264. 動き出す時代
男の人生は、賭けの連続であった。
「くそっ……!」
喧騒の中、だん、とカウンターに荒くグラスを叩きつける音が響く。
酒臭い息を吐きながら、『千年議会』の重鎮『だった』カーンダーラ・ザッガは、忌々しげに舌を打った。
「あの役立たずめ、全てが台無しだ……!」
今や酔ったときの口癖となっている悪態をつき、拳を握りしめた。
一ヶ月前に終了した、第八十七回・天轟闘宴。
エンロカク・スティージェを利用したカーンダーラの計画は、全てが水泡へと帰してしまっていた。
あの男が天轟闘宴を勝ち抜けたところを毒殺、自らの功績とする予定だったが、そもそも奴は途中で敗北してしまった。
自分がエンロカクを仕留められるか否か、その後上手く城に出戻ることができるか否か、といった部分に博打めいた部分があることは重々承知していたが、なんとそれ以前の問題に終わってしまったのだ。まさかエンロカクが勝ち抜けず死亡するなど、予想できるはずもない。
(だが……)
まだ、終わりではない。
諦めるつもりなど毛頭ない。このどん底から這い上がり巫女を手に入れることができれば、どれほどの征服感を得られるだろう。それを思うだけで、背筋を突き抜けるような快感が走り抜ける。性器がいきり立つ。
そも、これは賭けだったのだ。想定外はつきもの。ここから城に戻る手段を考えなくてはならない。それもまた賭けといえるだろう。
「もう一杯じゃ」
空になったグラスを差し出せば、悪人面の店主がそつなく茶色の液体を注いで寄越した。
レフェの首都ビャクラクから遠く離れた田舎にある、場末の小さな酒場。
各地を転々としていたカーンダーラは、ここ一週間ほどこの店に入り浸っていた。古く薄汚れた店内では、十数名の男たちがそれぞれに酒を嗜んでいる。
カーンダーラがグラスの中身を少しずつ胃に収めていると、カランカランと客の来訪を告げる鐘の音が鳴り渡った。何もかもに苛ついている老人はその音にすら舌打ちし、ぐいと一気に酒を呷る。
入ってきた客は、カーンダーラの隣席に腰掛けた。
「いつものヨロシクっ」
指を鳴らしながら言うその人物へ、悪人面の店主がうっとおしそうに返答する。
「チッ。お客さん、初見だろ」
「ああ、そうだった。じゃあ、『雷鳴公爵』を一杯お願いできるかな。あの稲妻みたいなキレのある渋みが、俺の術の心像と合ってて好きなんだよね」
気障ったらしい言い回しが鼻につく。随分と若造のようだが、調子に乗るんじゃあない――
カーンダーラは隣に座っているその客の顔をチラリと確認し、
「……!?」
そのまま絶句、硬直した。
「やっ、これはこれはカーンダーラ殿。お久しぶりですな」
相手は、親しげにすら思える口調で語りかけてくる。
所々がハネた茶色い短髪。左耳のイヤーカフスから垂れ下がる小さなシルバーリング。端正すぎる顔立ちと、着崩した民族衣装姿。レフェの男としては似つかわしくない、軽薄にすぎるだらしない印象の若者。
矛の家系が次男。雷鳴の暗殺者。
「ラデイル……アケローン……ッ」
「いやいや。まさかこんな田舎町に隠れておいでとは……捜すのに骨が折れましたぞ、元・『千年議会』重鎮、カーンダーラ・ザッガ殿」
たっぷりと皮肉を込め、ラデイルは笑った。
「しっかし驚いたなあ。あれだけエンロカクにビビッてたあんたが、実は裏で奴と繋がってたってんだから。ミステリ書みてーな展開だ。まっ、あんたの行動が軽率すぎて、ダイゴスが一瞬で怪しんじゃったんだけどさ」
桜枝里の獲得を狙い、城に乗り込んできてまで天轟闘宴の出場を取り付けたエンロカク。直後、そのエンロカクがそうして目をつけている桜枝里に手を出そうとしたカーンダーラ。
かの巨人に怯えていたはずの老人の行動としては、あまりに違和感があった。暗殺者はそう指摘する。
「まー、過ぎた色欲は人生すらも狂わせるってことかねえー。確かに、サエリ様はいーい女だけどな。控えめだけど強気そうでソソる顔立ち、その実健気で純情な性格、さらさらの黒髪、白小袖から覗く胸元、紺袴から露わになった太モモ……んー、たまらないねえ」
出された酒を一口含み、青年はかーっと唸る。
「そ、そうじゃろう。伊達男のお主なら……私の気持ちが分かるはずじゃ……!」
「しっかしさすがの俺も、実の弟と穴兄弟にまでなるつもりはないんでね」
バッサリと切り捨て、ラデイルはひどく冷たい瞳でカーンダーラを見据えた。
「ま、待て。私を殺すつもりか。レフェは今、大変じゃろう」
天轟闘宴を終えて一月。レフェは現在、かつてない混迷と騒乱の只中にあった。
最も大きな凶事は、武祭の数日後に国長カイエルが倒れたことだろう。心労が重なっていたに違いない。今もまだ臥せっており、高齢によって体力も相当に衰えているため、もはやそう遠くないうちに……との見方が強いようだ。万が一に備えて次期国長を選定しておかねばならないが、現時点で目処は立っていない。
次いで、『千年議会』の約半数がその任を解かれた。これは天轟闘宴において『黒鬼』が出現し、森を飛び出した際、我先にと逃亡した者たちが軒並み裁かれたことに起因する。
さらには、武祭の直前になって忽然と姿を消してしまった、鎚の家系が当主ことラパ・ミノス。前触れなく失踪することなどありえない堅物だが、未だその足取りは掴めていない。
剣の家系の次期当主候補であったエルゴ・ステージェは武祭にて戦死。
『千年議会』の一角であり勇猛な老兵であるタイゼーン・バルは、『黒鬼』との闘いで片腕を失った。
そして、レフェ最強の戦士として名高いドゥエン・アケローンは――
「俺も今はちょっと忙しいんだ。兄貴との賭け……ダイゴスが優勝する方に賭けて負けちゃったもんでね、その代償として仕事をモリモリ片付けなきゃならない。今となっちゃ遺言みたいなもんだし、しっかり約束は守ってやらないとな」
「ま、待つのじゃ。私も城に戻ろう。『千年議会』に戻せなどとは言わぬ、地位など要らぬ。レフェを立て直すため、粉骨砕身の思いで懸命に働こうではないか。今は、一人でも多くの力が必要じゃろう!?」
「いやいや。俺はさ、前々から思ってたのよ」
優男は気障な仕草でグラスを振り、からんと氷を鳴らす。
「このレフェって国に漂う閉塞感? おカタい、っていうの? 色恋沙汰でいえば、男も女も生涯一人だけ、決めた相手と添い遂げるんじゃあ、みたいな空気。色んな女の子と遊びたい俺にしてみれば、全くもってやりづらい」
ぐいと酒を一気に喉奥へ流し込み、若き暗殺者は溜息と共に言い捨てる。
「俺は昔からそんな空気を一掃したくてね。それで今回、ダイゴスが優勝するための手助けをしたワケ。あいつが公然とサエリ様とくっついてこれまでの常識を覆せば、それが新しい風になると思ってね。まあ、あいつを勝たせてやることはできなかったけど、結果として今のレフェの流れは俺にとって歓迎すべきものなんだ。ようやく、頭のカタいボケ老人の大半を公然と排除できたんだから」
保守的な『千年議会』の面々の多くが消え、混乱の最中にある今の現状。
しかしこれは新しい時代の幕開けだ、と青年は語る。
「巫術についてなんかも同様だ。神から与えられた枷? だから頼るのは恥ずかしい? 冗談だろ。神がせっかく人間に与えてくれた『武器』なんだ。俺は思う存分使わせていただくね。それはもう、ありがたく」
ラデイルが気取った仕草でパチンと指を鳴らせば、その周囲でバチンと凶悪な火花が散った。カーンダーラがビクリと身を竦める。
巫術は哀れみの枷である、という昔ながらの慣習。しかし他国とのかかわりを持つようになって数世代、異なる考え方を持った者も増え始めている。現状、大きく以下の三つに分けられるだろう。
一つ。枷であるが、使わなければ人は何もできない。そうしてやむなく術を振るう者。ラデイルは内心で、こうした人々を『保守派(のムッツリ野郎)』と呼んでいる。
一つ。ドゥエンのように、目的を達するためならば何でも――卑怯な手だろうと巫術だろうと躊躇なく利用する者。どこか超然としたその在りようもあってか、さすがにこういった輩は少ない。
そして一つ。ラデイル自身のように、古い考え方など糞喰らえ、と一蹴する者。
しきたりを重んじる年寄りほど『保守派』である傾向が強く、若い者ほどラデイルに近い考え方を持っていることが多い。まだ全体的な比率としては前者が八、後者が二といったところではあるが。
国長カイエルなどは高齢ながらも融通のきく性格で、『凶禍の者』や優秀な術者を取り入れていきたいという姿勢を見せていた。
だからこそ双方それぞれの考え方を持つ者の間で軋轢も絶えず、両者の妥協点として『凶禍の者』が高いとも低いともいえぬ地位に就いていたりもしている。
ラデイルとしてはそんな状況が何とも中途半端で、気持ち悪いのだ。
だから。今、この状況は好機。
本来であれば弟を勝たせることで作り出したかった空気が、結果として勝手に生まれた。
ラデイル・アケローンは、ずっとこの時を待っていた。
「まあアレよ。せっかく新しいことが起こりそうだってのに、保守派の代表格みたいなあんたに戻られても困るんだよねぇー」
「……、ッ、では……どうあっても、この私を……?」
「いやね、あんたは有能だよ。そりゃ、曲がりなりにも『千年議会』の重鎮だったんだもの。一からやり直したいって気持ちも本当なんだろうな。少なくとも『今は』、ね」
意味ありげな流し目で微笑みながら、暗殺者は告げる。
「――でも、ダメなんだ。あんたは、そこで終わる人間じゃない。満足できないんだ。業、とでも言うのかねー。命の危険がなくなって、平穏を取り戻した時……また、鎌首をもたげてくるんだよ。ドス黒い欲望って名前の、蛇が。俺には分かる。あんたは、根底の部分でそういう風にデキちまってる人間なんだ」
「…………、」
「そんで実は今の俺、サエリ様の護衛役でもあるんだよ。外出時専門のね。本当なら、寝台の中でまでしっかり守ってあげたいところなんだけど……。部屋に入ろうとすると、ユヒミエちゃんやらシーノメア嬢やらに怒られちゃうからね。信用がなくて困ったもんだ。まっ、とにかくほら……俺はサエリ様の矛なんだから、彼女に害をなす輩は排除しなきゃ――なあ?」
冷酷すぎる暗殺者の笑みに対して、
「……ひひ、そうか。それは残念じゃ――、若造」
カーンダーラも一変し、堂々と太い笑みを返してみせた。
「お主らっ、出番じゃぞ」
その声を合図として、周囲から椅子を引く音が鳴り響く。酒場内にいた全ての客たちが、示し合わせたかのごとく一斉に立ち上がっていた。一人の例外もなく全員が、それぞれにラデイルを睨みつける。平服を着ているため分かりづらいが、中にはカーンダーラの私兵たちも混ざっていた。
「あれっ? もしかして店のお客さん皆して、あんたのお友達?」
「こ奴らだけではないぞ」
そのカーンダーラの宣告が合図だったかのように、
「…………う!」
ラデイルが苦しげに胸を押さえる。
カウンターの向こう側。グラスを磨く悪人面の店主が、ニヤリと意味深な笑みを浮かべていた。
「……、てめ……酒に……何か…入れやがった、な……」
苦悶の表情で呻くラデイルへ、カーンダーラは哄笑を送る。
「ぐふははは! 私を侮ったなラデイル! すでにこの町の荒くれどもは買収済みよ! ここで秘密裏に貴様を処理してくれるわ!」
「……、…………」
ガクリと力尽きるように顔を下向けた暗殺者は、
「――ブッ!」
次の瞬間、勢いよく顔を上げて口から霧を噴射した。
「ぐわっ!」
至近距離で噴霧を浴びた店主の周囲にバヂンと紫電が弾け、彼はそのままひっくり返った。感電したかのように、白目を剥いて身体を痙攣させている。それはさながら、電撃の毒霧。
「上手いモンだろ、俺の演技。女の子をオトすにゃ必須ってもんだ。……にしてもったくよー、不味い酒出してくれたもんだなあー。こりゃー、今すぐ店潰されても文句言えないよなあー」
口元を手の甲で拭ったラデイルは、眉根を寄せて平然とそう吐き捨てる。毒を飲んでしまったはずの青年の反応は、ただそれだけだった。
「な、なっ……!」
カーンダーラが呻いて椅子からずり落ちれば、優男は心底軽蔑したような目で見下ろした。
「あのさあ……俺、ただのレフェ最高の伊達男じゃないんだぜ? 至高の暗殺者でもあるんだぜ? すぐ気付くっての。耐性もあるし、吐き出すぐれーワケねえんだよ。こんな手で殺れると思ったのか? だとしたら、いかにも現場の仕事を知らねぇお偉方の発想だねえー」
「き、貴様ら、やれ、掛かれぇっ!」
号令に従って、店内の客たち全員がラデイルへと殺到する。
「ったく」
軽快に椅子から下りると同時、縦に迸る閃光。蒼い光を纏った右脚が高々と突き上げられ、巻き込まれた二人の男が真上に飛ぶ。勢いのまま、その頭が板張りの天井へと突き刺さった。パラパラと舞い落ちる、埃と木片。首吊りのように垂れ下がて揺れる、二人の身体。
「なっ!?」
「ひぃっ――!?」
その惨状を突きつけられ、躍りかかろうとしていた荒くれたちは驚愕して思わず足を止める。
「カーンダーラのジジイ殿よ。あんた、肝っ玉小さい割に博打が好きらしいけどさあ」
雑兵には目もくれず、暗殺者の灰色の瞳は標的のみを射抜く。
「――この俺から逃げられるかどうか、賭けてみたらどうだ?」
男の人生は、賭けの連続であった。
要所要所で、ギリギリの橋を渡り続けた。勝ち続けることで地位や名誉、金を獲得していった。
しかし。
勝ち続ける賭博者はいない。
それを証明するかのように――男は奇妙な死体となって、呆気なくその生を終えた。
馬に蹴られたかと思うほど圧壊した凄惨な肉の塊と、破壊し尽された場末の酒場、叩きのめされた大勢の男たち。
遥か遠い首都ビャクラクから上位兵たちもやってくる騒ぎとなり、近隣の農夫たちの間でしばらく話題の種となったが、それもすぐに忘れられていった。
畑仕事を生業とする彼らにしてみれば、明日恵みとなる雨が降るか、それとも昼神の暖かな光が降り注ぐか。それによって作物が良好に育つか否かのほうが、比較にならないほど重要なのである。




