286. 遺言
「えーと……、話って、何でしょうか」
原初の溟渤への遠征が決まり、場が解散されたその直後。
流護はアルディア王に呼び止められ、閑寂の間に二人きりとなっていた。つい今ほどまで十人以上が集っていた空間は、急に広くなったように感じられる。
「うむ。今回は、色々と急ですまんかったな」
「いえ……」
「俺の悲願だしよ、正直なところ『銀黎部隊』もガンガン投入してぇんだがな……ここんとこ、やたらと怨魔出没の報告が増えててよ。そっちの討伐で手一杯なんだ。ま、ダーミーもテールヴィッドも手練だ。不足はねぇはずだぜ」
「なるほど……」
「くく。もう少し遠慮なしに言ってくれていいんだぜ。夕方まで待たせやがってとか、十日後なんて急すぎるだろとか」
「いや、まあ……事情も色々あるでしょうし……」
確かに、流護個人としてはいささか急に思える。だが。
聖妃やアマンダが帰還し、すぐさま報告を受け、その内容から原初の溟渤へ突入するために相応しい人員や関係者を選定。そして、実際に当人たちを集める。これだけの工程を踏めば、夕方になるのも当然だろう。
十日後に出立というのも、現れたり消えたりするという原初の溟渤の特性を考えたなら、悠長なぐらいではないだろうか。アマンダの話では、件の地が発見されたのはレインディールの遥か南西部。たどり着くまでに、最短で丸五日はかかるという。国内にありながら、隣国のレフェへ行くよりも遠いのだ。
この日程ですら、実際に目的の場所へ到達するのは今から二週間以上も先。その間に原初の溟渤が消失してしまう可能性がない訳ではない。ロック博士の予想では、その点は問題なさそうとのことらしいが。
ともあれ――兵として勤め続けた流護は、そういった考え方もできるようになっていた。
そこで、王が感慨深げに切り出す。
「アルディア……って俺の名前な。古い言語で、アーケイディア……アルカディア、とかって言ったかな。『理想郷』って意味の言葉が語源なんだとよ。似合わねぇだろ」
珍しく自嘲気味に笑い、窓の外を眺めながら。
「運命だったのかもしれんな。俺が理想の世界を目指し、創ろうとすんのはよ」
「……お、」
王様、と呼びかけようとして、喉で言葉がつっかえた。
大きく広い、アルディア王の背中。それがなぜか、ひどく遠く、儚く感じられたからだ。
この人物が、手の届かない場所へ――行ってはならないどこかへ行こうとしているような。
理想郷というありもしない場所を求め、そのまま消えていってしまいそうな。
「なぁーんて言やぁ聞こえがいいがよ、ようは俺がラクしてぇだけなんだ! がっははははは! ロックウェーブから色々と具体案聞いたんだがよ、ダメ人間になっちまいそうなぐれぇ便利なモノが色々とできそうでよぉ! しかしスゲェよな、アイツの発想は!」
「……、はは」
杞憂だろう。
存在感の塊のような王である。
儚いだとか、消えてしまいそうだなんて表現とはまるで無縁の人物だ。
「そうそう、でな。話ってのは、お主の前任を務めとった遊撃兵のことだ」
「!」
任務のことかと思っていたため、意表を突かれた。
名前は、レッシア・ウィル。クレアリアを始めとした若手たちから信頼厚かった女性で、非常に有能な人物だったが、ある組織のスパイだったことが発覚し、やむなく粛清されたのだと聞いている。その事実を知っている人間はほんの一握りで、ベルグレッテやクレアリアですらその真相を知らない。
流護は遊撃兵に誘われた折、アルディア王自身からそんな風に聞いている。
「実はな。お前さんに以前話したことは、半分以上が嘘なんだ。すまんな」
「え、嘘? ウソぉ!?」
思わず声がひっくり返ってしまった。
「嘘って、なんでそんな嘘を……」
「色々と複雑な理由があってな。それが、レッシアの奴の遺言だったからだ……ってのは虫の良すぎる話か」
「? 遺言、ですか? えーと……もう、何が何だか……」
「順を追って話そう」
喉を湿し、王は不意に真面目な――懐かしむような、悲しむような顔となった。
「もう何年前だっけか。丁度……今頃の季節だったな」
そのときは、幸い――というべきなのか、白鷹隊のような調査団を組織するまでもなく、ある街から比較的近い位置に原初の溟渤が確認されたのだという。
王都からもさほど遠くなく、その街を探索の拠点にもできる。稀に見る好条件といえた。
アルディア王は今回と同じく、速やかに人員を選定。かの地へ向かうための準備を整えた。
「あとは行くだけ……だったんだが、レッシアの奴が駄々コネ始めちまってなァ」
手のかかる娘のことを話すような口調で、王は悲しげに笑う。
――その夜。かの地へ赴くことを告げられた彼女は、躍起になって否定した。
それだけは、あそこにだけは、踏み入ってはならないと。
そこまでして原初の溟渤を拒む理由。その点についていくら問い質してもまともな答えは返ってこず、もはや会話が成立していない状態だったという。
「そうしてあいつは……俺に、剣を向けた」
「な……」
まだまだ浅学な流護でも分かる。
一国の王に剣を向けるという行為が、どれほど大それたことなのか。その場で首を刎ねられても、文句は言えないはずだ。
一体、レッシア・ウィルはどうしてしまったのか。
何もかも分からないような状況だったが、確実なことが一つ。
「あの時のあいつは、明らかに……」
この王が珍しくも、その先を曖昧に濁す。認めたくないのかもしれない。
しかし会話の流れから、察することは容易だった。
(その時のレッシア・ウィルは……まともじゃなかった……)
そうして彼女は、アルディア王へと襲いかかり――
「全くよ……あの、じゃじゃ馬め」
「……、」
流護は初めて見た。心の底から悔やむような。涙を堪えているような、この王の顔を。
(王様はそれで、レッシアを――)
「誤解なきよう補足させて頂きますが。レッシアを殺めたのは、陛下ではありません」
まるで心を読んだような――突如割って入った第三者の声。流護は驚いて飛び上がりそうになった。
慌てて声の出所へ目を向ければ、
「……、!?」
部屋の奥。壁を背にして佇む、一人の男の姿があった。
かなりの細身で、その上背は百九十センチほどもあるだろうか。装いは一見して平服のようだが、上下共に黒一色。そのうえ同色の覆面で顔を隠した、まるで地面に伸びる影が直立したような人物。
頭部に巻かれた布の隙間から、長い銀髪がはみ出している。顔の中で唯一露わになった目元からは、鋭くも端正な二重まぶたの奥に緑色の瞳が覗いており、素顔はかなりの美形だと想像がついた。その素肌や声から察するに、歳は二十代ぐらいだろうか。
「だ、だ、誰すか……?」
「ったく。出てくんなって言ったろうがよぉ、ギルベー……」
王が溜息と共に頭を掻く。セリフからして、この人物がいることを知っていたようだ。
色合いも気配的にも影めいたその男は、流護に向かって軽く頭を垂れる。
「お初にお目に掛かります、遊撃兵殿。自分は『銀黎部隊』の一人にして要人の身辺警護や『蛇役』を務めさせていただく、ギルベー・シュロイクと申します。以後、お見知り置きを」
「!」
遊撃兵の少年はにわかに息をのむ。
『蛇役』。兵として様々な知識を得るために本を読み始めた流護は、その単語の意味を知っていた。レインディールで用いられている隠語であり、意味は――暗殺者。
いきなり現れた闇の者に驚きつつ、流護は辛うじて言葉を返す。
「ど、どうもご丁寧に……。てか、いつからそこに……」
注意深く確認するまでもなく、閑寂の間には流護とアルディア王の二人しかいなかった。一つしかない扉は閉まっており、誰かが入ってくれば否が応にも気付く。
調度品の類もなく、部屋の中央に大きな円卓がデンと鎮座しているのみであるため、人が隠れるような場所もない。
だというのに――
「いつから、と問われれば……最初から、とお答えする以外にないところですが」
「最初って……え?」
「ええ。遊撃兵殿がこの部屋へやってくる以前から、ここにおりましたよ。先程の会議も、この場で静聴しておりました。――このようにして」
言うが早いか。ギルベーの姿が少しずつ薄まっていき、数秒ほどで完全に消失する。
「き、消えた……?」
そう思った瞬間、パッとその黒い姿が現れた。
「おうわぁ!」
「これが自分の力ですので」
「…………、」
やべえ、これ忍者だ。忍者がいる。物静かなその佇まいとか黒い服がすでに忍者っぽいし。絶対手裏剣とか投げるだろこの人。
などと、思わず興奮する少年であった。
それにしてもベルグレッテやラティアスたちは、この人物がいることに気付いていたのだろうか。そもそも、どういう原理で消えたり出てきたりしているのか。
流護が色々と考える間にも、会話は進んでいく。
「この力を使い……自分が、背後からレッシアを刺したのです。それが『蛇役』の務めですから」
「ギルベーよぉ……」
苦々しく名を呼ぶ王へ、暗殺者がその整った目元を向ける。
「陛下。何もかもを、お一人で背負おうとなさらないで下さい。何より、遊撃兵殿に不信感を抱かせぬ為にも、正しく説明すべきです」
「えっと……どういうこと、すか?」
「先程の話を聞き、遊撃兵殿はお思いになったのではありませんか。『襲い掛かってきたレッシアを、陛下が返り討ちにした』と。そして陛下も、その点について詳しく言及しようとなさらなかった」
その通りだった。まさに流護がそう思った瞬間、ギルベーが割り込んできたのだ。
「陛下は昔から、嫌な部分をご自分で引き受けようとなさるのです。レッシアのことも、全て己に責があると偽って」
「ったく、ベラベラ喋んなってんだ。面と向かって言われて、俺ぁどうすりゃいいんだよ。気まずいじゃねぇか」
「素直になられれば宜しいと思いますよ」
「……ったく」
珍しく、この王が渋い顔で沈黙してしまった。
その代わりを務めるように、ギルベーが淡々と話を続ける。
「――あの時。自分は姿を消しながら陛下とレッシアのやり取りを静観していましたが……もはや猶予なしと判断し、背後からレッシアを襲いました。しかし、彼女も音に聞こえた手練。瞬時に気付かれ、躱されかけましたが……自分にとっては、幸いにして――と言うべきでしょうか。辛うじて届かせた一撃によって刻んだ彼女の傷は、致命に達していました」
それが結果として、彼女に遺言を遺す時間を与えた。
降り続ける激しい雨によって、中庭の地面は泥濘と化していた。
そうして生まれた水たまりの中へ、レッシアが打ち捨てられたように転がっていく。
「レッシア……!」
駆け寄った王が、汚れるのも厭わずその太い腕で彼女を抱きかかえた。横たわった遊撃兵の女は、ごふりと血の塊を吐き出す。
「……、…………へい、か……」
かすれた声で、命そのものを絞り出すように――彼女が囁く。
「……レッシア、お主」
「……! これ、は……」
王と暗殺者は、期せずして同時に呻いていた。
雨に打たれ。泥に汚れ。血に濡れ。腕に抱かれ。
死の色が濃くなった、レッシアのその表情。
それでも――間近で見る彼女の顔は、瞳は、いつもと同じ雰囲気を宿していて。
二人はこのとき、根拠もなく――しかし全く同じ考えを抱いていた。
レッシアが。
『元に戻った』、と。
「へい、か……、わ、た…………ごめん、な、さ」
「いいから喋るな。血を止める。じっとしてろ」
冷静な判断を下す王らしくない行動だった。
助からない。
そうと分かっていながら、自分のマントの裾を千切り、レッシアの胸元の傷口に押し当てていく。
「ごめ、んね。ギルベー……、嫌な役、おし、つけ……」
「……馬鹿な! レッシア、貴女は一体……!?」
立ち尽くしながら、手を下した暗殺者は子供のように喚いた。
やむなく決断した、苦汁の思いで実行した、仲間の粛清――だったはずだというのに。
「分から、ない……、自分、でも。どうして、原初の……溟渤、を……」
「もう分かった。喋るな」
「どう、し……わた、し…………こ、んな」
「喋るなと言っとる。おじさんの言うことを聞け、じゃじゃ馬め」
「……私の、ことは……内通者だった、と、して……処断、した、ことに」
最期の最期まで、レッシアは気を回した。
豹変した遊撃兵が、王に牙を剥いた。しかし死の間際、正気を取り戻した。それ以外のことは何も分からない。
公表するには、あまりにも要領を得ない内容。しかし、他に言いようがないことも事実。
だから、自分の死によって周囲が混乱しないように。
クレアリアたちも、レッシアが悪者だったと知れば、その死を惜しまずに済む。一時は信じず、悲嘆に暮れるかもしれないが、その気持ちはやがて怒りや憎しみへと変わっていくはず。自分の死にいつまでも引きずられるようなことにはならないはず。くだらない反逆者の女のことなど、忘れてくれるはず。
そうやって、王のために――皆のために、汚れ役を引き受けて逝こうとしている。
「ふざけるなよ、馬鹿娘。この俺が、そんなこと許すと思ってんのか……!」
傷の処置を諦めた王が、強く……強くレッシアの肩を抱く。彼女を、死神に渡すまいとするかのように。
「へい……か、……は……」
そしてレッシアは、弱々しく儚い笑みを浮かべて。
「いじわる……、なのですね――」
「それが、彼女の最後の言葉でした」
ギルベーが静かに締め括り、
「そんで半年後、出向くことのないまま当時の原初の溟渤は消失。今回の再発見に至る、ってワケだ」
王がそう補足した。
「…………、」
流護は言葉もない。
それが――前遊撃兵の真実。
かつて流護がアルディア王から聞かされたのは、まさにそのレッシアが遺した遺言通りの内容。どこかのスパイだったことが発覚し、処断されたという話。
クレアリアたちが知っているのは、過酷な職務から逃げ出そうとした彼女をアルディア王が処断した、という作り話。少し聞いただけでは、王が冷酷なのではとも思える、レッシアを一方的な悪者にしないための嘘八百。
「すまんな、リューゴよ。俺は、どうしてもお前さんを引き入れたかった。自由に動かせる……それでいて強力な、原初の溟渤へと向かわせるに足る、貴族どもに口出しされることのない戦力が欲しかった。クレアたちの知る話の方じゃ間違っても遊撃兵やってみてぇなんて思わんだろうし、レッシアの遺言の方をそのまま利用させてもらった、ってワケだな。天上で怒ってっかなァ、あいつ」
アルディア王が観念したように独白する。
「……まァ、これで少しばかり肩が軽くなったことは事実だな。ようやく、お前さんにも本当のことが言えたワケだしよ」
大げさに天井を仰いで頭を掻いているが、目線を逸らそうとしているのが丸分かりだった。
そんな主を眺めながら、ギルベーが静かに口を開く。
「いつか……クレアリアたちにも、真実を語れる日がくることを願うばかりです。レッシアの……名誉の為にも」
暗殺者は、黙祷するように目を閉じた。
これまでの話を聞く限り、ギルベーとレッシアは友好的な関係にあったと思われる。自らの手で彼女を葬らざるを得なかったその胸中は、いかばかりだろうか。
「……それにしても……その、レッシアさんに、何が……」
自分と同じ遊撃兵だったという人物。他人事に思えない気がして、流護は思わず呟いていた。
「それなんだがな。一応の……本当に一応といった感じではあるが、仮説はある」
「!」
自分で尋ねておきながら、少年は思わず息をのむ。何となく、そういった部分は今でも未解明だと勝手に思っていたのだ。
「むしろリューゴよ。今の話を聞いて、何か思い出さねぇか」
「え?」
思い出すも何も、流護にとっては初耳となる前遊撃兵の話――
「似てると思わんか。少し前に起きた王都テロ。ノルスタシオンの……ディーマルドが豹変した時に」
「あ……!」
流護はつい声を上げていた。
今から三ヶ月と少し前。ノルスタシオンと名乗る一団が美術館を占拠し、アルディア王と兵士らを相手に立ち回るという事件が発生した。流護が遊撃兵になることを決意する切っ掛けとなった出来事でもある。
そのとき王と死闘を演じ、打ち倒されたディーマルドという風の拳士。もう動けないほどの重傷を負ったはずのその男は、突如起き上がり、豹変し、流護とアルディア王を相手に暴れ狂った。その原因は――
「……レッシアさんは、誰かに……操られてた……?」
流護が口にしたその予想に対し、ギルベーは頷きつつも歯切れの悪い反応を返した。
「確かに、そうとしか考えられない豹変ぶりでした。……が、レッシアは並ならぬ手練の詠術士。その彼女をあれほどに、となると……」
例えば、特定の言葉――『原初の溟渤』という言葉が鍵となってレッシアを変えてしまうように仕掛けられた神詠術が存在したなら。彼女は確かに、遊撃兵となった当初から原初の溟渤の話題を避けたがる傾向があったという。
しかしそれでも、以前のディーマルドのように、意識をなくしている人間をゾンビさながらに操っていた術とは訳が違う。
明確に意識のある人間を――それもレッシアほどの優れた詠術士を別人のように変えてしまう術となると、あまりにも現実的ではないとギルベーは語る。ロック博士の見解でも、現段階では「ありえない」と断ずるほどのものだという。正常な状態の人間を、突然そのように変化させてしまうといった術は。
例えばナスタディオ学院長の幻覚の術で似たようなことができそうだが、かの技は相手の脳内に偽りの情報を流し、惑わすためのもの。仕掛けられた人間は、学院長が思い描いた偽の情景を見せられているだけの状態であるため、傍から見た場合はその場で棒立ちとなっているのだ。
レッシアはアルディア王を確かに認識して襲いかかったうえ、背後から迫ったギルベーの凶刃を躱そうと反応している。幻覚を見せられていたセンはありえない、との結論が出ているらしい。
「自分としても……正直、そのような所業は……『ペンタ』ですら可能とは思えません」
「その点は全く同感だな。――だが」
溜息をついた王は、その仮定を口にする。
「もし仮に……そうしてレッシアを操ってたヤツがいるのなら――」
「殺す」
「…………ッ」
この世界へやってきてから、初めてだった。
有海流護が。怨魔のような怪物ではなく、人間を前にして――怖気立つような迫力を感じたのは。
戦慄した、と言い換えてもいい。
「どれほど強力な使い手だろうと。見つけ出して――必ず、この手で叩き潰す」
「……なんて、な」
その静かな怒りも一瞬のこと。いつもの雰囲気に戻ったアルディア王は、自嘲気味に微笑みながら窓の外を眺める。
「まぁその辺のコトもよ、実際に原初の溟渤へ入ってみれば何か分かるかも知れねぇ」
次いで、流護の顔へと視線を移した。
「……すまんな、リューゴ。本当なら、俺が自分の足で出向きてぇところなんだが……」
原初の溟渤。何が待ち受けているかも分からない未踏の地。
いかにアルディア王が自由な人物とはいえ、さすがにそんな危険な場所へ行く訳にはいかないだろう。どれだけ本人が望もうと、こればかりは周囲が必死になって止めるはずだ。
「……俺が遊撃兵になる前に……王様が言ってた『夢』って、これのことだったんですね」
「ああ。長いようで短い……いや、やっぱり長かったなァ」
照れくさそうに頭を掻き、巨大な王は窓の外へ遠い目を向ける。
かつて、王が流護を引き入れるために放った言葉。
『俺には、夢がある。その夢に到達するため、強い武力が必要だ』
『お前さんとなら――今度こそ、往けると思っている』
今回の任務が成功すれば。高純度の魂心力を用いた封術道具の開発に成功すれば。
この世界は間違いなく、劇的な変化を遂げることになるだろう。
より便利に、より安全に。
大を取るか、小を取るか。本来であれば大小関係なく、どちらも大切なもの。しかしそんな状況で、迷わず大を取る。
時にそうして非情な判断を下すと恐れられるアルディア王が、小を切り捨てずに済むような世界。
そんな世の中が、すぐそこまでやってきているのかもしれない。
閑寂の間を後にする。
流護を含む第二次白鷹隊の出立まで、わずか十日。
当日まで、時間はいくらあっても足りないはずだ。遠征に関する準備を整えるため自室へ引き上げていく巨王の背中を、遊撃兵と暗殺者は静かに見送った。
『機が熟し……お主に話すべきだと判断したそのときに、話すとしよう。……とでも言った方が、気になるだろ?』
流護が遊撃兵となることを決めた、あの夜。あの約束を、王は律儀に果たしたのだ。
言い換えるなら、その機が訪れた、ということ。
「……遊撃兵殿」
黒装の暗殺者が、かしこまって流護へと向き直った。
「原初の溟渤は……かねてからの陛下の悲願。どうか、お力添えを願いたい」
「あ、はい……」
「自分は……汚れ仕事に身を置く者。ただ人を殺めることしかできぬ存在。陛下の悲願に対して、お役に立つことが出来ません」
淡々としていながら、悔しさの滲んだ独白だった。
「今回……発見された溟渤がルビルトリだったのは、最初で最後といえる好機かもしれませんので」
「どういう……意味っすか?」
「ルビルトリは、過去に観測された溟渤……そのどの場所よりも、地形が穏やかなのです。つまり、これ以上探索しやすい地は他にないということ。大型の馬車や七十名以上もの大部隊を送り込める場所は、おそらく他にありません」
「なるほど……」
今回こそが、最も成功しやすい機会ということだった。
「陛下もレッシアの頃以上に、溟渤に関して深く調べ上げました。今や、備えは万端でしょう。どうか、宜しくお願い申し上げます」
「……えっと……何が待ってるか分からないし、絶対に成功させる、とまでは言えませんけど……自分にできる限りのことは、やらせてもらいます」
そう決意を伝えれば、ギルベーは満足げに目元を綻ばせた。
「そのお言葉だけでも……感謝いたします。では、自分はこれにて」
頭を下げたギルベーの姿がスッと薄まる。踵を返して去っていく暗殺者の姿は、少しずつ透明になっていき――やがて消失した。
しかし間近でその過程を目撃したためか、彼の気配が遠ざかっていくのが何となく把握できた。心なしか、遠ざかってゆく彼の周囲の空気も歪んでいるように感じられる。目に見えなくとも、確かにそこを歩いているのだ。
レッシアを操ってしまうような術などありえないと言っていたギルベーだが、流護にしてみれば姿を透明にしてしまう所業も充分すぎるほどありえない。
(にしても……優しそうな人だったな)
暗殺者というとどうしても冷酷な殺し屋を想像してしまいがちだったが、非常に穏やかな性格の人物に感じられた。よくよく考えてみれば、あのダイゴスやラデイルも暗殺者なのだ。役柄で人柄は判断できない、ということだろう。
(うーん……むしろ、あれだな……)
今まで出会ってきた『銀黎部隊』の面々を思い浮かべる。
無愛想で嫌味ったらしい隊長のラティアス、メドューサのような迫力ある女騎士ケリスデル、やたらと女性に弱くて不自然な態度が目立つケッシュ、優しそうな見た目の割にSっ気が強いオルエッタ等々。
現時点では、ギルベーこそがあの部隊の中で一番まともな人かもしれない……などと思う少年だった。




