしようもないから、仮説もいいところなんだけどね。魂心力と混じり合った大気っていうのは、『重く』なってるんじゃないかと思うんだ」
魂心力の混在した、いわばグリムクロウズ産の空気は、地球のものより重い。だから、この重力下でも地表に滞留することができる。
「であれば、純粋な魂心力……混じりっ気なしのそれは、もっと重いんじゃないかって考えられると思わないかい?」
「あ……! そういうことか。何となく分かりましたよ」
日本にいた頃、ニュースで見た覚えがある。
ある登山者が、何もない窪地で倒れているところを発見された、といった内容だった。目立った外傷もなく、意識をなくした理由も不明――と思われたが、その原因は『ガス』だったと判明する。
空気より重い有毒ガスが、周囲と比べて低くなっている窪みに滞留した。知らずそこに入り込んだ登山者は、これを吸い倒れてしまった。
魂心力も同じ。空気より重いのであれば、そういった窪地に溜まり込むはず――
「諸君、一旦停止!」
そこでアマンダの雄々しい声が響き、隊の前進が止まる。
何事かと流護含む一行が目を向けた瞬間、
「居るな」
前方の青黒い闇を見つめたアマンダが低く言葉を紡いだ。
「いるわね~」
その隣のオルエッタも、いつもと同じ穏やかな表情のままで言う。
直後。
隊の前方一帯で、小さな光点が無数に瞬いた。細々とした輝きを放つそれらは、蛍の群れか星空の煌めきと見紛いそうになる。
事実、
「き、きれいじゃないの。何かしら……?」
流護の近くに立つ女性兵士が、少しうっとりとした声音でそんな感想を漏らしていた。
――しかし。
「バ、バカ……! 何がきれいなもんかよ……見ろよ、あれ……!」
すぐ隣の若い男性兵士が指差す先を凝視し、女性は「うっ」と息を飲み込んだ。兵たちが掲げる松明に照らされ、その光の正体が露わとなる。
体長は四十センチ程度。顔だけで二十センチほどもある、見事な二頭身。直立二足歩行で、ばっくりと裂けた口が笑みのような表情を象り、その上半分を占める血走った大きな目玉が二つ。体毛は長く、薄汚れたような緑色。苔や草と紛れるための保護色になっているようだ。
細部はやや異なるように見えるが、流護はこれによく似た生物を――怪物を知っている。
「コブリア……か?」
カテゴリーは最低ランクとなるE。この世界へやってきたばかりの流護が最初に遭遇した怨魔であり、訳も分からないまま撃退に成功した相手でもある。攻撃術を使えない平民たちでも追い払うことが可能な害獣で、その驚異度は低いといえるだろう。
だが、
「あれは……コブリアじゃないよ」
伝声管から、やや緊張を帯びたロック博士の声が流れてくる。
「……識別名はドボービーク。カテゴリーはD。コブリアから派生した種であることは確かだと思うけど……凶暴性や能力は格段に上だね」
「ゲームとかの色違いモンスターみたいなもんですかね」
「はは……そうかもねぇ。んー……それは、いいんだけど……」
「ああ、それはいいんだけどさ……」
遊撃兵と研究者は、全く同じような言葉を残したまま絶句する。
続くはずの言葉は発せられることこそなかったが、二人共……いや、この場にいる皆が同じことを考えているに違いない、と流護は確信を抱くことができた。
即ち。
何匹いるんだ、こいつら――と。
蛍の群れか星空の煌めきと錯覚したそれは、全てが松明の光を反射したドボービークの眼だった。
前方周辺、その全て。
木陰に、樹上に、薮に、その周囲に。数えきれないほどのドボービークたちがひしめきつつ身構え、こちらの様子を窺っている。
(百……いや、もっとか……? まじでどんだけいやがんだ、こいつら……)
ゴクリと唾を飲み込む流護だったが、答えはすぐに明かされた。
「何だこれは……、オルエッタ、何匹いる?」
「んー、多分……二百ちょっと……かしらね~……」
さすがの彼女たちも若干頬を引きつらせていた。
兵士たちからも「馬鹿な」「神よ」「どうしてこれほどの数が」と悲観した声が漏れている。これだけ集結した怪物を前に、しかもその数を知らされれば致し方なしといったところか。いくら小さな相手とはいえ、相手は怨魔。物量はこちらの三倍以上に相当する。
そんな緊迫感張り詰める空気の中、オルエッタが憂鬱そうに続けた。
「あー……、見逃してくれる気もなさそうね~。爪を擦り合わせてるのが何匹かいるでしょ。敵に飛び掛かろうとしてる合図なのよー、あれ」
「でしょうねぇ。いい肉がやってきた、食うぞ皆の衆! って顔してるもの、こいつら。胸ばっかりデカいオルエッタはともかく、豊満なカラダをした嫁入り前のあたしが旨そうなのは分かるけどさぁー」
「おい」
一瞬だった。
ドボービークらのうち最も近くにいた五匹が、一斉に隊の前列目がけて飛びかかる。
「はっ!」
そこへ突っ込んだアマンダが腰から抜き放った剣を一閃すれば、五匹全てが滞空したまま氷像と化した。落下の衝撃で砕けたそれらを蹴り散らし、女傑はその場で深く踏み込みながら身構える。
「こうなりゃやるしかないってね! 複数人で固まれ! 馬を死守しろ! 総員、迎撃――ッ!」
猛々しくそう叫ぶ彼女へ、一匹が脇から踊りかかる――が、真下から伸びた影の槍に貫かれた。
「ったく。それじゃー私はあなたの背中をお守りしますわよ、っと」
アマンダは背中合わせに立ったオルエッタへ「よーし任せた!」と猛々しく応え、次々と押し寄せ始めた異形の大群を迎え撃つ。
そうして、静かな森を揺るがす大乱戦が幕を開けた。




