259. 雷獣の右腕
「多重保持者……レフェだと『絃巻き』だったっけ。そうやっていくつも術を保持してると、魂心力の流れが渦を巻いて本人を取り囲むんだよな。その様子が、何重にも糸を巻いてるように見えることから名付けられた、とかなんとか」
たどたどしく流護が口にすれば、巨漢は「名答じゃ」と満足げに頷いた。
「エドヴィンの奴なぞは、幾ら説明しても分からんでの。お主を見習ってほしいもんじゃ」
「はは。安定してんな、エドヴィンは……。最初は『おいおい、何でトンデモ技連発してんだ、ダイゴスって実は「ペンタ」だったのか』とか思ったんだけどさ。術の連発で息切らしてたから、それはねえなと思って。そんな訳で、俺も安心してノコノコ出てきたんだけど」
「フ。自分で言うのも何じゃが、『ペンタ』に届き得る能力じゃと思っとるよ」
「へっへっ。でも……俺には、届くかなー?」
どっしりと。腰を落とし、流護は身構える。
「フ……試させて貰うとしよう」
巨漢を中心に渦巻く砂の螺旋。未だ、大気は絃を巻いている。つまり、何らかの術を保持している。だが本人の消耗具合からして、もう高位の術は使えないはずだ。流護自身、脇腹や左脚に大きな痛手を負ってはいるものの、ダイゴスほど疲弊してはいないと断言できる。間近で目にして、はっきりと分かった。今の巨漢は、水の大剣を扱った後のベルグレッテに近しいほど活力を損耗している。
先ほどの攻撃術の連発を凌いだことで、天秤は間違いなく流護に傾きつつあった。
決着が迫ったその場面。先に動いたのは、ダイゴスだった。
駆け寄りながら、両手に雷の棍を顕現する。
「――疾ッ!」
流麗であった。しかし、明らかに速度の、重さの失われた乱舞。
振るわれる紫電の乱撃を、流護はその場に居座ったまま、右腕の手甲だけで次々と捌いていく。
「……!」
苦しげな、信じられないといったようなダイゴスの表情。
至近で白雷の嵐を打ち落としながら、流護は静かに思考する。
未だ何らかの術を秘めている巨漢。今しがたのような高位術はもう使えない。自ら接近し、白兵戦を仕掛けてきた。
(隠してるのは……接近戦用の攻撃術か。じゃなきゃ、俺が反撃に転じた時に備えての防御術か)
いずれにせよ。
集中力を高めていく。ダイゴスがどう動こうと、どんな術を使ってこようと、即座に対応できるように。
――修羅場の渦中において、追い込まれれば追い込まれれるほど、隙なく冷静に冴え渡っていく。
流護自身は知り得ぬことだったが、師である片山十河という老人が看破し、目をつけたその特性。
少年は今や恐るべき集中力によって、並の使い手では指一本触れられぬ領域へと到達しつつあった。
幼い頃、当たり前のように思い描いた夢があった。
誰よりも強い男になりたいと。ガイセリウスのような、誰からも慕われる英雄になりたいと。それが叶わぬ夢想だと薄々気付いたのは、齢八の頃だったか。
かの英雄とは正反対。闇に生きる人殺しの系譜に生まれ落ちた自分には、その時点で資格などなかったのだと。
その思いは、十の時により強固な呪いとなってダイゴスの心を縛りつけた。
大老の死。綺麗事ばかりだった自分の裡に灯った、憎しみの炎。復讐を遂げても、何ら癒されることのなかった心。殺し殺され、虚しく終わる人の生。自分とて、家族や親しい者たちとて、明日潰えぬ保証などどこにもない。大老がそうであったように。
しかし、ふと思う。
幼心にそう理解していながら、それでもほのかに希望を抱き続けたのはなぜだったか。
『いいか、俺が適当言ってるワケじゃねーって証明してやる。お前が将来、天轟闘宴に出ることがあったなら――』
しかし、結局のところすり切れた。
いつしか夢や理想を抱くことなど無駄と思うようになり、口数も減った。早く達観した大人になれるよう、尊敬していた大老の口調を真似た。身体だけは空虚な内面に反するかのように大きく育ち、いつしか二人の兄の背丈を追い越していった。任務を、殺生を繰り返すうち、戦闘技能も洗練されていった。
無理矢理に達観させた心だけが、取り残されたように空なままだった。
そんなある日。
淡々と積み重ねた実績が評価され、他国の内情や巫術学校の仕組みを知るため、隣国レインディールはミディール学院への滞在が決まった。
場所や内容が変われど、これも仕事である。深い人間関係を築かぬよう、一歩離れた位置に立つことにした。厳つい外面や身体の大きさ、自発的に話さぬこともあって、近づこうとしてくる者など皆無――のはずだった。
入学して数日ほどか。ずかずかと当たり前のように、親しく――否、馴れ馴れしく接してくる男が一人。
『よー、デカイの。お前、絶対強いだろ。分かんだよ』
そんなエドヴィン・ガウルという少年と知り合ったことを切っ掛けに、少しずつ交友関係の輪は広がっていく。
大きく威圧感があるはずの自分に怯えず、人懐こく接してくるミア。基本的には物静かながら、しかしやはり平然と接してくるレノーレ。仕事上以外の付き合いなど皆無になるだろうと思われたベルグレッテにも、心からの歓迎を受けた(その妹は明らかに渋々といった様子だったが)。最初は怯えていたようだったアルヴェリスタやエメリン、ステラリオといった少年少女たちとも、次第に打ち解けていった。
率直に言って、そんな学院での日々が楽しかったのだ。次兄にはぎこちないと言われた笑みが、気付けば自然と浮かぶようになっていた。
――そうして一年と少しの時が過ぎ、その男と邂逅した。
黒い髪に黒い瞳。東寄りの地味めな顔立ちに、少女のような低い上背。しかし並の力自慢など比較にならぬほど多大な筋肉を搭載した、記憶喪失だという異質な少年。
強い、と一目で看破できた。
とはいえ、何ひとつ術を扱えぬ身での圧倒的な武勇には、他の皆もさぞ驚いたことだろう。
そうして少年は、高名な詠術士であっても成し得ぬだろう戦果を次々と挙げてゆく。無術の英雄、ガイセリウスのように。かつて自分が憧れ、そして諦めたあの夢を。輝かしいまでの覇道を、堂々と突き進んでいる。
それはまさに、今この瞬間もだ。
術を使わぬ武力のみで、天轟闘宴を制しようとしている。その寸前までやってきている。当然、前例のない大偉業だ。後世まで伝説として語り継がれることは間違いない。
心が躍る。そんな男と刃を交えてみたい。妬ましい。自分が諦めた覇道を往くその男が。
様々な思いが混ざり合う中、一つだけ確かなことがあった。
自分の夢を体現したようなその男に、勝てなくとも仕方がないようなその相手に、しかしどうしても負けられない理由。
それだけが、とうに限界を超えている巨漢を突き動かしていた。
まるで鋼鉄の城壁。
ダイゴスが繰り出す雷節棍の乱撃は、ただの一つとして流護に届かない。打突。横薙ぎ。叩き下ろし。その全てが、半身に構えた右腕一本で打ち払われていく。
目の前に――腕を伸ばせば触れられるほど近くにいるというのに、当たる気がしない。
かのエンロカクが相手でも、数発程度の交錯法を直撃させることはできた。しかし今のこの少年には、火花の一片すら届かない。
永遠に打ち込み続けたなら、永遠に払われ続けるのではないか――という懸念さえ浮かぶ。
「……ッ」
ダイゴスは戦慄する。
この少年の驚異的な技量もさることながら、恐るべきはその胆力だ。
流護とて満身創痍。一撃受ければ倒れかねない状態だというのに、その顔には――立ち姿には、一切の迷いや恐れが感じられない。それどころか、打ち込めば打ち込むほど集中を高めているようにすら思える。
その勇猛さは果たして、生まれ持ってのものなのか、培われたものなのか。巨漢には知るよしもなかったが、確実なことが一つ。
(当てられぬ。否――それどころか……ッ)
もらう。
このまま攻め続けていれば、間違いなく反撃をもらう。
流護は疲弊するどころか、より楽に捌くようになりつつある。完全に見切られているのだ。体力勝負ではこちらが不利だ。となればいずれ、振るう棍の合間を縫って、あの拳が飛んでくる。
(ならば、やはり――!)
若干の焦りを滲ませつつ、巨漢も少年に負けじと集中を高めていく。
かん、と鳴り響く軽い音。
それは、均衡が破れる合図。
突き出した棍が弾かれ、傾ける右腕の挙動に押し込められる形でぐるりと下向けられる。その位置から、流護の右拳が跳ね上がった。しなやかに、獲物へ喰らいつく蛇のように。ダイゴスの顔を目がけて。
「――――――」
迫る残像。
終わりを告げる一打。
幼き日の男が憧れた、徒手空拳の究極形。
数々の功績を残した、多くの人々を救ってきた、数多の敵を沈めてきた、珠玉の拳撃。
だからこそ。
させるかよ、小僧。
まずダイゴス・アケローンが知覚したのは、己の左腕を圧壊する異物の感触だった。
歯を食いしばり、顎を肩で固定し、全力で強化した左腕。堅牢な盾としたそれは、流護の右拳を受けたことによってひしゃげ曲がっていた。防いでなお浸透した衝撃が、ダイゴスの鼻から赤い飛沫を散らす。
――まず一つ。
保持していた身体強化を行使してなお、この損害。
全くもって出鱈目だが、顔を打たれて終わらなかった時点で大成功といえるだろう。
――そして二つ目。
保持していた、正真正銘、最後の術。
雷舞抛擲。
投擲する得物などの威力や命中精度を向上させるその術。つい先刻、流護がプレディレッケへ投げた石つぶてに対して施した補助術。放った流護の膂力によるところが大きいとはいえ、ただの石片に怨魔の羽を吹き飛ばすほどの強度を与えたアケローン秘蔵の技能。
それを、己が四肢拳足に施した。
威力が増すということは――即ち、硬度が増すということ。
「グッ――――――」
二度は通じない。種がばれたなら、もう通じない。
しかし、それでも構わない。
踏み込む。大地叩く左足のつま先が、履物の先端を突き破った。覗く足の指先が、ほのかな白光を放っている。
本来、人の身に施すためのものではないその術。身体強化と雷舞抛擲によって人の域から逸脱した力と速度は、ダイゴスの肉体に容赦なく反動を突き返す。
「――――、――ッ――」
――この、あと一度だけでいい。
足首から膝へ、膝から腿へ。何かが断裂するような、違和感と激痛。身体へ施すのは、これで『エンロカク戦に続いて二度目』。もう、限界なのだ。
強化にて苦痛を無理矢理に押さえ込み、次いで薄く光る右手へ意識を注ぐ。
握り込んだ指が雷節棍を霧散させ、軋みを上げながらも拳を形作り――
「――――オォ――」
――神よ。
たった一度だけでいい。
この男に、勝たせてくれ――
極限まで集中を高めた有海流護に、油断や隙はなかった。
乱舞する棍を捌き、攻勢を断ち切ってからの右突き。狙い澄まして差し込んだ反撃。どんな術を秘めていようと、発動させる間など与えないと打ち抜いた一撃。
「…………、」
それが、防がれた。
突き出した右拳は、ダイゴスの左腕を粉砕するに留まった。
(身体、強化か……!)
相手が秘めていた術の正体。その一つが知れると同時、今度は自分の番だとばかりに巨漢が動いた。
踏み出す左脚は力強く。弧を描く右腕はしなやかに。
それは、長年の練武を感じさせる身のこなしで。
そして何よりも、
(――速……ッ!?)
身体強化だけによるものではない。ほのかに白く輝く拳は――
(さっきの、俺がプレディレッケに投げた石に使った――)
それは、刹那の思考すら許さぬ速度だった。その巨体からは想像もできない、疾風のごとき廻し打ち。
折れた左腕は上がらず、焼けた左脚は動かない。
右側から迫ってくる超速の拳打に即応できる術はなく、
大気を裂く勢いで到来したダイゴスの鉄拳が、流護の左頬へ着弾した。
「……、――ご、――……!」
それは、閃光のごとき――否、文字通り閃光の右ストレート。
そのまま真一文字に打ち抜かれ、小さな身体が――しかし重いはずの流護の肉体が、横殴りに弾け飛ぶ。
流護は半ば空中回転する形となり、頭から地面に激突。四肢を投げ出し、大の字となって転がった。
「――……、――」
言葉や苦鳴の代わりに、仰向けとなった少年の口からはぬめった血反吐が溢れ出した。
(……、ま……じ、か…………)
背中には土の感触。焦点のぶれる瞳に映るのは、生い茂る葉の隙間から降り注ぐ細かな光。覆い隠された夕焼けの空。
――完全なる、ノックダウン。
極限まで集中を高めた有海流護に、油断や隙はなかった。
しかしこの身体強化と雷舞抛擲による合わせ技の能力向上こそ、エンロカク・スティージェの意識を一度は刈り取ったダイゴスの奥の手。完全我流、技名すら存在しない一手。
これは。
その瞬間、巨漢が少年の身体能力を完全凌駕したゆえに起きた、必然の打倒だった。
三万人の歓声が、ここへきて最高潮を迎える。
ドゥエンが、ラデイルが、ディノが、ベルグレッテが、桜枝里が、ユヒミエが、国長が、タイゼーンが、シーノメアが、ツェイリンが、ガドガドが、グリーフットが――観戦していた全ての者たちが、等しく目を見開いていた。
正面きっての拳足のやり取りでは不倒と思われた、有海流護。その強靭な少年が――よりにもよって、たった一発の拳によって、大地へと横たわった光景を前にして。
「……お、」
震える左脚を踏みしめ。
「お……」
何かが断裂した右拳を握り込み。
「オオォォオオォオオオ――――――ッッ!」
吼えた。
ダイゴス・アケローンはその身を震撼させ、鳴動する山のごとき咆哮を発していた。寡黙な男らしからぬ、全身から絞り出す全霊の雄叫び。
強敵に渾身の一打を浴びせることができたゆえの歓喜か。重く軋む肉体に鞭打つための鼓舞か。無茶な強化が引き起こす激痛からくる絶叫か。
その、全てなのだろう。
「ウゥ、オ、オオォアアァァッ!」
猛り狂った獣のような唸りを上げ、ダイゴスは横たわった流護へと躍りかかる。
そう。先の一撃を受けてなお、倒れた流護のリングは外れていない。その肉体の頑強さ。ダイゴス自身に蓄積した疲弊。要因は様々だろう。
いずれにせよ、まだ終わっていない。
『……もう、巫女なんてやめて……普通に、暮らしたい……。……うん、普通に……』
ようやく己が側へ傾いた天秤を揺るがぬものにするために、
『そうか』
完全勝利を掴み取るために、
『その望み。ワシが、叶えてみせよう』
あの約束を、果たすために。
アケローンの若き矛は、最後の力を振り絞る。
「ガアアァァアァ――――ッ!」
発したそれは、もはや人の言葉ではなかった。
全力で駆けたダイゴスは、倒れた流護の顔面に渾身の右拳を叩き落した。




