285. ”Ark”adia
「アリウミ遊撃兵、長らくお待たせ致しました。十七時までに、東棟の三階、閑寂の間へお向かいください」
一人の兵士が流護の待機する客室へとやってきたのは、太陽こと昼神インベレヌスが傾きかける夕方になってからのことだった。
「閑寂の……あっ、はい……分かりました」
用件のみを告げて退室していく兵士の背中を見送り、ぐぐーっと身体を伸ばす。節々の骨がぱきぱきと心地いい音を立てた。
アルディア王に頼まれて城へやってきた流護だったが、「後で呼ぶから少し待っとってくれ」と言われて待機しているうちに、こんな時間になってしまった。
一日の大半を城内で過ごしたのは、遊撃兵となってからは初だろう。流護も今や兵の一人である以上、城に滞在していてもおかしくはない。
が、普段から学院で暮らしているためか、妙に落ち着かなかった。
訓練場に行ったり中庭を歩いたり宛がわれたこの部屋で本を読んだりして時間を潰していたが、やはり飽くまで『出かけ先』のような気がするというか、居心地がよろしくない。
ベルグレッテとクレアリアは聖妃やアマンダとの再会もあって忙しいようで会うことができず、カルボロやプリシラといった数少ない知人兵士を見かけることもなかったため、一人寂しい待ち時間を過ごすことになってしまった。
ともあれ、それもようやく終わりである。
閑寂の間は一度だけ前を通りかかったことがあるので、道順は大丈夫だろう。
とはいえ、ここからかなり遠い。早めに行くか、と客室を出て、指定された目的地へと向かう。
「あ、れ……?」
値の張りそうな赤い絨毯が延々と続く、長い廊下の途上。
あちこち見回した流護は、困惑とともに足を止めていた。何とも、石壁や内装に見覚えがない。
「いやー、うん。迷いましたね、これは……」
頭を掻きながら、その事実を認める。
一度通りかかったことがあるから大丈夫、は過信だったか。
レインディール王城。その巨大さといえば、それはもう生半可なものではない。面積にして、街の区画が丸ごといくつか収まるほどなのだ。そんな広さが一階から三階まで続き、それらの三分の一ほどの規模となるが四階もあり、囚人たちに『レインディール・アラーニェ』と呼ばれる遠大な地下牢獄まで存在している。
下手をすれば、数日も迷い続けることすらありえそうだ。もはや迷子ではなく、遭難になってしまう。
こうなった以上、自力でどうにかしようなんて考えは捨てるべきだろう。
幸いにして、ここは森や迷宮ではなく多数の人間が住まう王城。誰かに尋ねればいいだけだ。
次会った人に道を聞こう、と決めて歩き出し、
「あっ」
枝分かれしている角の先を覗き込んで早々に、早速こちらへやってくる人物を発見した。……のだが、
(うーむ、どうすっかな……)
その相手は、明らかに子供だった。
小さな丸顔に、茶色がかった黒髪のボブカットがよく似合う少女。
リーフィアやクレアリアと同じぐらいの年齢に見える。身長はミアより小さいかもしれない。しかしその身なりは立派で、フリルのあしらわれた白い膝丈のチュニックを着こなし、背中からは立派な黒マントを垂らしている。それどころか、腰に長剣すら提げていた。
騎士見習いの貴族令嬢、だろうか。
(訊いてみるか? いやでも、うーん)
流護の中で、つまらない葛藤が生じてしまう。
相手は子供。それも女子。頼ろうなんてちょっと情けなくはないか。
そんなことを考えているうちに、堂々とした足取りで向かいからやってきた彼女が、挙動不審な流護に気付いてか視線を寄越す。
ルビーさながらの赤い瞳だった。小顔に配置されたその他パーツも非常に均整が取れており、あと十年もすればさぞかし麗しい女性になることだろう。
「…………」
そんな彼女は、立ち尽くす流護をよほど怪しく思ったのか。
美しい赤眼がジト目がちになり、歩調も警戒したように緩やかなものとなる。何というか、その鋭い眼光も立ち姿も隙がなく、まるで大人のような迫力を醸し出している。
(こ、これはいかん)
不審人物と思われるのも心外なうえ、尋ねる相手を選り好みしているような時間もない。
「あ、あの、ちょっと訊きたいんだけど!」
突き動かされる形で、流護は焦り気味に語りかけていた。
少女は返事こそしなかったが、ピタリと足を止めて見上げてくる。
「えーと……閑寂の間って、ここからどう行けばいいか知らないか?」
問われた彼女は、警戒した表情を緩めない。それどころか、何やら不満そうに眉をピクリとさせる。
(あー、これは気難しい系の貴族のお嬢さんか……?)
外見で考えたなら、流護は一目で平民と判断されるような服装をしている。ラフで動きやすさを重視した簡素な普段着。この出で立ちを見て兵士と思う人間はまずいないだろう。
プライドの高い貴族には、問答無用で平民を見下す者も存在する。
少女はちょっとだけ考える素振りを見せた後、ゆっくりと上を指差し、そのまま小さな手を右へとスライドさせた。無言のまま。
「二階? で、右の方側? に行けばいいのか?」
言いたいことを汲み取ろうと試みるが、彼女は眉根を寄せていた。
ややあって、何かを諦めたようにその小さな口が開かれる。
「……二階。ここの真上に位置する廊下を東へ行け」
「!?」
「……何だ」
「い、いや」
驚いてしまったのも無理はない。すごい声だった。俗にいうアニメ声、というやつだろうか。少し鼻にかかった、非常に高いソプラノボイス。
「東へ行くと、青銅騎士方陣の間に出る。そこからさらに東へまっすぐ、突き当たりを右に曲がれば閑寂の間だ」
それでいて可愛らしい声に反比例するような、尊大でしっかりとした口ぶり。
「そ、そっか。ありがとう、助かったよ」
そう礼を述べると、少女はまたやや不満げに眉を動かした。……が、特に何か言うでもなく、流護の横を素通りしていく。
見た目からして平民な流護が気に食わないのかもしれない。それでも文句を言うでもなく教えてくれたというだけで、実はかなり優しい部類だったりする。いかにも身なりが派手で金を持ってそうな紳士には、流護を遊撃兵と知ってなお相手にしようとしない者も未だに多い。
そもそも同じ貴族でも、ベルグレッテの底なしな寛容さが異常なほどなのだ。
そんなことを考えながら、小さなアニメ声少女騎士に感謝しつつ、少年は足を急がせた。
目的の部屋へたどり着くまで、およそ三十分弱を要した。が、何とか時間内に来ることができてホッと息をつく。
「……、セーフ」
閑寂の間。
遊撃兵に任命された折にざっと案内された程度だったが、ここは確か、円卓の置かれた会議室のような部屋だったと記憶している。流護としてはあまり縁のない部類の場所だろう。
「……えーと、失礼しまっす……」
丁寧にノックし、職員室に入るような緊張感で扉を開ける。
「!」
部屋の中央に鎮座する大きな円卓。その周囲で着席せず思い思いに待機していたのは、職務や地位も異なる約十名の人物たち。うち半数が、知っている顔だった。
まず窓際にベルグレッテ。視線が合うと、彼女は花のような笑顔を向けてくる……が、すぐに目を逸らしてしまった。……やはり昨夜の告白が尾を引いているのかもしれない。ちなみに、クレアリアはこの場にいないようだ。
そのすぐ近くに、一目で研究職と分かる白衣姿が三人。そのうちの一人が、ロック博士だった。普段はタバコをくわえていることの多い不健康そうな中年研究者だが、さすがに今この場では何も口にしていない。学院以外の場所で会うのは、ファーヴナールとの戦闘で入院していた頃以来か。やっ、と手を上げてくる博士に対し、同じ仕草で返しておく。
奥の壁にもたれかかり目を閉じて佇んでいるのは、『銀黎部隊』の長ことラティアス。相も変わらず不機嫌そうな佇まいだった。
その近くに、おっとりとした副隊長の女性ことオルエッタ。白いドレスと黒い剣の対比が相変わらず目を引く。
そして、そんな彼女と立ち話に興じていた人物がこちらに気付いてやってくる。
「ふむ。君が噂の遊撃兵の少年か」
発せられたのは、低めのハスキーボイス。緑色のドレスに身を包んだ、背の高い女性だった。百八十センチはあるだろうか。赤茶けた巻き毛の長髪。鋭い目元と高い鼻。不敵な笑みを象る唇。どこか野性的な雰囲気の滲み出たその美貌は、
(あれだ、アマゾネスみたいな……)
流護の脳裏にそんな単語を浮かばせた。
その印象もあながち間違いではないだろう。引き締まった身体つきや隙のない所作から、ただの麗人ではないと――戦いに身を置く者だと分かる。まさに女傑という言葉が似合いそうな人物だった。
もっともそれ以前に、聞き覚えのある独特のハスキーボイスによって、この女性が何者であるかは予想がついていた。
ニッと笑みを深めた彼女は、流護が思った通りの名前を口にする。
「あたしはリリアーヌ姫の正ロイヤルガードを務める、アマンダ・アイード。よろしくね。君の活躍の数々は、旅先でも耳にしてたわ」
その二つ名は、『氷夢の終』。レインディールにて民に信奉される、三大騎士の一人。
彼女が差し出してきた右手を握り返し、
「っと……遊撃兵のリューゴ・アリウミです。えーと……色々と未熟な身で……その……」
「はっはっ、いいわよいいわよー、無理に堅っ苦しい挨拶なんてしなくても。あたしもそういうの苦手だから。ベルやクレアが随分と世話になったみたいね」
そう言って、アマンダは部屋の奥にいるベルグレッテを振り返る。気付いた少女騎士が、むむっと眉根を寄せた。
「いやー、あのお堅いベルがすっかり君に入れ込じゃってるみたいで。クレアも、君とは普通に接するらしいじゃない。久しぶりに二人と話したら、もう引っ切りなしに君の名前が出てくるわけ。いやはや……大人しそうな顔して、どんな手であの堅物姉妹二人を落としちゃったのかしら?」
「いや、えーと……」
底意地の悪そうな笑みで脇をつついてくるアマンダにどう返答しようか戸惑っていると、
「あらあら、闘いはスゴいけど普段は頼りない感じの男の子? そういうの、嫌いじゃないわよー。今度、お酒の席でじっくりと武勇伝でも聞かせてもらいたいわね」
そこで、会話を遮るような咳払いが割り込んだ。
「ふん。婚約者のおる身でありながら若い男を誘うとは、随分と節操がないことだな。護衛騎士殿よ」
声の出所へ目を向ける。
部屋の中央付近。円卓の脇に立ってこちらを睨むその老人は、流護の知らない顔だった。整えられた灰色の頭髪と口ひげ。輝く宝石のあしらわれた派手な服装からして、かなりの地位にいる貴族なのだと予想がつく。いかにも気難しそうな老夫だった。
アマンダは目を細め、その老貴族へと親しげに微笑みかける。
「あらギャーブリス殿。立ち聞きだなんて、感心しませんわね」
「貴殿の声が喧しすぎるのだよ。ましてや若い男を誑かすような内容ならば、少しは声を潜められては如何かな」
「あら? 私は彼に、酒の席で武勇伝でも……と申しただけですが。邪推も度が過ぎると、墓穴を掘りますわよ。ご自分が酒の席で愛人を囲っているからといって、他人も同じだとは思わないことね」
アマンダの言葉が正鵠を射ていた証か。ギャーブリスと呼ばれた老人は、見る間に顔を赤くする。何か言い返そうとしてか大きく口を開いた瞬間、
「おーう、相変わらず仲がいいなお前さんがた。とりあえず適当に座ってくれーい」
やってきたアルディア王が、入り口で棒立ちとなっている流護の肩を叩いた。
「待たせてすまんな、リューゴ。お前さんも入って、その辺に座ってくれ」
「あ、はい」
促され、適当な近場の椅子を引いて座る。……奥にいるベルグレッテとは離れた席になってしまった。そうしたことが気になってしまう年頃の少年である。
場にいた全員がそれぞれ円卓を囲んで座り、一同の顔を見渡したアルディア王が満足げに「うむ」と頷いた。
(……どんなメンツなんだ、これ……)
王が集めたこの顔ぶれ。流護としては、まずそこに共通点が見出せなかった。
一応は遊撃兵となる自分。ロイヤルガードのベルグレッテやアマンダ、『銀黎部隊』のツートップであるラティアスとオルエッタ。考えてもみれば、レインディール三大騎士が揃っている。そして王宮抱えの研究者となるロック博士たち。上流階級の貴族と思わしきギャーブリスたち。
年齢も職務も地位も、ものの見事にばらけている。
「まずは皆、忙しいところをよくぞ集ってくれた。礼を言う」
挨拶もそこそこに、アルディア王が切り出した。
「まず最初にだ。本日早朝、我が妻エリーザヴェッタとロイヤルガードのアマンダ率いる一団……白鷹隊が、およそ半年に及ぶ旅路から無事の帰還を果たした。神々に感謝すると共に、彼女らの旅の完了と成功を称えたい」
パチパチと拍手が起こる。とりあえず流護も倣えば、当事者の一人であるアマンダが優美な所作で一礼した。
「聖妃はどうされておるのですか、陛下」
そこで王に問うたのは、先ほどアマンダと舌戦を繰り広げていたギャーブリスだ。
「さすがに疲れてるみてぇなんでな。本当はこの場に呼びたかったんだが、休ませとる」
「ふむ……それが宜しいでしょうな」
ギャーブリスはホッと大きな吐息を漏らす。アマンダとのやり取りを見る限りでは性悪の頑固老人に思えるが、その顔には心からの安堵が浮かんでいるように見えた。
「さて、本題に入るぞ。白鷹隊は半年も旅に出てたワケだが、そもそも何のために旅をしてたのか。その目的を知らん者も多いだろう」
主にギャーブリスの近くにいる貴族たちによって、にわかに場がざわつく。
以前、ベルグレッテも詳しい話は聞かされていないと言っていた。であれば、この場にいる者たちも大半が知らないのではなかろうか。
「白鷹隊を組織し、送り出した目的はただ一つ」
王が短く告げる。
「――『原初の溟渤』を探すためだ」
「……、やはり……」
ギャーブリスが絞り出すように呻く。取り巻きの貴族たちは、途方に暮れた様子でざわめいた。
ベルグレッテは、王の意図が掴めないような困惑顔となっている。
流護はといえば、
(……ゲンショの……何?)
聞き慣れない単語に困惑する。この集まりに呼ばれたのが何かの間違いとしか思えない。そんな疎外感を味わっていると、
「リューゴは知っとるか? 原初の溟渤のことは」
アルディア王が心を読んだようなタイミングでそんな問いを投げて寄越した。
「いえ……」
首を横に振れば、王はロック博士へと顔を向ける。
「ふむ。俺が話すより、専門家から聞いた方が早いだろうな。知っとる者へのおさらいも兼ねて説明頼めるか、ロックウェーブ大先生よ」
「はあ、分かりました」
大先生と呼ばれたためか苦笑いと共に頷いた博士が、指先でメガネを押し上げながら話し始めた。
「原初の溟渤とは、言うなれば禁足地。『昔から語り継がれる、詳細不明の近付いてはいけない場所』。人が立ち入らないような山奥深くにいつの間にか発生するとされ、青い霧が立ち込めているのが特徴です。特定の一箇所だけでなく、世界各地に無数に点在していると云われています。過去から現在に至るまで、様々な国で調査隊などが派遣されてきましたが、未だ詳細は不明なまま。踏み入ったところカテゴリーAやSクラスの怨魔に遭遇したという事例も数多く、中心部まで到達できた者はいません。怨魔を統べる悪魔の棲み処だとか、近付くだけで呪いによって倒れてしまう魔境だとか、冥府への入り口だとか、古くから様々な言い伝えがありますが――」
ぴっと人差し指を立てて、
「この原初の溟渤には、際立った奇妙な特徴が一つ。数年から十数年の単位で、様々な場所に現れたり消えたりする――というものです」
「……現れたり消えたり……?」
思わず流護が呟けば、博士は頷いて続ける。少し、演技めいた口調で。
「例えばどこかの山村が、何らかの原因で滅んでしまったとしましょう。するとその無人となった村に、よくない澱のようなものが溜まっていく。死んだ人の無念だとか、廃村を根城にしようとする怨魔の気配だとか、目に見えない様々な負の『何か』が」
山村と聞いてミョールたちの住むケルリア村が浮かび、流護はその考えを頭から追い出した。あの美しい集落が滅んでしまうなど考えたくもない。
「そうして負の思念が溜まったその場所はやがて怨魔どころか悪魔すらも呼び寄せ、彼らによって怪物の巣窟へと変えられてしまう。それこそが原初の溟渤。そこは怨魔たちにとっての聖地となり、人にとっての死地となる。言わば人の村だった場所が、怨魔の村みたいになってしまうワケです。村と呼ぶには少々大き過ぎますが。ともあれ、それすら永久には続かず、負の思念はやがて枯渇し、その場所は何もない土地へと戻っていく。それが現れたり消えたりする所以……と、教会では教えていますねぇ」
そんなロック博士の説明を受けて、老貴族ギャーブリスがふんと鼻を鳴らした。
「教会では、か。自分の意見は違う、とでも言いたげだな。研究屋よ」
「無論です。実際に原初の溟渤が何であるか、そこに何があるのかは、未だ解明されてませんから。それを調べるのも『研究屋』の仕事です」
「ふん、罰当たりの変人め」
「ギャーブリス殿。会議が無駄に長くなりますので、少々お黙りいただけますでしょうか」
ぴしゃりと割って入ったのはアマンダだった。むっとした老貴族が何か反論するよりも早く、彼女は朗々と通る声で告げる。
「この半年を費やした探索の結果……我々白鷹隊は、遥か南西へ位置するルビルトリ山岳地帯にて、原初の溟渤と思わしき領域を発見するに至りました」
その言葉をロック博士が引き継ぐ。
「実は二月ほど前から、それらしき場所を発見したという報告は受けていました。白鷹隊と手紙でのやり取りを繰り返し、現地に留まっての入念な調査をしていただいた結果、九割方その場所は原初の溟渤に違いないだろうと。そういう結論になりましてねぇ。ひとまず目的の場所が見つかったと判断し、白鷹隊には一旦お戻りいただいたワケです」
話の内容とは関係ないことだったが、そこで流護はハッとする。ここのところ博士が忙しそうにしていたのは、この原初の溟渤にまつわる仕事にかかわっていたためなのだろう。
「陛下。そうまでして、かの禁じられた地に固執なさる理由とは……?」
諦めと疲れを伴った声で、ギャーブリスがアルディア王へ問いかけた。同席する他の貴族たちも、不安げな表情で成り行きを見守っている。
「文化の水準を押し上げるためだ」
迷わず返されたアルディア王の答えに、場が沈黙した。
ギャーブリスら貴族たちも。ベルグレッテすらも。おそらく、王の発言の意味が分かっていない。ぽかんとなって固まっている。そしてそれは当然ながら、流護も同じ。
(文化の……水準……?)
ラティアスやオルエッタ、実際に現地へ赴いていたアマンダや研究者のロック博士は王の意図を知っているのか、動揺したような様子は見られなかった。
「つまりよ、生活やら何やらをもっと便利にするため……ってこったな」
「それと原初の溟渤に、一体何の関係が……?」
流護の脳裏に浮かんだ疑問を、ギャーブリスがそのまま言葉にする。
「ずばり言っちまうとな。俺は、原初の溟渤の正体を『超高濃度の魂心力が集まる吹き溜まりのようなもの』だと予想している」
「陛下のお言葉通りに考えると、様々な事象の辻褄が合うんです」
そう引き継いだのは、ロック博士の隣に座っている白衣姿の女性だった。年齢は二十歳ぐらいだろうか。ボブカットの茶髪とメガネをかけてキリリとした顔立ちが印象的な、まさに理系女子といった趣の美人である。
「あっと失礼。申し遅れました、第一研究室所属のシャロムと申します。よろしいですか。近付いた人間が倒れるという伝承については、高い純度の魂心力に当てられて昏倒したのだと考えられますし、怪物の巣窟だとされる所以についても同様です。質の高い魂心力に惹きつけられて、一部の怨魔が寄ってくるため……と推測できます。何らかの理由で魂心力が集積と霧散を繰り返しているため、現れたり消えたりする……という伝承が形作られたのでは、と考えています。そもそもこの場所に漂う青い霧というのも、変異した魂心力の一種ではないかとの説があります」
シャロムと名乗った研究員が言い結ぶと同時、ロック博士がうんうんと頷く。
「独力でその仮定に至った陛下のご慧眼には舌を巻くばかりです。ボクら、商売上がったりになってしまいますよ」
ロック博士が肩を竦めれば、アルディア王は呵々と笑う。
「なァに、おだてても何も出ねぇぞ。この仮定に至るまで、シコシコ勉強しながら調べて丸五年掛かってんだぜ。チモヘイの爺さんまで何度も頼ってよ。本職のお前さん方なら、もっと早くこの結論に辿り着いたろう」
「あれ、チモヘイって……」
聞き覚えのあるその名前をつい口にすれば、王は流護の顔を見やってニカッと笑った。
「おう。以前、お前さんとベルに行ってもらったレフェのお使いだな。あれも、あの爺さんと原初の溟渤についての情報をやり取りするためのものだったってワケだ」
「なるほど……」
任務を受けたその日の夜、一泊したエウロヴェンティの宿でベルグレッテと一緒に文書の内容をあれこれ予想した流護だったが、期せずしてその答えが明らかとなった。ちらりと視線を向ければ、ベルグレッテも得心がいったような顔をしている。
「それでですね」
ロック博士がメガネを押し上げて続きを話す。
「我々は虚空から魂心力を吸収したり自己で生成したりしながら神詠術を扱うワケですが、この普段我々が接している魂心力というものは、『まっさらな状態』ではないんです。研究分野の用語で表すならば、不純物と言い換えることができます」
そこでガタリと立ち上がったのは、例によってギャーブリスだった。
「貴様、主より授かりし神聖な魂心力を、言うに事欠いて不純だと!?」
そして、お決まりのようにアマンダが割って入る。
「はいはい、学のない方はお静かに。研究分野の用語で表すなら、ってわざわざ注釈を入れてくださってるじゃないの、博士は。何も『不純』というのは、誰かさんの女性関係を指し示すだけの言葉ではない、ということですわね」
「ぐぬ、貴様……」
「博士、お気になさらず続きを」
「あっ、すみませんねえ。そんなワケでして、普段我々が魂心力と認識しているものは、決して純度が高いとはいえないんですね。しかし――」
喋り通しで曇ったのか、博士がメガネを外している間に、隣の理系女子な研究員ことシャロムが引き継ぐ。
「よろしいですか。一般に、『霊場』と呼ばれる領域があります。我が国ではボーヴラント大平原、隣のレフェでは『無極の庭』などが有名ですが……これら霊場は、極めて純度の高い魂心力が集まりやすい、または生成されやすい場所なんです」
そこで、これまで静聴していたベルグレッテが初めて口を開いた。
「つまり原初の溟渤は、極めて強力な霊場である可能性が高い、と」
「はい、その通りです。付け加えるなら、これまで観測されたことがないほど強力……かつ、大規模だと予想されます」
シャロムがそう言い添えて頷いた。
「そのうえでおそらく……原初の溟渤は、ただの霊場ではありません」
メガネをかけ直したロック博士が真面目な顔で引き継ぐ。
「まだ断言はできませんが……しかし、確信に近い推測があります。原初の溟渤……その奥深くには、目で見て確認できるほど『濃い』純度の魂心力が滞留していると思われます」
「魂心力が……目に見える、だと……?」
驚愕の呻きを漏らすギャーブリスへ、ロック博士は「おかしいことではありませんよ」と肩を竦めて言う。
「魂心力を介して発現する神詠術という力は、目に見えることの方が多い訳ですから。炎、氷、水、雷に……風はちょっと見えづらいですね。ともかくこれらの現象は、ある意味で魂心力が姿を変えたものであると言い換えることができます。ですから、何の属性にも相当しない……人を介して『術の形』になっていない『純粋な力』があっても、おかしくはないんです。目に見えるどころか……結晶化した固体のような形で、実際に触れることすら可能なのではないかとボクらは推測しています。そしてその密度から、詠唱をせずとも触れただけで神詠術が共鳴し、発動するほどのものであると予想します」
そう締め括れば、場がシンと静まり返った。大半の者が初耳なのだろう。というより、流護もだ。貴族たちなどはポカンと呆けている。ややあって、アルディア王が口を開く。
「で、だ。俺らも日常的に使ってる『封術道具』ってモンがあんだろ。冷術器やら何やら、便所の水を流してんのもそうだな。これらは、対応した術を使うことでその機能を引き出してるワケだ。冷術器なら氷や風。便所を流すなら水って具合にな」
そうして、その結論に到達する。
「極めて純粋……かつ濃度の高い魂心力を利用すれば、属性にとらわれず高出力ってな具合で、今までは実現できなかった更に便利な道具を作ることが出来るようになるってワケよ」
「……!」
貴族たちがざわめいた。王の目的を理解したのだろう。
(文化の水準を押し上げる……ってのは、そういうことか……)
流護も同じく、その言葉の意味を噛み締めた。
原初の溟渤に存在すると思わしき、原初の魂心力を回収する。それを用いて、様々な封術道具を開発する。
「そうだな、例えば……具体的にゃ、通信の術なんかも道具で代用できるようになるんだよな? ロックウェーブよ」
「可能です」
ロック博士がメガネの位置を直しながら断言する。王はニヤリと意味ありげな笑みを流護へと向けた。
「そうなりゃ、術の使えねぇリューゴでも通信ができるようになるな」
「ッ!」
思わず変な声が漏れそうになった。
この世界へやってきて五ヶ月。つまり、携帯電話という文明の利器が使えなくなって五ヶ月。この世界でも、簡単に連絡を取れる手段があれば……と思ったことは一度や二度ではない。例えば遠征先で、ベルグレッテやミアに電話ができれば、と。
もちろん、任務のうえでも非常に役立つだろう。
「アリウミ遊撃兵だけではなく……ほとんど術を扱うことができない平民の子供たちでも、その封術具を用いれば通信できるようになりますわよね」
オルエッタがうんうんと頷く。次いで、無表情のラティアスが口を開いた。
「私も以前、少々聞き及んだ程度ですが……簡素な護身用の道具も作成可能となるそうですな。民らが手にすれば、賊や怨魔から身を守る手段が得られるようになるでしょう」
その説をアマンダが補足する。
「さすがにそういった連中を返り討ち、とまでは難しいでしょうけど……逃げる隙を作る程度であれば、何とかなるかもしれませんわね。後ろ暗いところの多いギャーブリス殿も、外出の際に護衛の人数を減らせるようになるかもしれませんわよ」
「な、なんと……」
それらの言葉ですごさを実感したのか、ギャーブリスが目を剥いて感嘆の吐息を漏らした。あまりの衝撃だったからか、さらりと煽りが交じっていたことに気付いていない。
「もちろん、すぐにというワケではありませんが。他にも色々な……想像もつかないような、優れた道具を作ることができるようになると思いますよ」
ロック博士のメガネが怪しげな光を帯びる。流護と目が合えば、不器用なウインクを送ってきた。
その表情を見て、現代日本の少年は確信する。博士は――地球にあるような様々な機器を、封術道具で再現するつもりなのだ。
(だとしたら、例えば……)
例えば、テレビやカメラ。これはレフェの天轟闘宴で、似たようなことが可能だとすでに流護自身が確認している。
洗濯機などはどうだろうか。今朝、早くから手洗いでの洗濯に励んだ流護としては、そういったものがあれば非常に助かると思わざるを得ない。
冷術器からさらに進歩して、エアコンのようなものも再現できるようになるのでは。火や電撃の扱いに応用がきくようになれば、料理などにも大きく影響することだろう。
「…………、」
ゾクリ、と鳥肌が立つ。
もし、そういったものが実現可能となれば。
アルディア王の宣告通り、文化の水準が上がる。おそらくは、飛躍的に。
間違いなく――時代そのものが変わる。
「もう分かってもらえたろう。だから俺は、原初の溟渤を目指す」
迷いなき王の宣告。静寂が場を支配する。
「しかし……、しかしです、陛下」
控えめなかすれ声を上げたのは、例によってというべきか老貴族ギャーブリスだった。
「かの魔窟は、古より禁足地とされております。ですから……」
信心深いというか、この世界の人間ではそれが当たり前なのだろう。怯えの色を隠しもせず、老人は言いづらそうに意見を主張する。アマンダに食ってかかる勢いが嘘のような気弱さで。
「ギャーブリスよ。お主の商会は、建築分野も手掛けとったな」
「は、はあ」
「ならば、黒燕鉄とガイセリウスの話は知っとるわな。恐らくは、俺以上に」
「い、いえ……! 私なぞが、陛下に及ぶはずもなく……あ! なるほど、陛下の仰りたいことは理解いたしました。しかし……」
その話なら、流護も最近読んだ本で知っていた。
かつて禁忌のものとされていた黒燕鉄をガイセリウスが武具の素材として用い、それが切っ掛けとなって製造や建築の分野が大きく前進した。そんな話だったはずだ。
「怖いか? 禁忌に触れることで、神に裁かれるやもしれんと。悪魔に呪われるやもしれんと」
諭すような優しささえ含んだ声で、王が貴族の懸念を言い当てる。
「……仰る通りでございます。かの地に踏み入ることで、何か良くないことが起きるのではないかと……」
「そうだな。実を言やぁ、俺も同じような気持ちだ」
流護としては意外なアルディア王の言葉に、ギャーブリスがええっ、と顔を上向ける。この老人にとっても予期せぬ回答だったのかもしれない。
「だがな。それでは、人は前に進めん」
王は言う。
「俺たちの前に、前人未到の場所がある。誰も辿り着いたことがねぇから、そこに何があるのかは当然誰にも分からん。悪魔がいるかもしれんし、とんでもない金銀財宝があるかもしれん。もしくは、何もないのかもしれん。だが、実際に行ってみなければ――誰かがそこへ最初の一歩を踏み入れてみなければ、何があるのかは永遠に分からんままだ。進まず、安寧が約束された場所に留まり続けるのも選択肢の一つではあるだろう。だが」
そうして、アルディア王は挑戦的な笑みで老貴族を見据えた。
「前進を放棄したら、そこで終わりだぜ。俺らが生きる今この時代だって、先人たちが最初の一歩を何度も繰り返してきたからこそ存在するんだ。なぁ、ギャーブリスよ。一緒に、新しい最初の一歩を踏み出してみねぇか。その結果、次代の子供らが……リリアーヌやお前さんの子供たちが、より楽に……安全に暮らせる時代が訪れるかもしれねぇなら、悪かねぇ話だと思わねぇか」
「……そ、れは……!」
そのハッとした表情で、ギャーブリスの気持ちが動いたのが流護にもはっきりと感じ取れた。
(……やっぱ、おっかねぇ人だよ)
そして、内心で苦笑いする。王は子供の話を持ち出すことで、頑固な貴族の心を揺さぶったのだ。卑怯臭いというか、らしいというか。
しばし舞い降りる沈黙。迷うような、老貴族の気配。
ややあって、ギャーブリスが少したるんだ自分の頬を両手でパンと張る。
「…………承知、いたしました。私なぞ、所詮は老い先短い身です。ならば子供たちのために……未知の領域へ、一歩踏み入ってみようではありませぬか」
取り巻きの貴族たちがどよめき、その様子を見たアマンダがふっと笑みを浮かべた。目ざとくギャーブリスが反応する。
「……む、何かね。護衛騎士殿」
「いえ。確と覚悟を決めたそのお顔。常よりも幾分、男前に見えますわよ」
「か、からかうでない! まったく……」
何というかこの二人、実は仲がいいのかもしれない。流護はついほっこりしてしまった。
「よォし……じゃあ、正式に指令を下させてもらうぜ」
卓上に置かれたアルディア王の大きな右手が、ぐっと力強く拳を握る。
「今回、白鷹隊が発見した原初の溟渤……その内部へ入り、調査を実施する。最終目的は、純度の高い魂心力を発見、回収することだ。が、まだ実際中に踏み入ってない現時点では、何が待ち構えてるか分からん、ってのが正直なところだな。如何なる事態にも対応できるよう、準備は念入りに行う。ギャーブリスらには、部隊に必要な消耗品や食料品、武器などの手配を頼みたい」
「は、はっ……! 仰せのままに……!」
かしこまって頭を垂れる老貴族に頷き、王は続ける。
「現場に赴く部隊の人員は、まず団の長として現地までの道を知るアマンダ。内部調査のための人員として、ロックウェーブとシャロム……そして機関の第一斑、全五名を加えた計七名。彼らの護衛と障害排除を担う兵らを六十一名。その指揮を執るために、オルエッタに同行してもらう。『銀黎部隊』からは他に、ダーミー、テールヴィッド兄妹の計三名を。そして――」
王の精力的な瞳が、正面から見据える。有海流護の顔を。
「同じく護衛と障害排除を兼ねる戦闘人員として、リューゴ」
そうして次に、ベルグレッテの顔を。
「戦闘及び研究員らの補佐として、ベルグレッテ」
少女騎士が驚く間にも、王は力強く宣告する。
「以上、七十五名を第二次白鷹隊として組織。かの地が発見されたと思わしき、ルビルトリ山岳地帯へ赴いてもらう。遠征期間は一ヶ月を予定。出立は十日後。緋羽の月、二十一日とする」




