263. メルティ・ラヴァー
天轟闘宴が終わり、三日が経過した。
何だかんだ長く世話になった部屋を後にし、ディノは板張りの階段を軋ませて一階へと下りる。
「出るぜ。長居したな」
「いえいえ。またレフェにお立ち寄りの際は、是非とも我が宿をご利用くだされ」
老主人に金を支払い、小さな宿を後にする。
やや見慣れてきた感のある異国の街並みは、今日もまた活気に満ち溢れていた。武祭の余韻覚めやらずといった様子で賑わう人波を眺めながら、今後の予定に思いを巡らせる。
(さて。コレからどーすっかねェ)
右腕はまだ完治しておらず満足に動かせないが、他の面々と比較したなら最も軽い部類の負傷といえた。
流護やダイゴスなどは未だベッドから起き上がることさえままならず、ドゥエンに至っては――
「……チッ」
その舌打ちは、引き受けた依頼を納得いく形で完遂することができなかった自身に対する苛立ちだ。
仕事を頼まれたなら、当然その結果を依頼主に届けなければならない。依頼主が『結果を受け取ることができないような状態』となってしまっては意味がないのだ。
最終的にプレディレッケは斃れたが、仕留めたのはディノではない。依頼主たるドゥエンも結局ああなってしまった以上、報酬を受け取ることはできない。個人的に納得もいかない。
超越者はそう判断し、祭りの余韻覚めやらぬレフェを発つことにしたのだった。
何より天轟闘宴で忘れがちになってしまっていたが、ディノはオルケスターに狙われている身である。
武祭では結局、あのチャヴという刺客と遭遇することはなかった。が、『祭りに乗じてディノを始末する』という目的が果たされていない以上、当然次の襲撃があることだろう。
(丁度いい機会だ。色々模索してみるとすっか)
自由に動く左手へ視線を落とし、漠然と考える。
クモの脚らしきものを模していたグリーフットという男と闘い、得た着想。プレディレッケに通用しなかった、己が代名詞たる炎の双牙。そして――白銀の雫を纏う、あの生真面目な少女騎士の大剣。
――まだ。強くなれる余地がある。
このオルケスターとの闘いの中で試行錯誤し、磨き上げていくのが得策だろう。
そして、いつかまた。
此度の武祭を制した、黒髪の少年の姿が脳裏をよぎる。
(……ま、ソレはいいとして……受け身でいんのも飽きてきたな。次来たヤツに拠点の場所でも訊いて、コッチから遊びに行ってやんのも一興かねェ)
適当に考えつつ、馬車の停留所を目指す。
雑踏を抜け、近道となる薄暗い路地へと入り込んだ。昼間とは思えないほどの静寂に包まれた、自分の足音しか響かない道を行くことしばし。
「!」
その人物が、ディノの目に留まった。
そびえ立つ建物と建物の隙間にできた、色濃い影落ちる汚れた小道。そんな直線を、軽やかな足取りで歩いてくる女が一人。
純白のワンピースと、同色の大きな鍔広帽。夏らしい涼しげな格好ではあるが、この殺風景な場所にそぐわない、令嬢然とした背の高い少女だった。年齢はディノと大差ないだろう。
道の中央を堂々と歩いてきた彼女は、向かい合う形でおもむろに立ち止まった。ワンピースの裾をつまみ上げて、優雅に一礼する。劇の演者のような、芝居がかった仕草だった。
「ご機嫌よう、ディノ・ゲイルローエンさん」
発せられた美しい声音にもまた、どこか作られた響きが感じられる。
「オルケスターか」
「あら、嫌ですわ。天轟闘宴にて、目覚ましいまでのご活躍をなされた貴方ですもの。脱落したとはいえ、打ち負かされてのことではありませんし。実質、貴方こそが無冠の覇者と呼べるわ。それだけに留まらず、目の覚めるようなその美貌。見ず知らずの女が顔と名前を知っていても、別段おかしくないのではなくて? ふふ。水晶越しで見るより、遥かにいい男だわ」
「あのチャヴとかってブタはどーしたんだ。最後までアタリもしねェなんざ、期待外れもいいトコだろ。予約注文してた肉がいつんなっても出て来ねェたァ、オルケスターってのはクソみてーな三流店だな」
くだらない会話に付き合うつもりもない。相手の言を全く無視して、ディノはあえて呆れ気味に挑発する。
すると、白い少女は不思議そうに小首を傾げてみせた。
「チャヴ……? あの醜男なら、しっかりと死んで役目を果たしたけれど……?」
その言葉に引っ掛かりを覚え、ディノは目を細めた。
このレフェに到着した直後、飲食店で出会ったデビアスと交わした会話が思い起こされる。
『彼はチャヴ・ダッパーヴ。元々、今回の天轟闘宴に参加させるつもりでね』
ディノの始末は二の次。オルケスターには、チャヴを天轟闘宴へ出場させることによって果たされる、何か別の目的があった。そして、それは達成された。
「オメー今、面白ぇコト言いやがったな」
「?」
「『しっかりと死んで役目を果たした』、って言ったよな。『役目を果たして死んだ』じゃなくてよ」
スッ、と女の顔から余裕げな表情が消える。
「つまりあのブタは、最初から『天轟闘宴に出て死ぬコトそのもの』が役目だったワケだ。あのブタが死んで、オメーらの目的は果たされた、と。さて、ココで重要なのはブタが死んだ時期か? ソレとも『無極の庭』って場所か? で、何が起きたっけか?」
三日前にリューゴ・アリウミの優勝で幕を閉じた、第八十七回・天轟闘宴。
チャヴがいつ頃死亡したのか、ディノは知らない。もっとも、簡単に調べることはできるだろう。
そして、かの武祭で起きたことといえば――
「……嫌だわ。余計なことを喋ってしまったかしら」
思考を遮ろうとするかのような低い声。
そして、
「鋭い男は……嫌いよ……? 殿方は、女の胸に顔を埋めて甘えていればいいの。余計なことなんて考えず、色香に惑わされていればそれでいいの」
豹変する、女の表情。
穏やかな笑みがたたえられていた面長の顔全体に、ひびのような皺が浮かび上がった。それらが重なり合い、目が、口の端が吊り上がり、凄まじいまでの凶相を作り出す。もはや人間とは思えない、凶暴化した狐のような面相だった。
「オイオイ、なんつー顔だ、そりゃ」
そして、男も嗤う。
「ま、オレが鋭いのは当然だが……ソレ以上に」
負けじと、凶悪な顔つきで。
「オメーの口と尻が軽ィんだよ」
男の赤と女の黒が発現したのは、全くの同時。
「!」
素早く左手に炎を纏わせたディノは、その光景に刹那目を見開く。
白の女を取り囲む、黒の揺らめき。激しくうねる波と、滑らかに躍る穂先。その挙動は、ディノがよく知る身近なものに酷似していた。
即ち、炎。
自然界には存在し得ない黒色の炎が、女を抱き込むように激しく猛り狂っていた。
「はぁ~~~~~~ん?」
燃え盛る闇を纏う女の背後から、一際大きく伸長した帯状の漆黒が次々と鎌首をもたげていく。それは蛇のようでもあり、彼女自身に生えた尾のようでもあった。
その数――実に、九本。
「誰の? 何が? 軽いですって? 私を? 傷も癒えてない、死に損ないの貴方が? 馬鹿にするの? 人が下手に出ていれば、随分と調子に乗ったものね」
「どーしたよ。イキナリ余裕がなくなったみてぇだが」
「黙れ。これから機能停止するその脳漿の片隅に刻み付けておきなさい。バラバラにしてやる。きれいに、滑らかに加工してあげるわ。『黒灯夢幻』のナインテイル。属性は――『滅』。それが、貴方の総てを奪う女の名前よ」
飽くまで己こそが優位な立場にいると示すかのような、傲慢さを内包した名乗り。
それに違わず荒々しく殺到する、猛りに猛った九つの黒。
「ハッ――」
迎撃するべく振ったディノの炎牙が、
「!」
ジュッ、と吹き消されたかのように呆気なく黒い焔尾へと呑まれ――
石畳が。壁が。塀が。侵食されるように包み込まれ、その路地裏の一角は、不自然なほどの闇色に塗り潰された。
黒一色に染まった世界の中、聖母のような声だけが静かに響く。
「……気に病むことはないわ。私は、オルケスターで唯一の『ペンタ』にして最強の演出者。私より強い人間なんてどこにもいない。貴方が負けるのは、当たり前のことなの」
どこまでも高慢で優雅な女の声と、
「……吐かせ」
ごぼごぼと泡のような音が入り交じった、それでもなお自信と殺気と狂喜に満ちた、男の声。
「一番強ぇのは……このオレだ――――」
「何だ、これは……!?」
裏延道で凄まじい物音がした。
通行人からのそんな報告を受けて駆けつけた赤鎧の兵士は、眼前の光景にただ愕然とした。
狭く薄暗い、無人の路地。その一面に広がる、黒。
周囲の石畳や壁に、幾条もの黒く太い轍のような軌跡が刻まれていた。炭にまみれた大蛇の群れが荒ぶりでもしたのか、と思うような有様だった。
「これは、一体……?」
同じような言葉を繰り返しつつ、汚れた壁の一辺をまじまじと観察してみる。黒く変色した部分を指の腹でなぞると、つるりとした滑らかな感触を返してきた。
(……これは、溶けている、のか……?)
指に色は付着しない。少なくとも、炭や塗料の類ではないらしい。
「……、」
誰かの悪質な落書き、というセンはありえない。
となれば考えられるのは当然、
「巫術……?」
だが、それこそありえない。
ここは通称、裏延道と呼ばれる路地裏。夜になるとならず者がたむろする、治安の悪い一角。石畳や塀などが諍いの巻き添えを食って壊されることも多かったため、昨今では特に強力な防護術が施されているのだ。
それをものともせず舐め尽くしている、黒の痕跡。
(威力は勿論だが……何の属性なら、こんな真似ができるんだ……?)
少なくとも、このように奇妙な破壊の爪跡を残す使い手など、天轟闘宴には参加していなかった。
「勘弁してくれ、全く……!」
結構な音がしたとのことだが、ここには加害者も被害者も見当たらない。何事もなかった、と片付けてしまうべきか。
ただでさえドゥエンがあんなことになり、自分も含めた皆が平静を欠いている状態。
『帯剣の黒鬼』がどうやって『無極の庭』に現れたのかも未だ分かっておらず、治安維持に対する民の不信感も募っている。
これ以上の災難は御免だ、と兵は陰鬱とした気分になった。
「……、」
その、黒く汚された路地を眺めて。
この這いずる跡を残した大蛇どもが、全てを呑み込んで去ってしまったかのようだ、などと思いながら。
「おっと! それじゃあ俺っちはそろそろ、ラルッツの兄貴の見舞いに行ってくるよ!」
無精ひげを生やした、小太りの少年。年齢的には、流護とさほど差はないだろう。悪人面でありながら人のよさげな笑顔を見せるガドガド・ケラスが、勢いよく椅子から立ち上がった。
「お、おう」
ベッドに寝たきりの流護は気圧される形で頷き、
「失礼しやす、姐さん!」
「は、はあ」
頭を下げられたベルグレッテもまた、困惑気味に礼を返す。
そうしてガドガドが忙しなく出ていき、流護の病室は静けさを取り戻した。
「ふふ。賑やかな人ね」
「忙しい奴っちゃなあ」
天轟闘宴が終わって三日。即ち、流護の入院生活が始まって三日。
律儀というか。あの武祭で流護に助けられたガドガドは、毎日病院へやってきては、この病室と彼の兄貴分であるラルッツの病室を行ったり来たりしていた。
「あー、寝たきりってのはどうも落ち着かないな……」
全身、そこかしこ包帯でぐるぐる巻き。神詠術による治療も済んではいるが、あと数日は絶対安静。それが、今の流護の状態だった。
ベルグレッテはそんなケガ人に付き添い、この病院に泊まり込んでいる。
ちなみに、流護だけではない。レフェの各病院は現在、天轟闘宴で負傷した者たちによって溢れ返っているらしい。
「ダイゴスはどうしてっかな……」
「お昼すぎに、ラデイルさんから連絡があったわ。今は食事もできるって」
「おー、そらよかった」
ダイゴスは『十三武家』の人間であるため、病院には入らず城で療養している。きっと、桜枝里が付きっ切りで看護していることだろう。
「ゴンダーさんは?」
「ん、数日中には動けるようになるって。リューゴよりは早く回復しそうよ」
派手な切り傷を負ったとのことで心配していたが、そう聞いてホッと胸を撫で下ろした。
「……ミョールは、大丈夫かな?」
「集中治療は終わったから、あとは待つだけね。優勝者の要望で実現した施術なんだから、レフェの威信にもかかわるもの。だから絶対、大丈夫よ」
流護を安心させることはもちろん、ベルグレッテ自身、自分に言い聞かせているようでもあった。
「そうか。そうだな」
「ふふっ。リューゴったら、人の心配ばっかり。あなたも、しっかり休んで回復しないとだめよ」
「いやまあ、そうなんだけどさ……。結局俺、森出る前にオチちゃったからなー。そっからほとんど寝っぱなしだったし、気になるじゃん。……あとは……、」
……流護も、話には聞いている。
あえてここで、ドゥエン・アケローンの名前を出すことはしなかった。
「……あっ」
その代わり、という訳ではないが。ふとある顔が脳裏をよぎり、思わず声を出してしまう。
「? どうかした?」
「あ、いや、別に……」
「なによ。気になるじゃない」
迂闊に思わせぶりな声を上げてしまった、自分の落ち度である。恐る恐る、といった感じで流護は切り出してみた。
「……いやさ。あと……別にどうでもいいんだけど、まじどーでもいーんだけど、その……ディノの野郎なんかはどうしたんだろーなー、とかって思って……」
その名を出せば、ベルグレッテの柳眉がわずかに吊り上がった。だから躊躇したのだ。
「……そうね。あれだけの激闘をくぐり抜けて、右腕を負傷した程度で済んだみたいよ」
少女騎士の口調が、ややぶっきらぼうなものになる。
「はー、そ、そっか。相変わらず見た目に似合わん、頑丈な野郎だな……」
しばし無言の間が生まれる。
目を伏せていたベルグレッテが、静かに口を開いた。
「……私は、あの男を認めたくない。学院の一員としての自覚もなくて、好き勝手に振る舞って……ミアの件だって、やっぱり未だに許しきれない思いがあって」
一拍置いて、
「でも……あの男がいなかったら、私は……兄さまの仇を討てなかった」
複雑そうな、独白。
「だから……そのことについては、ちゃんと……お礼を言っておきたい、とは思うんだけど」
目に浮かぶ。
ベルグレッテが恩義を感じたところで、「ハッ、何を畏まってやがる」と。我が道を行くあの男は、きっとそんな風に一蹴するに違いない。
「あれだ。やり返してやったらいい」
「やり返す、って?」
「いつか、アイツがヤベー状態になったときにさ。横からサラッと手ぇ貸して、助け返してやったらいいんだよ」
「ええと……あのディノがそんな状態になるほどの相手に対して?」
「ううむ、そう言われると確かに……。つか、あの野郎に勝てるのなんて俺だけだろうしな……そんな機会もなさそうだよな」
「ふーん」
「ん? なんだよ」
「前から思ってたけど……リューゴって、心の底ではすっごくディノのことを認めてるわよね」
「は、はあ? んなことねーよ。何で俺が、あんな野郎を……」
「そういうことにしておきましょうか」
「いや、違うんだって。聞いてくれよ。大体、天轟闘宴の最中だってさ、あの野郎――」
爽やかな風が吹き込む病室で。しばし、二人の会話は珍しくもあの男の話題で弾む。
今頃アイツ、くしゃみ連発してるかもな。そんなことを思いながら、しばし流護の舌は止まらなかった。




