278. 研鑽する神の盾
レインディール城一階。広々とした訓練場に、激しい打撃音が木霊する。
「ふっ……!」
白銀の剣閃が、風裂きながら訓練用の木人形を打ち据える。直撃を受けた人型の的はわずかに揺れ、少女の手に痺れるような手応えを返した。
深く息を吐きながら、クレアリア・ロア・ガーティルードは額に浮かぶ汗を拭う。頬に触れる左結びの髪の房を、うっとおしげに払いのけた。
同時、のしかかるような倦怠感が全身を包み込む。
「……、くっ」
剣を支えにし、座り込みそうになる身体を支えた。
納得がいかない。
威力がない。持続時間も短い。――総じて、弱い。
己に身体強化を施しての一撃は、訓練用の的をかすかに震わせる程度の結果しか生んでいない。
「…………ッ」
呼吸を整えながら、ロイヤルガード見習いの少女は思い馳せる。
あの二人がこれを前にした場合は――
ベルグレッテの水剣は、鋭く斜めに斬り伏せた。
流護は、無造作な右拳の一撃で頭部をへし折った。
有海流護の強さは、今さら論ずるまでもない。並ならぬ戦果を叩き出し続けていた彼だが、ついには隣国――レフェ巫術神国の天轟闘宴に出場し、見事優勝を飾ってしまった。
そして、実姉ベルグレッテ。兄の仇であるプレディレッケを討った彼女は、今や枷から解き放たれたかのごとくその技量を高めている。
無論クレアリアとしては、尊敬する姉が腕を上げた事実は、自分のことのように……いや、それ以上に嬉しい。しかし反面、置いていかれてしまったという焦りも生まれていた。
(少しでも……姉様の、姫様のお役に立たなければ……)
クレアリアという騎士が目指す道は決まっている。
リリアーヌ姫の護衛。そして、姉の補佐。
姫を守護するための防御術、そして姉を支援するための補助術の精度を、もっと高めなければならない。
クレアリアが行使する身体強化の持続時間は、現状でわずか二十秒。そのうえ、効果にも今ひとつムラがある。これでは話にならない。愚直に修練を重ねるしかない。思うように動けない場合は、術式の構成を見直す必要も出てくる。今はひたすら使い込み、洗練させつつ粗を出す。
増幅の術も、より高い精度でこなせるようにならなければいけない。この技術は、姉の奥の手である水の大剣の持続時間に直結する。これを高めれば、一時的とはいえ姉の能力を爆発的に底上げすることができるのだ。
「……まだまだ!」
汗を拭いながら、もう一度自分に身体強化を施そうと詠唱を開始した直後、
「あらあら、がんばってるわね~」
「励んでいますわね。おつかれさま、クレア」
訓練場に入ってくる二つの人影があった。
一人は、長い白髪と慈愛に満ちた笑顔が特徴的な女性騎士。もう一人は、純白のドレスと絹のような金髪が煌く、神性すら感じさせる絶世の美少女。
「オルエ姉に……姫様!」
幼少の頃からなじみある二人、オルエッタとリリアーヌ姫。先輩騎士と己が仕えるべき姫君に対し、騎士見習いの少女は背筋を伸ばして向き直る。
「わたくしたちには構わず続けて、クレア」
「はっ、お気遣い、感謝いたします」
「あら、随分と汗だくになって。青春ね~、結構結構」
「……、」
明るいオルエッタに対し、しかしクレアリアはやや暗い声音で答える。
「……アマンダ姉も、もうすぐお戻りになられますから。無様な姿は、見せられません……」
「そう卑下することはないわよー。クレアリアも、ここのところメキメキ上達してると思うわ。アマンダも、きっと驚くわよ」
「ですが、姉様の背を預かるには……」
「それはまあ、ベルグレッテが貴女以上に腕を上げたからね。その分、差は開いちゃったわよね」
オルエッタは変に気遣うことなく、率直に事実を突いた。クレアリアにとってはもう一人の優しい姉のような女性だが、身内贔屓でうやむやにせず、こういう指摘をしっかりとしてくれる人物でもある。
「……精進します!」
「うんうん、貴女のオルエ姉で良ければ、いつでも訓練に付き合うわよー。今はちょっとダメだけど」
「そういえば、お二人はどうしてここに?」
「いえね。隊長を捜してるんだけど、ここには来なかった? 通信も繋がらなくて」
午後七時を回った訓練場は、人気もなく閑散としている。かれこれ一時間ほどここで訓練を続けているが、彼どころか他の兵たちの姿もほとんど見ていない。時間を考えたなら、夕食中の者も多いのだろう。
「ラティアス隊長……ですか。見かけておりませんが……」
ラティアス・ジリアクス。
短い金髪と鋭い眼光が特徴的な、アルディア王直下の特殊部隊『銀黎部隊』、その長を務める人物である。
雷神ジューピテルの敬虔な信徒であり、性格は冷静沈着、敵や背信者に対しては冷酷無比ともいえる。
希少かつ強力な『ペンタ』の一人であり、その実力は強者揃いの国内でも随一と名高い。若い頃は悪童だったという噂もあるが、今の厳格な彼の姿からは少し想像がつかないほどだった。
レインディールのラティアス、レフェのドゥエン、バルクフォルトのレヴィンという、横並びの三大国を代表する最強の戦士が揃いも揃って雷属性の使い手であるため、民衆たちは密かに『迅雷の三騎士』などと呼んでいるらしい。
「お会いしましたら、ご一報入れましょうか?」
「あ、そこまでしなくてもいいの。ちょっと、尋ねたいことがあるだけだから」
あわあわと手を振るのはリリアーヌ姫だ。そんな仕草にすら気品が感じられる。
「『暗き森と、最初のふたり』を久々に読みたいのだけれど、図書室にもなくて。ラティアスなら、どこにあるか知ってるかも……と思っただけなの」
「そうなのですか。しかし……『暗き森と、最初のふたり』とはまた、懐かしゅうございますね」
「んっふっふ。クレアリアも、子供の頃は好きだったわよねー。『エリュベリム』と同じぐらい好きだったでしょ?」
「エリュ……!? オルエ姉、それは全く関係ないと思いますが!」
「『オルエ姉ー。エリュベリムがやってくるの。クレア、怖くて眠れないのー』って。ふふふふ、あの頃のクレアリアは素直で怖がり屋さんで、可愛らしかったわよね~」
「お、おやめ下さいッ!」
「うふふ。今夜、久しぶりに添い寝してあげましょうか?」
「結構です!」
顔を真っ赤にして全力で叫ぶ。と同時、修練場の入り口から一人の男性兵士が入ってきた。
「こちらでしたか、ブラッディフィアー副隊長」
オルエッタの姿を見つけ、早足でやってくる。
背はあまり高くない。多くの男性より、十センタルは低いのではなかろうか。しかし軽鎧の隙間から見える素肌は、かなりの筋肉を宿していることが窺える。顔立ちも精悍で、きびきびとした歩き方からも、実直だろう人柄が想像できた。
「あら、ゴーダリック正規兵。どうかした?」
「先日の野盗対処の件、我が班の報告書が上がりましたので、お持ちしました」
「あ、りょーかーい。……はい、確かに受け取りました。あ、そうだゴーダリック正規兵。ラティアス隊長見かけてない?」
「は……ラティアス隊長ですか。半刻ほど前に、ミファエアルト殿と城をお出になるところをお見掛けしました」
「あらー、やっぱり城の中にいないのね。ミファ君と一緒となると、飲みに行ったなー。どおりで通信に出ない訳だわ。あ、どうもありがと」
「は。では、失礼致します」
兵士の男はオルエッタとリリアーヌ姫に敬礼し、クレアリアにも頭を下げ、訓練場の出口へと向かっていく。
「…………」
その背中を、クレアリアは静かな眼差しで見送っていた。
「ふふ。気付いた? クレアリア」
「……はい」
――強い。
詠術士としての腕前まではさすがに分からないが、おそらく体術や剣術はかなりのものだ。
「彼は、オズーロイ・ゴーダリック。新進気鋭の十九歳。剣の腕前は若手の中でも随一よ。これからあっという間に、頭角を現していくでしょうね」
「…………、」
「あ、訓練の邪魔してごめんね。続けて続けて」
「……では、失礼して」
クレアリアは訓練用の木人形に向かい合う。
――もっと強く、ならなければ。
ただひたすらに、その思いを胸へと秘める。
否、秘めるだけではだめだ。自らを、確実に磨き上げなくては。
それこそ『暗き森と、最初のふたり』に登場するような、都合のいい話などありはしない。
かの童話には二人の兄妹が登場するのだが、次から次へと、妹の望むままに都合のいいことが起こり、彼女を不自由なく満たしていくのだ。
同じ妹という立場もあってか、子供の頃は純粋に羨んだものだったが、この歳になって考えれば馬鹿げているとすら思えるおとぎ話。
あの『妹』のように、望むだけで何かが手に入ることなどありえない。
(……強く。もっと、強く)
少しでも、姉の背に追いつくために。
ディアレー降誕祭……つまり、リリアーヌ姫の『アドューレ』も近い。以前のように暗殺者が襲ってくるような事態も発生しないとは限らない。例え何が起きようとも、この自らの主をありとあらゆる脅威から守るために。
「行きましょうか、姫様」
「ええ」
再び訓練に打ち込み始めたクレアリアを残し、女騎士と姫は静かにその場を後にするのだった。
むかしむかし、どこかにある暗くて深い森のなかで、兄と妹の二人が目を覚ましました。
ここはどこだろう。どうして自分たちは、こんなところにいるんだろう。
あたりを見わたした二人は、そう考えました。
「兄さん。とりあえず、この暗い森を出ましょう」
妹が言いました。
「うん。そうしよう」
兄もうなずきました。
仲のいい兄と妹である二人は、手を取りあって歩きはじめます。幸運なことに、こわい猛獣などはいないようでした。けれど、とても厳しい道のりでした。高いがけをこえ、広い沼をわたり、どうにか二人は森を抜けることができました。
しかし、ようやく暗い森が終わったその先には、どこまでも続く荒れ果てた大地だけが広がっていたのです。
見わたすかぎりの大空と、がさがさにひび割れた地面。
その他には、本当になにもありません。町も、人の姿も、動物の姿も、草木の一本すらもありませんでした。
二人は、ひどく落ち込みました。
「兄さん。私たちは、どうすればいいの」
少女は心細くなって、兄に問いかけます。
「とにかく、森に戻って水や食べものを探そう。そうしなければ、僕たちは死んでしまう」
いつでも冷静な兄は、そう言いました。
二人は森に引き返して、飲み水や食べられそうなものを探しました。けれど、なにも見つかりませんでした。最初は猛獣の姿がなくて安心した二人でしたが、不自然なほど他の動物たちも見当たりません。
「のどがかわいた。おなかがすいた……」
「しっかりするんだ。僕がついてる。がんばれ」
兄が励ましますが、生れつき体や足の弱かった妹は、ばったりと倒れ込んでしまいます。
そんな二人の前に、なにかがころころと転がってきました。
それは、りんごでした。
目の前にある大きな木の高いところに、たくさんのりんごがなっていたのです。そのうちの一つが、落ちてきたのでした。
「僕は大丈夫だから、おまえがお食べ」
「ありがとう、兄さん」
兄は、妹にりんごを譲りました。
りんごを食べて少し元気になった妹は、もっとたくさん食べたいと思いました。大好きな兄にも、食べてほしいと思いました。
しかしりんごの木はとても高くて、手を伸ばしても届きません。幹を叩いても、落ちてくることはありませんでした。
「強い風が吹いて、りんごが落ちてきたりしないかしら」
妹はそう思いました。
すると、間もなく嵐がやってきました。
二人は近くにあった洞窟へ逃げこんで、はげしい雨風をやり過ごしたあと、りんごの木のところへ戻ってみて、とても驚きました。なんと、たくさんのりんごが地面に落ちていたのです。それに、嵐がやってきて雨が降ったので、飲み水も手に入りました。
満足な食事をとることができて元気になった二人は、もう一度、ていねいに森のなかを調べてまわりました。すると、りんごと同じように風に吹かれて落ちてきた果実や、カニや鹿といった生きものたちを見つけることができたのです。動物たちは、野生の本能でもうすぐ嵐がくると知って、安全な場所に隠れていたのでしょう。嵐が過ぎ去ったことで、その姿を見せたに違いありません。
「よかった。水や食べものは、なんとかなりそうだ」
ほっとした兄が言いました。
「でも兄さん、私たちはこれからどうしたらいいのかしら」
妹は、少し不安そうです。
森の外には、どこまで続くとも知れない荒れ地しかありません。
「外に出ていっても、どこかにたどりつけるとは限らない。とりあえず、ここで暮らそう」
二人の兄妹は、この森で生活することに決めました。
寒い冬は、あたたかなお湯が吹きでる泉を見つけて、暑い夏には、洞窟の奥に冷たい氷の塊を見つけて、二人はどうにか厳しい自然のなかでの日々を過ごしていくことができました。
人は慣れるもので、いつしかそんな暮らしにも不自由を感じなくなっていきます。
そんな森のなかでの生活がすっかり当たり前になった、ある春の日のこと。
兄は、妹がさびしそうな顔をしていることに気づきました。
「どうしたんだい?」
兄が心配そうに、妹の顔をのぞきこみます。
妹は言いました。
「大好きな兄さんとの暮らしは、とても幸せよ。でもちょっとだけ、二人きりはさびしいなって。……お父さんに会いたいな、って思ったの」
兄は困ってしまいました。
食べものや飲みものは、森のなかで見つけることができます。小屋や道具も、木や石を使えばなんとか作ることはできます。けれど、お父さんは……。
そのとき、森の奥でなにかが動きました。
それは、草木をかきわけて、少しずつ二人のほうへ近づいてきます。
やがて、二人の前に姿を現したのは――。
そうして彼らは、いつまでもにぎやかに、幸せに暮らしましたとさ。おしまい。
「はぁ……」
クレアリアは読み終えた本をぱたんと閉じ、ベッド脇の棚へと立てかけた。
その背表紙には、可愛らしい文体で『暗き森と、最初のふたり』と記されている。作者名は書かれていない。不明なのだ。
リリアーヌ姫が探していた、件の童話だった。
最終的に離れの倉庫へ赴いた姫とオルエッタが、他の文献や書物とともに何冊も紛れていたのを発見したのだとか。
せっかくだから久しぶりに読み返してみたら? と渡してきた二人に抗う理由もないまま受け取り、そして今に至る。
(何と言うか……子供騙しな内容ですね)
幼い頃は作中の妹と自分を重ね合わせて、父との再会を予想させる結末に満足したものだった。
が、この歳になって冷静に見返してみれば、色々とおかしい。終わり方も不自然に切ったように唐突だ。何より、妹に都合のいいことばかりが次々と起きていくのが少し気に食わない。もっともそれは、同じく『妹』である自分が現在、姉に大きく差をつけられてしまっているためなのかもしれないが。
そんなクレアリア個人の総評はともかくとして、実はこの『暗き森と、最初のふたり』なる物語、ただの童話ではない。識者の間で議論や考察が絶えない、注目の文書だった。
というのもこの作品、かの『竜滅書記』にその名前が登場する。ガイセリウスの相棒であり、亡国の才女としても名高い賢者フューレイ。彼女が、この『暗き森と、最初のふたり』を聞かされて育った、と語る場面があるのだ。
ということはつまり、この童話はガイセリウスの時代――五百年以上前から存在していたことになる。一説では、千年以上前に綴られたとの解釈もあった。それが真実ならば、文献としても最古の部類の一品となる。現在が、大陸歴七八一年。もし仮に、年号が定まるより以前からこの『暗き森と、最初のふたり』が存在していたとするなら、謎に包まれた旧時代を知る大きな手がかりともなり得る、ということだ。
そしてこの童話は、事実を元に描かれたのではないか、との見方が強い。
(確かに……ただの童話にしては、どこか唐突というか……まとまっていないというか。例えばこの兄妹は実在して、その人生の中の一場面だけを切り取ったような……中途半端な印象があります)
最後まで名前すら語られない、兄と妹。
唐突に森の中で目覚める描写から始まるのは、なぜなのか。例えば二人は、それ以前にどうしていたのか。そして後半、「父に会いたい」と零す妹。しかし母親については、全く触れられていない。まるで、いないことが当たり前であるかのように。
どこか、明らかにされていない『設定』があるような、本当のことを綴ったがゆえに語りきれていない部分があるような……そういった思わせぶりな雰囲気のある作風も、議論の種となる要素の一つだった。
『暗き森と、最初のふたり』という題名も謎めいている。一体、何が『最初』なのか。学者たちの間では、この兄妹の二人こそが、神の創造した『最初』の人間なのではないか、との見方もあった。つまり作中の『お父さん』こそが、神なのだ。そう仮定してもやはり、母親について触れられていないのは不自然なのだが……。
作者が不詳であることも、また不可思議な一面に拍車をかけている。
(まあ……)
この物語が、事実を元に描かれたものなのかどうか、クレアリアに知るよしはない。興味もない。ただ、
(こんな都合のいい幸せな物語は、現実に起き得ません)
偶然嵐が来て、食べ物や飲み物を得ることができて。冬は湯の吹き出る泉を見つけ、夏は冷たい氷を発見し。そして最後は、父と再会。
まさしく創作。
その部分だけは断言できた。
横になって、天井を見上げる。
(……力を、磨かねば)
幸せを維持するための力を、この身に。
少女は、強くなると誓う。その決意に呼応するかのように、秋の夜は深まっていった。




