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終天の異世界と拳撃の騎士  作者: ふるろうた
7. 天に轟くは、闘いの宴
254/673

254. 十秒

 ヴヴ、と重苦しい羽音が大気を震わせる。

 超低空で静止するプレディレッケの隻眼が、突如乱入してきたベルグレッテをじっ……と見つめた。

 と思いきや、すぐさまその視線は彼女から外され、横へ赤い尾を引いていく。


「――っ!」

「ハッ」


 少女騎士が瞠目し、炎熱の超越者が笑う。


 プレディレッケは透明な羽を閃かせ、乱入者を無視してディノへと飛びかかった。

 そこには、怨魔なりにいくつかの理由があった。

 直前までディノに集まりつつあった、莫大な力を警戒したこと。単純に、無傷の新手より手負いを優先したこと。そして何より――突如現れたその新手を、取るに足らない存在だと認識したこと。


 しかしそうした怪物の判断は、ベルグレッテにとってまたとない好機となり得る要素だった。

 このままディノが攻撃を受けた瞬間、横合いから全力の一閃を叩き込む。

 かつてミアに危害を加えたこの『ペンタ』がどうなろうと、知ったことではない。そもそも、簡単にやられるような男でもないだろう。相手はかのプレディレッケ。まともにぶつかって勝てる敵ではない。だからこそ、限界まで機を窺った。しかし背後からの一撃を躱され、著しく勝率が低下したこの現状。怪物が今、自ら隙を晒してくれようというのだ。兄の仇を討ち果たす。少女がその悲願を成就させるならば――ディノを見捨て、彼が攻撃を受けた瞬間に斬りかかるのが最善手。


 それでも。

 そんな判断を下せないのが、彼女だった。


 傷だらけとなり、常以上に赤の色彩が際立つディノ。そこへ容赦なく迫る黒影。

 割って入るは、白銀と青の閃光。ブーツの底が、大地を掴むように強く踏みしめ。長く美しい藍の髪が、勢いに躍りたなびく。


 飛び込むベルグレッテが掬い上げた白銀の剣閃が、ディノに向かって振るわれようとしていた羽を打ち払っていた。


 がん、と重く鳴り渡る残響。

 下より上へ、逆袈裟の軌道で唸った水の大剣。弾かれ、後退する怨魔。


 両手で剣を携え、切っ先を向けて。煌く雫が迸った。

『徹する』ことのできなかった少女騎士は、立ちはだかる。黒き怪物の前に。赤き青年の盾となるかのように。


「……はぁっ、……!」


 例え相手が、複雑な思い渦巻くディノであっても。彼女にとってそれは、目の前で襲われる人間を見過ごしていい理由にはなり得なかった。


「ハッ、良かったのか? ソレでよ」


 背後から聞こえる、常と変わらぬ……否、やや呆れ気味にすら聞こえるディノの声。

 まるで、少女の裡にあった葛藤の全てを見透かしたような問いだった。


「損なモンだな、騎士ってのは。よくやるぜ」

「……、」


 何か言い返す余裕もなく、ベルグレッテは眼前の異形へと意識を注ぐ。


 きっと、彼女の取った行動は愚策だった。あのディノに、こんな援護は必要なかった。けれど考えるより先に、身体が動いていた。

 プレディレッケは今度こそ、その赤い眼光で少女騎士を捉えている。

『取るに足らない獲物』から、『危険な武器を持つ敵』へと認識が変わってしまった。もう怨魔に、隙はない。しかしそれは、プレディレッケがベルグレッテを脅威と判断した証でもある。


 通じる、ということだ。少なくとも、その剣が届きさえすれば。

 彼女はそう信じ、立ち向かう以外にない。






 ユヒミエによる増幅術の効果は、申し分ないものだった。本来であれば一振りが限界の大剣を、未だ携えて立つことができる。

 とはいえ、今ほどの割って入れた一撃。それだけで、意識が飛びそうになってしまった。


(……しっかり、しろっ……!)


 全力で集中し、己より遥かに長大な剣を握る。

 もって、残り十秒程度が限界か。

 刻々と魂心力プラルナが失われていくのを感じながら、ベルグレッテは時が惜しいとばかりに地を蹴って敵へ飛びかかった。



 ――活動可能時間、残り十秒。



 十、



「参ったな……」


 屋敷の中庭にて。

 そう呟いた兄は、困り顔で頭を掻いていた。

 原因は、傍らで一生懸命に細枝を振っている――幼き日の私。

 それはいつ頃のことだったか。兄が日課としてこなしていた剣の修業を、私が真似るようになってしまったのだ。当時のあの人にしてみれば、訓練の邪魔で仕方がなかったことだろう。


「はは……でも、流石というべきなのかな。筋がいいぞ、ベルグレッテ」


 けれどそう言って、優しい兄は微笑みながら私を見守ってくれる。


「そう。もっと脇を締めて……こう、身体が前へ出る勢いを乗せるんだ。うん、いい感じだ」


 そうして褒めてもらえるのが嬉しくて、私はただひたすらに枝を振り続けた。



 ――脇を締めて。踏み込みによって身体が前へ出る勢いを、力へと変えて。数え切れないほど積み重ねた習練を礎に、一閃を打ち放つ。

 両腕で振る、縦の一閃。

 舞い散る白銀の雫。ぬるりと尾を引く緋色の眼光。

 剣先は、怨魔の顔をかすめるに留まった。



 九、



「むっ……どうしたことだ、これは」


 今よりも幾分若々しい父が、その光景を見てわずかに驚く。


「……父上。申し訳ありません……」


 兄は、バツが悪そうな苦笑いを浮かべて謝った。

 困り顔の二人が見下ろすのは――いつものように棒きれを振る私と、その隣へ並んで真似をするようになってしまった妹、クレアリアの姿。私たち姉妹は、ぴょこぴょこと稚拙な――当人たちにしてみれば真剣な――素振りを繰り返している。


「フフ。元気なのは喜ばしいことだが……騎士の真似事は少々、感心せんな」

「おとーさまー」


 懐から葉巻を取り出そうとした父に、棒を握ったままのクレアが駆け寄っていく。かれこれ十分以上も続けていたから、さすがに飽きたのだろう。父に頭を撫でられているクレアを見ていたら羨ましくなってしまい、私も素振りを中断しつつ慌てて走り寄った。

 父はしゃがみ込んで私たちの頭を優しく撫でながら、複雑そうな表情で続ける。


「我が一族は確かに、ロイヤルガードの系譜ではあるがね。だが、できることなら……この子らには、騎士になってほしくはないと思っている」

「同感です、父上」


 訓練で流した汗を拭い、兄が頷く。


「無論私も、騎士という職務をこの上ない誇りと思っております。しかし……この子たちには、殺し殺されるといった世界とは無縁でいてほしい。同じ王城に仕えるにしても、宮廷詠術士(メイジ)や研究機関員といった道もあります。……と、以前母上に申し上げたことがあったのですが……」


 そこで尻すぼみになった兄の様子から察したのか、父が苦笑する。


「どやされただろう? 『あなたは騎士の娘に対し、騎士になるなというのですか』――と、いった風に」

「ち、父上。ご存知でしたか」

「んー……いや。あいつなら、間違いなくそう言うだろうと思ってね。普段は聖母のごとく穏和なようでいて、実は誰よりも誇り高く厳格で……そして美しい。私が惚れ込んだフォルティナリアという女性は、そういう人物だよ」

「……ああ、成程。父上も、私と同じ過ちを犯したのですね……」

「い、いや……」


 オホンと咳払い一つ、父は私たち姉妹の小さな手を取って言った。


「願わくば……この子たちのこの手が、剣を握らずに済む道があれば……いいのだけどね」

「ええ。私も……そう、思います」



 ――父が、兄がそう願った私たちの――今の私の手には、しかし剣が固く握られている。あのように願ってくれた兄の仇を討つために、刃が携えられている。

 白銀煌く右薙ぎ。切っ先で狙う顔部の両断。しかしプレディレッケという黒き怪物は、ベルグレッテという少女騎士を遥か凌駕する速度にて、その一撃を悠々と下がって躱す。


「……ぐ!」


 空振りが、少女の細い身体に容赦なく重い反動を突き返す。わずか一振りが、代償として確実に少女の体力を――活力を削り取っていく。


(……かわ、され……)


 そう。

 躱された。

 ディノへの一閃を弾いて以降、こちらから攻めた初撃、今の二撃目。

 怪物はベルグレッテの大剣を『受けずに』回避している。

 確信した。

 今、この怨魔は水の大剣を防げない。

 流護が、ダイゴスが、ドゥエンが、ディノが、レフェの勇猛なる兵士たちが、皆がここまで積み重ねてきたその成果。プレディレッケは蓄積したダメージにより、もはや大剣を受けることができないのだと。

 この羽虫のような形態は――隠していた本気を出した訳でも、秘められていた力を解放した訳でもない。極限まで追い込まれ、やむなく晒すことになった姿なのだと。


「くっ――」


 この程度の反動が何だ。ここまで多くの戦士たちがその身を削り、死力を尽くして消耗させた敵。そこへ横槍を入れる形で飛び込んだ無傷の自分。この程度で弱音を吐くな。

 

「――――」


 しかしこれほど小さな姿となってなお、対峙しているだけで押し潰されそうな、怨魔特有の威圧感。絶対強者を前に竦み上がる、か弱き人間としての本能。

 しかし二度とない好機を逃さぬため――少女騎士はその恐怖を乗り越え、より深く踏み込んでいく。



 八、



 あの日、暗き夜の森にて。目の前に屹立する異形の姿を、一度たりとて忘れたことはない。未だに夢に見る。


「父上、母上! ベルグレッテたちを連れて、お逃げ下さい!」


 兄の悲痛な叫びが、今も耳に残っている。

 覚悟を決めた兄の背中が、今も目に焼きついている。


「絶対に……、絶対に帰るから」


 泣きじゃくる私とクレアに、あの人はそう言って微笑みかけた。

 兄は、知るよしもなかっただろう。安堵させるために振り返ったその笑顔が、恐怖に歪んでいたことを。最後となったその言葉が、クレアリアという少女の在り方を決定づける切っ掛けとなったことを。

 そんなあなたの勇敢で悲痛な最期が、私に騎士となる決意を固めさせたことを。



 ――踏み込めば、怪物はその分だけ下がり巧みに間合いを保つ。

 交錯の最中。無感情な赤い隻眼が、じっとベルグレッテを見つめている。観察するように。相手の底を探るように。恐ろしいほど冷淡な瞳。

『あの後』も、この怪物はこうして怜悧冷徹に兄と対峙したに違いない。

 自分より――人間より圧倒的に格上。消耗した、この姿でなお。強い。怖い。当時幼体だったとはいえ、兄はこれほどの相手に己の剣を突き立てたのだ。

 だが。

 黒鉄の城を思わせたあの堅牢かつ強靭な巨躯は、すでに失われている。その身は今や、細く小さい。何度も悪夢にうなされたあの存在は、ベルグレッテの身体より遥かに小柄となっていた。一薙ぎで決着がつく。


 水剣をより深く振るうべく、左足を強く踏み込む。

 瞬間。

 それは、一種の交錯法カウンターだった。


「――――、っ」


 待っていたとばかり、漆黒の怪物は右羽を横一閃する。

 ベルグレッテの瞳には、巨大な翼が消失したようにしか映らなかった。



 七、



 その暴悪極まりない斬撃を見切れる人間が、果たしてどれほどいるだろうか。

 例に漏れず、少女騎士にそれだけの力はなかった。瞬きの間に、か細い首が宙を舞う――その寸前。


 がきん、と硬質の激突音が鳴り響く。


 横合いから鋭く突き出された炎の柱が、羽の一撃を相殺していた。

 耳朶を打つ振動。舞い散る火の粉。

 長大すぎる炎柱を軽々と突き出したディノ・ゲイルローエンが――悠々と見切っていたその超人が――嗤う。


「カマキリ……イヤ、カトンボよ。無視すんにはデカすぎる相手だと思わねーか? このオレはよ」



 六、



(……、!)


 ベルグレッテは息をのむ。

 助けられた。かつて激しく敵対したこの『ぺンタ』に、そんなつもりはないのだろう。この狂戦士は、目の前の強敵を打ち倒したいだけのはずだ。楽しみたいだけのはずだ。そう思うベルグレッテの耳に、


「カリは返したぜ」

「……!」


 冗談めかした声だった。本心なのかどうかは分からない。しかし結果として、ベルグレッテの命は紙一重の差で零れ落ちずに済んだ。


「ホレ」


 敵がよろけた。今だ、と。ベルグレッテの反応を楽しむかのように。

 ご丁寧にどうもっ……! そんな返事を発する余裕もなかった。思うだけに留め、騎士は眼前の敵に集中する。

 今、ディノが作って『くれた』この一瞬の好機。逃すことだけは絶対にできない。



 五、



 さらに鋭く。さらに深く。

 ディノに反撃の右羽を打ち払われて傾いた怪物へ向かって、少女騎士は肉薄した。

 振るえば当たる領域へと迫るために。敵がどんな挙動を取ろうと、逃れることのできない白刃を浴びせるために。


『この世界で格闘戦する人って、仕掛けた時に身体が開きがちになるんだよな。その一撃に力入れ過ぎで、バランスが悪くなってるっていうかさ。当たって倒せりゃそれでもいいんだけど……避けられたり空振ったりすると、隙だらけになっちまう』


 ここ数日の訓練にて、流護が指摘していた点。これはゴンダーとの訓練で彼が言っていたことだが、『この世界で格闘戦をする』ベルグレッテにもやはり当てはまる。


 兄が教えてくれた。脇を締めて。踏み込む勢いを力へ変えて。

 流護の助言通り。その一撃にのみ気を取られすぎず、力を込めすぎず――

 銀の光が縦に迸った。

 かすかに上がる、金属質なプレディレッケの怒号。

 振るわれた大剣の残像が、怨魔の顔の脇をわずかに削っていた。黒い硬質の破片が散る。


(――――行ける……ッ)


 プレディレッケにしてみれば、『分からない』のだ。

 ここまで散々に干戈を交え、慣れきっているディノの炎牙と違う。

 似たような得物でありながら、剣筋や間合い、属性が異なるこの水の剣を、まだ見切れていないのだ。

 一呼吸、少女騎士は迫ってきた限界を自覚しながら、さらなる一歩を踏み込む。



 四、



 違うのだ。

 自分自身、心のどこかで思っていた節がある。

 流護が、私の――家族の無念を晴らしてくれることが、もしかしたらあるかもしれないと。あらゆる難敵に勝利し続けてきた彼が、もしかしたらプレディレッケを倒してくれるかもしれないと。

 父にあれだけの怒りをぶつけておきながら、自分はそんな有様。どこまで醜い女なのだろう。

 それではダメなのだ。

 この敵は、彼に任せるべき相手ではない。自らの手で、乗り越えなければならない壁。

 眼前の仇を討ち果たし。遺恨を断ち切る。彼の隣に並ぶ。



 ――その覚悟の下に迷いなく振るわれた一閃は、これまでのどの斬撃よりも『鋭く』。

 敵に集中していた少女は気付くことこそなかったが、すぐ後ろにいるディノが「ほう」と息を漏らすほどの一撃で。

 しかしその怪物は、どこまでも人智を凌駕した存在だった。

 大気裂く白銀の光条。申し分ない軌道を描くその一撃を、プレディレッケは『鋭く』掻い潜り、躱していた。

 黒の破片が散る。体表をかすめている。しかし、決定打には届かない。あと一歩、あと一閃が届かない。


「……………………!」


 少女騎士の顔色が蒼白へと変わっていく。整った唇の端に白泡が浮かぶ。


 届かない、という事実。

 そこに、種や仕掛けといったものは一切なく。

 ただ、怪物は――どこまでも、彼女の力が及ばぬ規格外の存在というだけの話だった。



 三、



 腕が重い。震える。身体が軋む。もう、限界だ。

 一撃。

 次の一撃を放つと同時、少女の細い身体は振り抜いた腕の動作に引きずられ、そのまま倒れ伏すだろう。

 両足で大地を踏みしめるが、もはやそれも満足に成せてはいない。

 立つだけで精一杯のベルグレッテに対して、プレディレッケが左の羽を鋭く突き出した。


「――――」


 その一刺は、顔のすぐ脇を通り過ぎた。なびいた髪の毛の束が、切断されて宙を舞う。

 ごぎん、と背後から響く金属音。聞こえてくる舌を打つ音。

 鈍り始めた頭で理解する。

 またもやディノが仕掛けようとしたのだろう。それに対し、怨魔が先手を打ったのだ。大地を削る音。踏ん張りながらも、彼が後方へ弾かれたことが分かる。

 そして――

 阻むものがなくなったその瞬間、怪物の右羽が振動する。大きく、大きく振りかぶられる。

 今度こそ、ベルグレッテを両断するために。



 二、



「今じゃ、アリウミッ!」

「おうっ――――」


 ヤツが大きな攻撃動作に入るまで待て。

 逸ろうとする流護をそう制止し続けたダイゴスが、ついにここで叫んだ。


 流護は全力で振りかぶる。

 その右手には、淡く白く発光する小石が握られていた。

 ダイゴスの妙案。『無極の庭』を出ずに、この場からプレディレッケに一矢報いる手段。


 雷舞抛擲らいぶほうてき

 投擲用の武器などに付加し、威力と命中精度を向上させる補助術である。事前に仕掛けておくことも可能なため、咄嗟に術の使えない場面で活躍する。暗殺者たるアケローンにとっては、基本ともいえる技術だった。

 しかし。

 そこに有海流護の筋力が加わることで、それはかつてない爆発的な成果を発揮することとなった。

 目標――川の向こうにいるプレディレッケまで、約三十メートル。

 当然ながら、小石の投擲を攻撃手段として使うことのある流護とはいえ、とても正確に当てられるような距離ではない。

 そのうえで、このたった一回の投撃は絶対に外せない。この横槍を外せば、ベルグレッテの命は間違いなく失われる。ぶっつけ本番で、この遠投を成功させなければならない。ダイゴスの案に乗った自分が馬鹿だったと後悔したくなるほどだ。

 だというのに。


(何だよ、これ……っ)


 施術された小石を握ったとき。

 踏み込んだ瞬間。

 腕を振る刹那。

 放つその一瞬。

 その全ての過程において、思うのだ。


(外す気が――しねえッッ!)



 一、



 暗き森の端から迸った、細く眩い一筋の閃光。

 それはまるで、神の槍だった。

 目撃していた三万もの人々は、後に口を揃えてそう語る。


 一方で、レフェに現れたこの『帯剣の黒鬼』という怪物は、やはり観衆たちによって後々まで語り継がれることとなる。

 もし仮に、『竜滅書記』の時代に存在していたならば。英雄ガイセリウスの覇道を阻む、恐るべき強敵となっていただろう、と。

 かの英雄を信奉してやまないレフェの民にすら、そう思わせるほどの存在。それは畏怖であり、また怨魔という忌むべき怪物に対して本来送ることなどありえない、最上級の賛辞でもあった。


 結論からいえば、『黒鬼』は反応した。

 森の一角から放たれた流護の投擲。白光の尾を引くその一撃に気付き、対応した。

 ベルグレッテの首筋に向けて振るわれようとしていた右の羽。

 煌きに気づいた怪異は、その軌道をねじ曲げた。

 寸分違わず、己の貌を目がけて飛んでくる一筋の光明に対し。


 哭いた。

 ギィ――――――ン、と。


 プレディレッケはその光を目撃し、凄まじいまでの鳴音を轟かせた。

 怪物がなぜこのとき咆哮を発したのか。その理由を知る者はいない。

 十年の昔。当時幼体だったこの怨魔が、とある森で遭遇した人間。最期まで折れず立ち向かってきたその強敵エサが、身に纏わせていた煌き。その輝きを思い出し、本能が危険を察知した結果の行動であると――知る者はいない。


 打ち払った。


 右羽の一閃にて、流護渾身の投擲は目的を果たせず弾かれる。軌道を逸らされた石は凄まじい速度で遠く離れた物見台の一つに着弾し、爆発したような破片を巻き上げた。投げ放たれた神の槍は、悪鬼を討ち取ることなく折れ曲がり――その力を失った。

 閃光を打ち払った挙動、その返す刀で、プレディレッケは今度こそベルグレッテを狙った。

 しなやかでいて強靭な軌道が、寸分違わす正確に彼女の首元を横へと薙ぎ払う。


 ――羽の一撃、ではなく。

 その、『軌道だけ』が。


 雷光の投撃によってへし折れ、羽の根元だけとなった『右羽だったもの』が。もはや関節の可動部のみとなったその部分が。少女騎士に届くことなく、真横へ払われていた。

 直後。がしゃんと音を立てて、それが遠く離れた地面に落下する。断ち割られて遥か上空へと飛ばされていた、怪物の右の翼が。


「……、……あ」


 声はひび割れ、かすれていた。


「お、あ、――」


 それでも、絞り出す。


「ああぁああぁああああぁああああああァ――――――ッッ!」


 己が裡に眠る魂を震わせるがごとく。

 怨魔に負けじと吐き出されたそれは、ベルグレッテ・フィズ・ガーティルードの咆哮。


 天を割り、地を裂くような――正真正銘、最後の一撃。

 振り下ろされた水の大剣――グラム・リジルが、光の柱と見紛うほどの剣閃を打ち立てる。


 ギィ――――ン、と、哭く。

 目前で炸裂したその光に、またしてもかつての人間を――強者を思い浮かべ、プレディレッケが叫ぶ。全力でその身をよじる。


 許されるはずがない。

 ようやく、道ができたのだ。

 皆が削り、ディノが抗い、流護たちが脅威を弾き落とした。

 当然、それらは意図的な連係ではない。ベルグレッテが無念を晴らすために誂えられたものではない。そうであっても、未熟にすぎる少女騎士であっても、手を伸ばせば届く道を作ってくれた。

 ならば、押し通せ。

 外すことなど、絶対にあってはならない。自分はただ、剣を振るうだけなのだ。それぐらい、満足にやり遂げてみせろ。


 この一撃で、兄の無念を晴らし。

 守られるのではない。有海流護と共に戦える一人の戦士として、レインディールの騎士の一人として、彼の隣に並び立つ。そのための一歩を踏み出す――――!



 零



 最後の剣撃を振り抜いた、少女騎士のその両手に。

 敵を斬った感触が伝わることは――――――、なかった。






「……、…………」


 ベルグレッテの秘術たる水の大剣――グラム・リジルを模倣したそれが、消滅する。光の粒となり、虚空へと霧散していく。


「…………、……あ」


 全身の力が抜けていく。もう、身体を支えられない。立っていることすらままならない。

 眼前に変わらず存在する、プレディレッケという怪物。

 赤い隻眼。黒く細い、それでいておぞましく強靭な躯体。それを支える、毛のように繊細な多脚。突如飛来した閃光によって片側をもぎ取られ、ただ一枚のみとなってなお恐ろしげに広がる、透明で大きな左の翼。


「…………――」


 ――――届か、なかっ……


 その思いと共に、崩れ落ちる。

 前のめりに、限界を迎えたベルグレッテの華奢な身体が。



 そして――そんな騎士に手応えを伝えることなく両断されていた、プレディレッケの胴体が。



「…………!」


 勝者は――ベルグレッテは、知らず目を見開く。

 片羽を失ったことにより、もはや俊敏に飛翔しての回避は叶わなかったのだ。

 黒い飛沫を散らし、断面からずり落ちるように。爛々と輝き続けていた右の赤眼が、少しずつ光を失っていく。今度こそ。恐るべき力を見せつけた戦慄の怪物が、ついに倒れていく。


「……、!」


 立ち回るうちに移動していたのだろう。

 片翼を広げ倒れ伏したプレディレッケのすぐ隣には、巨大な鎌を大地へ投げ出した怪物の『抜け殻』が横たわっていた。

 その右鎌に屹立している、一本の長剣。

 それは、どんな偶然だったのだろう。それとも、怪物の生命力によって保持されていたものだったとでもいうのだろうか。

 強固に一体化していたはずのその刃が、ぐらりと傾いた。

 高い音を小さく残し、鎌から抜け落ちた剣が横倒しとなる。


「……あ、……」


 地に伏したベルグレッテは、軋む腕だけで懸命に這い、重くなった身体を引きずって前進した。

 そうして、目の前にたどり着く。

 傾きかけた昼神の恵みを照り返す、黒く変色した長剣。派手すぎない意匠の施された、兄の愛用していた――


「……――っ」


 帰ることのなかった、一人の高潔な騎士。

 もしかしたら、と思う気持ちがない訳ではなかった。

 決定的な死の証拠がないのだから、今もどこかで生きているのでは――と思ったことなど、一度や二度ではなかった。

 でも。

 そんなはずはないのだ。

 生きているのなら、帰ってこないはずがない。

 肌身離さず持っていたこの愛剣を、手放したりするはずがない……。


『絶対に……、絶対に帰るから』


「うっ……、うう……」


 その事実を、果たされなかった約束を、今、はっきりと噛み締めて。

 自然と、涙が溢れ出していた。

 ただ自然と、その言葉が溢れ出していた。


「――兄さま……おかえりなさい――」

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― 新着の感想 ―
作中屈指の名だたる強者が作り上げた最高の一幕に感動しました。ただ正直言うとあまりに強者たちのインフレがすごくて、ベルグレッテの格落ち感がちらついているのが残念。 邪竜に傷を与えたこともある最強の一撃と…
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