280. 禍き提案
ともすれば小規模の城に匹敵するのではないか、と思えるほどの豪邸だった。
庭の花壇や植え込みは隅々まで手入れが行き渡っており、妥協というものがない。使用人たちの仕事ぶりにもそつはなく、建物の各所に佇む護衛の黒服たちの姿にも隙がない。
そんな完璧に完璧を重ねたような大豪邸、その広い玄関口にて。
来客していた二人が退邸の挨拶を済ますべく、屋敷の主である白い礼服の紳士に頭を下げていた。
「いやはや、この度は我が広報誌商団の取材にご協力いただき、誠にありがとうございました。さすがと申しましょうか、ジェイロム商会の快進撃は留まるところを知らず、というばかりですな。ますますのご活躍、陰ながら応援いたしております」
客として訪れていた初老の男のそんな言葉に対し、家主の紳士がニコリと口元を綻ばせる。一部の間では爬虫類じみた美形、とも評される顔立ちだったが、その笑顔には事務的ながらも相手を安心させる何かがあった。
「いえ。我が商会が安定した業績を維持できているのも、広報誌商団各位のご協力あってのこと。こちらこそ、今後とも宜しくお願い申し上げます」
そう言ってスッと頭を下げる家主。その所作もまた、優雅で様になっていた。
「ほ、本日はありがとうございました!」
もう片方の客である年若い青年が緊張気味に頭を下げ、場はお開きとなるのだった。
「いやあ、凄い! 凄かったですね、編集長!」
帰りの道中。平常日ということで人も疎らな歩道を行きながら、青年は興奮覚めやらぬ様子で初老の男を振り返った。
「気持ちは分かるが、少し落ち着けボビー。はしゃぎ過ぎだぞ」
編集長が苦笑しつつ窘めるが、ボビーは若さ丸出しでお構いなしにまくし立てた。
「落ち着いてなんていられませんよ! 何ヶ月も待って、ようやくウチが取材できたんですから! 今やエッファールク国内のみならず、近隣諸国の間でずば抜けた市場占有率を獲得しているジェイロム商会! その若き長、クィンドール・ジャロスバーチル! 物静かで、雰囲気のある人でしたね。憧れちゃいますよ!」
「まあ、確かにな。かつてはエッファールク王国騎士団の副団長を務め、今は大手商会の長。唐突に商人となってからは、多種多様な封術具を世に送り出し、わずか四年で業界の頂点に上り詰めた。武才も商才も持ち合わせた非凡な男、か。あれでまだ三十になったばかりだってんだから、恐れ入るね」
「でも……騎士としての名声を得ていながら、辞めて商人に転向されたのは、どうしてなんでしょうねぇ」
「さてなあ」
その点については、質問するもはぐらかされてしまっていた。「ご想像にお任せします」とのことである。
掴んでいる情報といえば、クィンドールが騎士を辞める三年ほど前に、妻を亡くしているということぐらいか。が、商人に転向したのがその三年後となると、かかわりがあるとも考えづらい。
「存外に謎が多いんだよな。元・エッファールク騎士団最強の剣士、か」
編集長がそう呟くと、ボビーがあっと声を上げる。
「そう、それ。気になってたんですよ。どうして、最強の『剣士』なんです? みんなそう言いますよね。最強の男、とかじゃなくて」
「ん? そんなことも知らんのか。そりゃ、そのままの意味だ。剣を使わせたら右に出るものはいなかった、ってことさ。術を禁止した、剣のみの競技会なんかじゃ敵なしだったんだと。もちろん詠術士としても決して凡庸じゃなかったんだが……一流どころと比較すると、生まれ持った魂心力に恵まれなかったらしくてな。こればっかりは、神の思し召しだからなあ。そんなわけで剣技無双、接近戦ならば敵なしって言われてたわけだ」
仮定の話になるが。例えば、ありとあらゆる神詠術を切り払うような魔剣が存在したなら。それを、クィンドールが手にしたならば。もしくは、彼にガイセリウスのような身体能力があったなら。
きっと大陸最強の男とすらなり得ていただろう、との呼び声は高い。
エッファールクそのものが小国であるゆえ、レヴィンやドゥエン、ラティアスといった三大国の戦士たちに比べると知名度こそどうしても劣るものの、北方では一部の者たちから高い評価を受けていた。……それも、北国では生ける伝説とまで称される『ペンタ』こと救国の英雄、メルティナ・スノウの前では無名にも等しいのだが。
そんなクィンドールではあるが、今や現役を退いたこともあり、そういった最強論議の輪からは外されることが多いようだ。
「うーん、もっと詳しく知りたいな。記事の内容も深まりますし」
「気持ちは分かるが、今はその辺にしときな。俺たち『誌商』ってのは、ただでさえ疎まれやすいんだ。他人をあれこれ詮索して飯の種にしようってんだから、もっともな話だがね。時には押し、時には引く。そうやって地道に関係を築いていくのが肝要だぞ。信頼が深まれば、そのうちポロッと喋ってくれるようになるってもんだ」
「ううーむ、そういうものですかねえ」
ボビーは渋々といった顔で頷きつつも、声を弾ませる。
「それにしても、凄い顔ぶれでしたよね。ライズマリー公国の腕利き書記官にして宮廷詠術士のリンドアーネ・カルフェスト、ヴェス・ハスロ公爵家のデビアス・ラウド・モルガンティ、西の傭兵団ダスティ・ダスクのガーラルド・ヴァルツマン……。そうそう、閑所を貸してもらった時なんて、廊下でザッカバールのテオドシウス氏とすれ違いましたよ。正直、目を疑いましたって」
延々と喋り立てるボビーの話を半ば聞き流しかけていた編集長だったが、その名を聞いて思わず目を見開いた。
「テオドシウスって……南の、『凛明団』のウィレントリッジ・S・テオドシウスか!?」
「ええ、間違いありませんよ。あの鎧と派手なサーコート……顔も、二月前の『魔闘術士本拠掃討』の号外で見た似顔絵と全く同じでしたし。飄々とした中年男性、って感じの」
「ふうむ、そうか……。すでにザッカバールとも繋がりが出来てたのか。これはいよいよもって、大陸全土を席巻するかもしれんな。ジェイロム商会は」
ザッカバール大帝国といえば、遥か南方の巨大都市国家である。レインディール、レフェ、バルクフォルトの三国を中心とする周辺都市群とのかかわりこそ薄いが、南ではほぼ一強と呼べる勢力を誇っていた。
ちなみにテオドシウスは、そのザッカバールで最強と名高い騎士である。ある意味で、クィンドールとは対照的。非常に優秀かつ希少な力を持つ詠術士であり、剣を持たない騎士として有名だった。旅好きかつ趣味を優先する性分で、休暇を取得して一人でふらりとどこかへ出かけてしまうことも多いと聞く。そもそも危険な外の世界をそのように個人で気軽にうろつけてしまうあたり、桁を外れた彼の腕利きぶりが推し量れようというものだった。
「あっ、そういえば」
失念していた、とばかりにボビーが手を打つ。
「何だ、今度はどうした」
「いえ。確かに凄い人ばかりだったんですけど、あの二人は誰だったんだろうなあ、って」
「あの二人?」
「ほら、帰りに二階から一階に下りる時、階段の踊り場ですれ違ったじゃないですか。白衣を着た小さなお爺さんと、凄い身体した厳つい人」
「ああ、あの二人か。確かに知らない顔だったな。医者と用心棒……って感じに見えなくもなかったが」
「ああ、編集長もご存知ないんですか。僕らが知らないとなると、あまり有名な方じゃないんでしょうね」
著名な業界人贔屓のボビーとしては、あまり興味を刺激されなかったのだろう。
話を切り、上着のポケットから袋に入った飴玉を取り出す。
「これ、デビアスさんがくれたこのアメ。早速いただいてみましょうかね」
黒い飴玉だった。表面には白い斑模様が浮かんでいる。角度を変えて眺めると、その模様がゆらゆらと蠢いているようにも見えた。
「わざわざくれたってことは、新しい商品の試作品だったりしませんかね?」
「食べることで効果を発揮する封術具、ってか? 画期的だが、さすがにジェイロム商会といえど、安全性との兼ね合いが難しいだろうな」
話す間にも、封を切ったボビーが飴玉を口に放り込む。
「んーむ……特別おいしい、ってものでもないですね。普通のアメだ」
「分からんぞぉ。お前の知らないところで、何かの術が発動したりしてな」
「ははは。編集長は食べないんですか?」
「歳のせいか、菓子類はちょっとな。帰って、孫にでもあげることにするよ」
場所は豪奢な一室。ガラス張りのテーブルを挟み、若い男女が向かい合う形でソファに座っていた。
「最近、私は思うのですけど」
平淡な口ぶりで切り出したのは、女性のほうだった。
歳は二十代前半。飾り気のない深緑の髪を頭頂部で結わえ、黒縁の小さなメガネをかけた、知的な印象の人物。茶色いケープを羽織った地味な装いが、より彼女の生真面目さを引き立てているようでもある。いかにもお堅い宮廷詠術士、という風体の女性だった。
「実はデビアスさんこそが、オルケスターで最も危険な人物なのでは? という気がしてきました」
「はは。それはまた手厳しいね、リンドアーネ」
対面に座るチャコールグレーの礼服を着た青年、褐色肌の紳士ことデビアスは、長い脚を組み直しながら笑った。
ケープの女詠術士ことリンドアーネは、メガネの縁を指で整えながら言う。
「何せデビアスさんときたら、あの飴玉を次から次へと気軽にあげてしまうものですから」
「身体に害はないからね。念のため……もしものことがあったら、せっかくだから我々の実験に付き合ってもらおう、っていうだけの話さ」
「既に、相当数ばら撒いたのではないですか?」
「うーん、千は下らないんじゃないかな」
「ゾッとしませんね」
言葉とは裏腹に心底他人事な冷めた顔で答え、リンドアーネは足元の鞄から多量の紙束を取り出した。
「本日の来客も帰られたことですし、本題に入りましょう。……テオドシウスさんは?」
「ん、来ないな。呼ぼうか」
優雅な手つきで、デビアスが通信の術式を紡ぐ。すぐさま繋がった気配を察し、相手が応答するより早く呼びかけた。
「騎士殿? リンドアーネ書記官の話が始まるよ」
『おう、あー、すまんねぇ。今、ちょいと腹が痛くて用足し中なんだな。あ~っ、あー。聞いてるから、構わず始めてくれんかね。あーっ』
漏れ聞こえてくる汚い吐息に一瞬だけリンドアーネが嫌そうに顔をしかめるが、苦言を呈するでもなく本題に入る。
「ではまず、二ヶ月前にレフェで開催された天轟闘宴。その参加者のうち、上位に残った者。中でも、『融合』や勧誘の対象とすべき価値がある者についての洗い出しが終わりましたので、報告致します」
リンドアーネは頬にかかる長い髪をかき上げ、手元の資料を淡々と事務的に読み上げる。
「まず、ディノ・ゲイルローエン。レインディール王国はミディール学院に所属する『ペンタ』、その第四位。メレリアル地方でニールスらと揉めたことが切っ掛けとなり、我々に牙を剥いたようです。基本的に一匹狼気質であるため、非常に狙いやすい相手……というより、むしろ敢えて襲撃を待ち構えている傾向が見られました。そんな気性に違わず戦闘能力は極めて高く、また不意打ちにも強い。摘出を狙うのであれば、我々からも殲滅部隊級の精鋭を出すことになるかと思いますが……早々にナインテイルが向かったのですよね?」
そう問われ、デビアスが肩を竦める。
「ああ。まだやめてくれって言ったんだけどね。武祭の三日後に、意気揚々と彼の下へ向かってしまったみたいで」
「それで、どうなったのですか?」
「音信不通」
ええっ、とリンドアーネが眉根を寄せる。
『いつものこった。「加工」にでも夢中になってるんじゃねぇかなあ』
「ちょっと会ってくるだけだ、って言ってたんだけどね」
『んなもん、会うだけで済むわけがねぇんだよなぁ、あの短気なお嬢ちゃんが。何かカチンと来ることでも言われて、「はぁ~~~ん?」とか言って食って掛かったに決まってるぜ。目に浮かぶようだよ、その光景が』
「はは……ディノ君の摘出は、諦めた方がいいかもしれないな」
苦笑気味な男二人の結論を聞き、リンドアーネは盛大に溜息を吐き出した。
「彼女にしっかりと理性が残っていて、せめて必要な部分を確保してくれていることを祈りましょうか……」
もったいない、と彼女は頭を横に振った。気を取り直し、頁をめくる。
「次に、ダイゴス・アケローン。これはご存知、レフェが擁する矛の三男ですね。今はミディール学院に留学していますが……暗殺者であるため、不意を突くのは非常に困難です。でなくとも、彼は『十三武家』の一員。そして、此度の天轟闘宴を制する一歩手前まで到達した、いわば地元の英雄」
「彼に手を出すことは、レフェに戦争を吹っ掛けることと同義、と」
「そうなります。勧誘……にも、応じないでしょうね」
飽くまで秘密裏な集団であるオルケスターとしては、巨大国家に動きを悟られることだけは避けたい。少なくとも、今のところは。
ダイゴスの扱う多種多様な術は魅力的だが、その立場や暗殺者であるという点を考慮したなら、臓器の奪取は現実的でないとすらいえた。
「次に、グリーフット・マルティホーク。名うての傭兵にして天轟闘宴の常連。西の名家出身という噂があるも、正確なところは不明。腕は立ちますが、所詮は一人者の傭兵ですので、接触さえできれば勧誘にしろ狩るにしろ比較的容易と思われます。ただ、傭兵ゆえに各地を放浪しているため、所在を掴むのであればそれなりの調査が必要になります」
ペラリと頁をめくり、事務的に続ける。
「サベル・アルハーノ。トレジャーハンターとして広く活動しているようで、今回は成り行き任せで武祭に参加したようです。彼は紫色の炎という珍しい力を宿しており、優先的に確保・研究をすべき対象といえるでしょう。それなりの手練と思われますが、武祭ではいつの間にか脱落しており、正確な実力は不明。もっともグリーフット同様、捜し当てさえすれば接触することは難しくないかと」
その他、淡々と上位参加者の詳細が読み上げられていく。
やはり腕の立つ者になればなるほど地位や名声を得ている傾向が強く、比例して目立たず接触することは難しいといえた。
「ガドガド・ケラス。『打ち上げ砲火』が始まるまで生き残っていた参加者ではありますが、戦闘能力は低く、逃げ足が速いだけの小男ですね。突出した能力を持っている訳でもありませんので、正直この人物は不要かと」
リンドアーネは心底つまらなそうに結論して、次の資料を繰る。
「次は……リューゴ・アリウミ」
その名を聞いて、デビアスとテオドシウスがピクリと反応した。
「突如として現れた、今回の天轟闘宴の優勝者。結論から申しますと、彼はレインディールの遊撃兵でした」
「遊撃兵……、そうか、そういうことか!」
ぱん、とデビアスが自らの膝を打つ。
『何なんだい、その遊撃兵? とかってのは』
一方のテオドシウスは、レインディールとの国交も皆無なザッカバールの人間であるため、そのあたりの事情に通じていなかった。
「強者を好むことで有名なレインディールの武王が抱える、お気に入りの兵士さ。成程、彼の強さと特異さに合点がいったよ」
「この少年の逸話は、それだけに留まりません。学び舎へやってきたファーヴナールを素手で撃破しただとか、かつてディノ・ゲイルローエンと一戦交え、勝利したことがあるという噂も」
そう聞いて、男二人がまたも神妙に唸りを上げた。
「そうか。彼らは顔見知りみたいだったけど、そういう繋がりだったのか」
『ふうむ。ファーヴナールまでやってたのかい。腕利きに背景あり、だなぁ』
「レインディールにおいては、かなり名の知れた存在となりつつあるようです。ちなみにこの人物、どういう訳か昔の記憶を失っているそうで、出身地は掴めませんでした」
「うーむ、興味深いね。つくづく変わった少年だ」
『あの異常な身体能力についても、詳しいことは分からず終い……ってところかねぇ』
「はい。残念ながら」
そこで――常に軽薄なテオドシウスの声が、やおら真剣みを帯びた。
『ううむ。オイラとしては、あの小僧……クィンドールの旦那と同種の使い手なんじゃねぇか、なぁんて踏んでるんだが』
向かい合って座る紳士と女詠術士が、思わず顔を見合わせる。まず口を開いたのは後者だった。
「それはつまり……このリューゴ・アリウミは、『亡月』のような何かを隠し持っている、と……?」
恐る恐るといった彼女の説に対し、
「いや、それはどうかな。『亡月』も、あの大きさだからこそその性能を発揮できている部分が大きい。少なくとも武祭で見た限り、リューゴ君がそれらしきものを隠し持っているとは思えなかったし……仮に持っていたとしても、その程度の大きさでは、あれだけの能力を引き出すことはできないだろう」
顎の下に指を添えたデビアスが異論を唱えた。
『ふんむ。となると、益々謎が深まりますな。おっと、話の腰を折って悪いねリンドちゃん。続きをどーぞ』
「あ、はい」
そして何より、相手がレインディール抱えの遊撃兵となれば、ダイゴスと同じくその地位的に狙うことも難しくなるだろう。
地元のマフィアグループを一つ壊滅させているという噂もあり、オルケスターに協力する可能性はあまり期待できない。
そう補足したリンドアーネはペラリと資料をめくり、最後の一枚へと視線を落とした。
「と、いう訳で。これが最後の一人です。天轟闘宴の参加者ではありませんが、お二人がお待ちかねの、プレディレッケを叩き斬った謎の美しき少女詠術士――とやらについてですが」
『おっ、待ってました!』
いかがわしい店でお気に入りの女を迎えるようにはやし立てるテオドシウスだが、続くリンドアーネの声は冷たい。
「これも結論から申しましょう。残念ながら、とんでもない高嶺の花です。レインディール王国が準ロイヤルガード、ベルグレッテ・フィズ・ガーティルード。それが彼女の正体ですね」
「何と、名前だけは知っていたが……。彼女が、そうだったのか」
デビアスが瞠目し、
『あー……つまり? 狙う場合、レインディールそのものを敵に回すことになるとか、そんな感じの話かな?』
テオドシウスが知識はなくとも察し、
「ですね」
リンドアーネがにべもなく頷いて、はあ、と三人の溜息が同期した。
赤い絨毯が長く敷き詰められた廊下を、デビアスは行く。
「どうだ、テオドシウス。随分と便所が長いようだが」
『うむ、不審な点はねぇかな。用便も済ませたし、そろそろ出るかね』
長々と個室に篭もっていたテオドシウスだが、ただ用足しをしていただけではない。
小一時間ほど前に来客として訪れた広報誌商団の記者二人のうち、青年のほうが一度用足しに入ったのだが、彼が妙な仕掛けを残したりしていないか調べていたのだった。
『いやはや、不幸な死人がでることはなさそうで何よりだなぁっと』
「ははは」
前例があるのだ。
商会について取材で得た以上の情報を欲する記者が、盗み聞くための術式を屋敷内にこっそりと施したことがあった。
しかしこの建物は、ジェイロム商会会長の邸宅であると同時に、オルケスターの活動拠点の一つでもある。
無論、商会の機密どころではなく、決して表沙汰にはできない『裏』の会話も頻繁に交わされるのだ。
当然というべきか、欲張ってしまった哀れな記者は、すぐさま不幸な事故で川に浮かぶこととなった。
「む」
一階のリビングへやってきたデビアスは、片隅の席に腰掛ける白衣姿の老人と、その傍らで佇む厳つい青年に気付く。
「これは、キンゾル殿にメルコーシア殿。本日は、この屋敷で過ごされるのかな?」
「ひっひっ、デビアス殿ですか。近くまで来ましたのでな、少しばかり寄らせてもらっとるだけですじゃ。夕刻には、お暇させていただきますぞ」
「そうでしたか。ごゆっくりどうぞ」
未だ、掴めない。
キンゾル・グランシュアという老人に対するデビアスの評は、その一言に尽きた。
素性は不明。遥か東の地から流れてきた、と本人は語る。
かつては妻や息子、孫もいたそうだが、全員亡くなった、とのこと。
昔は医者をやっていた時期があり、歳の離れた弟がいたという。この弟とは、若い頃に決別。キンゾル自身が現在九十一歳とのことなので、今やその弟のほうが先に天へ召されている可能性も充分にあろう。
もっとも、どこまで真実を語っているかは怪しいところである。
この老人自身『ペンタ』だというが、少なくともデビアスの知る限り、キンゾルという名の超越者は――これほど奇異な能力を持った『ペンタ』は、この大陸付近一帯には存在していない。オルケスターの情報網を使っての捜査ですら、何も掴めなかった。
老人の言に偽りがないのなら、及びもつかない遠方からやってきたということになる。
そして、常に老人の脇に侍る筋骨隆々の護衛こと、メルコーシア・アイトマートフという男。
自分はキンゾル先生に命を救われた。ゆえに、恩義を返すため尽くしている。他に語るべきことはない――と、簡潔かつ頑なだった。
そして今のデビアスからこの男を見て、感じることがある。
似ている。かのリューゴ・アリウミと、どこか共通する雰囲気が感じられるのだ。例えば、膨張するほどに発達した筋骨や体格。まるで隙のない佇まい。このメルコーシアも、何やら得体の知れない武術を使うと聞いている。
そんな奇妙な両者。飽くまで、このキンゾルとメルコーシアは協力者。オルケスターの一員となった訳ではない。
「ところで、デビアス殿。ワシも、リンドアーネ殿より少々話を伺わせていただいたのですがね」
「ああ、『融合』に使えそうな人材の話ですか」
「ひっひっ。左様」
そもそも『融合』とは、この老人のみが行使できる稀有な力である。
魂心力の宿った人間の臓器を引き剥がし、他者に植えつけるという異常な行為。そして、移植を受けた者が元となった人物の術を扱えるようになるという怪奇。
未だオルケスター内での成功例はないが、あらゆる神詠術を扱える超術者を生み出す可能性を秘めた技術。
キンゾルは『融合』の能力をもってオルケスターに貢献し、オルケスターはキンゾルに組織力を貸す。そういう共生関係だった。
「聞けば、天轟闘宴上位者は名うての戦士ばかり。地位やら立場やらが障害となって、手を出しにくいという話ですが」
皺だらけのキンゾルの顔が、にやりと歪な笑みを刻む。
「ならば、引っ張り出そうではありませんか」
『引っ張り出す、とな?』
「おお、これはこれは。テオドシウス殿も聞いておられましたか」
デビアスの肩口で揺らぐ通信術の振動に向かって、キンゾルが小さく会釈する。無論、向こう側からその様子が見えるはずもない。
怪老人は、確信を持ったように告げる。
「奴らは戦士ですからの。戦いが起きれば、自然と引き寄せられるものです。具体的に申せば――――」
キンゾルが言い放った案を聞いて、デビアスとテオドシウスはたっぷり十秒ほども沈黙した。
ややあって、言葉を発したのは通信の向こう側にいる飄々とした南の騎士だ。
『キンゾル殿~。あんさん、自分の故郷が遠い国だと思って、好き勝手言っておりませんかな?』
茶化した口調ではあるが、批難の込められた物言いだった。
「ひっひっ。本音を申せば、そういった部分があることも否定は致しません。ですが……デビアス殿が撒いておられる飴玉の実験と併せて効率的に仕掛ければ、大きな実りを得られる可能性は高い」
「…………ふむ。一理ありますな」
『おいおい、本気かいデビアスの旦那よ』
「クィンドールに相談してみましょう。キンゾル殿、ご提案ありがとうございます」
褐色肌の紳士は、意味ありげにニッと口元を緩ませた。
薄暗い地下室にて。オルケスター団長ことクィンドール・ジャロスバーチルは、安置された『それ』を見上げていた。
限られた人員しか知らぬ、大半の仲間にすら秘匿している、その巨大な黒い塊を。
自らの願いを叶えるための礎となる、その物体を。
男の顔には、何の感慨も浮かんでいない。
細く吊り上がった三白眼、のっぺりとした鼻梁、横線を描く薄い唇。爬虫類めいた美形とも表現できるその顔には、何の情も浮かんではいない。
身内にすら鉄仮面と評される男である。団長補佐のデビアスが思わず熱くなったレフェでの実験成功という成果も、クィンドールの内面に感情の波をさざめかせることはなかった。
前触れなく、部屋の扉が開け放たれる。
廊下の薄明かりが、ひどく暗い室内へかすかに差し込んだ。硬い床へ、おぼろげなクィンドールの影が浮かぶ。
光源に背を向けたまま。振り返りもしないクィンドールは、驚いた風もなく溜息と言葉を吐き出した。
「アラレア。前々から言ってるが、いきなり開けるな。扉打をしろ」
相手を確認すらしない指摘に、入ってきた者――アラレアは軋んだ声で受け答える。
「ごめ……んなさ、い。つい、つい……」
「努めろ。お前にはどこに誰がいるか見えてても、いきなり来られた方は驚くもんだ」
微塵も驚いてなどいない男は、ここでようやく振り返って部下に向き直る。
部屋の入り口にいるのは、あまりに異様な風体の人物だった。
背丈は子供と大差なく、顔も鞠さながらに丸く小さい。短く切り揃えられた黒髪は傷みきっており、やや不潔な印象が伴う。服もほとんどボロ切れのようなものを纏っており、だらしなく裾を引きずっていた。
そして、それよりも何よりも奇妙な特徴が一つ。
顔の上半分――特に両目の部分が、幾重にも巻いた包帯で完全に塞がっているのだ。
その佇まいは、さながら幽鬼か怨霊。
もっとも、そんな彼女の姿格好に対して驚く者は、今この屋敷にはいない。つい先刻まで滞在していた記者たちが不意に遭遇したなら、悲鳴を上げたかもしれないが。
「それで、何か用か」
「モノトラ……から、連絡……が、あった……例の、件……うまく、進んで、……いる、みたい」
「そうか。とりあえず一体、『ペンタ』の確保ができそうだな」
「あと……デビアス、が……呼んで、る」
「分かった」
一度だけ黒く巨大なその岩を仰ぎ見た団の長は、幽鬼めいた女を伴い、闇に閉ざされた静かな地下室を後にした。




