288. 水面下
ぼう、と。
覇気の失せた瞳は、薄汚れた天井を眺めていた。
組んだ両足を机上へ投げ出し、半ばずり落ちる形で椅子の背もたれへ身を預けながら。
『銀黎部隊』の一人であるダーミー・チャーゾールベルトは、はぁー……と長い長い溜息を吐き尽くす。肺の中身を全て排出するかのようだった。
全身から無気力さが漂う。見ているほうまでやる気が削がれる。そんな評を下される男。雑にばらけた髪、痩せこけた面立ち。常に猫背気味で、人と目を合わせない。
『銀黎部隊』の証である黒銀の鎧を身につけていなければ、誰も精鋭騎士とは思うまい。自他ともにそう認める容貌の人物だった。
そんな彼の耳元へ、静かな波紋が――通信の術が渦を巻く。
「…………こちらダーミーですがー……」
応答もまた適当である。
『リーヴァー、相変わらずですね。ダーミーさん』
対して、向こう側から響いたのは芯が通った女性の声。
「……リンドアーネ書記官ですか。何か御用でしょうかね」
『定期連絡です』
「おや……今回は、デビアスさんじゃないんですか」
『最近は、肩書き相応に忙しいみたいですよ。ところで、私やデビアスさんの名前を当たり前のように出していますが……人目は大丈夫なのでしょうね?』
「大丈夫……だと思いますよー」
『今、少々お時間を頂いても?』
「どうぞ~~」
やる気なさげなダーミーに反し、リンドアーネはどこまでも生真面目かつ事務的だった。
『では、報告をお願い致します』
「特に……ありませんね~」
即答を受けてだろう、げんなりとした吐息が漏れ聞こえる。
『あのですね……。どんな些細なことでも構いません。アルディア王がこんな動きを見せただとか、城でこんなことが起きただとか』
「……残念ながら、私……城には常在してません。遠方での勤務が主ですので。今もそうですが……北の国境付近にいるからこそ、リンドアーネさんとの通信も繋がっているわけです」
『それはそうかもしれませんが、あなたは「銀黎部隊」でしょう。民草や一兵卒では得られない情報を入手できる立場にいるはずです』
「それは…………買い被り、じゃぁないですかね~」
『――念を押すまでもないことと思いますが』
通信からの声が、一段階低いものとなった。
『あなたはレインディールに張り巡らせた、オルケスターの「根」です。細かな報告の義務があることをお忘れなきよう』
決して表舞台には出ず、光の当たらぬ裏側で暗躍する無法の組織集団。数多に存在するそれらの中でも、オルケスターは最大規模を誇る。
その地位を揺るぎないものとしている要素のひとつが、大陸各地に根付いた人材。
例えばリンドアーネ自身はライズマリー公国の宮廷詠術士であり、団内最強の一翼と名高いテオドシウスはザッカバール大帝国の最上位騎士。
そもそも長のクィンドールからしてエッファールク王国の元騎士であり、補佐のデビアスは同国の公爵家出身。
国の中枢に位置する、もしくはしていた者たちばかりなのだ。
基本的にはこうした人員を意図的に国々へ送り込んだ訳ではなく、各国の要人がクィンドールの志に賛同して集まった、という点がオルケスターという組織の特徴であるが――
ともあれこの人脈により、オルケスターは各国の情勢や動向を共有することができていた。
そして、レインディールにおけるそれがダーミーである。
ちなみに彼は『例外』。組織が意図的に、どうにか潜り込ませることに成功した人材。リンドアーネの言葉通り、獅子の国へ密かに伸ばした『根』だった。
レインディールやレフェ、バルクフォルトといった愛国者が多い巨大国家からは、クィンドールの志への賛同者が出にくい。それどころか動きを察知され、組織が秘匿する技術に目をつけられてしまう懸念があった。
今はまだ、派手に動くべき時期ではない。足元を踏み固めていく雌伏の段階。
それが組織の意向である。
『どんな些細なことでも構いません。報告を――』
「リンドアーネさんこそ……忘れてはいませんよねぇ~~? クィンドールさんは……こんな私の性格を熟知したうえで、オルケスターに引き入れている訳です」
『随分とはぐらかしますね。……何か、話せないことでもあるのですか?』
リンドアーネの声が限りない冷たさを帯びる。もし面と向かっていたなら、返答次第では攻撃術が飛んできかねない気配だった。
が。
「リンドアーネさんは今、どんな下着をつけてますか~? 黒? 白? 堅物な印象通り、飾り気のない地味なやつ? それとも意外に、派手で扇情的なやつでしょうか? もしくは驚愕、何もつけてないなんて可能性もありますかねぇ~~?」
『……、…………ッ!?』
寡黙なダーミーがまくし立てたこと、さらにはその内容。女が絶句したのも無理はないだろう。
その間に、男は淡々と話を続けていく。
「…………とまぁ、アルディア王ならこんなことを訊きそうですが。ともあれ……あなたがこの質問に答える必要はありませんよねぇ。それと一緒で……私も、いちいち細かなことまで報告する必要を感じません。まぁ、ご安心ください。きちんとこちらで情報を精査し、必要と思うことがあれば報告しますので~……」
そのまま通信を終えようとしたダーミーだったが、
『黒ですよ』
「……は?」
『私の下着の話です。黒色で、ぱっと見た感じは派手に感じるかもしれませんね』
「…………、ふ、はは。そう、ですか。それはまた……」
これは一本取られた、と感心する間に、今度はリンドアーネが差し込んでくる。
『人様の下着のこと以外に口下手なダーミーさんには、自主的な報告に任せずこちらから質問するべきでしたね。まず、リューゴ・アリウミとベルグレッテ・フィズ・ガーティルード。この二人について、知っていることを教えて頂けませんか』
「……んー……、恥を忍んだリンドアーネさんの心意気にお応えしたいところですが……面識すらありません。何でしたら……お詫びも兼ねて、実際に接触してみましょうか」
『……いえ。意図的に探りを入れるのは危険です。確か以前、「銀黎部隊」の一人が不祥事を起こし処分されていたはず。迂闊に近づくと怪しまれる恐れがあります』
「…………そうですか。まぁ……リューゴ・アリウミの方は、私個人としても興味がありますので。何かあれば、お知らせしますよ~」
『お願いします。あともう一点、ディノ・ゲイルローエンについてです。レインディールにしてみれば彼がいなくなって随分経つはずですが、周りに影響や変化は?』
「そうですねぇ~……、あまり詳しくはありませんが……以前、酒場でチラリと噂になっていたようですよ。最近、顔を見ないと。逆に言えばその程度です。元々が学院に籍を置いているだけの悪童だったようですし……少しばかり姿が見えなかったところで、誰も気に掛けないようですね~」
『そうでしたか。ナインテイルが早々に仕留めてしまったかもしれないとのことで、そこから気取られるのではと危惧していたのですが……ひとまずは問題ないようですね』
はぁ、と一息つきながら。
『では、以上で終わります』
女詠術士は、淡々と事務的に切り上げた。
「おや……もういいんですか~」
『ええ。実りもなさそうですし、こう見えて私も忙しいので。……ああ、最後に一つだけ』
少し冗談っぽく、それでいて不吉な何かを滲ませながら。
『――あなたが情報を秘匿したことで、オルケスターに損害が及んだ場合……。どう責任を取ることになるかは、今一度肝に命じておいて下さいね?』
その言葉を最後に、通信術の波紋は散っていった。
「…………健気、ですねぇ~」
足を組み直し、再び天井を見やる。
「……分かってますよぉ、っと」
分かっている。そのうえで、ダーミーは伝えなかった。
間近に控えている、原初の溟渤への遠征。これについて、オルケスター団員たる男は全く触れなかった。
つまり、判じたのである。
組織に伝える必要がない事柄だと。それによって何が起きるかも、現時点で正しく予測しながら。
原初の溟渤へ向かうということ自体については、特に秘匿されている訳でもない。どこかしらから、団員の耳に入ることもあろう。
重要なのは、この任務によって齎されるその結果だ。
あえて言及するなら――
「……アルディア王にとっても、クィンドールさんにとっても……最高の『演出』……に、なるんじゃないですかね~~」
レインディール、そしてオルケスター。
双方に通じる男は一人、ただ静かにほくそ笑んだ。
平野に延びる街道の外れ。ぽつぽつと明かりが灯る、夜の兵舎。
ダーミーがくつろぐ小屋の近くでは、松明をかざすレインディールの兵士たちが、呆然とした眼差しで『それ』を見つめていた。
「信じられん……。本当に、こんな怪物をたった一人で……?」
「まったく同意だが……こうして証拠が転がっている以上はな……」
兵舎の前に停められた、超大型の荷車。およそ三マイレ四方の板に車輪をつけただけの簡素なものであるが――その上に、事切れた巨大な獣が横たわっていた。
外見は熊。全長は三マイレ強。その巨体は、荷車に積み切れずはみ出している。光を失った眼球は、濁った緑色。全身を覆う焦げ茶色の体毛は、やけに長く三十センタルほどもあり、さらにはその下の筋骨が異常発達を遂げている。肉塊をいくつも無造作に繋げて固めたような、独特の歪さ。横に倒れているとはいえ、その厚みはまるで岩山だった。
無論、通常の生物ではありえない。悪魔の使徒と忌避される存在、怨魔だった。それも――
「ランクA、ミドベッド・ブルア……。こいつを、たった一人で……こんなにあっさりと……」
喉を鳴らした兵たちは、揃って視線を向ける。ダーミーが滞在しているその小屋へと。
「三年前に陛下が引き入れた、最も新参の『銀黎部隊』か……」
「ちょいと陛下のお眼鏡に適っただけの、あんな新参野郎……認めたくはねぇ。認めたくはねぇが……カテゴリーAだぞ、こいつは……」
「この国に何人いる……? これだけの真似ができる奴が……」
最近になって増えつつある、怨魔の出没案件。
それに倣うがごとく――北の国境沿いのとある街にて、このミドベッド・ブルアが目撃されたのが数日前のこと。
カテゴリーA、その中では下位に区分される怪物――とはいえ、大差ない。
大抵の人間から見た上位怨魔など、もはや災害みたいなものだ。AもSも手に負えない怪物という点では同じ。
ともあれ自分たちの手には余ると判断した辺境の警備隊が救援を要請し、やってきたのがダーミーだった。
その結果は見ての通りである。
「だが……逆に言えば、ヤツを見出した陛下のご慧眼に間違いはねぇってこった」
「まあな。あのダーミーがいりゃ、今度の遠征も安泰だろう」
「一週間後に出立か。しかし陛下は、何だって今頃になって原初の溟渤を? 昔、そこらの国や好事家がこぞって探索しようとした時期があったが……結局誰も踏破できずに、自然と話も聞かなくなったもんだったが」
「さてなぁ。だが、陛下のなさることだ。きっと、何かお考えがあってのことに違いない」
「確かにな。あのお方に間違いはねぇんだ。俺たちは大人しく吉報を待つのみ、だな」
口々に語りながら、兵士たちは詰め所へと引き上げていった。
静かな秋の晩。遥か天空に輝く真円――夜の女神イシュ・マーニが、今宵も静かに世界を見守っている。
レインディールの正規兵として勤めるオズーロイ・ゴーダリックは、大衆酒場ゲーテンドールからの帰り道、歩きながら通信の術を飛ばしていた。
「母さん。それじゃあ俺、明日から遠征に出るからさ。一ヶ月ぐらいで帰ってくる予定だよ」
『そうかい、そうかい。いよいよなんだね。でも……』
意気込んで誇らしげに報告する息子に反し、老いた母の声は暗い。
それも無理はないだろう。
禁断の地、原初の溟渤への遠征。
ある屈強な傭兵団は、恐るべき怨魔と遭遇し逃げ帰った。判断を誤ったある調査団は、誰ひとりとして帰らなかった。そんな噂が絶えない、前人未到の領域。その最奥に何があるのか、今のところそれを確かめて戻ることができた者はいない。
生きて帰れる保障のない、危険な任務。しかしアルディア王によって直々に下された、栄誉ある任務。成功すれば、大きな功績になることは間違いない。特別褒賞も約束されているため、母への仕送りも増やすことができる。
「心配はいらないよ。何と言っても、今回の団長はあのアマンダ殿だし……『銀黎部隊』のブラッディフィアー副隊長までいるんだ。今までのどんな任務よりも安全なぐらいだよ」
さすがに誇張しすぎだったが、母を安心させるため明るく言い切った。
オズーロイ自身、決して楽観してはいないが、安堵感があることは間違いなかった。先の二人に加え、あのベルグレッテや、『銀黎部隊』のリサーリット・テールヴィッドも同行する。腕前も申し分ないうえに相当な美女揃いであり、目の保養としてもこれ以上は望めない。
それにこうした外部遠征では、男女の仲になる者が現われやすいという噂がある。
もちろんそんな眉唾な話を真に受けている訳でもないが、長期間ともに過ごして命を預け合う間柄となる以上、全くの出鱈目とも言い切れない。
(ま、俺が女性とそんな関係になれるかどうかは、丸きり別の話だろうが……)
美の神は片手間の暇潰しか何かで自分を創ってしまったようで、大した顔でないことは自覚している……とオズーロイは割り切っていた。
そんな下心はともかく――今回の遠征、戦力的に申し分ないことは間違いない。
『銀黎部隊』からもう二人、テッド・テールヴィッドとダーミー・チャーゾールベルトが。
そして兵たちの間では賛否分かれているが、噂の遊撃兵も随伴する。ガイセリウスを彷彿とさせるとまでいわれるその手並みは、以前から気になっていたところだった。
それに――
「俺だって、正規兵になってもう二年。それなりに自信だってついてるつもりさ」
拳を握り、十九歳になったばかりのオズーロイは力強く語る。
事実、剣の腕前は若手の中で随一だった。背丈は百八十センタルに満たない程度で、周囲の者たちと比較するとかなり低めではあったが、身につけた筋肉は他の者たちより分厚いとの自負があった。より剣の腕を磨き、功績を重ね、いずれは『銀黎部隊』に選抜されることを夢見ている。この任務を無事成功させれば、その目標にまた一歩近づけることは間違いない。
「それじゃあ、そろそろ切るよ。もし任務が長引くようなら、手紙も出すから」
『……うん、気をつけて行っておいで。私はおまえが無事に帰ってきてくれさえすれば、それで……。それじゃあね。ジェド・メティーウ様のご加護があらんことを……』
宿泊している兵舎が近づいてきたため、少し名残惜しかったが母との通信を終えた。
酒場帰りで火照った身体ゆえか、少し肌寒い秋の夜も心地よく感じる。何より、大役といえる任務を控え、誇らしい気持ちに溢れていた。
父を病気で亡くして十五年。女手ひとつで自分を育ててくれた母に、ようやく恩らしい恩が返せる。
「…………」
多少の酒が入っていたとはいえ、それなりの自信を抱く兵士。ゆえに、オズーロイはその違和感に気付くことができた。
暗い路地。行く手を塞ぐように、一人の男が立っている。目深にフードを被っており、その顔は窺えない。身長は自分と同じく低めで、百七十五センタル程度だろう。通行人――、ではない。
「失礼。オズーロイ・ゴーダリックくんだね」
「……いかにも、その通りだが」
『くん』、とはまた随分と上から目線だ。いつでも腰の剣を抜き放てるよう身構え、若き兵は油断なく受け答える。
「新進気鋭の十九歳。剣腕は若手の中でも随一。白の曜日の夜には、大衆酒場ゲーテンドールで軽く酒を嗜む。が、決して深酒はしない。不慮の事態にも対応できるようにするために」
「……気持ち悪いぐらい俺のことを知ってるじゃないか。女性なら歓迎なんだが……そっちの趣味はないんだ」
まさしく今。『不慮の事態』に対応するため、いよいよオズーロイは腰の長剣へ手を伸ばしてゆく。
美神の恩寵は今ひとつ受けられなかったが、戦神にはそれなりの加護を受けている自負があった。
めきめきと、腕に力を滾らせる。身体強化。効果は一分半。この間合いであれば、充分すぎるほどの時間。神詠術を放つ間など与えない。妙な動きを見せるなら――その瞬間、斬り伏せる。
フードの男は、明らかに警戒を深める兵士を前にしても変わらず淡々と語る。
「先に謝っておくよ、オズーロイくん。何日もかけて綿密に調査した結果――腕前、体格、境遇……条件に見合う人間は君以外にいなかった」
「何を言っている」
「だから、事前の謝罪さ」
油断は欠片ほどもなかった。視界に収めていたフード姿の男が。一挙一動を見逃すまいと注視していたその怪しげな存在が。
「――――――」
完全に、オズーロイの目前から消えた。
――生じたのは、風。間近に感じたそれを、敵が恐るべき速度で接近してきたゆえに生じた余波だと判じ、オズーロイは剣を抜き放つ。
身体を一回転させることで、斬撃の軌跡は頭上に輝く女神のような真円を描く。敵の姿を刹那に見失ってしまった。しかしお構いなしに、どこへいようと斬り伏せるための一撃。
全力で振るった銀剣が引っ掛かりを感じて止まったのは、左斜め後方。そこに敵がいることの証。
「……」
手応えはあった。謎の賊の正体を確かめるべく振り返ったオズーロイは、
「な、……――に」
ただ驚愕に、目を剥いた。
止められていた。全力で振るった剣が、ただの素手によって。両の手のひらによって、挟み込まれる形で。
(俺の……剣を、こんな止め方で――ッ!?)
「いい一太刀だ。僕の目に狂いはなかったね」
フード姿が称賛の言葉を口にする。
しかし。その当人が見せたそれは――恐るべき領域で完成している、何らかの武術。若い声に見合わない、人間がそれほどの境地に至れるのかと思えるほどの『何か』。
オズーロイは知るよしもなかった。それが、白刃取りと呼ばれる技巧であることを。
若い兵士が認識できたのはそこまでだった。またしても消失する敵の姿。手首に感じる衝撃。叩き落される長剣。首筋と顎先、同時に受ける刺すような振動。唐突に起き上がってくる地面――
うつ伏せに倒れ伏したオズーロイを見下ろし、フード姿の男は小さな溜息をついた。人差し指のみを突出させていた拳――『一本拳』を解き、パンパンと手を払う。
「……許してくれ、とは言えない。君の都合を何も考えていない行為だからね。それでも」
懺悔は、誰の耳にも届かない。ただの独り言にすぎぬと分かっていても。
「世界のためなんだ、なんて言えば……随分と胡散臭く聞こえてしまうな」
ほどよい筋肉に包まれたオズーロイの身体を、軽々と肩へと担ぎ上げる。
「大丈夫。君の名誉を傷つけるようなことはしない。ただ少しの間――君の『存在』を貸してほしいだけなんだ」




