260. 雷霆万鈞
ほとんど倒れ込む形で走り込んだダイゴスは、仰向けとなった流護の上にのしかかっていった。
右の一撃を皮切りとして、狂ったように両の拳を降り落とす。折れた左腕すら構わず武器として、鉄槌のように。
『う、うわわあぁ! もう巫術も何もない! 馬乗りになってのめった打ち! これは今度こそ時間の問題か!? 終わりか、ついに終わるのか!? 勝つのはダイゴス・アケローンなのか――っ!?』
ほとんどかすれてしまっているシーノメアの絶叫に、三万人の熱狂が混ざる。
――これ程までに、と。
立ち上がって叫ぶ音声担当の隣に座したまま、ドゥエンは静かな表情で鏡を見つめていた。
(あのリューゴ・アリウミを相手取り……これ程までに――)
熱狂する三万人の中で、果たして幾人が気付いたことだろうか。
この二人の闘い。繰り広げられている最終戦の攻防劇。その流れの全てが、ダイゴスによって巧みに操られていたことに。何もかもが、ダイゴスの想定通りに進んでいたことに。
(いや。正確には……それ以前から、ダイゴスは彼を意識していた)
プレディレッケとの闘いにて終之操・戦嵯一鐵を披露し、それを切り札と錯覚させたことも。あの怨魔と立ち回りながら、巧妙に体力を温存し続けていたことも。
(そして、いざ始まった最後の闘いでは)
雷燐が破られたことも。『絃巻き』としての死力を尽くした、四連続の高位術が凌がれたことも。反撃を受け、左腕を壊されたことも。
全ては、『あの右拳を叩き込む』という終着点へ至るための道。
(全く、無茶をする……)
身体強化を発動したうえで、雷舞抛擲を自らの拳足に付与するという暴挙。
雷舞抛擲とは、ただ殺傷能力のみを追求した、使い捨ての投擲具などに仕掛けるための補助術である。当然、元より人体に施すようにはできていない。
二つの術によって人の域を超えた踏み込みや拳打の衝撃は、術者当人に想像を絶する反動を突き返したことだろう。
エンロカクの意識を断ち切ったのも、この離れ業に違いないとドゥエンは確信する。奥義・羅劫颪と交錯したあの瞬間。六王雷権現を目眩ましとして肉薄し、あの拳を当てたのだ。
(愚策にも程がある。暗殺者の使うべき手段ではない)
だが。ダイゴスがエンロカクや流護に勝利する可能性は、それ以外になかったことも事実。
一手として仕損じることなく型にはめ、立ち回り、あの一撃を当てる以外になかった。その過程で攻撃を受け、意識を落とされてしまえばそこで終わり。
踏み外すことの許されない、気の遠くなるような綱渡り。
しかしダイゴスはそれを成し遂げ、勝利を掴む一歩手前までやってきている。今まさに、細く長かった綱を渡りきろうとしている。
(……もう、良い……)
生まれながらの糸目をより細めて――兄は、死に物狂いで猛攻を仕掛ける弟の姿を見やった。
(ここまで来たのなら……見せてみろ。私の言を破ってまで果たそうとしているお前の我を、最後まで貫き通してみせろ)
隻腕となった左腕。知らず握りしめた拳には、かすかな汗が滲んでいた。
「しゃあぁっしゃぁ! 行けるぜ、ダイゴス!」
周囲の観衆たちと一緒になりながら、ラデイルは握り拳を突き上げた。
同時、弟の慧眼に敬服する。
このためだったのだ。
ダイゴスの天轟闘宴参加が決まってからの数日。
自ら申し出て弟の鍛練に付き合っていたラデイルだったが、当然ながら最も警戒し対策すべき相手は、あのエンロカクだと考えていた。当初は、ダイゴスもそのつもりで調整を重ねていた。
ドゥエンと違い、弟の実力を正確に把握している自信がラデイルにはあった。愚直に修業を重ね、『絃巻き』としての力も制御できているダイゴスならば、立ち回り次第でエンロカクすら打倒し得るという確信があった。
しかしあれは、カーンダーラが桜枝里に対し強引な手段に訴えて出た翌日のことだったか。
ダイゴスが、妙な訓練内容を提示したのだ。
アケローンの秘術に、健脚雷公と呼ばれる技能がある。馬と変わらぬ速度での疾駆を可能とし、様々な蹴り技を繰り出すうえでの礎となる、ラデイルが得意とする技術。これを発動した状態にて、至近距離で周囲を飛び回りながら、拳を打ち込んできてほしい――というのだ。
当然、その速度に生身で対応できるはずもない。
ダイゴスは防御術で凌ぐ訳でもなく、愚直なほどにその身のみで立ち向かい、何度も打たれて悶絶しながら――しかし諦めずその『想定』による訓練を続けた。
これに一体何の意味があるのか、どんな状況を仮想しての修練なのか。そう問うラデイルだったが、弟は滝のような汗を流しつつ不敵に笑うのみだった。
だが今、はっきりと確信する。
(全ては……あのリューゴ君と、闘うために)
並外れたという言葉では表現できないほどの身体能力を有する、あの異質な少年と渡り合うために。彼の、あの動きについていくために。訓練がなければ、ダイゴスといえど開幕直後の拳をもらって呆気なく終わっていたに違いない。
今はそれどころか、終始流れを掌握し、流護を押し込んでいる。馬乗りになって、ひたすらに拳を振り下ろしている。もはや技術も巫術もないが、双方共に限界なのだ。断言できる。あそこから、流護に逆転できるような手段はない。
(行けよ……行け、ここまできたんだ。押し切っちまえ、ダイゴス)
弟に、暗殺者としての才覚はなく。秘めていたのは、輝かしいまでの、活かされることのない戦士の資質で。
――思い出す。あの日交わした、何気ない約束を。
『兄さん。僕は……結局、戦士にはなれないんですね』
大老の仇を討って二年。幾度かの任務を経験した十二歳のダイゴスは、かつての明るさが嘘のように憔悴しきった表情で呟いた。
『騙して、不意を打って……相手に危険すら感じさせないうちに……こちらの存在すら悟らせないうちに、あらゆる手段を使ってでも討ち果たす』
喜怒哀楽が豊かだった顔には、今や何の情も浮かんでおらず。
『ガイセリウスのようには……なれないんですね』
いつもキラキラと輝いていた瞳は、幽鬼さながらに生気をなくし。
『僕は……』
何もかもを失ったかのような弟の姿は、見るに耐えなくて。
『んなこと、ねーよっ』
ラデイルは、そう言わずにはいられなかった。
『お前も……もう少し大人になれば、もっと色々と好きなことできるようになるって。あのほら……剣の家系の、エンロカクだっけ? 兄貴と並んで最強とか言われてるアイツなんて、好き勝手やりすぎて大変とかって話だぞ』
放っておいたらそのまま死んでしまいそうな弟を、少しでも元気づけたかった。
『もう少しすれば、天轟闘宴にだって出る機会もあるだろうし』
大げさに身振り手振りを交えながら言えば、ようやくダイゴスが反応する。
『こんな僕が……天轟闘宴に出ても、いいのですか』
『あったり前だろ。お前だったら、「絃巻き」の力も使いこなせるようになれば、優勝も狙えるって』
『……兄さん。ありがとう』
『む』
慰めるために、気を使って言っていると思われたのだろう。
寂しそうな声音で礼を言われたラデイルは、しかし反射的にムッとした。
『お前なー、よし分かった。この泣き虫め』
びっ、指先を弟に突きつける。
『いいか、俺が適当言ってるワケじゃねーって証明してやる。お前が将来、天轟闘宴に出ることがあったなら――俺が、全力で補佐してやる。お前を、絶対に優勝させてやる』
『……兄、さん』
『いいか、約束だぞ。俺は頑張って優勝させてやるから、お前は頑張って優勝しろよな』
ダイゴスも覚えていないだろう、そんな遠い昔の約束。ラデイル自身、馬鹿らしいとすら感じている在りし日の戯言。
それでも。
かつての口約束が実現しそうになっている今、その光景に、
「行け、ダイゴス……! とっとと英雄になっちまえ! もう少しだぜええぇっ!」
己が内に秘めた打算すらも瞬間的に忘れ、兄は熱く叫ばずにはいられなかった。
これまでにない最大級の熱狂の中、ベルグレッテは食い入るように黒水鏡を見つめていた。
「……、ッ」
馬乗りになって拳を振り下ろすダイゴスの、必死の形相。常時泰然と構えていた物静かな巨漢からは、想像もできない表情。一年以上の付き合いがある少女騎士ですら今まで見たことがない、雷霆の戦士の素顔だった。
終わる。流護が、負ける。
いかに彼とて、あの状態からどう脱却できるというのか。
馬乗りになられた流護はダイゴスの胴に脚を巻きつかせているが、抵抗らしい抵抗にはなっていない。それどころか、あれでは自分が逃げられないのではないか。
双方共に、左腕は折れている。体力もとうに限界を迎えているだろう。相手を掴んでの締め技など、複雑な手には移行できない。ただただ単純な、一方的な拳の嵐が荒ぶのみ。
耳が麻痺しそうな大歓声の中、ベルグレッテはちらりと隣に座る桜枝里の顔を窺う。試合のつもりで見守ると言っていた彼女だが、果たして――
「……?」
鏡を見上げる桜枝里の表情。ダイゴスの有利を喜ぶでも、流護の劣勢に何らかの情を向けるでもない。彼女の顔に浮かぶのは――目を見開いた、明らかな驚愕。
「サ、エリ? どうし――」
瞬間、巫女は立ち上がった。手を振り回し、聞こえないと分かっていてもありったけの声を響かせる。
「大吾さん、だめっ! その体勢ダメッ! 離れてっ!」
――妙だ。
拳の連撃を叩き落し続けながら、ダイゴスの裡にはそんな思いが渦巻き始めていた。
相手の上に乗っての殴りつけ。単純だが、術を介さぬ肉体的なぶつかり合いではこの上なく有効な手立て。
しかし。この体勢から何度も拳を打ち下ろしているというのに、流護のリングは外れる気配がない。
「グッ、」
それどころか何発かはこの状態でなお首を振る流護によって躱され、あるいは右腕によって捌かれ、勢い余って硬い大地を叩く。その反動で拳骨が軋みを上げる。折れた左腕が、砕けかけた右拳が、次第に動かなくなってくる。
また、胴に巻きついた流護の両脚に――その怪力によって深く乗ることを阻まれているため、拳の当たりが明らかに浅くなっている。
悪あがき、というべきか。下になった流護がかすかにその身をよじらせたり脚に力を込めたりするため、上手く拳打が当たっていない印象。体格差によって、辛うじて届いている状態だ。
とはいえ、一方的に攻撃しているのは自分。この状態で打ち続けていれば、必ず――
その中途、ダイゴスは気付いた。
「……、!?」
黒い、静かな瞳だった。
防御に掲げられた右腕の隙間から覗く、その黒色の視線。
圧倒的不利な立場にあるとは思えないほど凪いだ、流護の顔。雷節棍の乱撃を捌いていた時と同じ、限界まで集中を高めた武術者の顔。
「……悪いな、ダイゴス」
少年の切れた唇から発せられる、追い詰められた者のものとは思えない落ち着いた声。
「座った状態からのパンチってな、立ってる時とはまた違ったコツとか筋肉とかが必要になってくるんだ。いくらダイゴスでも、格闘技術の普及してないこの世界の詠術士だからな。そんな基礎ができてるはずもない」
どくん、と。巨漢の内側で、嫌な予感が膨らんでいく。
まずい。何か。
「ちなみにこの体勢も、馬乗りとは違ってな。ガードポジション、とかっていうんだけど」
その言葉の意味は分からない。
しかし、言いようのない危機感が背筋を走り抜けた。
「寝技知らねーヤツのパウンドなんて、怖くねーな……!」
ボロボロになっているはずの少年は、挑発的にニッと口の端を上げて。
巨漢の中にある何かが、明確に警鐘を発した。
離れろ、と。
その隙を突くように、ぬっと流護の右腕が伸ばされる。ダイゴスの胸元に迫ってくる、凄まじいまでの筋肉に包まれた豪腕。
咄嗟に離れようと身を引くが、胴に絡みついた流護の両脚がそれを許さない。
「ぐぬ……!」
ここでようやく認識する。
悪あがき、などではなかったのだ。
流護は、下になりながら――あの体勢に追い込まれながら、こちらの動きを操っていた。巧みに身体を動かし、振り落とされる拳の威力を最小限に殺していたのだ。
そして――
「ぬ、ぐ、オオオォ……ッ!」
筋力がまるで違う。重い。有海流護のこの小さな肉体に、一体何が詰まっているのか。
それでも、無理矢理に引き剥がす。迫る腕を払いのけ、蔦のように絡まる脚を叩き、この相手から一旦離れようと、全力で身をよじり――そこで、見た。払いのけられた少年の右手が、ゆるりと握り込まれる瞬間を。
何とか引き剥がせた、のではない。意図的に、流護が拘束を解いたのだ。掴み技に移行すると思わせ、焦らせた。
人はなぜ、巫術や神詠術を鍛え上げるのか。
その理由は至極単純。弱いからである。
辛うじて立ち上がったダイゴスは、激しく息を切らせていた。否、拘束されたことにより、それを解こうと暴れ『させられた』ことにより、消耗から動きが止まった。
そこへ。
腹筋の要領で跳ねるように身を起こした流護の右拳が、瞬間的に棒立ちとなったダイゴスの左脇腹にめり込んでいた。
「か、――は、……っ」
その、怪物のようなただの一撃で。か弱い人間という生物とは思えぬ、握り拳で。
集中力が。魂心力の流れが。気概が。闘志が。目前にあったはずの勝利が。何もかもが。
吐き出される苦悶の息と共に、全てがダイゴスの口から逆流していく。
たった一撃で、積み上げてきた全てが瓦解していく――。




