255. 最後の舞台へ
「…………、ぐ」
ひどく重いまぶたを、震わせながらもどうにか開いていく。
「あ……ドゥエン、さんっ……」
そうして目覚めたドゥエン・アケローンの視界に飛び込んできたのは、巫女――雪崎桜枝里の泣き顔だった。ぽつりと、男の頬に温かい雫が落ちてくる。
「よかった……、よかったです、気がついて」
「サエ、リ……様……、何故、」
矛の長は、そこでようやく状況を把握する。自分は芝生に横たわり、桜枝里に膝枕をされているのだと。
周囲にいた数名の兵士たちが、「ドゥエン様がお目覚めになられたぞ」とどこかへ走っていく。他の者たちへ知らせるためだろう。
「ドゥエンさんっ、よかった、目が覚めましたかドゥエンさんっ!」
姦しく耳を叩いてくる、しかし聞き取りやすい高い声。兵士らと入れ替わる形でひょこりと横から顔を覗かせたのは、音声を担当している乙女だった。
「……シーノメアさん」
「もう、本当にどうなるかと思っちゃいましたよっ」
そこでまた、頬に雫が一滴。
「ほんとに……、ほんと、もうっ、よかったです……」
声を詰まらせながら、巫女が己の目元を装束の袖で拭った。
「……サエリ様……何故……、泣いて……おられるのですか」
「そんなの……知りませんっ……。ドゥエンさん、私には冷たいし、厳しいし、怖いし……でもドゥエンさんが、もう……目を覚ましてくれないかと思ったら……」
「……莫迦な」
その懸念に対してではない。
仮にそうなったとして、なぜ桜枝里が悲しむ必要があるのか、という意味だった。
「サエリ様の仰る通りですよっ! ドゥエンさん、ぐったりして全然動かなかったんですから!」
シーノメアも興奮気味にまくし立てる。……その瞳は、わずかではあるが潤んでいた。
「あらまあ。うら若き乙女を二人も泣かせよって。存外に罪な男じゃのう? ドゥエンの坊やよ。スゥーティーに告げ口してやろうか」
そう言って音声担当の脇から顔を覗かせたのは、『映し』を担う超越者ことツェイリンだった。
「なーに自分のことを棚に上げて言ってるんですか? ツェイリンさんの絶叫もすごかったですよ。『ドゥエン! 上じゃああぁぁ!』って」
「あ、あれは……仕方なかろうが!」
「上じゃあぁあぁ!」
「やめんか!」
「……見苦しい所を……お見せして、しまいましたね。申し訳ない」
小競り合う女性二人を横目にしつつ、ドゥエンは震える片腕に力を込めてどうにか身を起こした。
「ドゥエンさん、だめですってば……! まだ横になっててください!」
桜枝里が、自分のことのように慌てて押し止めようとしてくる。
「問題ありません。……全く、貴女は……変わったお人だ……」
小さくそう零すと、巫女は心配げな顔のまま不思議そうに首を傾げていた。
「よう。起きたか」
そこで投げかけられた言葉に顔を向ければ、頭や右腕に包帯を巻いたディノ・ゲイルローエンがやってくるところだった。
ひゃあ、と声を上げたシーノメアが飛び跳ねるようにして道を開ける。そのディノの姿を見てドゥエンも気付いたが、己の身体にも丁寧な傷の処置が施されていた。……当然、左耳と右腕は失われたままだったが。
「ディノ君。結局は……君に美味しい所を持って行かれてしまった、という事かな」
慌ただしく事後処理に奔走する赤鎧や白服らを眺め、ぽつりとそう零す。
巨大な鎌を投げ出して横たわる『抜け殻』。そのすぐ隣に倒れている、虫としては大きすぎる羽の怪物の死骸。
不甲斐ないことに、途中からの記憶がない。
その直前の時点で、ラデイルやタイゼーンも消耗し倒れていた。となれば、自分以外にあの怨魔を打ち倒せた者など、当然ながらディノしかいないだろう――
そう考えるドゥエンだったが、
「イヤ、残念ながらオレじゃねェよ。ま、コッチとしちゃ腕捨てねェで済んだしな、イイっちゃイイんだが」
やや不完全燃焼気味に言いながら自分の右腕をポンと叩き、彼は『そちら』へと紅玉の瞳を向ける。ドゥエンもその目線を追い、
「!」
わずか瞠目した。
そこで全身の力を使い果たしたかのようにへたり込んでいるその人物は――隣国の準ロイヤルガード、ベルグレッテ。ひどく憔悴しきった様子で、小柄な少女兵――ユヒミエに施術を受けている。
「彼女が……?」
「ハッ。足手纏いにしかなりそうにねェ優等生がイキナリ飛び出してきた時ゃ、どうしたモンかと思ったが……中々、面白ェ技を使いやがる」
『無極の庭』と呼ばれる黒き森、その川沿いぎりぎりの崖っぷちにて。
がっくりと脱力して座り込んだ流護は、未だ放心状態のままでいた。
「大丈夫か? アリウミ。まだ呆けとんのか」
平然と問うてくるダイゴスに対し、
「いや、ハゲるかと思ったわ……心臓に悪すぎるだろ……おしっこもれそう……」
少年はどうにか声を絞り出す。
後にレフェの民の間で『神の槍』と評されるほどの投擲を放った流護だったが、あの『黒鬼』はそれすらも撥ねのけたのだ。
確実に当たる。仕留められる。
そんな自負を抱いて放った一撃が凌がれた瞬間、頭の中が真っ白になってしまった。あの最後の一瞬、もしベルグレッテが決めていなければ――
そんな仮定を思うだけでゾッとする。
「そうか。ワシはさして心配しとらんかったがの」
「えぇ? まじかよ……。どうしてそんな……」
「あの場にはディノがおった。ワシが術を施し、お主が投げた。敵とはベルが対峙しとった。言わば四重の囲いじゃ。仕留め損なうことなど、そうはなかろう」
「い、いや、でも……ベル子は……」
「心配に思う気持ちは理解するが……もう少し、あ奴を信頼してやったらどうじゃ」
「え?」
信頼。
ベルグレッテのことは、充分すぎるほど信頼している。むしろこの世界で、彼女ほど信を置いている相手はいない。
心外だ、と流護は半ば非難するような目でダイゴスを見る。
「お主は、脅威や敵の数々を可能な限り自分の手で排除したいと考えとるんじゃろう。あ奴を危険な目に遭わせぬように」
「え? そりゃあ……そうだよ」
当たり前だ。
もしベルグレッテが、ミネットのようになってしまったら。ミアのようにさらわれてしまったら。ミョールのように理不尽な目に遭わされてしまったら。
そうならないよう、守れるなら守りたい。当たり前だ。
「あ奴は、護られることを良しとする娘ではない。恐らくはお主の隣に立ち、肩を並べて戦うことを望むじゃろう」
「……、」
ふと思い出す。
王都テロが起きたあの日。遊撃兵になると決めたあの夜。彼女と交わした会話。
『俺も神詠術とかは全然分からないし、だから……これからベル子と一緒に、お互いに足りない部分は補い合いながら、助け合いながら、闘っていけたらなー、とか思うんだけどさ』
そう。自分から、彼女に提案したのではないか。
「共に戦う一人の戦士として……もう少しばかり『信頼』してやってはどうじゃ、と思うての」
「…………、」
そう言われて、流護は向こう岸に目を向けた。
座り込んだベルグレッテの周りにできた人だかり。
桜枝里やシーノメアも入り混じって、『黒鬼』打倒の最後の一手となった少女騎士を囲んでいる。
「……」
流護はふと考える。
あの最後の瞬間。あそこにいたのが――怨魔と対峙していたのがベルグレッテでなく、自分だったとしたらどうだろうか。仕留めきることができただろうか。
英雄ガイセリウスが愛用したという大剣、グラム・リジル。それを模した秘術、全長三メートルにも及ぶ巨大な白銀の水刃。
つい最近、自分は考えたはずだ。
『じゃあ訊くけどっ! 仮に、私とリューゴが真剣に果たし合いをすることになったとして……あなたは、万が一にも自分が負けると思う? 私が、あなたに手傷のひとつも負わせられると思う?』
『訓練なら……俺は、何回やってもベル子に勝てる。現状じゃ、まず負けはねえ。けど、正面から……全力を尽くしての立会いになれば――』
仮に彼女と真剣勝負をすることがあれば、負ける可能性はゼロではないと。単純な火力の高さのみで論ずれば、彼女のほうが上だと。
そう認めたのは、他ならぬ流護自身だ。
(戦士としての信頼、か……)
英雄さながらに囲まれている向こう岸の少女騎士を見やりながら、流護はその言葉を反芻していた。
テントや支柱の陰となって人目につかない、医療キャンプの裏手にて。
「ではドゥエン殿、ご確認を」
赤鎧の兵が囁き、足元に広げられた大きな布を取り払う。
「…………」
矛の長は、ただ無言でそれを見下ろした。
即ち――芝生に横たえられた、エンロカク・スティージェの死体を。
誰よりも大きかった躯体は腹部から絶たれ、傷口は黒々と焼け焦げている。その強靭な上半身には大小様々な傷が数え切れぬほど刻まれており、そして――ピアスの通った太い唇は、驚くほど満足そうに……穏やかに緩められていた。
「……」
――最後の最後まで、使えん男め。
ドゥエンは胸中でそう吐き捨てる。
例えばこの巨人がもう少し長く生き永らえていたなら、『黒鬼』に宛がうこともできたのだ。兵団を消耗させずに、厄介な双方の力を削ぐことができたかもしれない。
否、やはりそう都合よくはいかんか、と即座に否定の溜息をつく。
思い返してみれば、あまり怨魔には興味を示さぬ男だった。
生まれ持った異常な肉体から幼少の頃より化物と呼ばれ、やがて親族にすら怪物と忌避されたこの男は、ひたすらに強き人間との闘いを渇望した。
それはエンロカクが自分ですら気付かぬまま発し続けた、『訴え』だったのかもしれない。
俺は化物じゃない。お前たちと同じ人間だ。だから、俺と同じように強い奴がいるはずだ――と。
目を背けたくなるほど損壊の激しい死体でありながら、その顔はかつて見たことがないほど温和なもので。それは強者と巡り会えたゆえの――自分も一人の人間なのだと確認することができたゆえの、安堵の表情なのかもしれなかった。
「…………良かったな、エンロカク」
「はっ? 何か仰いましたか」
「いや。エンロカクの死亡、確かに確認した。ご苦労」
「は」
素早く踵を返したドゥエンの背中に、
「ドゥエン殿。その、恐れながら申し上げますが……、お休みになられては……」
控えめな兵の声がかけられた。
失った片腕に片耳。ふらつく身体。珠のように浮かび上がる汗。誰が見ても『分かる』。
「要らぬ心配をするな。それに『千年議会』が揃いも揃って『お帰りになられた』以上、私が務めを果たさねばな」
ニコリと笑い、ドゥエンは医療キャンプを後にする。
「……」
スッと一息吸い込み、常と同じような足取りを意識して歩き出した。
観覧席へたどり着くまでの間に、数名の兵たちが慌しく駆け寄ってくる。
「白服より伝令。『無極の庭』内部、他に怨魔の姿や怪しげな異変は確認できないとのことです」
「『無極の庭』、T地点より発生していた炎が鎮火したとの報告がありました」
「確認が終了致しました。現在、残るのは……かの二名のみとなります」
「全て承知した。ご苦労」
忙しげに持ち場へ戻っていく兵士らに劣らず足を急がせ、観覧席へ戻る。
そんなドゥエンを迎えたのは、心配顔のシーノメアだった。
「ドゥエンさん……その、大丈夫ですかっ?」
「問題ありません」
「でも、すごい汗……」
「この暑さに加え、派手に一戦終えたばかりですからね」
ニコリと微笑むも、シーノメアの表情は晴れない。
「痩せ我慢ではありませんよ。基本的に、やれない事や無理な事はしない性分ですので。ご安心を」
「さっきの闘いはどうなるんですかっ」
「ですから『基本的には』、と。アレは、あまりに想定外の出来事でしたから」
うう、と口上手なはずの乙女は反論に詰まった。
「シーノメアさん。広域通信の展開をお願いします」
「もう……、分かりました」
押し問答は無駄と悟ったのだろう。観念したような彼女が指を舞わせると、大空に巨大な波紋が展開された。全くブレの感じられない、安定した通信術。この天轟闘宴をここまで支え続けた、立派な裏方の一つ。
「……有り難う御座います」
小さく礼を述べて、すっと息を吸い込んだ。
全身を蝕む倦怠感や痛みを表に出さぬよう、矛の長は朗々と普段通りの声を響かせた。
『ご来場の皆様、この度は誠に申し訳御座いませんでした。怨魔が出現するという未曾有の事態に、皆様にも緊急退避を強いてしまう形となり、大変ご困惑された事と思います。原因は未だ不明ですが、脅威は取り除かれました。今後このような事の無きよう、我々一同、万全の体制を以って運営に臨む所存です。重ねてになりますが、申し訳御座いませんでした』
落ち着きを取り戻した観衆たちからは、疎らな拍手が上がっていた。
今や指定席も関係なく、人々は思い思いの場所で待機している。適当な座席に腰掛けている者、芝生に座り込んでいる者、所在なげに立っている者……様々だった。
『さて。このような事態となってしまいましたが、その間にこちらの方でも動きがありました』
ドゥエンの言葉と同時、各所へ設置された黒水鏡に『それ』が投影された。
人々からざわめきが巻き起こる。
映されたのは、天轟闘宴参加者の名簿だった。
脱落者は消え、生き残っている者の名だけが輝くその表示。当初、百八十九もの名前が表示されていたそこに――未だ光り続けるのは、わずか二つ。
085、ダイゴス・アケローン。
124、リューゴ・アリウミ。
『エンロカク氏の排除――こちらの対応は、既に完了しております。現在……「無極の庭」に残っている参加者は、ご覧の通り。この両名のみとなります』
ざわめきが一層大きくなる。
それもそのはず。
『無極の庭』にいる――どころではない。
その最後の二人は、森の外側ぎりぎりの崖際に立っているのだ。観衆たちから見える位置に。それも、二人並んで。
『私は……この両名の闘いを、見てみたい』
日頃淡々としているドゥエンが珍しく滲ませた欲求に、観客たちが「おお」と沸き立つ。
『片や、ダイゴス・アケローン。私の不肖の弟です。現在は、レインディール王国の巫術専門校、ミディール学院に籍を置いています。ここ数年、顔を合わせる機会も数える程しかなく……故に、と云うべきでしょうか。恥ずかしながら私は、この弟の事をあまり理解出来ていなかったように思います』
一拍置いて、端的に述べる。
『かの「黒鬼」を相手にしてすら退かず、立ち回り……ここまで勝ち上がってくる程の実力を身に着けていたとは、予想だにしていませんでした』
またもにわかに沸く観衆たち。そのどよめきが静まるのを待って、ドゥエンは粛々と続ける。
『片や、リューゴ・アリウミ氏。その快進撃の数々は、皆様もご覧になっての通りでしょう。無術の拳にて、敵を討つという夢想。特に……お集まりの男性諸兄は、幼き日に一度は思い描いた事がお有りなのではないでしょうか』
しかし、とドゥエンは声を張る。
『それを夢物語のまま終わらせず、現実のものとして勝ち上がってきた――この若き強者。その力は、天轟闘宴をも制してしまう程のものなのか。幼少の頃に前述の夢想を抱いた事がある男の一人として、私は非常に興味があります』
そうして前口上を終え、思い出したようにわざとらしく周囲を見渡す。
『かような非常事態の後です。此度の天轟闘宴をどうすべきか……本来であれば、「千年議会」の判断を以って決める所ですが……今この場には、国長とタイゼーン殿のお二人しかおられないようで』
ニコリとした笑みを浮かべ、『千年議会』の人員である両者へと視線を送った。言うまでもなく、他の重鎮たちは脱兎のように逃げおおせてそれきりだ。プレディレッケが排除されたことも知らないだろう。
ドゥエンと同じくこの闘いで片腕となったタイゼーンが、やりづらそうにしながら広域通信を展開させた。
『うむ、紹介に預かったタイゼーン・バルだ。まずはこのような事態となってしまったこと、観衆の皆に深くお詫びしたい。かつて最強と謳われた私がこの様では、さぞ頼りなく感じたことだろう』
スッと頭が下げられ、再び上向いた老兵の顔には、何とも苦々しい表情が浮かんでいた。
『片腕はなくなっちまったし、指南書は制定し直さにゃならんし、これからのことを考えると頭が痛くなる思いだ。第一「黒鬼」の野郎、大砲が効かねぇってどういうことだよ。今後、もっと威力の高ぇヤツを開発しなきゃいけねぇじゃねーか。どれだけ金が掛かると思ってんだ、ったく』
まるで酒の席で垂れる愚痴だった。兵たちによって厳重に縛られている怪物の亡骸に目を向けながら、しかしその口元が吊り上がっていく。
『だが……あんなとんでもねぇバケモノ相手に、最後まで食い下がり続けた戦士たちがいる』
そしてその滾る視線は、川の向こう側に立つ二人の少年たちへ。
『まだ闘るつもりでそこに立ってんだろ、お二人さん。いいぞ、続けてくれ。いや、是非とも見せてくれ。「黒鬼」相手にも引けを取らねぇ、その闘いぶりを』
そうして通信の余韻が消えた。観衆たちから、まばらな歓声が上がる。
次いで別の場所から、同じく上空へと波紋が展開された。
『……ふー、うむ、国長のカイエルじゃ。済まなかったな、皆の衆。正直、余も老い先短い余生が縮んだわ。この分じゃと、明日にはポックリ逝くやもしれんな』
隣で老体を支える兵士が、「縁起でもないことは言わないでください」と零す。その声も通信に乗ってしまっていたが、今、国長の放言に対し粗探しのように意見する『千年議会』はここにはいない。
『余としても、ドゥエンやタイゼーンと同じ意見じゃ。かの「帯剣の黒鬼」相手に、武装すらなく渡り合った両名……天轟闘宴の最後を飾るに、これほど相応しい闘いはなかろうて。流石に双方、疲れ果ててもおろう。じゃが、もしよければ……最後の一戦を、見せてほしい。余も、一人の観衆としてそう思うぞ。以上じゃ』
おお、と国民たちからどよめきが上がる。国長の通信が消滅したことを確認し、ドゥエンがその結論を述べた。
『……決まりましたね。予期せぬ事態も発生し、皆様お疲れの事と思います。ですが――第八十七回・天轟闘宴……このまま続行とし、その結末を皆様と共に見届けたい所存です』
熱狂の嵐が爆発した。
地鳴り渦巻く歓声の中、芝生に座り込んでいる桜枝里はおろおろと周りを見渡す。
「え、えー……あんなことがあって、続けちゃうんだ……」
少し問題があれば即刻中止になったりする日本のイベントをもう少し見習ってもいいのでは、と少女は思ってしまう。恐ろしい目に遭ったばかりだというのに、盛り上がってしまう観客たちもどれだけ血の気が多いのか。
まあ、ここまできたら残り二人だし、とにかく終わらせてしまえ的なやけくそ気味の雰囲気も感じられる。
それはともかく――と川の向こうへ視線を送れば、
「大吾さん……流護くん……」
まさか。この二人が闘うことになるなんて、思いもしなかった。
もっとも天轟闘宴の性質上、最後の一人になるまで続けるのだから、正確にはこの二人がぶつからざるを得なくなるまで勝ち残るとは思わなかった、というのが正しいか。
「ふふ。意外だった? あの二人が残ったこと……」
隣に座るベルグレッテが、桜枝里の心を読んだかのように問いを差し込む。
全身全霊を注ぎ込んだことにより、立つことはおろか呼吸困難すら起こしかけていた少女騎士だったが、現在はユヒミエの治療によってどうにか持ち直している。そのユヒミエは現在、桜枝里の隣でもしゃもしゃと食事をとっていた。消費した魂心力を回復させるために栄養が必要らしい。
「そりゃまあ……大吾さんや流護くんが強いのは分かってたけど……それでも、あんな強い人たちばっかりだったわけだし……」
特に、エンロカクが勝ち抜いたなら――ダイゴスに万一のことがあったなら、彼の後を追うつもりですらいたのだ。それが今や、遠い昔の出来事のように思えてしまう。
というより、この短い間で色々ありすぎて、何だか自分でも随分と肝が据わってしまったように感じる桜枝里だった。もう何が起きたとしても驚きそうにない。
「そういうベル子ちゃんは? あの二人が残る、って思ってたの?」
「ん……リューゴは、絶対に残るって信じてた」
迷いのない即答。一体、どれだけの信頼が込められているのだろう。
「ダイゴスは……その実力の高さは、私もよく知ってる……つもりだった。でも……本当に、『つもり』でしかなかった」
その言葉には、やや寂しそうな響きが感じられた。
「けど」
少女騎士の薄氷色の瞳が、やや離れた眼前の森を――その縁に立つ顔なじみの両者を見据える。
「あの二人は……『こうなる』ことを、心のどこかで予感してたのかなって。あそこにいる二人を見てると……なぜだか、そんな風に思えるのよね」
溜息ひとつ、ドゥエンは手近な席にどっかと腰を下ろす。
「焚き付けたなー、兄貴よ」
相も変わらず軽い口調で右隣にやってきたのは、実弟のラデイルだった。歩きづらそうに、左脚を引きずっている。
「はっはっは! だが、それで良し! 伝統ある天轟闘宴が中途で取り止めになることなど、あってはならんからな」
呵々と笑って左隣に座るのは、軍事防衛を司る『千年議会』の一人タイゼーン・バル。
ラデイルは左脚、タイゼーンは左腕のあった部分に、それぞれ大きく包帯を巻いている。両者共に『黒鬼』が発した音撃の余波を至近距離で受けてしまったこともあり、頭にも白布が巻かれていた。揃いも揃って満身創痍である。
が、兄がそれ以上の状態であることに弟は気付いたのだろう。
「……兄貴。大丈夫か」
「……、フン。お前に心配される程、ヤワではない心算だ」
ラデイルは「強がっちゃって」と溜息をつきながら眼前の森へ視線を移し、小さく零す。
「でも兄貴さ……良かったのかよ。ダイゴスが優勝したら、何を望むのか……分かってんだろ」
「……フン。問題はない」
鼻を鳴らし、長兄は断言する。
「ダイゴスでは……リューゴ・アリウミには勝てん」
しかし。その言葉を受けてなお、次男は不敵に笑う。
「おーおー、言い切るねー。賭けるか?」
「お前はダイゴスに張ると?」
「俺は誰かさんみたいな冷血漢と違って、家族思いなんでねえー。当然、愛する弟の勝利を信じてるさ。エンロカクに勝つのだって、しっかり想定内だったしな」
「そうか。では私が賭けに勝ったなら、代償として滞納している仕事を全て迅速に片付けて貰うとしようか。一週間以内だ。お前の所為で滞っている業務が山程あるのでな」
うぇー、と顔を歪めたラデイルは、兄を跨いで老人へと矛先を向ける。
「タイゼーン爺はさー、どっちが勝つと思うよ?」
隻腕となった右の手で顎ひげを撫でたタイゼーンは、ふむと大仰に頷く。
「双方共、とうに限界だろう。長期戦にはなるまい、としか言えんな。……しかし」
ニッ、と豪快な笑みを浮かべて言う。
「外面は似ても似つかぬが……存外似た者同士に見えるのう、あの二人は」
「すっげぇ、すっげえよ、リューゴの兄貴ィ……!」
観客に交じったガドガド・ケラスは、自分のことのように拳を握りしめていた。兄貴分のラルッツの命を救ってもらって以降、すっかり流護に入れ込んでしまっている。
示し合わせた訳でもなく、周囲にはつい先ほどまで競争相手だった戦士たちの姿も垣間見えた。
「くっ……あれ程の猛者が参加していたとは、悲しい。天轟闘宴の参加者は年々、強者ばかりになっていきますね……」
目頭を押さえたグリーフット・マルティホークが、鼻をすすりながらその美しい顔を歪める。
「ここまできたら優勝できるよな、リューゴの兄貴ィ……!」
「それは……どうでしょうね……」
「な、なんだよグリーフットの旦那。あんただって見ただろ。あの怪物と殴り合って、最後にはあの光の槍だぜ。あんな男の中の男に敵うヤツが、そうそういるもんか」
「その光の槍を作り出す手助けをしたのは、あの大きな身体の方ですよ。それに……」
常に泣き顔の珍妙な美青年だが、さすがは一流の戦士ということだろう。落ち着いた物腰で、その観察眼を発揮する。
「あの大きな身体の方。まだ、何かを隠しているような……全てを見せ切っていないような。そんな気配を感じます」
「今回のあんたと同じように、か?」
そこで割り込んできたのは、ガドガドにとってもグリーフットにとっても見知らぬ男だった。腕や足、包帯をぐるぐる巻きにした、ひげ面の壮年である。
「どなたでしょうか……?」
「俺は名乗るほどの者でもない、しがない何でも屋さ。前回も今回も、一時間ぐれーでヤラレちまった。これじゃ、売名にもなりゃしねー。ダメだね、もっと考えて動かないと」
ニッと笑いながら、彼はしかしふと口元を引き締める。
「グリーフットさんよ、あんたの闘いぶりは外で見物させてもらったぜ。で……あんた、あの炎のヤツとの闘いで……どうして、『アレ』を使わなかった? 前々回の西の『ペンタ』、レヴィンとの闘いでは披露したよな?」
「…………出し惜しみをしたわけではありませんよ。ただ……使っても、勝てないと思っただけです」
「本当かねえ」
肩をすくめた男は、まあいいやと眼前の巨大な黒水鏡に目を移す。
「さて……今回のこいつら、どっちも初出場だよな。しかも、揃ってまだ若造じゃねえか。ほんっと、強いヤツってのは次から次へと出てくるね、やんなっちゃうよ。とりあえず参考にさせてもらうけど、無理そうだったらもう引退して村に帰ろうかねえ……」
自らが立てなかったその舞台に佇む両者を見据えて、それぞれ戦士たちも開始の時を待つ。
『……と、いうわけでっ! 突如乱入してきた「黒鬼」は排除され、天轟闘宴も再開の運びとなりました!』
最後の気力を振り絞るように、シーノメアが音声を空高く響かせた。
当初のテーブル席ではないものの、石造りの座席にシーノメア、ツェイリン、ドゥエンの三人が横並びで腰掛けている。
『えーと……確か、かの怨魔の出現後、私が最後に確認した残り人数は五名でした。目撃された方もおられると思いますが、この「黒鬼」と遭遇した結果、森から飛び出してしまった参加者も数名いるということで……。不測にすぎる事態ではありましたが、この方たちについては失格、ということになるのですね。ドゥエンさん』
『はい。参加者達には事前の規定説明もされていますが……如何なる理由があろうとも、森から出てしまえばリングが外れ、即失格となります。怨魔から逃れる為であろうと、怨魔と闘う為であろうと……それは変わりません』
そう解説する矛の長は、わずかに目を横向ける。
やや離れた席でふんぞり返っているディノが視線に気付き、薄笑みを浮かべながら肩を竦めた。
『そして少なかった人数がさらに絞られ、ついに最後の二人となりましたがっ……!』
『ええ。いよいよ最後の一戦となります。注目していきたい所ですね』




