256. 雷燐
場所は『無極の庭』、その外周部の崖際。
ということで、解説席の面々の広域通信も流護の耳に届いていた。
音声だけではない。
川の向こうにずらりと並ぶ大勢の観客たち、最終戦ということで流護とダイゴスを遠巻きに囲う数名の白服たち。それらが皆、視界に入っている。
そして逆も同じ。
この会場にいる者全てが、肉眼であれ黒水鏡越しであれ、生き残った最後の二人に注目している。
(いつの間にやら、って感じもするけど……)
つまり、ゴンダーも脱落してしまったということだ。が、彼に任せたあの魔闘術士の男も――というより、あの連中も全員が退場したことになる。
流護としては少し実感がないぐらいだった。周囲に広がる木陰や草藪から、先ほどみたいに他の参加者が襲いかかってきてもおかしくないと思える。しかし今、この森にいるのは自分たち二人だけなのだ。
先ほどまでは隣り合って外の様子を眺めていた流護とダイゴスだったが、今はどちらからともなく距離を取り、五メートル程度の間合いを保っていた。
――さて。天轟闘宴『再開』だというが、そもそも明確に中断していた訳ではない。極端な話、いつ仕掛けても構わなかったはずなのだ。
『黒鬼』と対峙していたその最中も。森の外でドゥエンやディノたちが激闘を繰り広げていたその瞬間も。ついに怨魔が斃れ、ここで二人揃って座り込みながら事後処理の様子を眺めていたそのときも。
「……、」
流護としては、それが『できなかった』というだけの話で。
「そんな卑怯な真似はできない」とか、「正々堂々と決着をつけたい」などといったクリーンな思いがある訳ではない。
隙が、なかったのだ。
このダイゴス・アケローンという男に。
「さーて……みんな見てて、ちょっとやりづらいんだけど……少しは回復したのか? ダイゴス先生」
「さて……どうじゃろうの」
もはや見慣れた巨漢の不敵な笑みからは、しかし何の情報も読み取れない。
疲労の度合いはどの程度のものだろうか。
その『強さ』に関しては、当初の認識を大きく改める必要がある。可もなく不可もなく、ミディール学院の中で三十位前後――など、とんでもない。この男は、間違いなく『銀黎部隊』に匹敵するほどの実力を持っている。国家の上位騎士に比する力を持っている。
外で観戦していたベルグレッテは、ダイゴスの闘いぶりを見てさぞ驚いたのではないだろうか。
(……さて、一方の俺は……)
対する流護は、アーシレグナの葉の沈痛作用が切れかかっていた。
これにより――エンロカクの爆風陣を受けた左脇腹、プレディレッケの鎌を防いだ左腕が、殊更にジンジンとした痛みを放ち始めている。特に後者に至っては間違いなく折れているため、この戦闘でまともに使うことはできない。
しばらくこの場で休んでいたとはいえ、疲労も積み重なっている。ひとまず動けはするが、何かの拍子に倦怠感が吹き出しかねない。正直、今すぐ倒れ込んで眠ってしまいたい心境だった。
「……はー、さすがに疲れたよなあ」
「全くじゃな」
「んじゃさっさと終わらせて……休みますかね」
「そうじゃの」
示し合わせたように、双方は背負っていた荷物を放り投げる。
勝っても負けてもこれが最後。もう、必要ない。
放った荷物が草地に転がる、一拍の間。
大地抉る踏み込みにて接近したのは、有海流護。
「――――――ッ」
人外の領域に足を踏み入れているとしか思えぬその速度に、ダイゴス・アケローンの頬が引きつる。
バオン、と凄まじい拳圧がダイゴスの鼻先を削ってゆく。
顔を引き、すんでのところでその一撃を躱した。
「……、…………!」
――何じゃ、この拳は。
怖気立った。
間近で見る、鼻先を通過したその右拳。太く腫れた甲。隆起し、異常発達したかのようなタコ。どれだけの修練を重ねたなら、これほどの凶器が完成するのか。
もし、こんなものをもらってしまえば――
だが、分かっていた。
流護のほうから仕掛けてくるよう、すでに前もって種は撒かれていた。
だからこそ、避けることができた。
ここでようやく、観衆たちがどっと沸き上がる。流護が仕掛けたことに――戦闘が始まったことに、今気付いたのだ。三万の人間の反応を置き去りにする、遊撃兵のその速度。認識できたのは、ドゥエンやディノら、ごく一部の強者だけだろう。
そして――実際に相対しているダイゴス自身も、無論そのごく一部から外れはしない。
「――出でよ、雷燐」
そのダイゴスの言霊に応え、発現する。
瞬く白光。連続する破裂音。
そして、
「…………が、……は……っ!?」
呻き、身体をくの字に折り曲げる流護の姿。その全身から、ほのかな白煙が立ち上る。
「勝たせて貰うぞ。アリウミ」
両手に雷の棍を喚び出し、ダイゴスは追撃の姿勢を取った。
何が起こったのか分からなかった。
明滅する視界。聞こえてくる外からの歓声。全身を苛む鋭い痛み。
例えるなら、鋭い鋲の山に自分から突っ込んでしまったかのような――
「ッ!」
などと余計なことを考えている暇はなかった。
刹那の激痛によって動きが止まった流護に向けて、ダイゴスが雷の棍を閃かせていた。
横薙ぎを深く屈み込んで躱し、突き込まれた一刺を右の篭手で弾き、
「シィッ!」
下段。
刈り取る軌道の右ローキックが、巨漢の左膝を狙う。
その体躯からは想像もできない身のこなし。ダイゴスは瞬間的に脚を引き、蹴りの範囲から離脱した。
そのまま軽やかに二歩三歩と下がり、「ニィ……」とあの笑みを見せる。
「……冷や汗もんじゃな。脚をへし折られるところじゃった」
「またまた……ダイゴスさんこそ、俺を感電死させるつもりかと」
――応酬完了。
間合いを保ち、互い口の端を吊り上げながら、得た感触を分析する。
やられた。
内心で歯噛みしながら、流護は乱れた息を整える。
脳裏をよぎるのは、初めて桜枝里と出会った日の夜のこと。レフェの王城にある修練場で繰り広げた、ダイゴスとの立会い。
あれは開幕の合図、その直後のことだ。
惑い、攻めあぐねた流護。
『フ……来んのか? お陰で、ワシは助かったがの』
そう言って、ようやく準備が整ったように雷棍を喚び出したダイゴス。
(してやられたな、畜生~……)
ない、と思ってしまった。ダイゴスには、不意に突っ込んだ自分を迎え撃つ手段がないと。
目を凝らす。
流護とダイゴスの間――木々が暗い影を落とす空間に、青白く発光する微細な粉が舞っていた。ともすれば木漏れ日に紛れてしまいそうな、それが――
(雷燐、とか言ったな。これが……俺をバチッとやったモンの正体か……)
厄介だ。これが漂っている間は、迂闊に突っ込めない。
そう判断し、流護はじっと様子を窺う。
今しがた投げかけた言葉に偽りはない。
ダイゴスの全身から、冷たい汗が吹き出していた。
分かっていたことではあったが、改めて戦慄する。
終わる。
あの拳足を受けてしまえば、その時点で。顔を打たれて意識が飛べば終わり。脚を壊されて動けなくなれば終わり。
そして――雷燐を受けながら、倒れることもなく平然と反撃してくるその耐久力。
(全く……無茶苦茶じゃのう……)
今の交錯を凌げたのは、ただ読めていたからにすぎない。
流護が多用する、開幕直後、一挙接近してからの拳。あの日の立会いにて、自分には対応手段がないと思わせておいた。何気なく撒いておいた種だったが、こんなところで役立つとは――やはり、何事も仕掛けておくものである。続く交錯。棍を弾いた右腕、折れて動かぬ左腕。であれば蹴りが来る、と予想することは難しくなかった。
まずは狙い通り、といったところか。
(……じゃが)
できるのか。
ここからただの一手も違えることなく、この男の攻撃を凌ぎ続け――自らの攻め手のみを当て、勝利することができるのか。全て計算通りに事を運び、この化物を型にはめるなどということが可能なのか。
(フ……何じゃ、その夢物語は。現実的でないにも、程があるのう……)
踏み外すことのできない綱渡りの中途、しかし巨漢は笑む。
自らも気付かないまま。
『まずは開幕の応酬! 攻撃を当てたダイゴス選手が一歩優勢、といったところでしょうか!?』
沸き立つ外部の歓声の中、脚を使ってダイゴスの周囲をじりじりと回ってみる流護だったが、
(くっそ……邪魔すぎんだろ、この雷燐とかいうの)
煌く粉は、巨漢を包み込むように辺りを浮遊している。
厄介だ。攻め入ることができないうえ、当然ながらダイゴスはこの間に次の詠唱に入っていることだろう。完全に流れを持っていかれてしまった。
(石でも投げてみるか……?)
思案してゆっくりと懐に手を伸ばした瞬間、
「!」
ダイゴスが地を蹴り、流護へと肉薄した。まさか自分から安全圏を飛び出して仕掛けてくるなどとは考えていなかったため、初動が遅れる。
棍の両端、左右ほぼ同時に飛んでくる二連撃を辛うじて躱し、
「シッ!」
伸び上がる。
回避した勢いのまま身体を旋回させた流護は、左の上段廻し蹴りを打ち放つ。
「……ぬ!」
弧を描いた軌跡は、巨漢の前髪を揺らすに留まった。しかし無理矢理のけ反って回避したことで、ダイゴスの体勢が大きく崩れる。
その隙を逃さず接近した流護に対し、
「ぬうん!」
紫電閃かせる雷の棍が、唸りを上げて振るわれた。その軌道が巨漢を中心に真円を描く。無理な姿勢から繰り出された、やけくそ気味にも思える一薙ぎ。当然、このような一撃をもらう少年ではない。丁寧に躱せば、あまりの大振りに勢い余って旋回したダイゴスの身体は、流護に背を向ける形となる。
(らしくねえ大振りだぜ、ダイゴス先生……!)
終わりだった。
致命的な隙を晒した巨漢に対し、流護は今度こそ躊躇なく踏み込み――
「う、おあっ!?」
すんでのところで、大きく飛びずさった。
粉雪めいたそれが、ふわふわと吸い込まれるように両者の間へ滑り込む。
(ッ、雷燐……!)
今の大振り。接近しようとした流護を迎撃するためのものではなかったのだ。大気を掻き乱し、自らの後方に浮遊していた雷燐を引き寄せるため。
ステップを踏む空手少年は、眼前の光景に口の端を引きつらせる。
(近付けねぇ……っ)
吹雪のごとく散り荒ぶ白煌の塵。その中心に立つ山のような男。その威容はさながら、幽玄な霧に抱かれて佇む霊山、といったところか。
発現者たるダイゴスが、己の雷燐に焼かれることはない。それどころか無数の輝きは、巨漢の周囲を飛び回る防壁となって機能している。エドヴィンなどは自らの撒き散らした火の粉で火傷をすることがあるそうだが、ダイゴスの術制御はそれだけ高い精度でなされているということなのだろう。
ふわりと舞い上がった粉の一片が、覆い被さるように繁殖している若木の枝に接触する。刹那、瞬く電光と小さな炸裂音。細枝が大きく揺れ、バサバサと葉を撒き散らした。一個の攻撃術として考えるならば、大した威力ではない。しかし――
(あれを一気に、何十発も喰らっちまえば……)
ゾッとする。
周囲を漂う電光の群れ。その数、五十弱は下らないはずだ。先ほど流護が受けた雷燐は、果たして何発分だったのか。
「ふっ――!」
巨漢が手にした棍を横へ薙げば、雷燐が応えるかのように乱舞する。
――蛍みたいだ、と。
流護は思う。
一瞬たりとて集中を欠くことのできぬ鉄火場の最中、それでもなお目を奪われてしまうほどの――美しく幻想的な光景。
蛍の群れを率いる戦士はしかし、儚さとは無縁の力強さで大地を蹴る。轟然と迫り来る。
白光纏う雷霆の暗殺者を前に、流護は防戦一方へと追い込まれてゆく。




